気力を奪う女
サスペンスに近いと思いますがカテゴリがないようなので、ホラーに分類しておきます。
なお、テレビ番組の裏舞台とかそういったものに関しては詳しくないので、正しく描かれていない箇所が多々あると思いますがご了承くださいマセ。
厄介な相談者であった。
相談者は三十代前半の女性で、富田美津子と名乗った。
ノーメイクに近い整った顔立ちの女性だった。ただ肌荒れが出ているのと、上目使いの視線にふっと人を吸引するような薄暗さをたたえていた。
T大学で心理学を専攻する有沢洋子教授は、番組のレギュラー相談役の一人として富田美津子を迎えた。
テレビやラジオの人生相談にはさまざまな悩みを抱えた人々が救いを求めてくる。もっともな悩みもあるが、きわめて自己中心的な悩みも多い。悩む本人の側にも心理的な問題が存在する。どちらかと言えば相談者側にある問題を意識化させる役割だとも言える。
具体的な解決策を求めてくる相談者はごく少数であった。ほとんどが自分の不幸話に終始する。自分がどれほど酷い目にあっているのかを切々と訴えてくる。相手や周囲がどれほど理不尽なのかを誇張すると同時に、自分の人柄の良さを間接的に印象付けようとする。
もともと有沢洋子は、こういった番組に疑問を感じないわけではなかった。相談者の問題が実際に解決されるかどうかは二の次なのであろう。不幸話を披露させ、相談役に意見を言わせるのを最優先したようなやり方には、ときに嫌悪感が生じることもあった。
応募してくる相談者は数え切れないほどいる。だいたい先着順にアポを取って、相談内容を収集したうえで、まず最初の選考がある。実際にスタジオに招いて収録し、そこから最終選考がある。もっとも最後まで収録が続行されたものは、ほぼ放送が決定されたものとみてよい。あらかじめ相談者に対しては、収録に招いてもまだ最終選考があることを伝えて念を押す。出演が第一目的の見え透いた応募者が、後になって言いがかりをつけてくることがあるからだ。
実際にスタジオに招いても、途中で収録中止と判断されるものが少なくない。
つい最近の収録中には、自分の体から便のにおいがすると訴え始めた若い女性がいた。アポの段階での相談内容は、人に避けられているというような被害妄想的なものだった。いざ収録になってから、アポの内容と大きく違う奇異な言動に走る人が多い。職場にいても電車の中でも街を歩いていても、自分の体臭が原因で誰もが避けて通ると訴え始めたのだった。
その女性の身にもスタジオにもそういった異臭はなかった。精神医学の分野で芳嗅症という症状が知られている。汚物の悪臭をかいで薔薇の匂いを感じる。何を嗅いでも芳しい匂いだと言い張る。それと対照的に自分の体から便の臭いがするというのは、ほぼ、神経科の領域であった。ストレスにしろ遠い過去の出来事が原因にしろ、何かで自律神経が侵されている場合が多い。
富田美津子の場合もまた、収録中に異様な展開につながった相談者の一人だった。
ただ彼女のは少しばかり、面妖でもあった。
五人のベテラン相談役と七人の準相談役が配置され、中央に富田美津子が座った。
「こんにちは。失礼ですが、まず貴方の年齢はおいくつですか」
司会者は基礎的な質問から始めた。
質問せずとも相談者のプロフィールはもちろん承知している。番組構成のためと、撮影機材に囲まれた一般人の緊張を少しずつ和らげるために、簡単に答えられる質問をいくつか与えることで様子を見る。本人の年齢と家族構成のそれ。結婚と家庭、職の有無。大まかな現在の暮らしのスタイルなど。
美津子は三十二歳で独身。就職活動中で、一人暮らしであった。
「では、どういった相談なのかを話してみてください」
司会者は本題に入った。
撮影前にも指導者のもとでリハーサルに近いことはしている。もちろん台本があるわけではないから、簡単に話し方を診断するだけである。そこで緊張が激しいようでは収録にならない。また、禁止事項などについての指導を受けてくる。もっとも、収録中にエスカレートして禁止事項などは忘れる相談者も少なくない。たとえば身近な人物の実名を口にするなどである。その個所は音で伏せる処理はするものの、頻繁に出るようでは視聴者にとっては耳障りになる。
話し方においての美津子への所見は、現時点では問題なしであった。
「あの、こないだも、面接で不採用になったんです」
美津子の声に陰りが混じった。
「……それで?」
「その前も、それからその前も、もう何回落とされたかわからないんです」
「……つまり、自信をなくしかけていると?」
「自信なんて、最初からありません」
美津子の口調が強まった。
有沢洋子は黙って見守っていた。神経質に悩む相談者にありがちな敵意が、早くも滲み出ている。
「今は就職難の時代ですからね。多くの方が失業したり……」
「わかっています」
最後まで言わせずに遮った。
「落ち着いて、ゆっくり話しましょうね」
司会者は穏やかに語りかけた。そこで、意識的に間隔をあけた。撮り直しになると判断していた。編集のしやすさを考慮しての間隔だった。ただ、感情の高まりは緊迫感を出せるから、撮り直しか続行かの瞬時の判断が難しい。
「では、本題に入りましょう。あなたの相談内容ですが、就職活動での面接に苦労なさっているというお話を、あらかじめ伺っていたわけですが……」
「はい」
美津子は司会者の目を見なかった。それが習慣なのかもしれないと、打ち合わせでスタッフも話していた。スーツは着こなしているが化粧っけがない。オンエアでは顔はモザイク処理だからいいが、人前で荒れた肌を隠す意図がないようだった。スタジオに訪れるのにこの状態なのだから、就職での面接態度も似たようなものであることは誰もが想像した。タイミングを見てそれを相談役の誰かが指摘する。
「面接試験には残念ながら、ここ連続して結果を残――」
「私だけが悪いんじゃないんです。もう、たしかに私は自信なんてないです、でも、面接官の人が最初からもう、私を落とそうとしてる意味のない面接ばかりなんです、もう……」
また司会者をさえぎって、美津子は一気にまくしたてるように喋った。そこまで喋り終えて、ふてくされたように溜息をついた。
「ちょっと……まってくださいね、ちょっと……」
途方に暮れて、司会者は相談役の席に目をやった。
四十代半ばの女性教授である有沢洋子がいる。そしてもう一人は作家の石橋茂。二人は番組の重要なパーソナリティであり、もう出演歴も長い。心理学を専攻するその二人に、司会者は無言で救いを求めた。
富田美津子というこの女性は、いかにも人との距離感を失っていそうな気配が濃厚に感じられた。時折、収録が始まってから異様な本質を出してくる相談者がいる。
有沢洋子と石橋茂は同時に、司会者の意図を読み取っていた。
「こんにちは。私が石橋茂です、はじめまして」
石橋茂が美津子に話しかけた。
「あ……こんにちは。よろしくお願いします」
美津子は急に我に返ったような表情を見せた。
「就職での面接がうまくいかないんだってね。で、もう何社くらい受けたのですか?」
「え、と……たぶん、三十社やそこらは。二か月くらいの間に……」
「そうですか。単純に平均すると二日に一社、頑張ったのにね」
「はい。あ、あの、ありがとうございます」
どこかチグハグな受け答えであった。
「それで……」
石橋は本筋と離れた世間話に流れを移した。
有沢洋子は黙って聞いていた。対人心理に長けた石橋の風貌と話し方には優しさがある。相談者だけではなくスタッフもまた、石橋の周囲にいると心を和ませる。有沢洋子はそれとは対極的に、厳しさを加えた回答を導く役割をしていた。
多くの人がリストラや就職難の時代におびえている。明日への生活の不安に耐えられなくなる人が出る。面接試験に赴けば、たった一人の採用枠をめぐって何十人という応募者の姿を見る。普通の人でもそれなりに自信をそがれる。どうせ自分は、という思いが面接での態度にあらわれる。面接官はそれなりに人を見抜く能力もあろう。
番組的には、富田美津子のような社会的な弱者が多く訪れるものの、他方では、識者は経営者側からの相談にも応じていた。
企業ではたしかに個人の能力も重要である。ただし、その能力が発揮されることの重要さが見直されている。ほかにも上達力や適応力などがある。社会で耐えていく力の必要性が増している。要は人としてのトータルな基礎資質である。面接の席で形ばかりの立派な精神を主張したところで、実践ですぐに“うつ”になるような人材を抱えては、企業が成り立たない。
良質な企業なら対人力も協調性も重要視する。身勝手な者が規律を乱せば社員のストレス対応策に追われるからである。質の悪い社員が増えれば今の時代でなくとも、企業はたやすく内部崩壊に向かう。組合員がときに大規模な行動を起こして、社員をモノとして扱うななどと叫ぶ。そしてその組合員の全てが会社をモノとして扱わない精神の持ち主かといえば、そうではないのが現状であった。
極端な言い方をすれば、人の生態が変わってきている。とにかく身勝手なのである。自分の権利は過剰なほどに主張しながら、他人の権利は蹴倒して通る。自分が先住者の立場であれば排他的になり、新参者であれば自分の基準に持ち込もうとする。それが同一の人の中で起こる。
うつ病が認知されれば、うつ病になり済ます者が出てくる。そうしておいて休暇や手当を搾取する。実際に治療が必要な人々が職場に残される。搾取した者への憎悪や理解されない悔しさが症状を悪化させ、治療を困難にする。穴埋めに入った者もその負担に倒れる。他方に、何かであえなく閉じこもる者もいる。一言の注意で心を閉じる。見ていた他の社員が真似を始める。ごね得だ、となる。それで指導者や管理職もまた心を苛まれる。集団が機能しなくなる一つの悪循環である。
労働者側も労働者側なら指導者側も指導者側だと、ときに有沢洋子は思うことがある。労働者側には、会社側が何から何まで面倒を見るものだと決めてかかっている人がいる。甘えているのである。その甘えが通らないから、ごねる。指導者側もまた、社会人としてのあるべき論を持ち出してどこかで責任を逃れる姿勢が見える。若手の能力を開花させようという、指導者としての資質に欠けるのである。もっとも、年功序列にしろ成果主義にしろ、人の資質に関係なく昇級する制度にも問題はあろう。
インターネットでのブログなどにも、若者たちの身勝手さの片鱗が見える。自分が他人のブログを閲覧しコメントを残すという労力をしない。それでいて、自分のにはコメントも閲覧者も集まらないと悩む。さらには相談掲示板などに安易に書き込む。子供ならともかく、二十代、ときに三十代でもそれをやる。インターネットが与える影響の問題は別として、他人は全て自分に貢献する手段だという姿勢が見える。
富田美津子もまた、かなりの自己執着を垣間見せる一人であった。
「それでね、さっきから気になっているんだけど、あなた、相手の目を見ながら話す習慣、身につけたほうが良いと思うんですね」
石橋の話が本筋に戻っていた。やんわりとした口調で、一つの核心に触れた。
「はぁ……」
美津子は目線を反らせたままだ。眼窩の陰りが重力をともなうかのように、暗い。
「うん。やっぱり人同士、相手の目を見て話せるかどうかで、印象が決まっちゃう場合があるんですね。とくに面接試験などでは、そういった態度が大事になってくるから。……そうですね、まず、ぼくの目を見てください。ついでだから練習しちゃいましょう。ね」
石橋は笑顔を絶やさない。
他人の目を見ないのは、とにかく何かから逃れ続けることを表す場合が多い。内面を他人に悟られるのを恐れる姿勢……。
多くの生き物は出会いがしらに相手の目を見る本能がある。野生動物ならそこから相手を見る。敵意や攻撃性の有無だけではなく、相手と自己との関係までも瞬時に判断する。
美津子が少しだけ、顔を上げた。すくい上げるような目線を石橋に向けた。
有沢洋子は見ていた。洋子は石橋の隣だから、美津子の目線はほぼ同じ角度で見える。照明が美津子の白い顔に、くっきりと陰影をつけた。洋子は眉をひそめた。何か不吉な相を含んでいるように、洋子には見えた。
得体の知れない何かが美津子にはあった。精神の偏りは人の表情に出ることがある。職業上、普通の人よりかは洋子にはそういうのが見える。接する機会が多い。それらの人々とはまた異質である奇異な感覚の正体を、洋子はつかみあぐねた。
――死相……
まさかと、洋子は否定した。そっちの方面は専門外である。ただ、ある遠い記憶がよみがえり、そこに一致する部分を洋子は見た。
白い顔にかかった陰影である。異様に、くっきりしたのがそれであった。
かれこれ二十五年は昔だった。高校時代の、接点のなかった同級生が交通事故で死亡した。当時、遊び友達の一人からそれを聞いた。あとになって、なぜか気になって卒業アルバムを引き出した。そこに写っている当人の写真を見て、目が離せなくなった記憶があるのだった。どこがどうという表現はできないが、もしかしたらこれが死相というものかもしれないと、漠然と思わせるものを感じたのだった。
石橋の穏やかな語りかけが続いた。美津子はじょじょに、石橋の目を見るようになった。
折を見て、タレント陣の一人、また一人、片言のアドバイスを美津子に送り始めた。若手の女性からメイクに関する話などが出始めていた。
洋子は言葉を発せず、展開を見守ることに集中していた。
面接会場での話に及んだあたりから、また、富田美津子の挙動がおかしくなり始めた。
「ですからもう、何度も言うようにですね、誰もが私を不採用にしようと心がけてるという、もう、絶対そう、決まってるんです」
気持ちが高ぶると“もう”が増える。最初の時から誰もがそれをわかっていた。
「あのね……」
「だってそうでしょう。私なんかどうせ、もう、誰も誰も採用しないって言ってるじゃないですか!」
「落ち着こうよ。ね」
俳優の後藤哲也が制止に入った。
人気俳優として名高い青年である。今の言葉で言うイケメン俳優だった。日本人離れした容貌と、マルチタレントとして各業界からの引っ張りだこである。
美津子は後藤哲也を見た。いや、睨み据えた。どういうのか、悔しそうな表情を凍らせていた。
「自分で自分を決めつけちゃいけないよ。ぼくだってね……」
「あんた何さまよ」
美津子は吐き捨てた。表情がゆがみ始めている。
あきれて、後藤哲也は押し黙った。おもわくが外れていた。タレントに無関心な女性に対しては、あんがい神通力のない自分がわかった気がした。
「男なんて、くっだらねーんだから」
口汚い言葉がぶつぶつと発せられた。一同がそれぞれ近くの者と顔を見合わせて、ヒソヒソと始まっていた。このあたりはカットされるのだろうが、生中継であったらと思うと誰もが生きた心地がしなかった。
「ここまで生きたから、もうどうせ、私なんてさ、くたばれば、いいじゃんか」
地の底に引きずり込まれそうな自己卑下の連続であった。あきれ果てて、一同は黙り込んだ。美津子はうつむいていた。感情も言葉も完全に方向性を失い、呪文のような自己卑下が際限なく流れ続けた。
「あなた。いい加減にしなさいね」
たまりかねて、有沢洋子は軽く叱責した。美津子の肩がピクリと動いた。
「まず、石橋先生がおっしゃったように、人の目をちゃんと見ること。睨むんじゃなくてね。それとね、自己卑下はやめましょうよ」
「…………」
「基本的に」石橋が代わった。「あなた、自分に自信が持てないのは、自分で自分の魅力を殺しちゃってるからなんですよ」
「ミリョク?」
「そうそう。容姿の問題は局の方針上、言いたくないんだけど、あなたは基本的に美人なんだよね。だけど表情の作り方でそれが活かされてないの。ふだんの、人に対する気持ちの問題とかが、習慣的にね……」
「顔さえ良ければいいというんですか。たしかにもう表情なんて変わっちゃいます、だって、もう……悔しいじゃないですか」
「うん。その気持ちはわかるよ。なんで自分だけって思うよね」
「そう思うでしょ? みんな幸せそうに街を歩いていて、私のことなんかどうでもいいような顔して歩いていて、ふざけんじゃないよって……」
みるみる間に話が狙ったのと違う方向に向かっていく。
「うん、あのね……じゃあ聞くけど、あなただって道行く人に、赤の他人に、いつでもどこでも一人一人の幸せを願いながら歩いてるわけじゃないよね」
「そんなこと、当たり前です!」
「他人にとっても同じで、こういうことは言いにくいけど、他人であるあなたに対してまでは……」
「先生までそんなことを言うんですか! そんなに私を傷つけたいんですか?」
「そうじゃなくてね……」
さすがに、石橋も困惑の表情を見せた。
自己愛というのがある。悩んでいる人間は通常、それが肥大化しやすい。自分の悩みが最優先になるから、他人の事には気が回らない。自分の周囲ばかりを見て視野が狭くなる。神経過敏にもなる。他人の言葉も一面的に解釈する。そこで一喜一憂を繰り返し、さらに安定性がなくなる。悩みが深刻になるほどに自己愛は肥大化する。
ナルシストに相談に来られれば、たいていの人間は苦痛になる。もともと普通の状態でさえ他人を受け入れていない人間が、自分勝手な基準で傷ついて神経過敏に泣きついてくるからである。たとえば何かと、他人のことを冷たいという。途方もない要求を他人にしておいて、わずかでも拒否されれば全てが拒絶されたと受け取る。それまでの恩は完全に忘れて誰かに泣きつく。恨みつらみを言って一緒に悪口を言うことを要求する。その恨みつらみが、不幸や悲しみの演技として偽装されて登場すると、しつこい。すがった相手によっては、その悪口は拒否される。そうなれば今度は悪口を拒否した相手を恨みの対象に置き換える。だから重度のナルシストは次々に他人を恨む。身近で接していた相手や、他の人よりもむしろ親身に尽くしていた相手に向かって、自分を傷つけたひどい人だとなる。別の場所では自分自身が悪口の対象にされるのも、無理もない話である。
美津子の状態はそれらに接近したものだと、石橋は思っていた。それもかなり重度のものに思えた。
その上、自己卑下があまりにも激しい。自己卑下は謙遜ではない。最初に自分を必要以上に否定して見せる。そして「そんなことはない」と相手がさらにそれを否定することでストロークを得る。だから最初に褒め言葉でも受けようものならストロークに狂いが生じる。否定に否定を重ねた会話が、その種の人の日常には満ちていることがある。何年も積み重ねれば確実に思考回路に悪影響が出るものである。自分の価値が落ちるのも当然と言える。だいいち、周囲を取り巻く人々の気分が重い。繰り返せば人も遠ざかる。もちろん当人の意識も晴れ間が少ない。結果として、自己卑下が多くなれば人は憂鬱になりやすい。
いわゆる、自分で自分を傷つけるという行為である。
タレント陣が少しばかり興奮していた。代わるがわる、美津子と短いやり取りが続いた。
アシスタントの娘が出てきた。司会者が気づいて、有沢洋子たちのそばに集まった。収録中止の判断の相談であった。
「もう少し様子を見たいと、伝えてくれませんか」
石橋茂がそう言って、有沢洋子に無言で同意を求めた。
「そうですね。私は収録が中止になっても、そのまま続けてみたい気がします」
洋子は付け加えた。おそらくは石橋も同じ思いだろうと思っていた。職業上の個人的な関心が出てきていた。収録がなくなれば、それはそれで制約のない会話ができる。
金切り声のような叫びに、一同は美津子に視線を戻した。
「じゃあ、あなたたちの誰かは、もしですよ、私なんかを採用したいと思うんですか!」
さながら敵意むき出しの態度であった。相談内容の原点などはもはや、彼女の思考に残っていない。
「ですからそれは、あなたの態度の問題が大きいのですよ」
一人が応酬した。
「タイドってなんですか!」
「あのね……」洋子は業を煮やした。「あなたは今、私たちに対してさえ、敵意を振りまいているでしょう。気づいてますか?」
「敵だなんて思ってるわけないじゃないですか!」
美津子は洋子を睨みつけた。
「ほら、それ、それが敵意なのですよ。その噛みつくような態度が問題なの。あなた面接の現場で、似た態度を取っているの?」
「見てもいないのに、もう、そこまで言われると思いませんでしたね」
「…………」
洋子は黙った。取り付く島がない。
私なら採用しないと口にしてしまえば、全てが終わる気がする。しかし簡単にそれを口にしてしまうのは立場上の問題もあって、悔しい気もした。
ふと、何かで、洋子は準相談役の席に視線を向けた。
異様なことに気づいた。そこにいる七人の表情に奇妙な共通があった。タレントや他のゲストで男女が並んでいるが、誰もが眼窩のあたりに重い陰を溜めているのに気づいた。この状況で上機嫌の人間などいまいが、見た瞬間に、まるで同じ血筋であるように錯覚させるほどの、似通った表情をしていた。視線の作り方までが似通っていた。
人々の表情の中に共通した別の生き物の姿を、洋子は見たような気がした。
不機嫌な硬直した空気が満ちている。
美津子を見た。そして、これも錯覚かと思った。目の周囲にあった重力的な陰から、重みが消えている気がした。七人の視線と比べてみて気づいた。美津子の視線には人を直線的に見る力強さが出ていた。
「あなたは前の職場を、なぜ辞めたの?」
レギュラー相談役の一人が訊いた。松山という、おもに法律にかかわる問題を扱う初老の男性だった。
「社の連中がもう、私を追い出しにかかったんです。無言で。圧力っていうんですか、嫌な仕事を押し付けたり、社員に悪口や陰口を言わせてみたり」
「悪口、ですか。陰湿ですね……」
「私には何も原因が無いのに。ただ、気に入らなくなっただけの理由ですね」
「じゃァ、そう思える理由というのは?」
「気に入らないものは気に入らないって、誰にだってあるじゃないですか!」
「それはね、人間なら誰でも、たしかにそういう面はあると思いますよ。そういう意味じゃなくて、ね……」
「普通にやってくれれば私だってもう、べつに、何も言いませんよ」
「普通って、あなたね、あなた自身……」
「先生だって絶対そうに決まってるじゃないですか!」
「だから、なんで物事を決めてかかるの、あなたは」
松山は苛立った。会話のやり方を見失った相手の言動は、対処しかねた。
「違うんですか!」
「論点がずれているでしょう!」
「…………」
「人と人との話っていうのはね」石橋が取り持った。「相手の話を受ける側が、半分以上の流れを作っていくものなんですね」
「説教を聞きに来たのですか私は」
「…………」
石橋の発言が指導力を失っていた。
洋子は隣にいる石橋を見た。穏やかな風貌であった石橋の横顔にも、とうとう触発された敵意が現れていた。石橋の目つきが険しくなっているのを、洋子は初めて見た。その目の周囲にも濃い影が付着している。
「美津子さんね、あなた、いま自分が何を話したいかって、自分でわかってるの?」
イケメン俳優の後藤哲也が、なじるような口調で声を発した。無意識に相談者の実名を口にしていた。どのみち、もう収録がどうのという展開からは離れている。憎悪に満ちた目で美津子を見た。何さま呼ばわりされた後藤は、もともと他の相談員よりも早い段階から機嫌を損ねていた。
「だから、私は相談しに来てるんです。先生の答えを聞きに来てるに決まってるでしょう。だってもう、なぜ、私の聞いたことに、ちゃんと答えてくれないんですか」
「人とのコミュニケーションが取れていないのは、あなたの方でしょう」
石橋が強い言葉を口にした。
「先生まで、そんなこと言うんですね」
美津子は間髪を入れずに噛みついた。
「あなたね、あなたが怒るときには、相手に原因があるって思いますよね。悪いのは相手だって」
石橋はどうにか自分を抑えて、美津子の感じ方まで視点を下げた。根比べのような様相を呈してきている。
「はい。悪いのはたいてい、相手ですよ」
「逆にね、相手が怒ったり傷ついたりするときには、あなた自身にも少しは原因があるかなって、考えたことないの」
「そりゃ、少しは、あるかもしれないですねぇ」
美津子はふてくされた。
「その辺は、わかってるのですね」
「わかってますよぉ」
「自分を反省することくらい、できるはずですもんね」
小学生を相手にしている気分だった。いや、まだ小学生の方が扱いやすい。
「だから先生、何パーセントかはわかりますよッ」
「いや、何パーセントの問題じゃなく……」
「子供扱いしないでくれませんか」
「……ふぅ」石橋は頭を抱えた。「そうすると、あなた自身、自分の何が問題なんだと思います?」
「あなた自身で考えなさいって感じね」
「それができなければね、ここでだって今この状態でしょう。我々との会話は成り立たないよね」
石橋自身がもとの話を見失いつつあった。いや、もはや一同にとって、就職問題の話はどうでもよいことになっていた。
裏方のスタッフ一同も、ものも言わずに事の成り行きを見守っていた。全員の視線が暗く沈んでいた。誰もが苛立っていた。
「あなた、友達はいるの?」
洋子は訊いてみた。
「ともだちですか、もう、一杯いますよぉ。もう何十人か。五十はいますねぇ」
「結構いるのね。その友達に相談したことは?」
友人の数を誇張しているのかどうかはわからない。おそらく誇張であろうと思った。あるいはブログ関係者やメール相手なども含めているのかもしれない。初対面の相手に対しても馴れ馴れしく接することから、知人の数は多いとも考えられる。
「で、その友達は、なんて?」
「……どうせ、私のことなんて雇いません」
いきなり話が戻った。
「あなた、だから、その自分がどうせ雇われないという理由、自分ではどう思ってるんですか」
「そんなことを聞きに来たんじゃないですっ!」金切り声だった。「いい加減に、求めてる答えを言ってくれませんか!」
「だから答えって何です」
「ここの人たちだって、もし、会社の人だったら、私なんて誰も雇うわけじゃないでしょう! 絶対そうでしょう!」
むくれた態度で一同を見回しているかと思うと、急に金切り声で叫び出す。心の奥底の不安と恐怖が間欠的に湧き上がっているのだと洋子は思っていた。しかし今は様子が違った。美津子の視線には相変わらず強い敵意が満ち、噛みつく態度は変わらないものの、引きずり込むような重い影が消えつつあった。代わりに何か威厳すら感じさせる力強さが宿っている。
「先生は、私を雇うと思いますか」
美津子は洋子に視線を向けてきた。刺すような目線で一直線に見つめた。
威圧感が洋子を襲った。寒気がして、体が硬直した。
「そっちの人はどうなんですか」
洋子の答えを待たずに、美津子は反対側のタレントの一人を指名した。若い女性タレントだった。彼女もまた美津子の視線に竦んだようだった。
「俺なら、雇わないね」
ぶっきらぼうに発言したのは、その女性タレントの隣にいるイケメン俳優の後藤だった。僕から俺に変わっていた。なんというのか、犯罪者を思わせるほどに表情が猜疑に満ちていた。
「ほらみてください」
美津子が勝ち誇った。そんな態度だった。
「あなたは、まるで……」洋子は口を出した。「私たちの口から、あなたを雇わないって言わせたがっているみたいですね」
「やっぱり、私をそういう目で見ていたんですね」
美津子が向き直ってきた。黒い髪が揺れた。
洋子は押し黙った。この女性はもう、自分たちの手でどうにかできる相手ではないことを、今更ながらはっきりと悟っていた。特定の解決案を導くことはできても、会話能力を簡単に失うほどの相手を扱う訓練を受けているわけではない。
「どうなんですか」
美津子がついに席を立ち、高慢な態度で詰め寄った。洋子は怒りをこらえていた。危険な状態であることはわかっていた。ちらと、舞台裏を見た。スタッフ一同が暗い目線で顔をそろえて見守っていた。誰ひとり、動く気配はない。
「ぼくも、雇わないね」
石橋がサジを投げるように言った。どうにでもなれという思いがありありと表情に出ていた。
美津子が鼻先で笑うようなしぐさを見せた。雇わないと言われた立場とは逆に、完全に相手を見下す視線であった。
「私も雇いません!」
リーダー格の石橋が折れたのを見て、咳を切ったように女優が叫び声を上げた。レギュラー陣の誰かが先に言い出すのを待ちわびていたのだった。
「私もだ……」
「だめですね、私も」
「救いようがない」
口々に不採用の通知が出た。石橋の言葉が皮切りであった。席の順に関係なく、あちこちから声が飛び交った。
「ほら、だから最初からそう言ってるでしょう」話の主導権が逆転していた。「あなたは?」
「……私も、無理です。あなたと仕事をするのは」
司会者が答えた。本来なら相手を傷つける言葉の連続であった。しかしもう、これは本人が望んでいるものを嫌々ながら差し出している状態になっていた。口にしたい答えではないが、美津子の視線からは一刻も早く逃れなければならない。
「あなたを採用したら、悲惨な結果になるのが目に見えているじゃないか!」
美津子の視線を受けただけで、松山が震えを帯びた声で怒りを叩きつけた。恐怖にも憎悪にも思えた。もう、ふつうの相ではなかった。
「やっぱりそうですよね」
どういうのか、哀れむような表情を作って、美津子は松山を見つめた。おびえたように松山は顔をそむけた。額に汗が浮いている。
美津子は再度、洋子の近くに来て視線を向けた。都会的なというか、直線的な表情に奇妙な透明感があった。
答えていないのは洋子だけであった。
沈黙の対峙が続いた。
洋子の胸中に重苦しい不快感が満ち、渦を巻いていた。吐き気に近いものを洋子は覚えた。加えて、眼窩を奥に押し込められるような痛みが走った。悲鳴を上げたくなる恐怖と不安と憎悪、さらには孤独感が満ち満ちていた。この女性は何者だろうかと思った。
「……ふさいよう、です」
これまでだと、洋子は思った。その言葉を口にした途端にどうにもならない敗北感が、解放されるはずの心に押し込められてきた。
「これでわかったでしょう。私は誰にも採用されることのない女だということが。誰にも相手にされない、だめな人間なのです」
美津子は、誰よりも開放的な表情に笑みを浮かべていた。
なんとも形容のしがたい、地べたに這いつくばるような不快感がスタジオ全体に満ちていた。誰もが疲れ果てていた。全員が、美津子に敗れていた。
「帰ります。ありがとうございました」
美津子が一礼をした。ごく普通の、いや上質とも言えるほどのOLのたたずまいを得ているのを、一同は鉛のような目線で見ていた。まるで、取り憑いていた不機嫌な陰を一同になすりつけて全て払い落したかのようだった。
美津子がきびすを返した。
ハイヒールの足取りに安定感が出ていた。スタジオ入りした時に比べて若返り、美しくなって、確かな輝きを得ているように見えた。
完




