3話
狼たちの巣は、覚悟していたよりは、居心地のよさそうなものだった。
森の奥にひっそりと在る洞窟を、狼たちは巣と定めているらしい。そして、洞の中には明かりこそないが、敷き藁くらいはあった。
巣穴の中には、数匹の子狼の姿も見て取れた。近寄ってはこないものの、どうやら私は一旦の警戒は解かれたらしい。
草原は青々として、子狼は小さい———今は芽吹きの時期、日本でいうところの春なのだろう。
こちらの時期も今の時期は過ごしやすいのかもしれない。今は寒くも暑くも無い快適な気温だった。
もし季節がこちらにもあるならば、だが。
それより、どうにも三咲は、自分の心境が信じられなかった。
自分はもっと臆病で、さみしがり屋で、人見知りだったはずだ。
難儀な性格だと姉達には呆れられたくらいに。
なのに、先ほどから、自分がいやに冷静で平坦な気がした。
家族仲はいいほうだった。職場環境だって、特別悪くない。
それなりに落ち込むこともあるけれど、それなりに幸せだったはず。
なのに、どうして・・・
どうして私は帰りたいって思わないの?
するりと三咲の体に、先ほど乗せてくれた狼がすり寄ってくる。
リーダー個体のほかは、この子だけが世話役として紹介され、名も知っている。
まだ戸惑いが強い私を察してか、ずっと寄り添ってくれている。
「ありがとう、アンバー」
琥珀色の目から名づけられた、まだ若い雌らしい。気性が穏やかで、気回りが利く子だと、リーダ個体の雌であるソレイルが誇っていた。
先ほどの考えは、今考えても答えは出ない。
アンバーの隣に座りながら、深呼吸して、心を落ち着ける。
日が暮れだしていた。
そして、三咲の体にまた不可思議なことが起こる。
明らかに夜目が利きすぎている。
人間の目など、灯りがないと夜は見えないものだ。
だというのに、三咲の目には、はっきりと周囲が変わらず見えていた。
真っ暗なのも解るのに、同時に目がきく。
本当に私は神様になってしまったんだろうか?
先程の夢じみた着地も、それで?
三咲は少しずつ、自分がいつの間にか人外になってしまった実感が湧いてきた。
これから、どうなるんだろう。
先行きの分からぬ不安が首をもたげる。
三咲が膝を抱えて蹲ると、アンバーが鼻先を押し付けてきた。
今は励ましてくれる彼女だけが、支えだった。
「落ち着かれたか?」
しばらくすると、そっと声をかけられる。
そばに侍るアンバーの体温で、知らず、三咲はほっと息をついた。
気持ちが盛り返してくる。
いつの間にそこにいたのか、目の前には、群れのリーダー、ソレイルがいた。
「はい。多少は」
三咲が強がりながらそう答えると、彼女は痛ましそうにこちらを見下ろす。
「・・・それならば、よかった。
世界を超え、存在も変わり、心細かろうが、この世界も悪くはない。
貴女にとっては、貴女の生きていた世界が一番だろうが」
励ましてくれる彼女に、三咲は力なく頷く。
「この先のことを、もう決めていなさるか?」
「いいえ」
「そうか。妾は、この世界を見て回るのをお勧めする。供に、その娘も同行させよう。
何かあれば、貴女ならば、妾達の群れは、いつでも歓迎しよう」
「世界を見て回る・・・?」
思いがけないことを言われて、三咲は言葉に詰まる。
確かにそうすれば、帰る方法もいつかは見つかるかもしれないが、しかし帰りたいと思えない今、できれば三咲はこの群れと共にありたかった。
それは、叶わないのだろうか?
体よく追い出されている・・・?
とにかく、疲れていた。体は元気なのだが、精神的に。
安心できる場所にいたいし、すでにアンバーには情を持ち始めていた。
けれど、それは叶わないらしい。
「そんな顔をしないで欲しい。決して貴女を追い出したいわけではないのだ。
貴女が神になった以上、この世界は貴女のものである。貴女達神が見守るべきもの。
望んで手に入れたものでなくとも、大切にしてくれると嬉しい。
・・・言いにくいことだが、貴女の生きる世界は、もはやこの世界に変わってしまった。
それが貴女にとっていつか悲しいものではなくなることを、妾は望む。
この世界に愛着を持って欲しいのだ。どうかどんな世界なのかを見て回ってはくれぬだろうか?」
「それは・・・、」
生きる世界が変わったって、つまり、
「帰れないってこと?」
ソレイルは、重々しく頷いた。
「神となった以上は。神は、長くは自分の世界を離れられぬはずだ」
三咲は狼狽えた。
自分がこの時になっても、帰りたいと願わないことに。
三咲の胸にあるのは、変わってしまった自分に対する戸惑いだけで、家族への情も、郷里の念も今や遠い。
いよいよもって、三咲は自分が変わってしまったことを認めるしかなかった。
私は確かに、この世界の神になってしまったのだろう。
三咲は、気持ちを切り替えるため、一度深々とため息をはいた。
やはり、あの変な虫を殺したのが悪かったのだろうか?
三咲は一瞬後悔するが、やってしまったものはもう仕方がない。
いっそ諦めの気持ちで、三咲はソレイルを見上げた。
「わかった。あなたの言うように、旅をする。この世界にちゃんと向き合うよ。
本当にアンバーを連れて行っていいの?」
「もちろん。その娘は能力も高いから、貴女の供としても釣り合うだろう。
さて、記憶の継承を行おうと思っていたが、すっかり夜も更けてしまったな。
あとは明日にしよう。今日はもう寝なさい。
神たる貴女に睡眠は必要ないが、気持ちの整理に使うと良い。
また明日日の出る頃に」
そう締めくくって、ソレイルは、小狼たちの待つ洞窟の奥に行き、三咲は洞窟の手前にそのまま残された。
「アンバーは奥に行かなくていいの?」
そばに寛ぎ出す彼女に問いかけるが、彼女は首を振った。
洞窟は大きく、近くには見張り役らしき若い狼が伏せているだけで、皆奥の方で寝入っているのがわかる。
いいのだろうか?
三咲は一瞬迷うが、受け入れた。
彼女は三咲の見張りも兼ねているのだろうし、下手に抵抗することもないか。
おそらく自分と同じく、情を持ち始めてもいるからと言うのもあるだろう。
夜が更けていく。