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人魚が産んだ無精卵

作者: 芋

 

 誰に言っても信じてもらえないだろうし、誰にも言うつもりもないけど、私は昔、人魚の肉を食ったことがある。


 まだ私が小学六年生で、転勤を繰り返す父親の都合で海に面した景色の良いマンションで暮らしていた頃の話だ。

 放課後の缶蹴りに鬼ごっこ、隠れんぼにだるまさんがころんだ。小学生の遊びは毎日飽きずにこの辺りをローテーションする。その日も缶蹴りに使えそうな漂流物を探しに浜辺を歩いていた。


 よく晴れた夏空の下、岩陰から飛び出していたのは私の胴ほどもある巨大な魚の尻尾であった。運が良かったのか悪かったのか、私は何故か友人を連れていなかった。満潮時に満ちた水面はここいら一帯を呑み込んでしまうから、無闇に近付いてはならないと念を押されていた岩群は、漂流物がよく引っかかる。

 引き潮で取り残された海水により小さな湖になってしまった檻の中に、力なくしなだれかかっていたのは魚の尻尾の持ち主であった。

 透けるような尾びれから薄青がかった艶やかな鱗に包まれた下半身、すらりと伸びる青白い上半身は陶器のように滑らかな女性の肉体そのものであった。伏せた眼を彩る真っ黒な睫毛は怯えたようにフルフルと震え、覗いた瞳は海と空を溶かして混ぜた色をしていた。年齢は私よりも一回り上だろうか、私は何となく「大人の女の人がいる」と認識したのを覚えている。ほんのりと桜色の唇が僅かに開き、ひゅう、と風のような音を漏らした。


 ところで、人魚姫、という童話を知っているだろうか。かの有名なアンデルセンが執筆した御伽である。下半身が魚、上半身が美しい女性が異国の王子に恋に落ち、その声と引き換えに人間の脚を生やし地上で生きていこうとするお話。結果は知っての通り水の泡である。

 私は確か、浅い水辺に閉じ込められたこの不可思議な生き物に、「あなたは人魚姫ですか」と尋ねた。

 彼女は何度も岩を引っ掻いたのか血塗れた指先をペチャペチャとしゃぶりながら、じっと力なく私を見据えていた。青白い肌が次第に乾燥していく。ささくれ立つ皮膚を嫌がるように己の血を擦り付け何とか乾きを抑えようと奮闘する彼女を不憫に思い、私は持っていたバケツで岩陰の隙間から海水を汲み上げ、何度か上から掛けてやった。

 小学六年生の未発達の腕では、大人ほどの体格の生き物を数十歩先の海面までは連れて行けないから、当時の私にできるせめてもの延命措置であった。満潮まではまだかなりの時がある。次第に息が浅くなっていく生き物に、どうしたものかと悩んでいると、彼女はちょいちょいと血塗れた指先で手招いてきた。


 息を切らしてバケツを満たした海水を上から彼女に被せてから、なぁに、と顔を寄せた時、ぐちゃりと生臭いものが口の中に突っ込まれた。つるりとした食感と強烈な塩辛さに嘔吐くが彼女の両手が私の口元をがっちりと抑え、嚥下まで辛抱強く待たれてしまっては一溜りもない。

 私は謎の生き物から押し付けられた謎の物体を体内に入れてしまったのだ。見れば彼女の胴部が不自然な程にぽっかりと凹んでいる。丁度人のへそ辺り、その中に収められているものといえば─もしもつくりが同じであるならば─内蔵である。

 満足気に細められた青色の瞳。ぱかりと開かれた彼女の口からドロリと零れてきた粘液混じりの青色の玉は、抵抗する間もなく口移しで私の喉を落ちていった。気付けば岩陰にはへたり混んだ私と、水面にプカプカ浮いた萎びた小魚しか残っていない。


 私は多分、あの生き物を構成する何かを食ったのだ。それが何かは今でも分からないから、便宜上「人魚の肉」と呼んではいるが、もっとおぞましいものであることは私の本能が告げている。


 これが唯の妄想や馬鹿げた夢ならば余程マシではあるのだが、その望みは薄いだろう。何故なら私はあれから少し変容した。端的に言えば水が恋しくなった。それまでからっきし興味の無かった癖に習い事に水泳を選び、毎日ペットボトルのミネラルウォーターを常備し、暇さえあれば海や川の動画を一日中眺めている。お風呂に入れば数時間は浸かっていることもざらである。揺れる水面を見ていると落ち着くし、プールの底から太陽を眺めるともっと落ち着く。そして強い日差しに軽度の恐怖を感じるようになった。


 変容したのはこれだけではない。信じ難いことだが、私の意志とは裏腹に、稀に下腹部が拍動することがあった。

 例えば心地の良い潮風に当たった時、海で思いっ切り素潜りをした時、水泳の大会で優勝した時、良い成績をとった時、好きな人に優しくされた時。

 私の感情が高まると、呼応するようにドクンと下腹部が脈打つのだ。常は死んだように音沙汰も無いこの下腹部が、稀にこうして反応を示すのがどうにも恐ろしくて、一度親に内緒で病院にかかったことがある。何故か産婦人科を紹介され、諸々の検査を経て得られた結果は「問題無し」であった。

 納得はしかねたがそれ以上の追求も恐ろしくて、それから私は自身の「変容」と共に生きている。


 ※


 学校にちょっとした噂が流れ始めたのは、体育祭を控えた中学二年生の秋頃であった。


 ──とあるサイトで悩み事を相談すると、本物の占い師が応えてくれるらしい。返事を貰えるのはほんのひと握りだが、それが中々によく当たるそうだ。


 中学生ともなる多感な年頃であるならば、学校の七不思議やら怪談話やらが周期的に流行ることもあるだろう。面白半分に共有されたURLは、シャワーを浴びてベッドで寝転んでいた私の元にも届いた。真っ黒い画面に『相談する』とだけ書かれたボタンが置いてある。はなから信じちゃいなかったが、ちょっとしたネタとして悩み相談をしてみることにした。当然、匿名である。


 ──こんにちは、初めまして。信じてもらえないかもしれませんが、昔、人魚の肉を食べてしまってから身体の様子がおかしいのです。私はこれからどうなりますか。


 文面を読み返して、思わず笑ってしまった。今時、悪戯メールだってもっとましな文を書くに違いない。送信すればチャット形式に文章が固定される。他人の投稿は見ることは出来ないが、自分の投稿は見返せるのが有難い。驚いたのはすぐさま下にコメントが付いたことである。私は濡れた髪の毛を拭く手もおざなりに、食い入るようにスマートフォンの小さな画面を見つめた。


 ──初めまして、相談内容を拝見致しました。具体的にどのような身体の変化が起きましたか。また、その経緯も覚えている範囲で詳しく教えてください。


 私は僅かに怯んだ。もしもこれが占い師でも何でもなくて、悪徳業者や素性の知らない悪趣味な一般人だったらどうしよう。返事を渋る私に、メッセージは続いて投稿された。


 ──あなたは人魚の肉を食べてから、下腹部に何か違和感を感じていませんか。無性に水に対して思い入れを持ったり、海を恋しく感じたりしていませんか。もしも思い至る節が無ければ、そのまま忘れてください。


 私はゴクリと生唾を飲んだ。思い至る節どころか。何かに急かされるように指先を画面に滑らせた。同意に、日々感じている下腹部の違和感、過去の出来事。慌てて書き込んで送信してしまったから、読み返してみると誤字脱字が目立った。しかし、返事は即座に返された。


 ──事情は凡そ把握致しました。相談内容に対する答えですが、あなたは近い内に人魚の卵を産むことになるでしょう。一つ訂正させて頂くと、あなたが食べさせられたのは雌の人魚の子宮と卵子です。状況から見て既に体内に定着してしまっている可能性が高いと考えられます。結論から言うと、身体的には影響がありません。周期的に卵を産むようになるだけです。


 は? と、思わず声が出た。何もかもが意味不明であった。知らずと下腹部を撫でていた手に気づき慌てて髪の毛にタオルを押し付ける。卵を産むとは、何事か。人間は卵を産まない。さすがに分かる。卵を産むのは身体的には影響がないと言えるのだろうか。


 ──どうすれば卵を産まなくて良くなりますか。定着した? 人魚の子宮とか何とかはどうにもならないのですか。なぜあの人魚は私にそんなことをしたのですか。


 混乱のままに送信すれば、暫くの間が相手から再び返信が帰ってくる。


 ──詳しい話はこちらでお聞き致します。ご都合が宜しい日にいらしてください。尚、機密性の保持の為に合言葉を定めさせていただきます。添付した座標をこちらの地図アプリに入力してください。扉を入って頂き、店員に『すずらんの蜜蝋』をご注文ください。本部にご案内致します。


 ※


 詐欺かもしれないし、悪質な出合い系サイトかもしれない。しかし私は導かれるように指定された場所まで来てしまった。電車を乗り継ぎ1時間。果たしてそこは、一見ごく普通の喫茶店であった。

 Sonnenblume、と洒落た文字が描かれた看板に英国を思わせるレンガ造りの店構え、しかし花壇には象を模した如雨露が無造作に置かれている。緊張しながら扉を開くと、何故か金魚の描かれた風鈴がチリンと音を立てる。店内はアンティーク調のテーブルに椅子がきちんと並んでいるのに、北欧のようなキルト地のクッションが置かれており、窓際にはコケシとマトリョーシカが並んでいる。何もかもがあべこべの、多国籍を一緒くたにしたとでも言えば良いのだろうか、不可思議な空間が広がっていた。


「ようこそいらっしゃいました。メニューをどうぞ」


 柔和な笑みを浮かべた男性が、私をそっと席に誘うと、自然な動作で冊子を渡してきた。カフェラテのような髪の毛の色に、黒のベスト、品の良いループ・タイに色素の薄い瞳。まるでどこかの国の執事のようだ。日本人離れした容姿の男性は「私個人としましてはダージリンティーがお勧めですよ」と、気さくに話しかけてきた。

 ふぁあ、と気の抜けた欠伸を漏らすのはカウンターでカップを磨くもう1人の男性である。ふわふわのパーマのかかった茶髪にいくつか付いた耳元のピアスは一見その辺にいる若者然としているが、腰に巻かれた黒いエプロンが彼を店員たらしめていた。私はぎゅっと両手でスマートフォンを握り締め、小さな声で『すずらんの蜜蝋』をお願いします、と囁いた。怪訝な顔をされればすぐにお暇する気であったが、私の予想に反して彼等はなんてことの無いように頷いた。


「はい。かしこまりました。ではこちらへどうぞ」


 先程ダージリンティーを勧めてくれた店員が、店の奥まで手招きをする。硝子でできた簾を潜り、今までとは比べ物にならない位の重厚な造りの扉をノックする。


「二階堂さん、お客さんがいらっしゃいましたよ」


 すぐさまガチャリと鍵の開く音。ギギギ、と古びた音を立てて開かれた扉の向こう側には、部屋の真ん中に置かれた社長机と革張りの椅子、そして椅子に腰掛け何やら書類を書き込んでいた中年の男性がちらりと視線を持ってきた。


「あぁ、例の人魚の奴ね。義純、水を持ってきてあげて。」


 まず目に付いたのは老人のような白髪。秀麗眉目、人間離れした整った容姿に低くて落ち着いた声。猛禽類のような金色の瞳が緩く細まった。

 指示をされた義純と呼ばれた男性はテキパキと水の並々注がれたグラスをお盆に乗せて持ってきた。眼鏡越しの目が警戒するようにこちらを射抜いた。視線が交わる一瞬だけ、身体が燃え上がるような幻覚を見た。

 促されるままに手前の長椅子に座らされると、二階堂と呼ばれた白髪の男が机を挟んで目の前に腰掛ける。無表情だがやけに威圧感を感じる。見透かすような瞳の色に、知らずと喉がゴクリと鳴った。


「話は凡そ聞いているよ。人魚の子宮と卵子を食わされたそうだね。運が良かったね、普通ならその時点で死んでる。」


 えっ、と身を固くさせた私をフォローするように、ここまで私を案内をしてくれた物腰柔らかな店員が慌てて「二階堂さん!」と諌めるような声を上げた。は? なんだよ、本当のことでしょ、不服気な抗議は無言で聞き流されていた。

 私は奥歯を食いしばり、祈る気持ちで「人魚の卵なんて産みたくない、どうにか出来ないか」と主張した。

 二階堂は顎に指先を添わせ、「んん」と唸った。まるで私が無理難題を押し付けているかのような態度であった。


「しかしね、もうそれはお前の身体の一部になってるからね。どうにかするったって、臓器摘出と何ら変わりは無いが、いいのかい?」


 二階堂の後に続くように眼鏡の男性が「定着ってことは、あんたの臓器に溶け込んでるってことだ。ほい、これ茶菓子な」と皿に数個のチョコレートを乗せたのを差し出してきた。

 私は尚も言い募った。


「そうは言ってもね。ぶっちゃけその人魚が何を思ってお前にそんなことをしたのか俺にはさっぱり分からんよ。あいつらの思考は意味不明だからね。それに、産むといっても痛みは無いよ。人間の排泄と何ら変わらない。人魚は無精卵だから、実際に生まれることもないだろうしね。」


 人魚が無精卵。なぜそんなことをこの男は知っているんだろうか。排泄と変わらないということは肛門から産むんだろうか。どうにもならないのなら何故わざわざこんな所に私を呼び出したのだろうか。私の疑問は尽きない。

 しかし、定着してしまったものはどうにもならないということだけは理解した。私はとりあえず質問を変えて、なぜ自分は此処まで呼び出されたのかと聞いた。二階堂はそれまでの無表情を一変させ、悪戯を企むような無邪気な笑みを浮かべた。それまでの秀麗な容姿が一気に子どもじみたものになる。よくぞ聞いてくれた、と言わんばかりの反応に、私は少しばかり嫌な予感がした。


「お前の産んだ人魚の無精卵、こちらで買い取らせて貰いたい。」


 ドンッ、と漫画ならそんな効果音がついただろうか。その勢いとは裏腹に、私は思い切り眉を潜めた。帰ろうか、と腰を浮かしかけたのを諌めたのは、先程二階堂の傍に控えていた眼鏡の男性である。「ちょい待て、まだ二階堂さんの話は終わってねぇぞ。」


「ふむ、順番が逆だったね。素性も分からない奴らにそんなことを言われても困るだろう。」


 二階堂は両手を胸の前に組み、テーブルを挟んで身体を乗り出してきた。


「俺の名前は二階堂 尊。世の中のありとあらゆる不可思議なものを専門とした収集家だよ。ちなみにこの真面目眼鏡馬鹿は三条、そこの執事もどきが志摩。他にも色々メンバーは居るが、全て俺の大切なコレクション兼友人。」


 どこか自慢をするかのように紹介をしてから、二階堂は「他に何か質問はあるかね」と尋ねてきた。

 もうここまでくれば、脳内が疑問で埋め尽くされるのは慣れたものである。そもそも人魚が存在する世界なのだ。意味不明な現象に意味不明な男達が存在するのも不思議じゃないだろう。


 私は諸々諦めて、「卵はいくらで買い取ってもらえますか」と聞いてみた。そして提示された金額に目を剥いた。収集家は、どうやら金持ちの道楽らしい。破格の金額に一も二もなく了承しようとする前に、二階堂は人差し指をピッと立てた。ただし、条件がある、と彼は続けた。


「人魚の卵は非常に脆い。奴らは深海の限られた領域でしか産まないから、卵を死なせない為に、その環境に少しでも近付ける必要がある。そうだろう? 志摩。」


 話を振られた先程の店員が言葉を続けた。「そうですね。それに、母体の精神に影響を受けやすい。長期の保存が効く位丈夫で色艶形の良い完璧な卵を産むためには、心身ともに徹底的な管理が必要になるでしょうね。」


 二階堂は深く頷いた。「よって、お前には此処で産んでもらう。それを込みでの金額だよ。」


 私は笑い飛ばしそうになった。そんな馬鹿な。ここで産むなんて。助産所でもあるまいし。大笑いをするかと思ったが、ひひ、と引き攣った笑いになってしまったのは、あまりに彼等の表情が真剣であったからだ。私は無意識に下腹部を摩って身を仰け反らせた。注がれる3対の視線がチクチクと身体を刺すようだ。


 私はグッと息を飲み、「そんなにしてまで人魚の卵を収集したいんですか」と二階堂に尋ねた。彼はすぐさま頷いた。


「これは収集家としての頼みでは無い。その卵を使って、俺の友人を救いたいんだ。」


 ※


 夏休みである。終業式が終わってすぐに、電車を乗り継ぎ1時間、私はあの喫茶店の扉を叩いた。以前から知らされていた計画をついに実行する時が来てしまったのだ。つまり、夏休みを使っての完璧な人魚の卵出産計画である。

 今日までに二階堂を筆頭としたメンバーら─喫茶店の従業員たち─が特殊な情報網を使って人魚の生態について徹底的に調べあげたというのだから驚きである。


 彼等が救いたい友人とは、一体誰のことなのだろうか。


 終ぞ知らぬまま、奥の部屋へと通されてしまった。そこは水の張られたバスルームであった。私は怯む気持ちを抑えて、制服を脱いでいく。下に着ていたスクール水着が外気に晒され、じっとりとした羞恥心が身を包む。当然ながらバスルームには私しか居ない。しかし、外には人の気配がする。すぐに卵を特殊な改造を施した保温機に収められるよう準備をしているのだ。耳に取り付けたインカムから、朗らかな少年の声が聞こえてくる。


「どう? 準備できた?」


 五十君、と名乗った背の低い男の子は比較的歳が近くて、あのサイトでのチャットも彼が担当していたらしいと、あとになって聞いた。彼も彼で、二階堂のお眼鏡に叶い傍に置かれている一人だそうだ。


 ちゃぷん、と浸かった風呂の温度は人肌程度であった。常ならば水に浸かると気分が高揚し、下腹部の拍動も激しくなるのだが、今日は一向にその感覚が来ない。

 インカム越しに五十君にそう伝えると、「そっかぁ。まぁ、こんな状況だし緊張しちゃうよね」とのんびりとした返答が耳元を擽る。結局、その日は卵を産むことが出来なかった。



 翌日はバスタブに海藻がこれでもかと敷き詰められていた。僅かに下腹部が疼くが、これもすぐに収まってしまう。



 電気を暗くしてみる、室温を変えてみる、湿度を調節する、海の映像を壁に投影してみる。試せば試す程に失敗の数が増えた。

 さすがに申し訳なくなり萎縮する私に、そっと話し掛けてくれたのは志摩─カフェラテ色の髪をした黒のベストの店員─であった。


「随分と無茶をさせてしまっていることは重々承知しています。ごめんね、毎日ここに通うのは疲れるでしょう。」


 こうして志摩と2、3言話すようになれば、その他の従業員ともポツポツと会話をすることも増えて、やがて喫茶店で1杯飲んでから帰宅するようになった。当初に比べて親しくなると、私もどうにか彼等のために協力したいという気概になってきた。それまでは受け身であったが、積極的に下腹部の拍動について情報提供を行うようになった。気分が高揚する時、例えば好きなことをしたり、楽しかったり清々しかったり、ドキドキしたり、そういう時に下腹部が疼く。私がそう伝えると、二階堂は何かを思い付いたようであった。


 ※


 よく良く考えれば卵を産むわけだから、子宮に内分泌系から刺激を送れば良い。そして気分の高揚、精神的な充実感、必要なものを一気に揃えられ尚且つこの建物内で事を済ませることが出来る、つまりは恋愛感情を持てば良い。


 さて、どいつが好みかな。二階堂は自信満々に従業員らを横に並ばせた。私は全身を硬直させて目を剥いた。訳が分からない。その理論もそうだが、その中から選ばせようとする意味も分からなかった。絶句する私に、二階堂は不思議だと言わんばかりに首を傾げた。

 こんなに優秀で良い奴らなんだよ、尚且つ見目も悪くない、絶対好きになる筈だ、そんなことを彼の見事な金眼は雄弁に語っていた。薄々感づいてはいたが、二階堂の思考は些か浮世離れしている。果たして恋とはそういうものだろうか。しかし私はそれを主張するほどの経験も無ければ、良い代替案も思いつかなかった。


 ※


 結局、私は誰も選ぶことが出来なかった。そもそも選ぶ程の立場にいない。様々なプレッシャーに耐えきれず、遂にその日、自宅のトイレで卵が生まれてしまった。ぬらりと粘液を纏って痛みも感じずに膣口から出てきたプヨプヨした物体は、トイレの排水に溶けるように消えた。どこからどう見てもきちんと生まれたとは言い難い結果であった。たぶん、今までも気付かぬ内に何度かそういうことはあったのだろう。

 私はえも言えぬ罪悪感から、泣きながら二階堂に連絡を入れて謝罪した。そうか、と彼は事務的に返答をすると、すぐに励ましの言葉を掛けた。聞けば、人魚の子宮はきっかけさえあれば何度でも身篭ることが出来るらしい。


 お前のせいじゃないよ、大丈夫、無理をさせたね、泣かなくても良い。

静かに紡がれるぎこちないがどこかあやす様な声は、私に安心感を齎した。


 ※


 少し休もうか、と二階堂は従業員らを連れて喫茶店から私を連れ出した。静かな運転で船をこいていた私は気付くと眼前に海が広がっていて、思わず歓声を上げて私服のまま飛び込んだ。どこまでも深い青色にたゆたっていると時間を忘れてしまう。

 夏の匂いと入道雲、光る水面。久しぶりに息が出来た心地がした。同じように海に飛び込んだ従業員らが、浜辺で三条や志摩と談笑する二階堂に手を振る。

 ふ、と二階堂が薄く微笑んだ。なんて綺麗に笑う人なんだろう。どくん、と新たな拍動を下腹部に感じる。


 ※


 自然と、喫茶店に通うのが楽しみの一つになっていた。従業員の名前もすっかり覚えて談笑する間柄になったし、扉の奥に行けば二階堂に会える。きっかけは何であれ、一回りも年の離れたお兄さん達に構われるのは新鮮で楽しいと感じた。この夏休みが永遠に続けば良いと思う程に、私にとって彼等は大きな存在になっていた。


 ふと、二階堂の書斎で古い本を見つけた。本棚から落ちたのか、埃ひとつないカーペットの上に無造作に置かれた革張りの分厚い本。好奇心に負けて開いてみれば、何度も開いて跡がついたのかすぐに2つに割れた。間に挟まっていたメモ用紙がパラリと落ちる。


 ──人魚の卵


 斜線を敷かれた単語がすぐさま飛び込んで来た。


 ──口にすれば死者を生き返らせることが出来ると言われている。特定の時期、特定の海域にしか人魚の卵は現れない。


 メモ用紙にはひたすら細かく温度や水圧、その他諸々の条件が書き込まれている。古びた地図には赤いバツ印が大量に記され、二階堂がそこら中を虱潰しにしたことが示唆された。一層目を引いた写真には、二階堂を中心にこの喫茶店で働くメンバーらがそのまま写っている。仲睦まじい様子に、ふと違和感を覚えた。一人足りない。端に映る、どこか影のある猫背気味の男性。前髪が長くて目元がすっかり隠れてしまっている。今まで1度も会ったことが無かった。


 私はそこで何となく理解してしまった。きっとこの人だ。


 二階堂とその仲間たちが、どうしても救いたい友人とは、彼のことに違いない。そっと本を閉じて本棚に戻す。何故か堪らなく疎外感を覚えた。


 ※


 手を繋いでもらえないか、と勇気を振り絞って言ってみたのをこれ程に後悔したことは無い。


 あの重苦しい罪悪感に包まれる風呂場で、スクール水着でこうして耳まで真っ赤にした私は、まさにピエロそのものであった。言われた本人である二階堂は「ん、いいよ」とあっさり片手を差し出した。

 そうした方が卵を産みやすいのなら当然だ、と言わんばかりの様子になぜか酷く傷付いた。人を卵産み機か何かだと思ってるのだろうか。それとも、生き返らせたい友人の為なら、その辺の小娘の手を握る事くらい容易なのだろうか。

こうした思考に陥っている時点で、私は薄々自分の気持ちを悟っていた。



 ぴちゃん、ぴちゃん、と水滴の音だけが木霊する広い風呂場に、じっと無言でしゃがんでいる白髪の男性と、同じく無言でバスタブに沈んでいる中学生。見れば見る程異様な光景だ。


「どうだ。産まれそうかね」


 二階堂はじっとこちらを見つめてくる。そんな気は全くしなかったのに、至近距離でその猛禽類のような瞳を見た途端に、ドクンと大きく下腹部が拍動した。途端に期待の色を浮かばせる二階堂が小癪でならない。


 卵ばっかり。そんなに卵が欲しいなら貴方が代わりに産めば良いだろうに。


 もしも今、キスを強請ったら二階堂はどんな反応をするだろうか。流石に無理だと断られるだろうか。それとも生き返らせたい友人の為に、全部呑み込んでやってのけてしまうのだろうか。もしかして手馴れたようにさっと済まされてしまうんだろうか。

 バスルームの明るい光に照らされた白髪が透けて見える。気難しそうな顔は、よくよく見ると随分童顔なことに最近気付いた。ほのかに香る白檀のような匂いは彼の香水だろうか。


 私はもう片方の掌で、少しかさついた二階堂の指先をなぞった。爪の先まで丁寧に整えられている。


 スクール水着じゃなくて、ビキニとかだったら良かったのに。他人じゃなくて、身内だったら良かったのに。ドクンドクンと拍動する下腹部が、ヌルヌルと粘液を分泌し始めた。

 う、と小さく唸ると二階堂が「大丈夫?」とこちらを労りつつ手早く透明な容器を渡してくる。


 あぁもう、悔しい。貴方がこんなにも冷静なことが悔しくて堪らない。


 ※


 ぼんやりとした思考の中でシャワーを浴びて、予め用意して置いた衣服に着替えてバスルームから出てみれば、透明な水槽に浮かぶ小さな青色の卵に群がる男達を見た。


 うわあ、ひゃあ、と気の抜けたような歓声を上げていた従業員らは、私に気付くと「よくやった!」「頑張ったな!」と満開の笑みを浮かべた。

 私はそっと泣きたくなるのを抑えて、何とか笑い返した。これで例の友人が生き返れば、私はついにお役御免である。


 帰りの支度をする私に、三条が「そんなに急がないで、もうちょい休んでけば?」と声を掛けてくる。


「良かったら紅茶をいれましょうか?」


 志摩の優しい提案にも首を振った。これ以上の優しさはいらない。なぜなら次回を期待してしまうから。逃げるように家に帰ってから、二階堂に挨拶をせずに出てきてしまったと思い出してまた泣いた。


 ※


 喫茶店に通うのを止めてしまえば、胸中の平穏も随分と保たれた。下腹部もすっかり落ち着いている。


 私は久しぶりに再び海を見に、バスに揺られて浜辺に降り立った。夏休みも残り数日になっている。防波堤に腰掛けて両足を海面にくゆらせれば、どうしようもない安心感に包まれた。


「ねぇ、隣いい?」


 答える間もなくよっこいせ、と隣に座ってきた男性に、なぜか強い既視感を覚えた。どこかで会ったことがあっただろうか、と尋ねれば、男性は分厚い前髪の隙間から覗く、くっきりと隈のできた瞳をパチリと瞬かせる。暫く見つめあっていたら、くつくつとおかしそうに肩を震わせた。


「どうだろうなぁ。覚えのある女の子が多すぎて、僕自身よく分かんないや」


 男性はへらへらと笑い、猫背気味の背をぐっと伸ばした。


「でも、君のことはよーく覚えたよ。またどこかで会おうね。人魚のお嬢さん。」


 来た時と同じような気軽さで、男はまたどこかに歩いていってしまった。頭に靄がかかったみたいにはっきりしない。あれ、今何か引っかかることを言われたような。

どこからか白檀の香りがする。



 ぴちゃん。波に紛れて水飛沫が煌めく。死に際に私に子宮と卵子を託したあの人魚は、一体何が目的だったのだろうか。人間の小娘を使って自身の無精卵を産ませることで、何のメリットがあったのだろうか。ただの気まぐれだったのだろうか。それとも、1度で良いから恋をして、自分の卵を生みたかったのだろうか。干からびた小魚になる前に、自身の夢をたまたまそこに居合わせた人間に託したのだろうか。

水槽にゆらゆら揺れる青色の卵。まるで人魚の瞳の色にそっくりだった。


「お前、最近来ないと思ったらそんな所に居たのか。暇なら店に来おいで。頑張ったご褒美に、一杯奢ってあげよう。」


 背後から掛けられた二階堂の声に、下腹部がキュッと反応した。


 あぁ、だめだ。卵1つじゃ抑えきれない。どうしたって無精卵のままなのに。そんな思いとは裏腹に、勝手に足が動いてしまうものだから仕様がない。




──これが全ての始まりの話。

それから私は従業員の彼らと共に、二階堂 尊の収集癖と好奇心に付き合わされて色々な事件に首を突っ込むことになるのだが、それはまたの機会に。



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