『鍛冶浦 緑彩とは』
コンコン……。
私は扉が開く直前、手に持っているものを隠した。
ベッドの横にある荷物置き、木製とガラスで組み合わさっていて、少し洒落た装飾棚の上から二段目の引き出し部分になるべく音を立てないようにしまう。
「ど、どうぞー」
慌てていることを悟らせまいと、少々上ずった声が部屋の中に響き、一呼吸の後に少し重めの扉がゆっくりと開く……はずだった。
ガタガタと音を立てるが、一向に扉は開かない。
おかしいなと思い、部屋の内側から扉の施錠確認のランプが緑色に光っており、開錠中であることを示していた。
「な~ん〜で~、鍵は掛かってないはずじゃ、あっ! 」
どうやら扉の主は、声色からして女性のようで、もしかしたらキーの高い男性かもしれないけれど、どちらにしろ、この声からして私の知る人物ではないようだった。
冷静な分析とは裏腹に、案の定扉は勢いよく音を立てて開いた。その筈だったのだが、今しがた開けたであろう声の主はいない。
代わりに「きゃあ‼ 」と言う悲鳴が聞こえた。
続いて賑やかにプラスチック質の軽音が幾つか地面に散らばる音が聞こえた。
「……あ、あの〜、大丈夫ですか」
思わずベッドの上から廊下に向かって声をかけてしまう。
「ご、ごめんなさ~い ちょ、ちょっとだけ待ってて〜」
何やら会う前から中々部屋に入ってこない女性に対し、静穏な空気が崩れていく前触れのような気がして、徐々に憂鬱になってしまいそうになっていた。
「お待たせしてごめんなさい。あなたは鍛冶浦 緑彩さんで間違いない? 」
そこには少し申し訳なさそうな表情をした、身長160cm程で、桔梗色のオフショルダーに、肘先と膝から下は総レースのワンピース、腰の部分で少し絞った同色のリボンがあしらわれていた。上品なグラデーションボブヘアーと、整った目鼻立ちに、やや童顔気味であるものの、垂れ目なのが相まって、一目で微笑むような優しい笑顔が似合いそうだと、率直に感じた。
「……あ、はい、私が鍛冶浦緑彩です」
私は思わず見惚れながら、やや呆けた表情のまま片言の肯定をした。
突然の来客者は、私のベッドの横まで歩いてきて、座っても?と優しくジェスチャーをし、私は少しドキドキしながら、「どうぞ」と一礼して席についてもらった。
「具合のほうはどうかしら、見た限りだと外見は特に問題がなさそうだけれど」
私が初対面だと思う人には億劫だが、毎回同じ質問をしなければならない。
「はい……、身体の方は問題ないと思いま……、す。すいません、実は今私その、記憶喪失なんだそうです。……あなたについての、記憶が無いんです。家族の記憶も、自分のことも。目が覚めたのも一週間前ですし……」
起きたら、自分が分からない。
起きたら、今ここが何処なのか分からい。
起きたら、目の前で安堵のため息をして喜んでくれている人が分からない。
起きたら、何故分からないと思うのかは分かる、思い出せなかったからだ。
この人は誰だろう、こんな綺麗な人が知り合いにいて素直に嬉しい反面、彼女の事を覚えていないというのは多少なりとも罪悪感に拍車をかけてしまう。
「大丈夫、気にしないでいいわ、それよりもモンスターは狩れたかしら」
女性はクスクスと微笑しながら、自分の口元を手の甲で隠し、放った言葉は私から余裕を奪い、動揺を与えた。
「――な、 どうしてそれを⁉ 」
彼女は見てきたかのように、先程私が隠したゲーム端末の場所を見ながら的確に指摘した。
「ここの部屋は安全上モニタリングされていて、それで四日前からあなたが弟君から渡されたゲームをやっているところが映し出されていたから、ね、それにそのゲーム私も好きでよくやっているのよ」
目の前の女性は、コロコロと、それでいて手の甲で口を少し隠す姿が可愛らしさの中に品を感じさせる動作から、視線を変えて部屋の天井の角に設置されている、お洒落な装飾が彫られた淡く光る八面体状のオブジェクトの方を見ながら言った。
モニタリングとは、つまり観察されていたということで、一部始終誰かに見られていた事になる。私は全速力で目が覚めてからこの一週間の行動を思い返していた。
「安心して、モニタリングをしていたけれど、スタッフは全て女性だから、……それと今現在あなたが覚えていることを教えてほしいのだけれどいいかしら」、
顔が恥ずかしさで赤くなりながらも、女性の途中からの真剣な眼差しに、私は慌てふためく自分が場違いなのだと感じ、瞬時に冷静になることができた。
「覚えていることですか……、小さい時に友達と遊んだ公園、顔は思い出せませんが、恐らく母と一緒に作った料理など、断片的な記憶なら残っています」
楽しい思い出が残っている事は私にとって嬉しい事なのだが、記憶に残っている人物の顔が全く持って誰一人、黒くモヤが掛かっている状態だった。
私は不安な顔を見せまいと、はたまた、目の前の不安に対して安心したかったからなのか、気付いたら両手で顔を隠すように俯いていた。
「フフ、一つ安心していいわ」
私は思わず、顔の前から手をどけ、「え、何にですか? 」、っと思わず声に出そうとすると
「私とあなたが会話するのは、今日が初めよ」
彼女は可愛らしく小首を傾げて、ニッコリとこちらに微笑んでくれた。
しかし、私は彼女のように笑えなかった。
「そう、だったんですか……、てっきり私……また、知っている人なんじゃないかって……」
自分でも分かる。驚きだけでなく悲哀に満ちた雰囲気を発していたことに。
「ご、ごめんなさい。私の方こそ自分だけあなたの事を知っていたものだから名乗るのを失念していたわ、先に言っとけば良かったわね」
彼女は思いついたかのような掛け声の後に、嫣然たる表情で綺麗な両手をパチンと胸の前で合わせると
「そうだ! なら改めて自己紹介するわね。私の名前は『滝渡 叶恵》』 苗字は気に入っているけど、あまり可愛くないから気軽に『叶恵さん』、なんて呼んでね、こう見えて一応校長先生をやっているわ、ほら」
そういうと彼女は自分の腕輪型デバイスを触り、反対の手を使い空中に映し出されたモニターを開いた。「ね、本当でしょ」と、そこには、
『国私立高等大学教育 立川キャンパス 学長』
本当にそう書かれており、右下に彼女自身が書いたであろうサインの上から、直ぐには解読できなさそうな角印が押された画像を表示させた。
因みにこちらが見やすいよう角度を変えたために、一緒に見る形になったので、写真の中の人物が真横にいるのを確認する為に二度ほど見比べていると、
「これ8年前のなんだけど、改めて見ると恥ずかしいわね~」
自分から見せてきたにも関わらず、思いのほか彼女は気恥ずかしそうに空いた右手で頬に手を当てた。
ざっくりとした説明だったので、画像は私に更なる疑問を複数生じさせたが、大きな質問として二つある。ただ、写真の人物と今現在真横にいる女性にさして違う箇所が分からないと思ったので、そちらの方に強く驚いてしまい、「昔から綺麗だったんですね」と素直に言うと、彼女は「良かったら後で食べて」と自分の顔と同じく、うっすらピンク色の飴玉をくれた。
丁寧な自己紹介を受けたものの、こちらは自分の事にも関わらず、手元に資料が無いためお返しをすることがやや残念だと思たので、新たに気になっている質問をした。
「それで、えっと叶恵さんはどうして私を知っていらしたのですか? それに今日いらっしゃった要件は記憶力のチェックをするためですか? 」
「あなたが事故に巻き込まれたのはご家族から聞いていると思うけれど、偶然あなたが運ばれた病院がこの病院だったの。そして、偶々私はこの病院にいて、あなたの手術に立ち会うことになったから、今日は経過観察に寄ったって所かしら」
聞けば聞くほど、彼女が質問の種を私に向かって空中にバラ撒かれていくような光景が頭の中で描けてしまった。
「はい、家族からは、親戚の家に遊びに行き、そこで交通事故に巻き込まれてしまったと聞いています。ただ叶恵さんがなぜ手術に立ち会っていたのかが分かりません」
数年前だったら、僅かに医大と呼ばれる、医学についての専門大学があり、そこの附属病院に関わっていれば、校長先生が手術に立ち会っても何ら不思議ではないだろう……、ただ
「叶恵さんが、以前まで存在していた医大に属していたのなら、校長先生として立ち会うこともあり得たと思います。けれど、今では多岐にわたる学校が統合化されていて、特に高校と大学の統一化により、授業用動画ソフトを変えれば授業が成立するほど、教育が作業化されています。ただし、従来の教育よりも自主選択制に比重がかけられているので、6年間の偶数年に行われる『自主選択インターン』があるので、教育が一新してからは、病院のような医療関係先であろうと、条件付き開放選択可能式なインターン先として登録することが可能となっています。この場合、必要科目単位さえ取得しておけば、選択可能になるはずですので、叶恵さんがお世話になるインターン先に偶々挨拶に来ていた。ということであれば、校長先生が病院にいて、尚且つ見学として手術に立ち会っていた、ということなら辻褄は合うと思います」
静かに私の話しを聞き入れていた彼女は、我が子を見守る母親のように温かい眼差しでこちらを見ながら賛辞を述べた。
「鍛冶浦さん、いえ、緑彩ちゃん、やはりあなたは優秀だと私は思います」
名推理をしたとは思わないけれど、思わず嬉しさがこみ上げてきてしまい、にやける自分の顔を抑え込むのに唇にキュッと力を入れる。
「でも、それでも、あと一つ分からいことがあります」
慈母のような笑みから、一転きょとんとした顔になる。
「あら何かしら~、緑彩ちゃん可愛いから、何でも答えたくなっちゃうわ」
面と向かって可愛いと言われると、気恥ずかしい気持ちになるが、今はそれよりも自分の中の好奇心が勝ってしまう。
「どうして、私はモニタリングされていて、叶恵さんは未だに生徒では無い『中学3年の私に』会いに来たのですか? 」