エクレア
「奥様、お外はお身体に障りますよ」
「いいのよテレーシア、これで」
「また、階段で足を滑らせて、尻餅をつくつもりですか」
テレーシアとイザベラのその様子を、見ていた者が居た。
イザベラが住んでいる家の反対側、お向かいの住民である。
「やっぱりあの人変だよ」
「どうしてそう思うんだ?」
「だって毎日外に行って何かしてるんだぜ」
「あれは絶対死体を隠してるんだよ」
「アホか」
そう言うと、弟の頭を叩いた。
「あそこの家は、左官様の家なんだぞ、馬鹿みたいな事言ってると、戦争に行かされるぞ」
弟は雨が降る中、付き人のメイドが、白い髪の女を、家に入れる様子を、ずっと見ていた。
いい加減うんざりしてきたので、兄はカーテンを閉めたのだった。
アデリーナは、苦しんでいた。
自分が出したい顔を出さずに、生活している事を、毎日感情を出さずに、作り笑いを浮かべながら、この人間の世話をしている。
今までやってきた事に比べれば、どおってことはないのだ。
だが、それが、彼女を苦しめていた。
突然別人に成り済まし、命を削りながら戦って、いたのが、今度はじっとして、ただメイドをしているだけで、いいのだから。
ちぐはぐな世界だった。
遠くを見つめている時間が多くなり、ため息をつくことが、多くなった。
この閉塞感の中、ただ時間を潰すだけの、生活が続くのだ。
この服を脱いであのドアから、出ていけば、自由になれるのだろうか?
どこかの国の大使館へ逃げ込めば、壊れずに済むのだろうか?
無理だ、そんな事出来る筈がない。
例え逃げても、別の工作員が、私を死ぬまで追いかけてくる。
あんな国から、出られたのに、私は何も解放されていなかったのだ。
上司も同僚も、皆死んで仕舞え!
皆死んでくれ!
私は十分苦しんでいる!!!
誰か助けて!!!苦しい!死んでもいいから助けて!
家を飛び出すと、近く川へ飛び込んだ。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ」
水の中で、叫ぶ、誰にも聞かれたくないから。
誰にも、分からない分かって欲しくない思いを、水の中で、悲鳴を上げ叫ぶのだ。
「熱があるようですね」
私は今、ベッドに横たわり、介護する筈の人間に、介護されていた。
「テレーシアだったかな?お仕事を頑張るのはいいけど、あまり無理をしては、いけないよ」
「はい……分かりました………お医者様」
諜報員として、ここに来たのに、なんて情けない。
アデリーナは、あまりの不甲斐なさに、死にたくなった。
「会社には、言わないでおくわね」
「毎日ご苦労様」
そう言うとイザベラは、部屋を後にする。
それじゃ駄目なんだと、脳が警笛を鳴らす、だが奮闘虚しく、眠ってしまった。
とある記憶にて
「あの呪われた民族を殺すのだ!」
町の全員が、農具や狩猟に使う銃で、武装している。
たった3週間の内に、100万人が、虐殺されたのだ。
そしてそれは、刃物や鈍器といった原始的な物から、ライフル手榴弾等の近代兵器によって行われたのだ。
多くの人が、苦しみながら死んだ。
自分から、金を払って殺してくれと、懇願する者もいれば、強姦され、焚き火の燃料に加工された。
追い詰められた私が、最後に駆け寄ったのが、たまたま近くにいた、東洋の駆逐艦だった。
幼い私を、必死に引き揚げてくれた。
確か、あの艦は、なんと言っただろうか。




