001 解放界──メティエン街にて
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【起】
──氷のような匂い。
薄暗い、石造りの史書館の長椅子の上で、少年は瞼を開いた。
されど瞳は光を灯らせぬまま、呆けて開く口からは言葉が流れ落ちる。
「……これ、何回目……?」
誰に問うたかも定かでない。やがて湧いた小さな笑みは、細めて吹き捨てた。
そして身に纏う魔導士とも見紛う黒のローブを枝垂れさせ、ゆっくりと座り直す。
言葉は尚、溢れる。
「えっと……確か、さっきは……」
前髪諸共に額を押さえ、力強く記憶を掘り起こしていた。
もっと何か出来た筈……。
もっと見届けるべき瞬間があった筈……。
もっと違う展開へと導けたのなら、今度こそ出会えた筈……。
クシャリと髪を歪め、食い縛った歯に己の叱咤を込めていた。その時に──。
「惜しかったね、ユキノ」
少年を横から覗き込む人物が現れた。
人の形……ではあるものの、真っ白な風態は人ならざる空気を漂わせる。けれど少年は何ら物怖じもせずに「惜しいじゃ駄目でしょ」……と、悔やみ染みた顔を見せた。
「ねぇ……。ユイティアだったら、どうしてた?」
「全部壊して炙り出す」
「元も子もないわ……っ」
ユイティア。
光るような白さは徐々に抑えられ、人と同等の体が晒される。──幾何学模様が刺繍された一枚布を、喉元や頸から踝まで垂れ下げた白髪の少女。他に褐色の肌を覆う物は何も付けず、瞼を閉じ続ける彼女の頭には、白い獣の耳を模した物体が煙のように揺らめいている。
「……もう一度試す? 次は『あの帆船』に乗り込めるかも」
「ゃ……。や、うん、そうだね。心が折れそうですけれどもぉ」
少々乱暴に息を吐き出して少年は立ち上がる。
その際、腰のベルトから垂れ下げていたランタンが長椅子の端に当たり、激しく揺れた。
「あっ──ヤバ……いぃ!」
咄嗟に外れそうになった天蓋を押さえ、少年はすぐさま『中の光』を覗き込んだ。ランタン……とするには、些か頼りない──仄かな光が顔を照らす。
火の灯りではない。
ホヤガラス越しに見えているのは、二つの光る珠……それも、決して落ちない浮遊する明かりだ。
「……これは何の変哲も無い、普通のランタンですよぉ……。気にするだけ損だと思いますねぇぇ……」
誰に言っているのか。
傍に居る少女ではなく、まるで何処かに潜んでいる何者かにはぐらかそうとでもするかのような物言い。
少年は館内の静かさを伺った後、少女に対し「オッケー?」と手でサインを送る。
少女も彼に合わせてサインを真似るが、キョトンとした表情からは、その様な意図を汲んだとは思いにくい。
「……はぁ。ってアホやってないで、ホールに行こう。そろそろ始まるっ」
走り出しながら少女を急かした少年。その後ろ姿を少しの間だけ眺めていた彼女は、やがて光の塊へと変化。少年と大差の無かった背丈は一瞬にして小さくなり、そのまま先程のランタンに飛び込んだ。
これで、中の明かりは三つ。
この事に少年は慣れた様子で見届けた後、ランタンをローブで隠した。
……ここは無人の史書館。
故に、彼らの不可思議な動向を知る者など、いるわけがない。
◆
【承:前】
少年──ユキノは、史書館を訪れた際に一度だけ本を取っている。
その本は動物の皮のみで作られた、古びた日記張だった。
まだ白紙である部分が多かった為、彼は街に降り立つ時に授かった数項目の戒律を記した。
『一、街を出るまで、街の光を浴びてはならない』
『……三、自分は観光客であると心掛ける事』
『……六、街の者の名を口にしてはならない』
全部で九項目と並ぶ、言わば『約束事』だが……現状、この三つを厳守していれば他のモノは気にする程ではないと、彼は結論付けている。
「──はぁ……! はぁ……! は……──あっ!」
とても高い本棚の合間を駆け抜けていたユキノは、棚端まで来た所で唐突に足を止めた。
「あちゃ……。もう光が通るタイミングだ」
本棚の影に隠れながら覗く先は、窓である。それも、担げるような梯子を掛けても届きそうにない位、高い位置にある窓だ。
して、その窓は外から差し込む光を通し始めていた。
「ん……。あれくらいなら、無理矢理でも行けるよね」
等間隔に棚々の影が下りていく光景を見ながら、「よし、突破できそう」──と呟く。
周りに自分を見る目が無いのを再度確かめ、ユキノはランタンに触れて囁いた。
「……セイリオム、出てきて」
すると、一呼吸置いた後にランタンから一つの光の珠が、ふわりと抜け出してきた。その光は、ユキノの衣服をよじ登るように浮上し、名を呼んだ彼の顔を照らすと、
「……なぁに? 今あたし、アデリ様と楽しくおしゃべりしてたんだけどなぁ」
潜ませた声で怪訝を表した。
一瞬、ユキノの表情がヒヤリと強張るが、これも慣れた事なのだろう。
「うん、それはごめんなさい。けど、見て。街の光が差し込んでて……」
すぐに名を呼んだ目的を諭す。
光の珠は一度窓を覗くような挙動を見せた後、ユキノの周りを旋回した。そして……。
「──仕方ないな……ほら」
光は消え、代わりに頭ひとつ分背の高い女性が現れると、彼女は持っていた大きな日傘の影にユキノを迎えていた。
「ありがとう、セイリオム」
「……はいはい」
セイリオム。
日傘のデザインも去る事ながら、一律してお嬢様ドレスのような衣服を纏う彼女。……ではあるが、今回はそう言う姿と言うだけ。
いつもセイリオムは着飾る衣装に限らず、髪も肌も背丈も声も、瞳の色さえもコロコロ替えては『女性』を楽しむ性分だそう。無論、今着ている物も、ユキノにとって初めて見る女の子の服である。
──と、遥か先。
連なる本棚が途切れた向こうから騒めく声が聞こえ、二人がそちらを見る。それとほぼ同時に、
「さあさあ皆様、ご注目あれ! これより、とても素敵なイベントを始めましょう!」
誰もいない筈の館内なのに、男性の声が響いた。
「時間になっちゃった──……急ごう!」
ユキノはセイリオムの手を取って、再び走り出した。街の光は全て日傘によって遮断され、約束事は守られたままだ。
「あんた、あんなの何回も観て飽きないの?」
「だって忘れちゃうんだもん。なんでか知らないけど!」
近づけば賑わいがより届く。
同じく、二人が目指す場所から、深い色合いの靄が生まれ始めていた。
──────
────
──
「────ようこそ、お集まり頂いき光栄に存じます。さて皆様には、とある『宝探し』をお願いしたく……」
体当たるようにして石製の飾柵に寄り付いたユキノが、「間に合ったぁ!」と安堵するのと同じくして。
二人が着いた展望廊から見下ろせる下階のホールに響く男性調の言葉を機に、ざわめきが静まっていく。
「……本当に意味なんてある? モヤモヤ達の与太話に」
「あるよ。……ヒントになり得るものが」
そーですかい……と、セイリオムがユキノにかかりつつあった街の光を日傘で受け、事もなさげに眼下を眺む。
──今、二人の視界を埋めているのは多彩色の靄である。
舞踏会を行える程の広いホールに、一つ又一つと靄が集まり、そのような光景を作り出していた。
して、大きな塊となっているそれらの前──二人が居る階に続く大階段に浮かぶ靄から、男の声が響くのだが。
「……その前に、何故に宝探しなんかをと思われる方もおられましょう。なのでまずは、ある少女との出会いからお話致します」
──ある時、いつものように史書の管理業務に勤しんでいた彼は、館の外で佇む一人の少女を見つけました。
少女との出会い方はとして自然で……ごくありふれた日常の一齣に過ぎないものでした。
そして彼はいつものように、施し物を手に少女の下へと歩み寄ります。
【 我が史書館に、何かお探し物でもありますか? 】
少女は言いました。
【 ここにあるのかは、わからない 】
少女は、確かに何かを探している様子でした。
その後も、誰に聞かせるわけでもなさそうなほど小さな声で、大切な光を見失ってしまった──と、呟き続けるのでした。
彼は思いました。
ああ、探している物の名前が思い出せないのか──……と。
それならばと、史書館へ迎え入れ、共に根気よく探してみましょうと、少女を招き入れようとしました。
しかし──。
「気がつくと、その少女はいつの間にか姿を消しており、それから暫くは見かける事もありませんでした」
けれど最近になって、彼女が街の至る所で何かを探しているようだとの噂を耳にしたのです。
あの子は、あれからもずっと、探し物を見つけられずに街を彷徨い歩いているのか……そう、彼は思うといても立ってもいられずに、彼女のお手伝いをしようとしました。
もう一度、少女と話そう。
もう一度、何を探しているのかを聞こう。
今度こそは、少女のお役に立ってみせよう。
そんな決意を胸に、彼女の下へと向かいました──しかし、出会えません。
どうしてか、彼は二度と少女に近づく事が出来ませんでした。
噂は届けど姿は無い。
もう、何処にも……。
「……そこで、私は皆様にお願いしたい。共にその少女を……いえ、『宝』を探してほしいのです」
そう表さなければ、少女は誰にも見つけられない予感がしたのだと、その靄が言う。
……しばしの静寂。
その後、靄の群れから声が上がる。
いつまでに──と。
「時間は問いません。ただ、そうですね。……もし見つけていただけたら、特別なご褒美を用意致しましょう」
ざわめく。
皆、価値のある物が貰えるのだと沸き立ち、ついに一つの靄が協力しようと声を上げた。
続いて、またひとつ。更にまた。
やがては、殆どの靄達が、拍手を以って彼の言う『宝探し』に参加する意思を見せていた。
「おぉ……ありがとう。本当に、ありがとう……ございます」
館内に鳴り響く好奇の音は、彼の声を最後に、徐々に消えていく。
同じく、彩豊かな靄達も薄れ始め、先ほどの静かな空間へと戻っていった。
「光……って、やっぱりセイリオム達と同じ『法則点』だよね?」
確信を得るように、力強く彼女を見上げるユキノに対し、セイリオムは。
「うやぁ……もぉ。いまさらじゃないさぁ」
分かりきった話を振るなと、ユキノの顔を鷲掴んで嘆いてみせた。
「でもでも、もう一つはっきりしたよ? あの人が言ってた少女は『パルジファクト』だ。前回出会ったあの子の事でいいんだよ!」
「……まあ、そうでしょうけど」
そうとわかれば善は急げ。
ユキノはセイリオムの手を引き、「行こう! また会える筈だから」と走り出した。
「意気揚々と出発するのはいいけど、あれの名前を言ったらダメだよ? いま勢い余って口走ったでしょう」
「あ、ごめん。仮名『フィノ』だよね。気を付けるって」
そうして二人は外へと続く廊下へ身を投じていった。
誰もいなくなった史書館に差し込んでいた街の光も、次第に過ぎ去っていく。
明かりのない暗く静かな本の寝床に響く最後の音は、ふたつの足音でも扉の開閉音でもなく、ひとつの靄の笑い声であったことなど、ユキノ達は知る由もない。
【承:後】へ続く──……
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