同じ人の温もり
そこに行っても涼介はもういない。
仕事終わりに雛乃は涼介と二人で向かった自然公園に行く。
再会した時の彼の懐かしむような優しい目、想いを伝えた時の驚いた表情、キスをした後の何かを言おうと開いた口、数日が経った今でも今さっきまでの出来事かと思ってしまうほど鮮明に脳裏に焼き付いている。
しかし淡い期待をしている自分に罪深さも感じていた。
幼馴染の旦那にキスをしたのだ。世間が嫌う不倫と同じようなもの。それも雛乃の場合は一方的なもの。
最低な人間だが、そこまで落ちてしまっても涼介が好きになってくれるのなら構わない。今までずっと好きだったのに我慢していたのだから。雛乃は涼介が座っていたベンチに腰を掛けて、ないはずの彼の温もりを感じようとした。冷たいベンチを数日前の記憶が温めてくれる。
車のクラクションが短く二回鳴った。
雛乃は気にも留めることなく街灯と店の明かりで賑わう夜道を歩く。
今度はクラクションが三回鳴く。どこか音が近づいた気がしたので振り返ると車道に白い車が歩道側に寄せながら雛乃に合わせてゆっくりと走っている。フロントガラスからこっちを見ている晃平がいた。
「送るよ。駅まででいいから。」
サイドガラスを開けると晃平が笑顔で言った。
車に乗るべきか悩んでいる雛乃の様子を見た晃平が続けて言う。
「気になっている女の子にわざわざ声をかけている男の気持ちを察してよ、雛乃さん。同じ会社なんだから変なことしないよ、俺。そんなリスク背負ったまま危ないことする奴、今の時代中々いないんじゃない?」
呆れたように笑う雛乃。ふざけた感じの言い方をする晃平にどこか安心感を覚えた。
運転する晃平の助手席に腰を下ろす。ハンドルを回す晃平を初めて見る雛乃。何故かいつもより男らしく思えた。
「雛乃さん、最近ちょっと様子おかしいよね。」
不意を突かれたような言葉。雛乃は目を泳がせながら、え?と思わず返す。
「なんかボーっとしてる感じ。俺、雛乃さんのことたまに観察しているんだよね。気持ち悪いかな?なんかポケーっとしてて薫さんが来ると凄く動揺しているんだ。」
何もかも見透かされているようだ。雛乃は動揺して晃平から視線を外す。
「雛乃さんは俺と違って嘘とか誤魔化しが下手なタイプに見えるから、隠さないといけないことはあんまりしない方がいいんじゃないかな。いつか自分で自分の首を絞めることになっちゃうよ。」
年下に性格を分析された挙句、注意まで促されてしまった。雛乃は立場がないように黙りこくってしまう。しかし何も言えないのはそれだけじゃない。晃平の言っていることが正論で何も言えないのだ。このままだと、いつか自分で自分を苦しめることになる。
「私って馬鹿に見える?」
雛乃が突然、聞いた。晃平が一瞬、横目で雛乃を見る。表情一つ変えることなくハンドルを握ったまま視線を前に戻した。
「見えないですよ。馬鹿なんですか?」
落ち着いた声だった。雛乃は何も答えずに黙りこくった。
「馬鹿の定義って何ですか?」
晃平の言葉が狭い車内の二人の間に宙に浮いた。何だろうか……雛乃は何も言えない。
「馬鹿じゃない奴ってどんな人なんですか?雛乃さんの言っている馬鹿って勉強とかじゃないでしょ?」
晃平は次々と聞いてくる。
「なんか…哲学的な話になっちゃったね。」
雛乃が苦笑して頭を掻いた。晃平は前を向いたまま笑わなかった。
「雛乃さんが馬鹿なら俺はもっと馬鹿ですね。」
雛乃が晃平を見る。ふざけた様子が一切ない、真面目な表情で前を向く彼の横顔。凛々しく見えた。
「赤木君の彼女って安達さんじゃなくて浜田さんらしいよ。」
雛乃の心が針で刺されたようにチクッと痛かった。けれど最初の噂話はまだ良い方だった。
最初は否定形でも雛乃の名前が入っていたのに、いつしか雛乃の名前は消えて薫と涼介だけが噂の対象になった。皆、当たり前のように雛乃の名前を除外していった。
高校三年生、ずっと一緒だった三人の関係はその時まだ変わってはいなかった。しかし涼介と薫が同じクラスになって雛乃だけクラスが離れた。気づけば小学校から一緒で何度も噂された涼介は雛乃ではなく薫と交際を噂されるようになっていたのだ。
「なんか、みんなすぐ付き合っているんじゃないかって噂するけど、どんだけ暇人なの?付き合っている訳ないだろって感じ。涼介と私が喋っているだけで噂になるとかこの学校の人たちってまだ精神年齢、小学生なの?他に涼介と喋っている女子なんていっぱいいるし、男女で仲のいい奴らなんて他にもいっぱいいるのにおかしんじゃないの?」
雛乃のクラスに遊びに来た薫が紙パックジュースを片手に愚痴る。席に座っている雛乃の前で窓際に腰かけた薫が時折、外の景色を眺める。雛乃は席に着いたまま薫の愚痴を聞きながら複雑の気持ちで薫の顔を見ていた。
「でもみんなお似合いだねって言っているよ。」
雛乃はそう言いながら胸が苦しくなった。それは事実だった。雛乃と違って明るくてハキハキと自分の意見を言いながら周りと仲良くなるのが上手い薫は女子人気が高かった。そのため薫を気に入っている一部の女子たちが二人の噂を囃し立てていた。元から仲が良く、二人の関係を疑っていた周囲はその噂話に乗っているうちに、ただの噂話が事実だという勘違いを生んだ。
「雛乃、涼介みたいな鈍感で頼りない男に告白してごらん?多分、涼介のやつ告白されたことにすら気づかないまま、お腹空いたとか言い出すよ。」
薫の冗談に雛乃が笑う。涼介ならあり得ないこともない。さすがに今まで何人かの女の子と付き合っているのだからそれはないだろうが、薫の冗談がいかにも涼介っぽくて雛乃は面白かった。
「ああ、そういえば。雛乃ってまだ進路決まっていないでしょ?私と涼介、同じ大学で同じ学科目指すの。雛乃も同じところにすれば?雛乃なら楽勝で行けるよ!」
薫と涼介は千葉にある同じ大学を目指していた。二人にとって面接を頑張れば推薦でも行ける私立大学だった。成績のいい雛乃ならその大学に落ちる心配はない。まさに安全パイだった。
「私もそこに推薦で行こうかな。」
雛乃が控えめな笑みを浮かべる。薫が安堵したような表情になって、「その方がいいよ!これで大学も三人一緒だね!」と笑った。
薫の言葉が、笑顔が、全て雛乃の胸に突き刺さった。いつまで三人の関係は続くのだろうか。不安と孤独が残る曇り空が窓の外を包んでいる。
「姉ちゃん、千葉の大学にするんじゃないの?」
弟の小太郎が雛乃のところへやってきて届いた郵便物を渡した。
「そうだよ。推薦は千葉の大学。でもチャンスがあるなら…もしも一般入試で受かったら、ここにするの。」
小太郎があまり関心のないような声で、ふーんと言ってその場を離れた。雛乃が小太郎から受け取ったのは東京にある別の大学の案内だった。雛乃にとって少しレベルの高い大学。しかし自分なりに挑戦しようと思っていた。それに、もしも合格出来たら二人を近くで見て苦しむ必要はない。そんな気持ちを残して、受験勉強をした。
「雛乃が別の大学を受験するなんてビックリしたよ。どうしてギリギリまで私に教えてくれなかったの?」
気の強い薫らしい雛乃を責めるような口調だった。雛乃は苦笑する。受験を終えた学生たちの解放感に満ち溢れた卒業間近の教室。笑い声の中にこの先の未来への希望とあと少しで失う高校生活の寂しさ。解放感の中に取り残された人間は疎外感と不安を隠して何事もないように笑う。
「一般入試であの大学に私が行けるわけないじゃない。ただ軽い気持ちで受けただけだったから言う必要がないかなって思って言わなかったの。」
笑って誤魔化す雛乃はまだあの時の気持ちが残っていた。努力が結果で現れなかった瞬間。
東京の大学の合格発表。開示された結果をインターネットで開いてクリックする。番号で刻まれた人間たちは新しい未来の始まりの知らせ。雛乃は自分の番号を画面越しに目で追って探す。下二桁の数字が雛乃の前の数字と後の数字だけが出ている。雛乃の数字はない。
無理だと伏線を張っていても、もしかしたらと期待していた。元から勉強が苦手なわけではないし、過去問にだって挑んでいた。しかしそんな雛乃を超える者たちが選ばれた。
初めて自分の意志で動いたものは雛乃にとって挫折で終わった。永遠に逃れられない。
「雛乃、今日どっか寄り道しようよ!」
薫の笑顔の誘いに雛乃は頷く。春はもう少し先で桜の花はまだ眠っている季節だった。若さが残っている年齢。大人になった彼女たちは、まだ三人の枠から誰も抜け出せていない。
コンクリートの地面に誰かが噛んだガムが落ちている。
多くの道を歩く人間がそれを踏んでいき、誰かが吐き捨てたガムはやがて元の白っぽい色から汚れて真っ黒に染まる。
「赤木~今日は飲みにいけないの?」
地面を見つめていた涼介が顔を上げる。楽しげに笑う同期の神田が仕事終わりのラフな私服姿で立っている。元々赤ら顔の神田が口角を上げるとお酒を飲んでいないのに酔っぱらいのように見える。
「今日はいいや…。」
涼介が遠慮がちに答える。ここ最近、お酒を飲む頻度が増えていた。
前は誘われても薫の顔が浮かんでやんわりと断るときがあった。しかし今は誘いを断らずに毎日のように飲んでいる。
「最近、よく飲みに行くね。可愛い後輩でも出来たの?」
洗濯ものを畳みながらそう言って笑う薫の言葉を無視して酔っぱらった涼介はベッドに倒れる。
後ろめたいことなどないのに薫と顔を合わせるのが苦しかった。
後ろめたいことなどない?
駅までの道のりを歩く道中で人の笑い声や喋り声にまみれてしまいそうな彼の心の声。
昔、雛乃が好きだった。子供のころ、二人は両想いで家族も周囲も皆二人が結ばれるのを望んでいた。
しかし今、涼介の隣にいるのは雛乃ではない。薫と出会って薫を好きになって結婚した。
間違っていない。ちゃんと薫が好きだった。今でも薫が好きだ。
だけど人の気持ちは変わるよね?
電車に揺られる。新橋から田町まで二駅。途中で浜松町のアナウンスが流れた。雛乃の住んでいる町だ。ドア付近で立っている涼介は停車して開いた扉から入る優しい風を肌で感じた。
雛乃は何故、突然あんなことをしたのだろうか。
田町に着いて駅から十分の自宅アパートについてもボーっとしていた。ポケットから鍵を探して差し込む際に聞こえる金属の音、一瞬ドアノブから視線を逸らした。そのまま鍵を回すとロックが解かれた小気味よい音が聞こえる。
「ただいま。」
扉を開けていつも通りの明るすぎず、暗すぎない声を上げる。玄関に薫の靴があるのに中は真っ暗だった。
扉を閉めて靴を脱ぐと電気を点けるのが面倒で暗闇の中を歩いた。部屋の電気を点ける。暗闇が一瞬でパッと明るくなる。部屋が少し散らかっていた。薫の姿はなくて腰を下ろした涼介が視線を前に向けるとベランダに座る薫の背中がガラス越しに見えた。
「こんなところで何をしているの?」
ベランダを開けて涼介が尋ねる。生暖かい風が二人を包んだ。
「涼介、最近何かあったの?」
振り返った薫は泣きはらした目をしていた。涼介の心臓の鼓動が早くなっていくのが分かった。
「何かって?」 動揺を隠すように平静を装う。
「最近、元気ないじゃない。仕事の付き合いが辛いなら言えばいいのに。お酒ばっか呑んだって何にも解決しないんだから!」
乱暴に言った薫がそう言って体育座りのまま背を向けた。涼介はほっと胸をなで下ろした。
「薫こそ何かあったんだろ?お前こそ、悩みとかいつも肝心なことは僕に内緒にして一人でこっそり泣いていい加減、僕の前で気を張るのは止めろよ。」
「そういう性格なのよ!」
涼介の言葉に薫が短く吐き捨てた。涼介は頭を抱えて短いため息を吐いた。そして、さっきまでと変わって優しい声で薫の背中にそっと聞く。
「何が辛い?僕のせい?」
「違う。」 薫の強い否定。
「お母さんと喧嘩した?」
涼介の言葉に薫が背を向けたまま黙っている。涼介は納得した。
薫は祖母の介護をしている母に毎月仕送りをしている。妹が同居しているとはいえ、祖母の少ない年金と妹の収入だけで生活するのは楽なことではなかった。妹の桃菜だって今年で二十三歳、交際している彼氏と結婚を考えている。いつか家を出ていく時が来る。余裕というのはある程度の生活水準や安定した未来から来るもの。家族は誰一人として心の余裕がなくて薫はたまに母親と電話をすると何やら言い争っているのが涼介の耳にも入っていた。どうすることも出来ない現状を薫だって理解している。家族が大切だから、家族が楽になってほしいから、彼女はたまに辛そうな顔をする。涼介はそのたびにどうすることも出来なくて、ただ生易しい言葉で慰めて薫を抱くことしかできないのだ。それが薫の心に踏み込めない彼の役目だった。
涼介は薫の名前を呼んで、振り返りもしない彼女の傍に寄る。そして後ろから優しく抱きしめる。薫は微動だにせず抵抗もしない。薫の髪に鼻を撫でて目をつぶる。開かれたままの窓。座った薫に重なる涼介の背中が星の輝きが一つもない暗い夜空に合っている。
感想とかありがとうございます。ネットで人と関わるのが恐い性格なので何も返せませんが良い意見を聞くと素直に喜んでいます。書くペースが遅すぎて予定日に全く間に合わないことが最近になって判明したのですが、続き気になるな~みたいな感じの気持ちがある人がいたらすごく嬉しいです。