密会と修羅場
メールならメッセージが表示されることはない。
連絡アプリを使えば待ち受け画面にメッセージが表示されてバレてしまう、薫に。
画面の上で止まる指先。ベッドに寝転びながらうつ伏せでどうすればいいのか分からぬ表情をする雛乃。可愛さのかけらもないよれたパジャマ代わりの薄手のトップスと柔らかい生地のズボン、かつては可愛かったのに体重をかけすぎて伸びた薄汚れたピンクのクッション。
画面に載る相手先の名前は涼介だった。文字を打ち込むのが恐い。これで連絡が返ってこなかったら?会うのを拒まれたら?
金曜日の夜は安心する。二日間、会社で薫に会う必要がないから。彼女の顔を見て罪悪感や嫉妬心に悩まされる必要がない。
薫の顔が浮かぶ。会社での薫の様子は至って変わっていない。涼介は薫に何も言っていないのか。言っていないだろう。涼介は優しい。普段は周囲に鈍くても相手の気持ちを知った時、言いふらすようなことはしない。昔からそうだった。雛乃の胸が熱くなる。見つめていた携帯画面は何も打てずに真っ暗になっていた。
指で触れて画面をもう一度明るくする。
話したいことがあります。明日の夜、何も予定がなければ会ってほしいです。最後に会った公園で待っています。このメールは読んだらすぐに消してください。
打ち込んだ文字を何度も確認して送信した。
送ってしまった。雛乃の心に不安が募る。でもそれも明日次第で終わるかもしれない。
よれよれのピンクのクッションに顔を埋めた。顔を上げてクッションに顎を乗せると頭の片隅に涼介の顔が浮かんだ。涼介は今、薫と一緒にいるのだろうか。ため息が漏れる。当たり前だ、二人は夫婦なのだから。
もう一度クッションに顔を埋めてウトウトしていると突然携帯が音を立てて雛乃はビクッとして顔を上げた。携帯画面を開くとメールが一件、涼介から届いていた。ドキドキしながらメールを開く。
了解です。明日、夜八時に。
短い文章だった。雛乃と涼介との関係には似合わないほどよそよそしい敬語のメール。不自然で、しかし文章の中身はどこかその不自然さに怪しさを感じさせて、彼女の心臓の鼓動が止まらない。
大学一年生。三人は同じ大学に入った。薫と涼介は同じ学部に入り、雛乃だけ別の学部だった。
「雛乃ー!」
同じキャンパスで薫は雛乃を見つけると名前を呼んで、手を振った。雛乃も笑顔で手を振りかえすがいつもその後、笑顔が消える。薫の隣にはいつも当たり前のように涼介がいた。薫に手を振ると隣にいる涼介と自然と目が合った。彼と目が合ったその瞬間、雛乃は辛くて目線を落として外した。彼女の好意的ではないように見えるその態度が涼介にも影を落とし、薫がいる時以外、二人は無意識に自ら進んで関わることはなくなった。
「涼介の誕生日さ、雛乃バイトだよね?」
休日のショッピングモール、大勢の人間が買い物を楽しみ、行き交う人々の休息用の椅子に腰を掛けながら薫が思い出したように尋ねた。
「そうだね。」
雛乃が申し訳なさそうに返した。
十一月九日の涼介の誕生日まであと少しの日だった。雛乃は涼介に会うのが怖くて逃げるようにパン屋のアルバイトを入れた。会うのが怖い。それと同時に興味のない態度を示されたらと考えるのも怖かった。
涼介にだって大学内に仲のいい友達がいる。その人たちが祝ってくれるなら自分が祝おうと強要する時間はただの迷惑なのではないか。薫は雛乃と違ってそういうのを気にしない。自分で決めて自分の好きなように動いて、だけど自己中心的には見えなくて皆から支持される。もしも自分が薫のような性格だったら、自分はとうの昔から涼介と付き合えたかもしれない。こんなことで落ち込まずに次々と行動を起こせたのに。雛乃は現実逃避したい気持ちで心の瞳を閉じた。
彼女にとって薫は永遠になれない偶像。彼女はいつだって自分の気持ちに正直で生きたいように生きて、自分みたいに何かを手に入れられなくて苦しい想いなんてしない。欲しいものを欲しいままに。当たり前のように。雛乃から見た薫はそう見えた。そうしか見えなかった。
「涼介、お誕生日おめでとう!」
薫が満面の笑みで涼介に言う。大きなリュックサックに黒のカーディガン、デニムのスカートにスニーカーを履いた薫を涼介が呆れたように見ている。
「ここって僕のためじゃなくて薫が行きたかっただけだろ?」
大学の近くにあるメルヘンなテディベアや花に囲まれたテーマパークを見渡しながら涼介が尋ねる。
「今日は涼介の誕生日だからお金の心配はいりません。思う存分、楽しんでいいのよ。レストランだって予約してるんだから。」
涼介の言葉を無視して薫が得意げな表情で言った。薫の足がワクワクして早く前に進もうと自然と歩くスピードが上がっている。涼介もそれについて行こうと慌てて彼女の歩幅に合わせる。
「昼間は大学の友達にお祝いしてもらったの?」
「まあね。カフェで女友達がケーキを出してくれたけどほとんど女の子だけで食べていたよ。」
薫が声に出して笑った。その笑い声が涼介には心地よかった。
「本当は今日、雛乃と三人で祝うつもりだったんだけど雛乃は今頃バイトか。寂しいね。」
残念そうに言う薫。涼介は雛乃の顔を浮かべて何も言えずに黙りこくった。
「涼介、私あそこ行きたい!」
先にいる薫が指をさして笑顔で叫ぶ。その笑顔を見て涼介は安心した。彼女の背中をゆっくりと追いかける。
その頃、パン屋でアルバイトをしている雛乃は客足が落ち着いてシュガーラスクの袋詰め作業をしていた。グラム数を量って袋に入れている間、涼介と薫のことだけが頭の中にいた。アルバイトを入れて、気持ちを誤魔化そうとしても結局彼を忘れることが出来ずにいた。作業中の店内の静かな空気の奥で聞こえる従業員たちの喋り声と店内のBGMのオルゴールが雛乃をより一層、寂しくさせる。
「随分大きいなと思ったら、何これ?」
袋を開けた涼介が呆然と中身を眺めている。夕食を終えた夜のテーマパークの噴水近くのベンチに腰を掛けた二人。
「クマのぬいぐるみ。」
薫が唇を尖らせて言った後に俯いた。
「ぬいぐるみ!?大学生の男がクマのぬいぐるみって…変だろ!」
いつもは冷静で大きな声を上げない涼介が珍しく突っ込んだ。
「大丈夫だよ。涼介、見方によってはまだ高校生に見えるから。」
「いや、そういう問題じゃなくてさ。」
「だって涼介が前に時計あげた時に言ったじゃん、次からこんなに高いのはいらないからもっと安いものにしろって。」
「だとしても何でぬいぐるみ…クマのぬいぐるみって大学生の女の子でも貰わないよ。」
納得のいかない涼介と納得させたい薫のやり取りが星の見えない夜空に響き渡る。
「まあ、いいや。来年はぬいぐるみ以外でお願いします。」
「たまにはこういうのもいいじゃん!」
開き直る薫に涼介が呆れたように笑った。二人はそろそろ帰ろうとベンチから立ち上がった。何も考えていない涼介を薫が呼び止めた。
「ずっと言おうか悩んでたんだけど伝えるのが怖くて言う勇気がなかった。涼介は鈍いから気づいてないけど私ずっと涼介が好きなの。今もずっと好き。」
真剣に言う薫に涼介は驚いた。今まで薫が自分を好きだなんてそんな風に思えたこと一度もなかった。自分のことを何でもないように扱って見えていた。しかし薫の熱を帯びた瞳を見た時、涼介はドキドキした。薫の中にある女を感じた。それまで薫を見ていた目がその瞬間、全く違うものに変わったのだ。
アルバイトから帰った雛乃は家の中で机の上に置いてあった小さな箱を手に取った。昔は安物ばかりあげていた雛乃はアルバイトで貯めたお金でいつもよりも高い男物の時計を買った。雛乃はそれを持って玄関で靴に履きかえる。夜の十時だった。涼介はもう家に帰っているだろうか。いなければ家の前で待っていても大丈夫だろうか。そんなことを考えながら涼介が一人暮らしをしているアパートを目指す。
家を出て徒歩十分で着く涼介のアパートを目指している途中に薫のアパートをを通り過ぎた。彼女の部屋に灯りが点いていないのを気づかぬまま雛乃はコンクリートの上を歩き続ける。
「雛乃!」
名前を呼ばれて振り返った雛乃は咄嗟に持っていた小さなプレゼントの箱を後ろに隠した。振り返るとそこに涼介と薫がいた。
「どうしたの?こんな時間に一人で…」
薫が心配そうに尋ねる。雛乃は薫をよそに不思議そうに自らを眺める涼介を見て二人の間に視線を落とした。あっと心の中で短く声を上げて落とした視線と共に自らも堕ちていきそうになる。二人が繋いでいる手は指と指が深く絡み合っていて、雛乃が涼介と最後に繋いだ手は子供同士のあどけない繋がりで、その記憶をハンマーでガラスをたたき割るように壊されて、否定された気持ちになった。
「雛乃?ビックリしてるの?私たちが手を繋いでいるなんておかしいものね。私と涼介ね、付き合うことになったの。」
薫の声が雛乃の中へと沈んでいく。涼介は何も気づいていない顔で、じっと雛乃を眺めていた。二人が互いの体温を感じている今、雛乃だけが二人の何も感じ取ることが出来ない。黙り込んでいる雛乃を薫が心配そうに眺めた。雛乃は持っていたプレゼントを強く握って何事もないように言う。
「急だからビックリしちゃった。でもみんな高校の時から二人のことお似合いだって言ってたんだよ。だから良かったよ。涼介の誕生日に嬉しい出来事だね。」
上手く言えているか心配になる。しかし人は意外と相手のことを見ていないのかもしれない。薫と涼介は安心したように、そして嬉しそうに照れ笑いを浮かべた。
「私、すぐそこのコンビニに行きたかったの。だからまた今度。」
雛乃はそう誤魔化して隠していたプレゼントをばれない様に両手で握って二人に背を向けた。
あの日の悲しみや後悔を超えるほどの苦しみがいつか訪れるのだろうか。想像もできない。プレゼントを握った雛乃の手が震えていた。
自然公園のベンチで腰を掛けた雛乃が自らの指先を見つめている。
夜八時まで五分を切った。昨日、メールで約束をした通り雛乃はそこで涼介を待っていた。
「お待たせ。」
力ない声を聞いて雛乃が顔を上げると黒いTシャツにデニム姿の涼介が力なく笑った。
雛乃は彼の笑顔に一瞬の安堵とその後に襲ってくる不安を抑えて笑い返す。
「来てくれてありがとう。」
隣に座る涼介に言うと涼介は素っ気なく頷いた。
「あ、仕事先の人がね、涼介が前に好きだって言っていた歌手のファンクラブに入っているんだって。それでいろいろ話を聞いてみたんだけど」
「雛乃、世間話はしなくていいよ。」
雛乃の言葉を遮断するように涼介が困った顔で彼女を見た。雛乃の胸がズキズキと痛む。
「ごめんね。薫と結婚したのに今更あんなことして。あの後、後悔したんだ。何であんなことしたんだろうって。私がいけないのに、私は薫を恨んでいたの。涼介がずっと好きだから奪われた気になっていたの。お門違いだった。」
言った後、雛乃の頬を涙が一筋流れた。涼介が雛乃の名前を呼んだ。彼女の頬に触れて流れた涙の跡を親指で優しくさすりながら雛乃の眼を見て言った。
「今まで気づかない振りしていたんだ。僕も最低だね。薫は、僕をよく鈍いとか鈍感っていうけどそれは彼女の優しさなんだ。僕は鈍いんじゃなくて馬鹿なんだよ。」
雛乃が一瞬、驚いた顔をしてさらに涙が流れる。首を振って彼の言葉を否定した。そんなことないと。
公園からクビキリギリスの鳴き声が聞こえた。もう終わりかけの春。どうして虫の音色は耳障りにならないのだろうか。音楽と一緒なのかもしれない。雑音と同じ「音」という文字で表現されながら無音よりも心地よい。
「でも僕は薫を裏切れない。薫が好きなんだ。」
涼介の目を見る。苦しそうだった。涼介が、ごめんね。と謝った。雛乃の瞳からさらに涙が溢れた。
涼介の手がゆっくりと離れようとしている。
「そこで一体、何をやっているの。」
公園内で響く低い声に二人が前を見た。そこに立っていたのは薫だった。薫の目は今まで見たことがないほど冷たい目をしていた。
二人の顔を交互に見た薫は何も言わずにその場を離れようとした。涼介が雛乃から離れて薫に近づくが振り返らない。薫の肩に涼介が触れた瞬間、彼の頬を強く叩く音が暗闇の中で響き渡る。雛乃は最悪の事態に頭を抱えたままその場を動くことが出来ない。
「薫、違う。」
叩かれた跡で赤くなった涼介の左頬。否定する涼介を薫が冷たく見つめた。
「さっきの二人の一体何が違うって言うの?何もかも許せない。信じられない。」
薫がそう言って雛乃に背を向けたまま歩いてその場を離れて行く。それを黙って必死に追いかける涼介。
雛乃はベンチに座ったまま頭を押さえて下を向いたまま嗚咽を吐くように泣いた。
最も起きてはいけない最悪な事態。雛乃は何もかもを失った気持ちになる。
虫の音色と共に暗い夜の公園に響く雛乃の鳴き声は雑音だった。
更新が遅くなりました。焦って書いた感じになってしまいましたが次の投稿はもう少し早めに出来るように頑張ります。