プロローグ 心が世界を揺らすとき
昔むかし、世界にまだ境界がなかった時代。
人の“感情”は空に満ち、大地を潤し、命に力を与えていた。
喜びが花を咲かせ、怒りが雷を呼び、悲しみが雨を降らせる。
――この世界のあらゆる“魔法”は、すべて“心”から生まれるものだった。
だが時代は移ろい、人々は感情に翻弄されることを恐れ、理性と秩序を重んじるようになった。
いつしか魔法は「学ぶもの」とされ、「感じるもの」ではなくなっていった。
感情を制御できない者は“災厄の芽”と呼ばれ、封印されるか、遠くに追いやられた。
そして“あの日”――
歴史に刻まれる大災厄、「涙雨の災禍」が起こった。
それは今から百年前。
一人の少女が、失った家族への悲しみを抑えきれず、町ひとつを涙と共に沈めたとされる事件。
その瞬間、空は裂け、大地が悲鳴を上げ、無数の命が消えた。
誰もが知っていた。
それが、未制御の“感情魔法”による暴走であることを。
――以後、王国は感情魔法の研究を禁じ、感情を表に出すことすら「慎むべき行為」と定めた。
魔法は秩序の道具へと変わり、心は鎖に繋がれた。
◇
王都から遠く離れた辺境の村、エルデ。
その小さな村で、一人の少女がゆっくりと目を覚ます。
「……なんだろう、この胸の痛み……」
ベッドの上、リノア=アストリアは額に汗を浮かべながら起き上がった。
十五の誕生日を迎えたばかりの朝。夢とも現実ともつかぬ、奇妙な感覚が胸の奥で蠢いている。
まるで、心臓が別の誰かに握られているような――そんな不穏な“気配”。
「また……あの夢……」
何日も続けて見る夢がある。
真っ白な世界で、誰かが泣いている。
誰なのか分からない。けれど、その涙が、自分の頬を伝う感覚だけは、やけにリアルだった。
「……私、普通じゃないのかな」
リノアはそう呟いて、ゆっくりと起き上がる。
鏡に映る自分の姿に、どこか違和感を覚えた。
朝日を受けて光る銀糸の髪、琥珀色の瞳。
それは母から受け継いだ特徴だったはずなのに、今朝は何かが違って見える。
◇
外に出れば、村はいつも通りの静けさに包まれていた。
鳥がさえずり、パンを焼く香ばしい匂いが漂う。人々は笑い合い、朝の挨拶を交わしている。
でもその中で、リノアはどこか“浮いて”いた。
(みんな……自分の心に蓋をして、生きてる)
そう、ふと思った。
子どもが転んでも泣かず、大人は笑顔を貼り付けて働く。
どこか機械のような、無機質な生活。
“感情を出さないことが正義”とされるこの国では、笑いすぎる者も、怒りすぎる者も、いずれ“心の病”と見なされ、治療院送りにされる。
(……息が詰まりそう)
リノアの胸に、またあの“熱”が灯る。
不安、焦り、そして……孤独。
そんな彼女に、転機は唐突に訪れた。
その日、村の祭りの準備で森に向かっていたときのこと。
不意に足元が崩れ、古びた地面が落ちた。
気づけば、そこは地下の遺跡。
そしてその中心に、黒衣の少年が立っていた。
「ようやく、目覚めたね」
その少年――ノアは、まるで彼女の“全て”を知っているかのように話しかけた。
「君の中に眠る“心の火種”が、世界を変える」
「なに……それ……」
「感情は力になる。恐れる必要はない。君がそれを受け入れたとき――本当の魔法が目を覚ます」
そのとき、リノアの胸が再び熱くなった。
言葉にならない衝動。叫び出したいくらいの感情。
それを否定せず、ただ感じてみた。
――そして、彼女の手が光を放った。
温かな、淡い、優しい光。
怒りでも悲しみでもない。
それは、“共鳴”の始まりだった。
リノアの旅は、ここから始まる。
感情を恐れる世界に、心の魔法を取り戻すために。
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ここまでお読みいただきありがとうございました!
プロロローグでは、リノアという少女が“感情”と
”魔法“というテーマの中で、これからどんな旅
を歩むのか……その始まりを描きました。
これから彼女は、「心を封じことが正義」と
された世界に疑問を抱き、自分の力と向き合い
ながら成長していきます。
感情が暴走する危うさと、それでも誰かを思う
強さーーそういった人間らしさを描けたらと思
っています。
次回は第1章「感情が溢れた日」。彼女の中
に眠る“心の魔法”が初めて世界に触れます。ど
うぞ、お楽しみに!
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