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あなたをずっと愛してる  作者: 黒乃白
9/16

彼女のために

 今更許してもらえるなど思っていない。

ただ雛乃は二人から奪った幸せを元に戻したかった。

二人の愛を傷つけてめちゃくちゃにした罰をいつか受ける時が来るだろう。ただその前に二人の関係を修復するために自分がしなければならないことがある。

薫の手首の怪我を知ってから雛乃は毎晩思い悩んでいた。彼女の絆創膏でうっすらとしか見えない滲んだ血の色に自責の念を感じ、自分の行ったことに対する激しい後悔が襲った。

もういい加減に忘れなければならない。涼介は薫のものだ。二人は互いを求めあっていてそれを阻害した私は二人の幸せを願わなければならないと雛乃の頭が言う。感情はまだ涼介を好きな気持ちを忘れられていない。頭がその感情を厳しく律して冷静な判断を下すことを願っている。


 五月二十二日。

社内にカチカチと響くパソコンの操作音。皆が当たり前のように仕事をしている。

その中で雛乃と薫もいつものように仕事をしていた。薫は傷口を見られるのを用心しているのか、未だに手首に絆創膏をしたままだった。仕事の合間にお茶を飲む薫の手首を雛乃がさり気なく横目で見る。マグカップを置いてパソコンのキーボードに戻った彼女の腕を見届けながら仕事に気持ちを切り替えた。心臓の鼓動が速くなっている。雛乃はこの後のことを考えると逃げ出したい気持ちになった。でも逃げ続けるのはもっと苦しいじゃないか。何を言われても彼女に謝られなければない。雛乃のパソコンを打つ手が彼女の心臓の鼓動とシンクロして速まっていく。

「お昼休憩に入ります。」

そう言って席を立つ薫を見届けると雛乃もお昼休憩に入ると言って席を立った。

廊下に出た薫を慌てて追いかける。

彼女の背中を黙って追いかけていると突然、薫が振り返った。雛乃が驚いた表情で足を止める。薫は雛乃の顔をじっと見つめたまま少しの間、言葉を発しなかった。

雛乃は頭の中で言いたいことをあれこれ並べるが本人を前にして何も言葉が出なかった。わずかな沈黙が終わると薫が雛乃に笑いかけた。雛乃は驚きと恐怖で体が固まる。

「薫、ごめんね。でも違うの。本当は……」

「涼介から聞いたよ。」

雛乃が開いた重い口を制止するように薫が笑顔で言った。え?と聞き返す雛乃。何を聞いたと言うのか。

「雛乃の恋愛相談を聞いていたら急に泣き出したから慰めていただけだって。涼介は気を遣って言わなかったけど涙の相手って総務の河西君のことだよね?きっと。私と同じ会社だから雛乃あれこれ気にして相談出来なかったんだね。ごめんなさい。勝手に二人のこと勘違いして、一人で勝手に怒って。ここ最近ずっと雛乃のこと傷つけたの気にしていたの。」

反省したように言う薫から初めて知ったこと。涼介が薫にそう言って宥めているところを想像すると少し胸が痛くなったが、彼が雛乃と薫の関係が元通りになるように言った優しい嘘なのだと思うと雛乃は彼の気持ちに応えたいと思った。

「そうなの。今まで内緒にしていてごめんね。私この前、河西君に告白されたの。まだ返事していないけど私も彼のこといいなって想っていたから。」

雛乃の言葉に薫が一瞬、驚いた表情になって目を泳がせた。そしてまた雛乃の目を見て綺麗に口角の上がった笑顔を見せる。

「そうなんだ、告白されていたなんてビックリ。彼となら上手くいくわよ、きっと。二人が両想いなんておめでたい話。」

薫が満面の笑みを浮かべて言った。

「私もすごく嬉しい。」



 五月二十四日は薫の二十五歳の誕生日だった。

雛乃はその日まで薫と仲直りしたいと思っていた。涼介のお陰もあって雛乃は無事に薫と関係を修復することが出来た。

「あ、雛乃先にお店行っていいわよ。まだこの仕事に時間かかりそうだから。」

デスクトップの画面と睨めっこしながら薫が言ったので雛乃は先に仕事を終えて会社を後にした。

自分の誕生日なのに薫は休みを取らずに今日一日いつも通り仕事をしていた。

「家で涼介が待っているんじゃない?」

お昼休憩に二人が久々に近くのカフェでランチをしている時、雛乃が遠慮がちに薫に尋ねると彼女が困ったような笑みを浮かべて、「彼も仕事よ。」と言っていた。

夜のオフィス街の雑踏を歩きながら雛乃は鞄から携帯電話を出す。連絡帳から名前を出してコールした。

出てくれるだろうか。不安の中を歩いて多くの人々をすり抜ける。呼び出し音が何回か鳴った。やがてその音が切れたと同時に躊躇いがちな彼の声が聞こえた。

「赤木です。」

電話越しで涼介の声を聞くのは本当に久しぶりだった。懐かしい気持ちと共に甘酸っぱい記憶が色褪せていくような気がした。

「急に電話なんかしてごめんね。」

雛乃の言葉を涼介のしばしの沈黙が包み込む。彼が警戒した声で、うん。とだけ言った。やはり胸が痛かった。それでも彼女は努めて笑顔で話を続けた。

「涼介が吐いた優しい嘘のお陰で薫と仲直りできたの。本当にありがとう。あと、薫を勘違いさせるようなことしてごめんなさい。」

雛乃の言葉を涼介は黙って聞いていた。

「涼介のこと好きだったけど、私、新しい恋をすることにしたから安心してね。涼介への想いをもう捨てて忘れます。同じ仕事場の後輩に告白されたの。その人と付き合いたいって思っている。」

電話越しの涼介は子供の頃の雛乃を思い出していた。昔、彼女の笑顔、優しさ、全てが好きだった。当たり前のように握っていた手が、今は触れただけで薫を傷つけてしまう。当然のことだが、それが彼の頭の中の雛乃を儚く哀しい人にする。涼介の中の雛乃、彼女と過ごした記憶が鮮やかな色から色褪せてゆく。雛乃の言葉たちだけで。彼は思わず顔を歪ませた。

そういえば、雛乃は彼にとって初恋の人だった。そして彼は雛乃の初恋だった。

「幸せになって。」

涼介が声を振り絞って出した。苦しかった。

雛乃はまた涙を流してそれを我慢した声で、うん。とだけ言って自分のすすり泣く声が聞こえる前に電話を切った。携帯を握りしめて人ごみの中で泣く雛乃を、気にも留めずにすり抜ける人もいれば、心配そうに顔を見たり、不思議な生き物を眺めるように通り過ぎていく人もいた。

皆、心のどこかで初恋の人と繋がりたいと思っている。どこで何をしているのだろうかとふと気まぐれに考えたりするのだ。けれど、もはや結ばれることはないと分かっている。だからその人との記憶を汚したくないために、その人の幸せを願うのだ。彼女のために。

「雛乃、先に行っていいよって言ったのにどこ行ってたの?」

レストランで薫が少し不機嫌な顔で待っていた。しかし雛乃の泣きはらした顔を見て驚いた表情になり、静かになった。

「この短時間に何があったの?」

雛乃が席に着いてからしばしの沈黙の後、薫が心配そうに尋ねた。雛乃は頭の中で咄嗟に嘘を考える。

「河西君に告白されたけど、彼がまだ私を好きでいてくれているのか不安で……そんなことを考えていたら急に悲しくなっちゃったの。彼のこと好きになってから私ずっと心が不安定で…。ごめんね、薫の誕生日なのにそんな馬鹿みたいなことで心配させて。」

嘘が上手くなった気がした。いつの間にか本当の気持ちを隠して誤魔化すのが上手になっていた。昔はそんなんじゃなかったのに。

雛乃の吐いた嘘に薫は言葉を詰まらせた。困ったような表情で、少し哀しげだった。

「告白して、そんな簡単に心変わりなんてしないわよ。きっと、大丈夫だから。」

薫の慰めに雛乃は笑う。頼んで運ばれた食事が、噛み締めるたびに異物を口の中に入れているような感覚になって喉に詰まりそうになった。

雛乃はそれを誤魔化して、これおいしいね。最近、書類の些細なミスが多くて部長に迷惑をかけちゃってね。と笑って笑って心の中の涙を埋もれさせた。薫が食事を次から次へと口に入れてモリモリ食べながらそれを聞いて笑う。そして、私も昨日部長を困らせてね。と楽しそうに話し始める。

薫の誕生日。彼女のための夜だった。彼女のための笑顔だった。彼女のために全てを清算すると決めた。

日が落ちても煌びやかに光を放つ都会の夜が更けていく。



 会社の廊下を仕事終わりの雛乃が不自然なほど行ったり来たりしていた。

その日の服装は黒の半そでのブラウスに白のレースのスカート、赤いバッグに七センチヒールの赤いパンプスを合わせていつもより大人っぽいメイクをしていた。

そわそわした様子で廊下を歩く雛乃は明らかにおかしい様子だった。

「不審者みたいだよ、そんなに歩き回って。」

背後から突然、声が聞こえて雛乃は思わず声を上げた。振り返ると晃平が冷静にこっちを見ていた。

「何でさっきから総務の前を行ったり来たりしているのかな~。ああ、そうか、俺に会うから緊張しているんだ!」

なるほど!という顔で雛乃を見る晃平に彼女はイラッとした。

「話があるから外に顔出しなさいよ。」

まるで決闘を申し込むような言い方だった。これから始まるのは殴り合いの喧嘩かと目を疑う。

「はいはい、いいですよ。雛乃さんの頼みですから。それにしても嬉しいな、喧嘩腰とはいえ雛乃さんが俺を待ち伏せするなんて。それもいつもよりもお洒落しているからこれまた嬉しいですね。」

何もかも見透かしているような晃平に雛乃は年上のプライドを鼻で笑われたような感覚になった。

「いいから、早く支度してきなさい!」

顔を赤くして声を上げる雛乃に晃平が愉しそうに笑ってその場を離れた。


「薫さんと仲直りしたみたいですね。」

夜の風に包まれた街を晃平の車が颯爽と走る。

雛乃が彼の横顔を見つめながら、まあね。と素っ気なく応えた。

「薫さんからあの男を略奪する気はなくなったんですか?ずっと好きだったのに。」

含み笑いする彼を見ながら涼介のことは考えないことにした。

「みんなもう今年で二十五だし、二人はとっくに結婚しているし、子供の頃の初恋のために二人の仲を引き裂くなんて人としてダメでしょ。いい加減、身を引かないといけないから。」

冷静に答える雛乃を晃平が可笑しそうにに横目で見ていた。

「本当に引けるの?今更。」

晃平が笑って聞く。

雛乃は少しムッとして、「それは河西君次第かな。」とツンとした声で言った。

すると晃平が苦笑して、「身が引き締まるね。」と返した。それと同時にアクセルを踏んだ。

「着いたよ、駅。」

ハンドルを握った晃平が背もたれにもたれる雛乃に言う。

夜の駅の傍にある自転車置き場。いつもと何一つ変わらない景色を見つめて体を背もたれから離した。

「その前に、俺に何か言いたいことがあるんじゃない?」

晃平が雛乃の腕を掴んで尋ねた。雛乃は、言われなくても言うつもりだったわよと心の中でぶつぶつ言いながら彼の目を見る。真剣な瞳をしていた。しかしその奥が今も変わらずに淀んでいて見えなかった。

体を動かすと彼の腕がパッと離れた。

「この前は高級な食事をありがとうございました。それと告白も…こんな私を好きになってくれてありがとう。」

雛乃の言葉に晃平が一つ一つ、大きく頷く。

「私は…」

言葉が詰まった。何と言えばいいのか。でも言わなければならない。

「私は、涼介が好き。でも忘れなければならない。大人に成長した二人に取り残されて私だけまだ子供なの。でも私も大人にならなければいけない。河西君には悪いけど私は今、あなたの気持ちを利用しようとしているの。最低だけど、そんな気持ちになったのは河西君を少しでもいいなと思った自分がいたからだと思っている。だから、こんな私でもいいなら、よろしくお願いします。」

思わず頭を下げてしまった。後半、雛乃の声が少し震えていた。涙を堪えて呑み込んだ。

晃平が真剣にその言葉を聞くと安心したように長いため息を吐いて、両手で顔を覆った。そしてその両手を顔から離すと彼も雛乃の方を向いて、「よろしくお願いします。」と言って軽く頭を下げた。

雛乃から安堵の笑みがこぼれる。晃平もほっとしたように笑った。

暖かい空気が車内の二人を包んだ。しかしそれも束の間だった。

「じゃあね。」

ドアを開けようとする雛乃の隣で晃平の表情が黒い雲のように沈んだ顔になった。

「雛乃ちゃん。」

些細に変わった呼び名だけでドキッとした。振り返って彼の顔を見る。

「俺も最低なやつなんだ。」

晃平の目が死んでいた。しばらく言葉が出なかった。

「どういうこと?」

雛乃は躊躇いがちに聞いた。

「さっき雛乃ちゃん、自分のこと最低って言ったよね。そんなこと言わなくていいよ。最低?忘れるために利用?そんなの誰だってやっていることだよ。雛乃ちゃんはもっと悪い女になっていいんだよ。」

彼女はその瞬間、この男の目の奥が一瞬だけ見えたような気がした。わずかに見えた彼の目の奥は炎のように赤とオレンジ色に光って揺れていた。まるで何かに苛立って、それが怒りに変わろうとしているようだ。

「何でそんなこと言うの?」

晃平は笑った。そして、「ごめんごめん、何でもないよ。」といつものような調子に戻って言うとその瞬間に彼の目の奥は元の色に戻っていてまた何も見えない状態になった。

「夜遅いから気を付けてね。今度は家まで送らせてよ。たまには駅まで歩けば?それか俺が朝も送ってあげるよ。」

自分を甘やかそうとする晃平に雛乃は何事もないように様子を戻して、「そこまでいいよ。」と笑った。

ドアを開けて、車内を出ると新鮮で爽やかな風が雛乃の気持ちを爽快にした。

振り返るとフロントガラスから晃平が笑顔で手を振っている。雛乃も手を振り返す。

彼が愉しそうに笑った。まるで小さな子供のようなその笑顔に雛乃は初めて彼が年下であることを実感した。




珍しく早く書けました。

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