溢れる血と涙
誤解は解けるのだろうか。
シャワーの激しい水圧が部屋まで聞こえて乱暴に投げ出されてひっくり返ったままのスカートとブラウスがその傍にいる。涼介は薫が自分に当てつけた鞄を見つめ、ベッドに頬杖をつきながら彼女の鞄の持ち手を優しく撫でた。彼女に叩かれた左頬の痛みが今更疼いた。
薫は昔から一度感情的になると歯止めがきかなくなるところがあった。喧嘩をするとストレートに感情を表現して責め立てる。そんな時は頑なで何を言っても聞かない状態になる。だけど束の間の怒りが収まると冷静になって自分の気持ちに耳を傾けてくれる。彼女の白い革のバッグのツルツルしたところを指で滑らすようになぞりながら涼介は時の流れが一瞬で終わるのを待ち望んでいるように死んだ魚のような目をして部屋の白いザラザラとした壁を眺めた。
シャワーの音は鳴り止まず、薫がお風呂場から中々出てこなかった。
いつもは何とも思わない部屋の明かりが涼介には眩しく感じて目を背けたくなった。たかが人口の光。
誰かの笑い声が聞こえた。
若くて甲高い女の声でよく響く声。誰かの声を聞くと反射的にビクッとして雛乃の身体が凍りついて固まる。全身から血の気が引いて、歩く速度が無意識にゆっくりになって、その声が自分に向けたものでないと分かると少しホッとして凍ったからだが溶けて元通りになる代わりに彼女は何かに怯えるように逃げるように音を立てずに歩く速度を速める。
雛乃は不安を漏らすと同時に自分を責め立てる。
オフィスに戻りたくない。戻れば近くには薫がいて、薫が動くたびに雛乃は彼女が恐くてパソコンに向かい合ってキーボードを打つ音が遠のいていく。そして気が付いたら欠陥だらけの書類が出来て全てやり直しになる。だけどそうなったのも全部自業自得で、薫に怯えてまるで彼女が悪のように見えてしまうような感情を抱く自分は最低の極み。悪は自分で、薫は正しい人間。罪人は自分で、彼女は被害者。裁かれなければいけない身。中学からの友達を裏切って旦那にアプローチをして、それを断った彼を誤解の渦に巻き込んで、好きな人までも苦しませた。こんな邪魔者が生きていて許されるのだろうか。
雛乃はこの先のことなど何も考えたくなかった。先は闇で暗くて何も見えない。
「雛乃さん、雛乃さん。」
歩いていると後ろから名前を呼ばれた。それだけで彼女は身体を強張らせる。
すぐに緊張を隠しながら後ろを振り返ると晃平が怯えるような顔をした雛乃を不思議そうに眺めながらいつもの明るい陽気な声を出す。
「今日の夜、ごはん行きませんか?」そして今度は雛乃の傍に寄って耳元で小声になる。「大事な話があるんです。」
囁かれた瞬間、雛乃の瞳が二、三回泳いだ。断ろうにも傷が深くて、周りの人間が全員恐くて、いつもの声が出せない。晃平はそれを冷静な顔で見下ろしている。
「雛乃さん、薫さんと何かあったでしょう?」
晃平が笑顔で尋ねる。私はそんなに分かりやすい性格なのか。自分の頭を小突きたい衝動に駆られた。
「二人ともあんなに仲が良かったのに最近、急に目も合わせなくなって…何かあったんだって見ていたら誰だって分かりますよ。」
晃平が笑いながら雛乃を見た。雛乃は何も答えられなかった。今度は彼の声が少し小さくなって周りには聞こえない、雛乃だけが聞こえる声の大きさで呟いた。
「薫さんの旦那のことを考えたって幸せになれませんよ、誰も。雛乃さんも苦しい。そろそろ新しい恋を見つけた方が良いんじゃないですか?自分のためにも、薫さんのためにも。……その男のためにも。」
雛乃の心が晃平の言葉で掻き乱される。
「もっと周りに目を向けて。ちゃんと周りを見て。」
晃平が雛乃の耳元でそう易しく囁くと顔を離して、今度はいつもの声に戻った。
「実は雛乃さんの連絡先、会社の飲み会でグループ作った時に勝手に友達登録しちゃったんですよ。だから雛乃さんも後で俺の連絡先、登録しといて下さいね。今夜、仕事が終わったら連絡するんで急に予定入れたり、断るのはなしですからね。」
晃平は雛乃から背を向けた状態で優雅に手を振って去って行った。雛乃は離れて行く晃平の細長い指やスーツ姿の脚をボーっと眺めていると彼の言葉が壊れたビデオテープのように頭の中で何度も再生された。
もっと周りに目を向けて。ちゃんと周りを見て。
「雛乃さん、もっとお酒飲まないんですか?」
晃平が雛乃の傍にある空っぽのグラスを見つめて尋ねた。雛乃は素っ気ない声で、「お腹空いているから、お酒よりもご飯食べたいからいらない。」と言って目の前にある刺身をつまんだ。
「お腹空いているなら何か頼みますか?」
晃平がそう言って店員を呼ぼうとしたので慌てて止めた。
「まだ残っているから。ここにある分でいいから。」
彼女の言葉に晃平は何となく納得したような表情で自分のお酒が入ったグラスを手にした。
彼がお坊ちゃんであることを忘れていた。雛乃はてっきり若者らしく居酒屋に連れて行かれるのだと思っていたが晃平が連れてきたのは高級感あふれる和食料理の店だった。
「ここは個室があるんでそこに行きましょう。親父が前に連れてきてくれた店なんですよ。」
光沢感のある黒を基調とした和風の店内には、雛乃には何だか分からない魚が水槽を泳いでいたり、店員が和服を着て優美に動いていて彼女は自分が場違いな場所に来てしまったような気がして恥ずかしい気持ちになった。個室ならまだ他のお客さんに自分を見られる心配がないので少し安堵する。
「それで結局何があったんですか?雛乃さんと薫さんの間で。ここなら個室なので誰も聞いていないですよ。」
晃平がグラスに注がれたお酒を飲みほした後に彼女の目を見て堂々と尋ねた。雛乃は一瞬、言葉を失う。
「河西君には関係ないでしょ。」
ようやく振り絞って出た言葉だった。
「関係ありますよ。俺だって雛乃さんが好きですから。」
こんなに冷たく突き放すような告白を雛乃は聞いたことがなかった。晃平は今まで雛乃が出会ったことのないタイプの男だった。積極的で明るくて自信を持っているのが感じられて、そこはまるで薫みたい。だけどその中に感情が読み取れない謎めいたところがあり、目の奥で冷静に人の何かを見ている。
「どうして私なの?」
普段なら男性に告白されてもこんなことは言わないが思わず口に出た。彼ならば顔も悪くないし、明るく社交的で家柄もいいから女には困っていないはずだ。
晃平は苦笑して少しだけ考えてから喋った。
「好きになることに理由なんてないですけど、強いて言うなら雛乃さんのその悩ましげで自信のない感じが好きです。苦しんでいる人間を他人が救うことなんて不可能なのに俺はそういう人を見るとその人のことをもっと知りたくなっちゃうんですよ。」
同情か。雛乃の瞳から涙が出そうなのを堪えた。
「雛乃さんは、優しい人ですね。一途だし、何においても余裕がないけど俺はそこが好きなんです。」
「余裕のない女が好きなの?」
「そうです。」
「他人を想って苦しんでいる女が好きなの?」
「……そうですね。」
晃平が一瞬、遠い目をした。そして我に返ったように雛乃を見て続けた。
「すぐに返事とかいりませんから、あの人以外に好きな人が出来たら教えて下さい。そしたら諦めます。そうじゃないなら俺はイエスの答え以外、聞きたくないのでそれ以外の返事は俺にしないでください。それまで待っています。」
晃平の瞳が雛乃を突き刺す。乾ききった目の奥で彼が何を考えているのかやはり解らない。雛乃は彼が自分よりも数段、大人に見えた。
仕事中も晃平の言葉と顔が雛乃の頭から離れなかった。
全てを悟っているような彼の瞳は不気味で怖くて、しかしその怖さの中には色気があって女を惹き付けるものがあった。そんな男に想いを寄せられるのは悪い気はしなかった。だけど自分が今までずっと好きだった涼介を忘れて彼に気持ちを切り替えるなんてそんな簡単に出来ることじゃない。今までそれが出来ないから苦しんできたのに。
出来上がった書類をコピーしながら雛乃はずっと自分の気持ちと葛藤している。
書類を渡しに大和田部長の元へ行くとちょうど薫が仕事の件で部長の傍にいた。雛乃の足が重くなって思わず止まった。雛乃の存在に気付いた部長が雛乃を見ると薫も振り返って雛乃を見た。雛乃はあからさまな動揺を見せたが薫は冷静に一瞥すると部長の方に顔を戻して仕事の話をしている。
「書類?」
部長が雛乃に聞いて薫と喋りながら受け取るよという感じで手を伸ばした。怯えるように部長の方に近づきながら書類を渡した。傍にいて部長と喋っている薫の方に目をやる。薫が喋りながら左手で髪の毛を右耳にかけた。その際、見えた手首に絆創膏が貼ってあった。雛乃はえ?となって、下ろしたその腕から視線が外せない。左手の手首に横に貼られた絆創膏は雛乃には明らかに不自然でそこだけ浮いて見えた。
何故、あんなところに絆創膏が?今まで薫があんなところを怪我したことなんてなかった。
雛乃はその場を離れて会社の廊下を歩く。足が重い。彼女の歩くスピードが遅かったのだろうか。下を向いて歩く雛乃を仕事の話を終えた薫が横切って通り過ぎた。雛乃は顔を上げて離れて行こうとする薫の背中を見つめた。そして意を決して彼女の名前を叫んだ。心臓の鼓動が速くなる。
薫がゆっくりと振り返って無表情に雛乃の目を見た。
「手、怪我したの?大丈夫?」
恐る恐る尋ねる。薫が絆創膏の貼られた自分の手首に目をやった。
「大丈夫。大したことないから。」
彼女は表情を一つ変えることなく冷静に答えた。雛乃の胸がズキズキと痛む。
何でそんなところを怪我したの?単なる不注意だったとしても不自然だよね?故意にやったの?何で?どうして?私のせい?
雛乃が絶望したような目で薫を見つめていると薫が気まずそうに怪我した手首をもう片方の手で隠すようにしてその場を離れた。雛乃は薫がいなくなった後も足が動かずその場を動くことが出来なかった。呆然と立つ雛乃を何人もの社員たちが通り過ぎていく。雛乃は自分の身勝手さに気づかされて大切な人を何人も傷つけていることを知らされた。ちゃんと周りを見て。
また晃平の言葉が彼女の頭を過った。彼の言葉が一滴となり波打って体の奥まで広がった。雨が降りそう。
あの日、お風呂場からシャワーの音を響かせて中々出てこない薫を待っている涼介は待ちくたびれて恐る恐る脱衣所の方へと向かった。
「薫?ずっとシャワーの音が聞こえるけどいつまで入っているの?」
涼介が遠慮がちに叫んだ。薫は返事をすることなくシャワーの音だけが響いている。まるで止むことを知らない雨のように涼介の心を乱すような音だった。
「ごめん、開けるよ。」
薫と話したい涼介が痺れを切らして恐る恐るお風呂場の扉を二回ほどノックしてから開けた。
シャワーが激しく流れて地面を打ちつけながら湯気を立てていた。涼介は目を見開いた。
その傍で裸の薫が眠るように倒れていた。近くに投げ出されたカミソリ、薫の手首から血が溢れていた。
涼介は気が動転して薫の名前を何度も叫びながら傍に寄る。涼介の服がシャワーに当たって濡れた。
涼介が薫の肩を揺らしながら名前を連呼すると彼女がゆっくりと目を開けた。涼介の瞳から涙が溢れている。
「こんな程度じゃ死なないわよ。」
泣いている涼介を見ながら薫が力なく答えた。涼介は嗚咽するように泣いて血が溢れている方の薫の手を握りながら彼女のお湯で濡れたデコルテに額を当てた。
苦しそうに涼介を見ていた薫も泣き出して二人の泣き声がお風呂場を満たすシャワーの音で掻き消された。
涼介は薫の手を親から離れたくない子供のように強く握った。
初めてすれ違った二人の関係。涼介は自分が愛しているのは薫なのだと分かった。薫をずっと愛している。彼女がいなくなってほしくない。永遠に自分の傍にいてほしい。
ザァーと響くシャワーの激しい音。薫の地肌とそこから伝わる彼女の体温。涙、血。
涼介は彼女の首に唇を触れた。彼女の首が少し動いた。苦しみで泣く二人はそのまましばらく互いから離れることが出来なかった。