踊り場
もうこんな時間になってしまった。すっかり暗闇に包まれている窓の外と、時計の針が九時を射しているのを見て、吉池香織は思った。
ある小学校で教諭として働く香織は、担任をしている生徒たちの成績表の採点をするため、小学校に残っていた。もう香織以外には、誰も残っていない。用務員の人も定時に帰ってしまい、他の職員たちも先に帰ってしまった。
いつもは騒がしい小学校も、夜には不気味な程に静かになる。物音一つ聞こえないこの空間は、大人になった香織でさえも、少し怖いと思う程だ。自分自身の立てる音が、やけに大きく響くため、少し畏縮してしまう。
仕事も一段落したので、帰りたいところではあるが、香織は戸締まりの確認をするため、校内を巡回しなければならない。しかし巡回したところで、すでに戸締まりも消灯もきちんとされているだろう。香織が再度巡回しても同じことだ。だが、もし万が一のことがあれば、責任に問われるのは香織だ。香織は溜め息を吐いて、重い腰をあげた。そして、職員室に常備されている懐中電灯を持って職員室の扉を開けた。
扉を開閉する音が校舎の壁に反響し、大型トラックの排気音のような轟音に変わる。普段は全く気にならない程の小さな音であるはずなのに、この暗闇と静寂に包まれた空間では、まるで別のもののようだ。
長い廊下が、香織の目の前には延びているはずだ。しかし、この漆黒の世界では見えるはずがない。職員室の扉の前、廊下の端に立つ香織は、背筋にひやりとしたものを感じた。この漆黒に染まった廊下が果てしなく永遠に続いていて、一歩足を進める度に自分さえも闇に吸い込まれてしまいそうに思えたのだった。
香織は、恐怖と、それに共鳴するかのように湧き出す孤独感を感じずにはいられなかった。元来彼女は気の強い方ではあるが、いくらなんでもこの空間では、己の脆弱さをありありと感じる。
長い廊下に、光の筋が現れる。香織は懐中電灯で廊下の先を照らした。それでも、向こうにあるはずの廊下の端までは見えない。しかし、頼りない光ではあるが、自分の進む道が照らされたことで、香織は少し安心した。早く帰りたい一心で、香織は懐中電灯を頼りに歩き始めた。
自分の足音が、別世界とも思える空間の中に刻み込まれていく。香織はその足音を聞いて、自分の存在を確かめながら歩いた。そうすることで、僅かながら落ち着いて歩くことが出来た。
歩いていくにつれ、少しずつこの空間にも慣れていった。それでもやはり、慣れ親しんだはずの校舎は、香織のことを受け入れようとはせず、昼間の明るい様子とは全く異なった表情を彼女に見せ付けて威嚇しているようだった。
廊下の壁に貼り付けられたポスターや生徒たちが描いた数々の絵、手洗い場、トイレ。そのどれもが、不気味に見えて仕方ない。自分の生徒が、一生懸命描いた絵さえも、今の香織には恐怖の対象になりえた。
廊下の窓の鍵が閉められているかを確認しながら、香織は懐中電灯を片手に暗闇の中を進んだ。全ての教室の鍵がきちんと施錠されているか、教室の扉に手をかけて確かめる。案の定、この時点では全ての鍵はきちんと閉められていた。この分なら、思っていたよりも早めに終わりそうだと香織は安堵した。
職員室のある二階、一階の巡回を無事に済ませ、三階に繋がる階段を上る。早く帰りたいという気持ちが、香織を早足にさせた。
慣れたリズムで、香織は階段を駆け上がる。トントントン、とスニーカーの靴底を鳴らしながら。踊り場のカーブでは、少し足裏に力が入り、キュッという摩擦音が鳴る。小気味のいい音が、香織の耳に届く。そして、残響が壁と暗闇の中に吸い込まれる。
先程までと同様に、施錠の確認をしていく。
しかし、廊下の角を曲がったとき、香織の目に懐中電灯以外の光が映った。教室の電灯が、点けられたままになっている。それに、教室のドアも堂々と開け放されている。
香織は思わず溜め息をもらした。歩調を更に速めて、教室に近付いていった。
そのとき、香織の中には一つの疑念が浮かんでいた。電灯の明かりの漏れ出しているその教室は、使われていない教室のはずなのだ。
昔は生徒数の多い学校だったらしいが、今は各学年にニクラスしかない小さな小学校なので、教室はかなり余っている。用途に合わせて余った教室のいくつかは、多目的に使われている。しかし、その教室は一切使用されておらず、常に鍵がかかっているはずなのだ。なのに、鍵が開けられている。
不思議に思いはしたが、開いているものは閉めなければならない。必然的に湧き上がる恐怖を抑えて、教室に近付いていく。
教室の前まで来たとき、香織は飛び上がった。
開け放されたドアから、教室の中を覗くと、そこには女の子がいたのだ。
教室の中で佇む髪の長い女の子は、窓にへばり付くようにして、外を眺めているようだった。
生徒? いや、そんなはずはない。もう時刻は九時半を過ぎているのだから。こんな時間まで、小学校の生徒が残っているはずはない。
香織の中に一つの良からぬ考えが浮かんだ。
―――幽霊?
そう思った瞬間、香織の首筋に、冷えきった冷たい汗が流れていった。鼓動を速めた心臓の音が、香織の鼓膜に響く。膝が、ガクガクと震え出した。
頭が混乱して、どうするべきなのかが分からなくなる。香織は次の行動を選択せずにいた。行動することを全身が拒否しているかのようだった。
少女が、振り向いた。香織は、はっと息を飲んだ。
「あ、先生」
香織の意に反して、その少女は可愛らしい声で言った。その声を聞いて、香織は思わず拍子抜けした。
少女は、決して幽霊とは思えない可愛い姿をしていた。真ん丸な愛らしい瞳に、いかにも元気そうな、血色のいい桃色の頬。その頬の色によく似た、ピンクのワンピース。
香織はほっと息をついた。
香織は、身の毛もよだつような恐怖からようやく抜け出し、教師である自分を思い出して言った。
「もう、駄目じゃない。こんな時間まで学校にいちゃ。早く帰りなさい」
香織がそう言って少女を叱ると、少女は罰の悪そうな顔をした。
なんだ、やっぱり幽霊なんかじゃないじゃない。少女のその表情を見て、香織は不謹慎にもそう思った。見たところ、おそらく高学年の生徒だろう。
「ごめんなさい……友達を待ってたの」
少女は伏し目がちに、小さな声でそう言った。
「友達? もう学校には誰も残ってないよ。いいから、先生がお母さんに電話してあげるから、ついておいで」
香織がそう言っても、少女は浮かない顔をして動こうとしない。仕方ないので、香織は教室に入り、少女に近寄っていった。
「こんな時間まで一人でいて、怖かったでしょう。もう大丈夫だから。お母さんに迎えに来てもらお。ね?」
香織は中腰で少女の頭を撫でながら、優しくそう言った。少女がゆっくりと顔を上げ、香織を見た。
「でも、私友達と遊びたいの」
少女は、いかにも寂しそうな声色で言った。
「えぇ? でも、もう駄目だよ。お母さん心配してるよ? 明日になったら遊べるから、今日は帰りなさい」
やはり少女は動こうとしない。
「先生、私と一緒に遊んでよ」
駄目だと言おうとしたが、間髪を入れずに少女は更に言った。
「先生、かくれんぼしよう。先生が鬼ね」
そう言うと、次の瞬間には、少女は香織の脇をすっと抜けて、走り出した。
「こら、待ちなさい!」
香織は咄嗟に少女を呼び止めようとしたが、少女にはその声が届かなかったのか、立ち止まることもなく、少女はきゃっきゃと笑いながら、教室から出ていってしまった。
面倒なことになった。何とか彼女を捕まえなければ。名前も聞いていなかったので、名簿から探して家に連絡することも出来ない。
香織は身を翻して、すぐに少女を追った。しかし相手は子供だ。身のこなしが素早い。香織が教室から出たときには、すでに少女は廊下の角を曲がろうとしていた。
「待ちなさい!」
香織は、見えなくなろうとしている少女の背中に呼びかけた。にもかかわらず、少女はそのまま姿を消してしまった。
速く追わないと本当に行方が分からなくなって、更に面倒なことになる。
香織が少女を追おうと、教室の前から一歩進んだときだった。
煌々と点いていた教室の電気が、突然ふっと消えてしまったのだ。もちろん、香織が消したわけではない。香織は思わず振り返って、教室の中を見た。闇に包まれた空間が、再び香織を襲う。一度は過ぎ去ったはずの恐怖が、香織の中に溢れ出した。
一瞬足がすくんでしまいそうになったが、あの少女のために行かなければならない。あの子の家族が、彼女を心配して待っているに違いない。もしあの子に万が一のことがあれば―――
香織は、自分を奮い立たせて少女を追った。
香織は少女を追って、廊下の角を曲がった。辺りを懐中電灯で照らしてみたが、誰もいないし、物音一つ聞こえない。一体あの女の子は何処に行ってしまったんだろうか。
「こらー! 出てきなさーい!」
何処にいるのかも分からない少女の耳に届くように、香織は出来るだけ大きな声で言った。小学校で教鞭を取る女性らしい、甲高くてよく通る声だ。まるで校舎が大きなホールに姿を変えたように、香織の声が暗闇の中に響き渡る。少女からの返事はなかったが、残響の中に物音がしないかと、香織はしばらく耳を澄ました。
すると、かすかに女の子の笑い声が聞こえた。くすくすと笑っている。香織はその声が妙に癪にさわった。
声は、そんなに遠いわけではないようだ。割りと近くで笑っているように聞こえる。
廊下には、教室が並んでおり、トイレと手洗い場、あとは下階に続く階段がある。消火栓の赤い非常灯が、不気味に辺りを照らしている。埃っぽいような、小学校独特の臭いが漂っている。
教室には全て鍵がかかっている。先程すでに確認したので、それは間違いない。だとすると、少女はおそらくトイレの中か、階段の近くにいるのだろう。
香織は、まずトイレの中を調べることにした。
夜の学校。トイレ。その言葉だけで、香織が幼い頃からよく耳にした学校にまつわる怖い噂話が、彼女の頭の中に連想される。大の大人が、そんなことで怖がるなど、情けないにも程がある。香織は恐怖心をねじ伏せ、意を決してやや早足でトイレに向かった。
女子トイレの前に立ち、香織はもう一度少女に呼びかけた。しかし、やはり返事はない。香織は本当に少女のかくれんぼに付き合っていることに気付き、思わず深いため息を漏らした。
懐中電灯を持っているとは言え、それだけの灯りでは余りにも心許ない。香織は、トイレの電灯をつけようと、スイッチを押した。パチンという音のあと、蛍光灯が点滅を繰り返しながらゆっくりと光り出す。
トイレの中が、明るく照らし出された。明るいだけ恐怖心は治まるはずなのに、今は蛍光灯の青白い光さえも不気味に思える。
個室を一つ一つ見て回ったが、そこに少女はいなかった。トイレの前に立ち、さてどうしたものかと、香織は思案した。再び、ため息が漏れる。その直後、少女の笑い声が香織の耳に届いた。
「もう、いい加減にしなさい!」
笑い声を聞いた香織は、思わず声を荒げて怒りを露にして言った。
「あなたのかくれんぼに付き合ってる暇はないのよ。早く出てきなさい!」
明らかにむきになっている。自分で分かってはいるのに、やけに腹が立って仕方ない。疲れのためにイライラしているのだろうか。香織は頭の片隅で、そんなことを思っていた。
香織の声が聞こえたのだろうか、笑い声は止み、辺りは静まり返った。香織は、先程笑い声のした方に足を進めていった。彼女の予想通り、少女の声は階段の方から聞こえた。
香織は、階段の前で立ち止まり、懐中電灯で下を照らした。踊り場に、少女が佇んでいたからだ。光の円の中で、少女が微笑みながら香織を見つめていた。
「もういいでしょう? 一緒に職員室に行きましょう」
香織が階段を一歩降りた時、少女はこう言った。
「次は、鬼ごっこだよ。私を捕まえたら、先生の勝ちね」
そう言うと、少女はまた走り出した。
「あっ、こら!」
香織も思わず、少女を追って駆け出した。
階段に、足音が、響く。
トントントントントントン、タン、キュッキュッ、トントントン………
階段を下り、香織は踊り場から下を照らした。
校舎の壁を、光の円がせわしなく動く。階段の手摺を、懐中電灯の光の末端が捉えた。すると、手摺を下から掴む、小さな手が見えた。次の瞬間、真っ黒で髪の乱れた小さな頭が、下からゆっくりと現れた。乱れた髪の隙間から、にんまりと笑っている目元が見える。
「オーニサン、コーチラ……」
少女は、さっきまでの可愛らしい声とは似ても似つかない、地を這うような低い声で言った。そして、少女の甲高い笑い声が響いた。
駄目だ。
少女の姿を見て、香織はそう思った。
これ以上、少女を追ってはいけない。あれは、違う。あれは、生徒じゃない。人間じゃ、ない。
少女の姿が見えなくなった。その瞬間、香織の足が動く。
行ってはいけない。頭でいくらそう思っていても、まるで体と頭が別々の意思を持っているかのように、体が勝手に動く。声さえも出せない。香織は、ただ階段を勝手に下りていく、自分の体に全てを委ねるしかなかった。
階段を下りると、先を行く少女の姿がちらりと見える。それをまた追う。その繰り返しだった。
何度か同じことを繰り返して、香織は気付いた。
この校舎は三階立て。三階から鬼ごっこが始まって、一階に辿り着くまで、階段は四つ。踊り場に着く度に少女の姿が見える。踊り場も、四つ。香織は、明らかに四回以上、少女の姿を見ている。
此処ハ、何処?―――
もう一つ、今更気付いたことがあった。気付かなかったことが不思議な程だ。
足音が、ずっと一人分しか聞こえていなかったのだ。
でも、今は違う。
足音は、一つも聞こえない。
踊り場に、少女が佇む。
一人の女性が、ゆっくりと階段を下り、少女に近付いていく。
微笑む少女の手を、女性が握った。
「ツーカマーエタ」




