二人で乗った自転車
「しまった……」
学校から数百メートル離れた場所に設置されているバス停の時刻表を見て、朝比奈葵は困ったような表情を浮かべる。
部活を終えて着替えを済ませたまではよかった。
気がかりだったのは練習を終える時間が少々後ろにずれ込んだこと。そして、その日の武道場の施錠当番は葵だったことだ。
そういう日に限って隣のスペースで活動している柔道部の練習も終了時刻が後ろにずれていたのだ。
葵はくたびれたベンチに腰掛け、左手首に巻き付けてある腕時計を見る。
次のバスが来るのは三十分以上も後だ。
何もすることがないような、どこか気の抜けたような顔をして、少し薄暗くなってきた空をあおぐのだった。
「あれ? 朝比奈じゃねえか。どうしたんだよ?」
バス停で待ちぼうけをくっているところに、同級生の朝霧龍子が近づいてくる。
制服であるセーラー服の袖口をまくったり、スカーフを穴に通さずにそのまま垂らしていたりとラフな着こなしが目立つ少女だ。
彼女と葵の二人が出会ったのは高校に入学してからだったが、不思議なほどに絡みが多い。
休み時間中にもわざわざ葵のクラスにまでやってきては私事に葵を付き合わせることもしばしばだ。
大抵は勉強についていけてない龍子がその悩みを聞いてもらっているというかたちであったのだが、彼女の少々粗野な言葉遣いもあってか、一時は校内であらぬ噂もたったりしていたことがある。
その噂も、今では信じている生徒はほとんどいない。
葵にとってみれば、他人ながらどこか放っておけないところがある存在、というのが半分。
他方、こちらの都合もお構いなしに絡んでくる煩わしい存在、というのが半分。
それが龍子に対する認識だ。
葵はすぐそばまでやってきた龍子の方へと顔を向ける。
「帰りのバスに乗り損なった。そっちは? 今日は部活がない日だったじゃない?」
「居残りさせられてたんだよ。ここまで勉強できない奴は中々いないって先生達に呆れられてさ。で、職員室前でひたすら復習とかさせられた。中間考査も散々だったからこのままだと二学期も追試になっちまうってさ。今日は英語、数学とあとは現社だったかな。ったく、いくらなんでも熱血すぎじゃねえの?」
ぼやきを入れる龍子に、葵は苦笑いをするしかなかった。
教師の側としては、追試などという、本来ならば必要のない仕事をする羽目に陥りたくはないというのが本音なのだろう。
葵にはそういうことが大体は想像がつくのだが、当の龍子はそのことに気づいている様子が感じられない。
彼女の苦笑をよそに龍子は暢気な態度を見せている。
「で、次のバスはいつ来るんだ? げっ、随分と待つじゃねえか。どうすんだよ?」
バスの時刻表を確認した龍子は思わず声を上げてしまう。
「どうするも何も、待つしかないでしょ?」
「んなこと言っても、もう十月だぜ?」
そう言った矢先、バス停の周囲を強い風が吹き抜けていく。
山から吹き下ろしてくる秋の風は、二人の首筋を冷たくなぞっていく。
「しゃあねえな。ついてこいよ。あたしの家行くぞ」
見かねた龍子は、ベンチに腰掛ける葵にむけて人差し指を何度も小さく曲げ伸ばしして手招きする。
ジェスチャーとしてはやや不適切にも感じたが、他意はないと思えた葵は、立ち上がって彼女についていく。
バス停を後にした龍子と葵は、高校から一キロメートルも離れていない住宅地の中に足を踏み入れていた。
不規則に曲がりくねった道路の両サイドには、生け垣で囲まれた広い庭を持った家が建ち、時折、住民の共有地と思われる小さな畑が目につく。
その地区を通り過ぎた先に、三階建てくらいの年代物のアパートが見えた。
先導する龍子はそのなかの一室の前で立ち止まり、玄関の鍵を開ける。
「寒いだろうから、とりあえず上がれよ」
そして、少し離れた位置に立っている葵を中に招き入れるのだった。
「着替えっから、そこら辺で待ってろよ」
龍子は葵を居間に通すと、その足で自室の襖を開いてその中に入っていく。
そして、ピシャリと襖が閉じる音が短く室内に聞こえる。
居間に取り残された葵は、自分が立っている室内を見渡す。
部屋のあちらこちらに日用品が置かれているが、雑然としているとか、ちらかっているという印象を受けなかった。
居間の中央に設置されたちゃぶ台の側から見渡すとそのような感想を抱くことができるのだ。それはむしろ片付けられて最低限の物しか存在しない部屋よりも、人の暮らしを感じさせてくれる。
だが、人が暮らしている匂いを感じるとともに、そこにどこか寂しさも感じる。
どうしてそのように感じたのかは、部屋を見渡す葵にはまだ分からなかった。はっきりとした根拠を持っているわけではないが、何か欠けているものがあることを、その空間から感じ取ったのだ。
それでも、不思議と居心地の悪さは感じない。
そのように他人の家の空気にひたっていた時だった。
「おい、待たせな。出発するぞ」
襖が開く音とともに、龍子が居間に戻ってくる。
龍子が身に着けていたのは、白を基調として、黒のラインが服のサイドにはしるコントラストが効いたツートンカラーのジャージだった。
もっとも、その黒ラインに上には、派手なゴールドカラーで模様があしらわれていたりもする。
人を見た目で判断するわけではないが、品が良いとは言えない恰好だ。
葵は彼女の出で立ちに少しだけ微妙な気分になり、それが表情に現れてしまう。
「なんだよその顔は? 言っとくけど、これは外着だからな。農作業の手伝いで使う服じゃねえから安心しろって」
葵の表情を見て、龍子は龍子で微妙に噛み合っていない返事をする。
「出発するって?」
「そんなの決まってるだろ? 駅までだよ。ほら、急ぐぞ」
家を出た二人は、アパートの隅に設けられた駐輪場に向かう。
駐輪場に入って行った龍子は、そこから自転車を出して葵のところに戻ってくる。
「荷台に乗りな。これから駅まで行くからよ」
「二人乗りってまずいんじゃなかった?」
龍子は葵の言い分に、呆れた様子で息を吐き出す。
「なら、あそこでバスをずっと待ってるか? あたしが送るって言ってるんだから、乗っかっていけばいいんだよ。人の親切は素直に受け取れっての」
葵は逡巡する。
龍子が親切心から持ち掛けている提案なのは理解できる。だが、その二人乗りという行為は褒められたものではないのだ。さらにまずいのは、自分の母親は刑事という警察関係の職業だ。
もっとも、そのことを龍子には話していないので彼女は知る由もない。
かといって、龍子の親切心を突っ撥ねることも気が退けてしまう。
言葉遣いや行儀の悪さが目につきがちな所はあるが、基本は善人なのだ。
もしも彼女が悪い人間だったのなら、葵もわざわざ体育館の裏手でぼやきに付き合ったりはしないだろうし、そのことを見抜く力ぐらいは持っている。
葵は一回だけ息を吐く。
そして腹をくくったのか、促す龍子に応えて荷台に腰掛けるのだった。
同時に、龍子の規範というべきかモラルというべきか、それに対する姿勢が少し心配になってしまう。
だが、今それを指摘するのは野暮だとも葵は考えた。
それでも、このことについては別の機会に話そうと心の内で決めるのだった。
「ほら、カバンよこしな」
前カゴに葵のショルダーバックを入れると、龍子はペダルをこぎだす。
「うお! やっぱお前背が高い分重たいな!」
龍子の言い草に、葵はやはりどこか引っ掛かりを覚えてしまう。
「やっぱりバスを待ったほうが……」
「安全運転するから心配すんなっての。ケッタは遠出するときの必須アイテムだからな。運転にはそこそこ自信があるんだよ」
少しだけふらつくが、やがて自転車のバランスは安定して走り出す。
「でも、本当によかったの? こうやって乗せてもらって言うのも何だけど」
「別に問題ねえよ。今日は空手の稽古があるから、どっちにしろケッタ飛ばして駅近くまで行く用事があったんだよ。お前重いから準備運動にちょうどいいわ」
デリカシーが感じられない相変わらずの物言いに、葵は苦笑するしかなかった。
「でも、稽古があるってのに道着はどうしたの?」
「部活用のと合わせて二着しかねえからな。毎日洗濯するのは大変だから向こうに吊るしてある。今日持って帰るよ。お前の剣道着だって毎日持ち帰って洗うわけじゃねえだろ?」
「ま、荷物になるからそうだけど。……あっ、そういえば最近名古屋の高校で部室からチア部のコスチュームが盗まれたってニュースがあったわね。部室に吊るしてある私のとか、朝霧さんのとか、女子柔道部の及川先輩の道着とか大丈夫かな?」
「田舎でそんなことしたらすぐ余所者の犯行だってバレるし、見慣れねえ奴は勘で分かるだろうから心配いらないんじゃねえの? それに、チアみたいな可愛いのならともかく、道着を盗んでどうするんだよ? 臭えだけだろ」
「否定しきれないのがちょっと辛いわね」
龍子の率直な感想に、葵も思い当たるふしがあるのか、思わず引きつった笑みになってしまう。
そうこうしているうちに、龍子が運転する自転車は住宅地を抜け出て、開けた場所に出ていった。
葵を荷台に乗せた自転車は、市の中心部めざして田園地帯の中を駆け抜けていく。
陽はとっくに傾いており、冷たさを感じさせる秋の風が吹き抜けて、それが田の一面に実った、首を垂れた稲穂を揺らす。
そのたびに、サラサラと囁くような音が辺り一面に広がっていく。
アスファルトで舗装された道路によって方形に区分けされた田が遠くの方まで広がり、それが目に視える世界の多くを占める。そこに時折、建ち並ぶ家々が視界を横切っていく。
その光景が、海に浮かぶ島や海の向こうに見える陸地のようにも思える。
建物に囲まれた市街地で生活している葵にとって、それは見慣れぬ景色であると同時に、感情を揺さぶられるものにもなった。
気がつかぬうちに、遠い目をして口を小さく開き放心したような表情になってしまっていた。
葵は自分の周りに広がるこの世界に不覚にも心を奪われてしまうのだった。
「どうしたんだよ?」
自転車を運転する龍子は、荷台に腰掛けている葵の様子が普段と違うことを感じとったのか、前を見たまま声をかける。
「いや、この辺りって、こういう景色だったんだなあって」
龍子の言葉によって意識を引き戻された葵が返事をする。
だが、まだ完全に意識が醒めてはいなさそうな、どこかおぼつかない口調だった。
「今頃何言ってんだよ。もう秋だぜ? 入学してからどれだけ経ってるんだよ」
「学校にはバスで通ってるから」
「それもそうか……。でもよ、見惚れるような景色なのか? ここって、田んぼくらいしかないぜ」
「でも、悪くないかなって思うな」
葵は返事を返すが、龍子はというと「ふーん」と相槌を打つだけだった。
「そういえば、また髪伸びたよな? そのちょんぼ髪、久々に見た気がするよ」
龍子は手持ち無沙汰な雰囲気で、葵がしているヘアゴムで一つに束ねた髪型について話を振る。
「うん、五月の連休明けに短くしてから随分と経ったし……」
だが、そのあと会話は途絶えてしまい、自転車のペダルをこぐ音と、吹き抜ける風が作り出す秋の音だけが二人の耳に聴こえるようになる。
「なあ、いい機会だから聞いてもいいか? 朝比奈って、どうしてあの学校を受けたんだ?」
しばしの沈黙の後、龍子が話しを切り出してきた。
「気になるの?」
「そりゃそうだ。こういっちゃなんだけど、ここら辺って田舎だろ? 遊ぶ場所も無えしよ。お前、勉強ができるんだから名古屋とかの都会の高校でもよかったんじゃねえの? そっちの方が業後に寄り道するところとか、遊ぶ場所とか楽しい事がありそうなもんだろ?」
「そうかもね。でも、そんなに興味ないかな。それに、そういう青春ストーリーみたいなことができなきゃ高校生活が楽しくない、ってわけでもないでしょ?」
「そういうもんか? あ、言っておくけど、地元やあの学校がつまんねえ所だって言いたいわけじゃねえからな。そこは誤解すんなよ?」
言い方がまずかったと思ったのか、龍子が自分の発言について付け足しをする。
「ま、それを言ったら成績優秀だった高橋さんも、あの学校を受けたわけだし。あの子、担任の先生からは名古屋のトップ校を受けたら? なんて言われてたのよ」
「高橋って、眼鏡した女のことか? そんなに勉強できたのかよ。つか、あいつ胸でかすぎじゃね? 体育の着替えの時に思わずビビっちまったんだけど」
「どこ見てるのよ。というか、あんたそれ失礼だからね」
「本人の前で言わねえっての。それより、朝比奈は何であの高校にしたんだよ?」
「…………そういえば、何でだろ?」
「おい、何も考えてなかったのかよ?」
「そういう朝霧さんは、何であの高校受けたのよ?」
「……………………歩いて通えるから」
周囲には吹き抜ける風と、稲穂の音だけが広がり続ける。
「おい、何か言えよ! 正直に答えたあたしがバカみてえじゃねえか!」
「ごめん、私がなんとなく想像してたことが的中してたからビックリしてた」
「うっせえな! こっちはそのための受験勉強で大変だったんだぞ!」
「でも、合格できてよかったじゃない」
「まあな。授業は全然分かんねえけど」
「そんなんでこの先は大丈夫なの?」
「聞くなっての。くっそー、合格しちまえば何とかなると思ってたのによ」
龍子は唇を尖らせて悔しそうな口調で吐露する。
「その、何だ……。いつも済まねえな。あたしのぼやきに付き合わせてよ。正直、鬱陶しくないか?」
「うん、ちょっとね」
葵の返答を聞いた龍子は「やっぱりか……」と、どこか寂しそうに声を零した。
「でも、私もお兄に……、じゃなくて兄さんに悩みとか弱音とか、たくさん聞いてもらってたから」
だが、それに続けて語られた話に龍子は意識を向ける。
「だから、私もそういうのを受け止められるようにならないと、って思うんだ……。私が助けてもらってたんだから、私がそれをしないのはだめかも、ってね」
「いい兄ちゃんだな」
「ええ、今は都内の大学に通ってるから離ればなれなんだけどね。でも、実際には兄さんみたいには上手くいかないかな? こっちが必死に後を追いかけてるのに、全然追いつけないって感じね」
「そうか……」
小さく返事をする龍子。
葵はその背中を見つめる。
ふと、龍子の家からは彼女の兄弟姉妹の存在を感じなかったことを思い出す。
もしかしたら無神経なことを言ってしまったのかもしれない。
葵はそんな思いに駆られた。
「おい、念のために言っておくけど羨ましくなんかねえからな! こっちは何年も鍵っ子生活してるんだ。独りには慣れてんだよ!」
だが、葵の視線を背中に感じたのか、龍子が強気の態度で応じてくるのだった。
「それに、弱音を言うわけにもいかねえだろ。母さんもあたしのために必死に働いてるんだから心配かけたくねえし。あたしもしっかりしないと、って。でもさ、やっぱりどうしてもしんどくなる時があってさ……」
龍子の口から語られたことに、葵は自然と出かかった言葉を咄嗟に飲み込んだ。
葵は一学期の保護者会で、面談の時間を待つ龍子を遠目に見たことがあった。
だが、その時に彼女の隣にいたのは男性だったからだ。
龍子の父親で間違いないだろうと、そう思えた。
そのことをうっかり口にしようとしてしまったのだ。
用心のためにもう一度言葉を封印し、首を横に少しだけ向けて龍子を見る。
相変わらず背中しか見えないので、彼女がどんな表情で語っていたのかを確かめることは出来ない。
しかし不思議なことに、心配しなくても大丈夫そうだと思えるような、そんな頼もしさもその背中に感じとれたのだった。
その力のようなものを受けとめた葵は思わず安堵の笑みを浮かべる。
「ねえ、話を戻すけど、遊ぶ所じゃなくたって素敵な場所とか、キラキラした青春ぽいものよりも大切なのって、きっとあると思うな」
「ああ、確かにそうかもな」
急に話題を変えられたことで不意打ちを食らったかたちになった龍子は、まんまと葵のペースに乗せられてしまった。
「それを言ったら、学校の北にある桜並木とかは地元贔屓を抜きにしても絶景だぜ。堤の一面に桜がズラッと並んでてさ。それが次々に花を咲かせるんだよ。毎年の楽しみなんだよな」
楽しそうに語る龍子を背中越しに見る葵は、その様子に口元を緩める。
「ね? だから帰りに街ナカでウインドウ・ショッピングしたり、食べ物屋さんに立ち寄ったりとか、そういう彩りとは縁が無くても別に問題ないでしょ?」
「そうやって言われると、ちょっと言いくるめられてるように思えるけどな」
「そうかしら? ほら、女子柔道部の及川先輩。あの人、東京の学校から転校してきたのよ」
「ああ、あの先輩ね。あの人も物好きだよな、名古屋に住んでるってのに。そこから電車で来て、隣町の駅からケッタを使ってここまで通ってきてるんだろ?」
「そうらしいね。雨の日だと、バスが一緒になるけど」
「いま思えば名古屋で転校先を探せばよかったんじゃねえか?」
「でも、結構学校生活を満喫してそうじゃない?」
「あたしと同じでよく職員室の廊下で勉強させられてるけどな。勉強そっちのけでこっちに話しかけてくるから先生によく怒られてるぜ。お前は上級生だろ。後輩の邪魔してないで勉強に集中しろ! ってさ。全然懲りてねーけど」
「ま、まあ、そこはそことして……。東京って、名古屋も比較にならないほどの大都会でしょ?」
龍子が「そりゃそうだろ」と相槌を打つ。
「東京かあ。あたしには縁が無さそうだけど、きっとすっげえ所なんだろうなあ。人がたくさん居て、何でも手に入って、あたしらと同じ高校生も、こっちからは想像もつかねえようなキラキラした学校生活を送ってんだろうなあ……」
「でも、その大都会の学校では得られなかったものに出会えたんじゃない?」
「…………。そういう言い方するってことは、もしかして朝比奈もそうだったりするのか?」
葵はなぜか答えなかった。
龍子は視線だけを横に向けて、沈黙する彼女の様子を気にかける。
だが、その無言の態度に何かを感じたのか、龍子の顔が綻んでいく。
「なあ、よかったら来年の春にでも、一緒に堤の桜を見にいかねえか?」
「うん、それいいかも」
「その時は朝比奈の友達二人とか誘ってさ。高橋と、あとは上田だっけか? ほら、あの陸上部の」
龍子の問いかけに、葵は「うん、それで合ってるわ」と返事をする。
「そのときはあいつに言っといてくれよ。前日のベトコンラーメンはマジで我慢しろってさ」
「ああ、あったよね、そういうこと。一緒のバスに乗るのキツかったわ」
「あたしなんてその日の体育であいつとペア組まされて、授業中ずっとニンニクの臭いを嗅がされてたんだぞ。つか、週の真ん中の日にあれを食いに行くか?」
「誘惑に勝てなかった、とか言ってたわね。高校生になったらやってみたかったことだったそうよ」
「あれと同じクラスの奴には心底同情するぜ」
友人の上田裕美に対する人物評を語る龍子に、葵は困った様子の笑顔を浮かべた。
「そういえば、空手道場の稽古が始まるのって何時なの?」
「ん? 七時だけど」
「その時間まで、私の家で待ってなよ。外は冷えるでしょ」
「でも、家の人とか大丈夫なのか?」
「母さんは勤務だから。それに、父さんは基本的に書斎に籠って出てこないし」
「書斎? 朝比奈の父さんってどんな仕事してんの?」
「小説家なの。うちの父さん」
「へえ、何か興味惹かれるなあ。なあ、小説家ってことは本を出してるんだろ? 代表作ってどんなタイトルだよ?」
「へっ?」
予想していない返しが来たのか、葵は声が裏返ってしまう。
父親がメインで書いているのが成年向けのポルノ小説だとは、まさか同年代の少女に対して言うことはできまい。
親の職業を嫌悪しているわけではないが、それとこれとは話が別だ。
「そ、それは内緒ってことで……」
「何だよ。ケチケチしないで教えてくれてもいいだろ?」
「ど、どっちかっていうと大人にしか分からない内容の本だから」
「そんなもん、読んでみねーと分からねえだろ?」
「いやいや、本当に難しい作品を書いてるから!」
食い下がってくる龍子に、葵は必死に質問をかわし続ける。
それでも父親のためか、彼のもう一つの顔、つまり純文学作家であることもほのめかすのだった。
とはいえ、そっちは全然売れず、借金を拵えるしかない散々な代物だったりする。
そうやって作品の自費出版で借金をつくる一方で、それでも兄の学費や生活費を確保できるのは母親も仕事をしており、父親ももう一つの仕事、つまりポルノ小説界では人気の作家だからだ。
葵としては、無理しないで売れている分野に専念してほしいとさえ思っている。
「ま、いっか。でもよ、そのうち教えてくれよな」
「う、うん。……そのうちね」
龍子が身を引いてくれて、ホッと息を吐く。
「それに、狼狽えてるところを拝めたしよ。いつも澄ました態度だからな。お前でも慌てることってあるんだな?」
「当たり前でしょ。面白がってるの?」
「いやいや、面白かったのはそうだけど、ちょっと安心したよ。朝比奈も隠しておきたいものがあるって分かったからさ」
龍子はゲラゲラと笑い飛ばす。
「ま、お互い苦労してることもあると思うけど、気にしねえで行こうや」
龍子らしいとも言える励ましの言葉に、葵は「ええ、そうね」と軽く相槌を打つ。
葵は、龍子のこのような言動からも不思議と育ちの良さみたいなものを感じるのだった。
「もうちょいしたら市街地だからな。朝比奈の家までの道案内は頼んだぜ。せっかく誘ってもらえたんだから、お言葉には甘えないとだからな」
そういう龍子の言葉が語られる頃合い、二人が乗る自転車は先ほどまでの田園地帯を走りきって、次の集落への入り口へと入って行った。
二人が走り去っていった田園地帯には、もう一度強く吹き降ろしてきた風が、田に実った稲穂を揺らしていくのだった。