第86話「猫神とキビヤック」
修達がTRPGを楽しんだ数日後、日曜日であり学校を休んでいた修と千祝は、自主練習を終えた後、鬼越家の庭に来ていた。
初夏の日差しが燦々と降り注ぎ、むしむしとした空気が辺りを覆っている。
本来ならば休日は、千祝の父親にして修の武芸の師匠である太刀花則武が、稽古をつけてくれることになっている。
最近は太刀花則武が防衛隊の特殊部隊との特別訓練のため、長期間アメリカに行っていたために自主練習しか出来なかったが、やっと訓練が終了したため帰ってきている。
今日、二人の稽古を見てくれなかったのは理由がある。修の叔父である鬼越鷹次が昨晩帰宅したのだ。
鬼越鷹次はカメラマンを仕事にしており、普段は娘の八重を残して外国を飛び回っている。そのため、鬼越家には普段、修とその従妹の八重と飼い猫のダイキチしかいない。もっとも、毎日隣の太刀花家と食事を共にしているので寂しい思いなどは修はしていない。まだ中学生の八重がどう考えているのかは不明であるのだが。
そして、修と千祝が何をしているのかというと、二人は丸太を手にしている。また、近くの地面にはエンピやカケヤが置かれており、今にも土木作業が始まりそうな雰囲気だ。
「この辺でいいかしら? 立木の場所は。それにしてもどうやってこの丸太を手に入れたの?」
「通販だよ。今時何でも売っているんだな」
先日、新たなる必殺技の訓練をしている際、完成と引き換えに木刀を打ち込む稽古に使用する立木を破壊してしまったのだ。そのため、新しい立木を設置しようとしているのである。
二人で協力してエンピで穴を掘り、出来た穴に丸太をカケヤで打ち込み、更に土を叩いて固めた。少しの作業で立木が1本完成する。
「結構簡単に出来たな。さて、もう1本作ってしまおうぜ」
「あら? ダイキチがこっちに来るわね」
太刀花家に飼われている、というか住み着いている猫のダイキチが、二人の方にトコトコと近づいて来た。ダイキチはサバトラ柄のハチワレのデブ猫であり、可愛い外見なのだがあまり野性味は感じさせない。
「どうしたんだろう?」
「そういえば、今日の朝ごはんあげてなかったかも」
ダイキチの事情を考察する二人であったが、その二人の視界から急にダイキチがその姿を消した。
「!?」
「あ。頭だけ出ているわ」
その大きな体を消したダイキチであったが、千祝の言う通り頭だけが地表に出ている。よくよく見ると、ダイキチの体は地面に空いた穴に埋まってしまったようだ。
「にゃ~」
「まるで犬神だな」
「そう? ダイキチのは猫だから猫神じゃないかしら」
悲し気な鳴き声をあげるダイキチを尻目に、二人は勝手な事を言っている。
犬神とは、犬を頭だけ残して生き埋めにしてその前に餌を置き、餓死する瞬間にその首を切り落とすという方法による呪術であり、その犬の首によって願いをかなえることが出来るという。
二人は外つ者という怪物との戦いを経験したため、最近は妖怪や魔術に関する知識を収集している。犬神はその時得た知識である。
「ダイキチは外つ者ではないよ」
二人の後ろから突如声がかけられた。声の主は鬼越八重であった。修の従妹であり、ダイキチが最もなついている人物だ。
「助けてあげて」
「ああ。分かった」
表情を変えず、助けを求める八重に対して承諾の言葉を言いながら、修はダイキチに近づいて地面から引っこ抜いた。
「うぐっ? なんだこの匂い!」
「むがっ! ウゲフッ!」
ダイキチの嵌ってた穴から、強烈な臭気が漂ってきた。その酷さたるや臭いというよりも最早痛いという表現が正確かもしれない。臭いと評判の食べ物であるくさややシュールストレミングに迫る威力がありそうだ。
二人は悲鳴を上げてのたうち回る。片方はヒロインらしくない悲鳴を発しているが、そのような事を気にする余裕などない。
「#$%&’?(そういえばここにはアレが埋めてなかったっけ?)
「&$+$”@!(そういえばキビヤックを埋めてたわね)」
意味不明の言語で二人は会話を始めた。常人には言葉に聞こえないが、二人にはお互いの言いたいことが理解できるようだ。
キビヤックとは、アザラシの腹の中に鳥を詰め込み、地面の中に埋めることによって出来る発酵料理であり、北極圏に住まうイヌイットの貴重なビタミン源である。
世界中を駆け回るカメラマンである修の叔父が、現地で作り方を習って来たとかで、数か月前にアザラシを持ち帰り、鬼越家の庭に埋めていたのだ。
どうやら日本の高温多湿の環境下では、キビヤックを作ろうとしても発酵せず、腐敗してしまうようだ。
なお、腐敗せずに発酵させることに成功したとしても、キビヤックはその強い臭気で知られており、どちらにしても鬼越家は臭気に包まれていたことだろう。
二人は臭いから何とか離れ、一息ついた。猛烈な吐き気に襲われるものの何とかそれには耐えた。
いつの間にやら先行して逃げていたらしい八重は、口と鼻を手ぬぐいで覆い、キビヤックになるはずだった何かがこびりついたダイキチを、ホースの水で洗浄している。
「どうする? あれ」
「どうするって、塞ぐしかないだろ。近所迷惑だし」
穴から漏れる強烈な臭気は、広い庭の隅に避難した今も、修達にかなりのダメージを与え続けている。このまま放置するのはまずい。
「てめえの仕業だろ! 知ってんだぞ、前に妙なもんを庭に埋めてたのは!」
隣の太刀花家から太刀花則武の怒鳴り声が響いて来る。内容からすると、この事態の元凶である鬼越鷹次を糾弾しているようだ。いや、糾弾するだけではない。何かが壊れる音も同時に響いて来る。
「早いとこ何とかしましょ」
「そうだな」
隣家にも迷惑が掛かっていることを思い知らされた二人は、キビヤックになるはずだったものの臭いと戦いながら、その穴を埋めることにしたのだった。




