3.真新しいベッド
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父のことだから、たとえば3LDKくらいの大げさな部屋を借りるのかもしれないと考えていたのだが、1LDKだった。それでも十分すぎると言える。そも、いくら理由ありきのこととはいえ高校生にすぎない息子に部屋を借りて与えるとは。やはり根が豪気なのだろう。クッションフロアではなくて良かったなと思った。あの妙な柔らかさは苦手だ。
あたりまえのことだが、荷物は少量にとどめた。生活用品も着衣も最低限だ。だからダンボールの数は五箱にも満たなかった。ネットももう届いているし、Wi-Fiも端末の設定だけすればいい。あとはベッドの到着を待つだけだ。
ベッドが届くまではまだ時間がある。近所を散歩しようと思い立った――のだが、ただの散歩に時間を費やすのもなんだと考え、スポーツウェアに着替え、ジョギングすることにした。探検がてら、短時間で十キロは走ってやろうと思う。
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俺は堤防や河川敷が好きで、だから両親もそれが近いアパートを選んでくれたのかもしれない。途中のコンビニでポカリを買った。短い草の上に腰を下ろし、早速、口をつける。身体に少しでも肉が付くと気持ちの悪さを感じるタチだから、それなりの肉体をキープすることはできている。生涯、ずっとそうありたいものだ。
楕円形のトラックがあるので、今度はそこをくるくる周回することにした。途中から漆黒のジャージを着た女子らが混ざってきた。知っている。俺が明日から通う学校、「鏡学園」の生徒だ。みなが一生懸命に走っている姿を見て少々感銘を受けた。走ることを真面目にするニンゲンには好感が持てる。基礎なくして発展はない。邪魔にはなってはいけないと思い、周回はやめ、一気に堤防を駆け上がった。帰り道も駆ける。孤独な時間が、俺は好きだ。
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「そういえば」と思い、「やってみよう」と考え、ノートPCを開いた。転校先を詳しく調べてみるのである。なぜいままでそうしなかったのかというと、まあ、開けてびっくりを期待していた部分もある。
「鏡学園」。
ほとんどの生徒がなんらかの格闘技の部に所属しているのだという。なんと物騒な学校か。若いうちにボディコンタクトがアリの競技をやってしまうとのちのち嫌な後遺症が残りかねないというのに。まあ、裏を返せば勇気のある生徒が多いということでもある。結構なことだ。結構なことか?
夜はピザをとった。コーラは二本買ってきた。身体を甘やかすことにした。空手については道場を探すつもりでいたのだが、調べた限りだと、部活だけで事足りそうだ。そうだと信じたい。以前の道場では組手の相手になるニンゲンはいなかったからこそ今度はそうではないと信じたい。一度は大いにいたぶられたいくらいに思っている。
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シャワーを浴びて出てきたところで、スマホが着信を告げてきた。母からの通話の要求で、『すずめって言えばわかるって』とのことだった。母にすずめのことは言ったことがない。言う必要はないと考えたからだ。それ以外に、ない。
「すずめという人物がどうしたんだ?」
『私はあなたに求めてばかりでなにもしようとしませんでした』
「は?」
『彼女のそのままの言葉よ』
「それを受けて、母さんはなんて言った?」
『なにも言わなかったわ。と言うより、言う間もなかったの』
「そう、か……」
『彼女、お詫びですって言って、チョコレートを置いていったのよ』
「チョコレート?」
『ロイズのよ。ほんとうになにもしてあげませんでしたって――泣いていたわ』
ああ、そうか。
すずめの奴は、ほんとうに誠実で、気のいい奴だったんだな……。
「チョコレートってヤツは、どれくらいもつんだ?」
『凍らせておけば大丈夫よ』
「帰ったら必ず食べる」
『すずめさんのこと、好きだったの? それとも、いまでも好き?』
「すっかり過去形だ」
『まさくん、お母さんはあなたのこと、大好きですからね?』
「切るよ、母さん」
『まめに連絡してね? でなきゃ、泣いちゃうんだから』
「それは困る」
『約束よ?』
「ああ」
通話を切った。
すずめの連絡先は、まだスマホに入ってる。
どうしようかと刹那悩んだのち、それは消した。
彼女は前に進もうとしている。
へたに連絡を寄越せば、迷わせ、邪魔になってしまうだけだ。
すずめ。
なにもしてやれなかったのは、きっと俺のほうだ。
おまえと別れてからというもの、らしくもなく、そんなことを考えるようになったよ。
――眠ろう、真新しいベッドで。