彼以外の男
高校二年生の頃、三人は全員クラスが離れ離れになった。
涼介はA組に、雛乃はC組に、薫はD組だった。
六月、涼介に新たな彼女が出来た。涼介は隣のクラスの岩田奈穂と交際を始めた。岩田奈穂は清楚系な見た目とは裏腹に同級生から先輩まで色々な男性と交際経験のある男慣れした女子だった。
「安達さんって昔、A組の赤木に勉強教えていたんでしょ。いいなあ、俺にも教えてよ。俺、全然勉強出来なくてさ~」
雛乃のクラスメイトとなった木崎は明るく積極的な性格で席が近くなった雛乃に何かにつけて話しかけては構った。遠慮がちな雛乃は最初こそ戸惑いを感じたものの次第に心を開いて木崎に親しみを持つようになった。
「俺こんなに安達さんにちょっかい出していいのかな。もし安達さんに彼氏いたら怒られちゃうね。」
放課後、帰ろうとする雛乃の傍を木崎は離れず、隣で申し訳なさそうに言った。
「彼氏なんていないよ。」
涼介の顔が横切って胸が痛む雛乃。彼女の言葉に木崎は、「マジで?よしっ!」とガッツポーズをした後に慌てた様子で、「いや、別に変な意味ではなくて……」と必死に弁解した。雛乃はそれが面白くて思わず声に出して笑う。
帰り道の途中、雛乃の前に手を繋いで歩く涼介と岩田奈穂の姿があった。岩田奈穂の方が積極的に話しかけていて涼介はそれを遠慮がちに聞いていた。雛乃の歩いている足がまるで宙に浮いているような感覚になる。隣で喋っている木崎の声が遠くなっていき、彼女の視線は目の前にいる二人の姿だけを捉えた。涼介の髪が揺れるたびにどこか、上も下もない真っ暗闇な世界へ堕ちて行ってしまいそうだった。
いつになったらこの人を好きな気持ちがなくなるのだろう。一途とは、ただ一つのことに打ち込んで他を顧みない様子、と書かれている。恋愛では一人の人間をひたむきに愛すことだと指されて多くの人間がこの言葉を何の躊躇いもなしに使う。でもそれが幸せなのか。雛乃の恋愛に見返りはない。一途でも報われなければ意味がない。それならば、愛するよりも誰かに愛されている方が幸せなのではないか。
「安達さんといるとさ、ドキドキするんだよね。それでさ、俺気づいたんだよ。安達さんのこと好きなんだって。」
その日は授業が終わって皆が教室を出た後も雛乃と木崎は教室に残ってお喋りをしていた。木崎は雛乃の前の席に座って体を横に向けたまま雛乃を見つめて言った。木崎が視線を外すと笑みを浮かべて照れている。雛乃も恥ずかしさで頬を赤らめながら静かに笑った。
「俺は、安達さんと付き合いたい!別に今すぐ返事してなんて言わないから、いつか気持ちを聞かせてほしい。……それだけ。じゃあ、今日は先帰るね。」
席を立つと逃げるように鞄を持って走る木崎を雛乃は呼び止めた。
「待って!私も木崎君と付き合いたい。」
足を止める木崎。こっちを向いて、不意を突かれたように雛乃を見たままフリーズした。
「へ?マジで……」状況が呑み込めないのか口を半開きにしてしばし呆然とした後、喜びをひしひしと表情へと出していき、「うおおおお!やったあああ!!」と叫んだ。木崎の叫び声が廊下の端から端へと響き渡る。雛乃は木崎が面白くて笑った。これで涼介以外の人間を好きになれるかもしれない。そう思うと気が楽になる。
「雛乃、同じクラスの木崎と付き合っているの?」
噂というのは広まるのが早い。次の日の昼休みにはどこからか話を聞きつけた薫がすぐに雛乃のところに駆け寄った。雛乃が恥ずかしそうに頷くと薫は仲間と楽しそうに喋っている木崎を一瞥して、冷たい声で尋ねた。
「本当に木崎が好きなの?」
雛乃は、え?と言って、「好きだよ。」とムキになって返した。眉が段々と下がっていくのが自分でも分かる。
「ふーん、それならいいけど。好きでもない男と付き合っても意味ないからね。後悔するだけだよ。」
薫がそう言い捨てて、見放すようにその場を離れて去って行った。雛乃は薫の冷たい視線、言葉、全てにショックを受けてしばらく身体が凍ったように動かなかった。
「あと少しで雛の誕生日じゃん。プレゼント何が良い?」
帰り道、木崎が嬉しそうに雛乃に尋ねた。雛乃は愛想笑いを浮かべて、「なんでもいいよ。」と返す。
「それが一番困るんだよな~」
頭を抱えて悩む木崎。もう少しで分かれ道がくる。そこで二人はいつもお別れとなる。
「バイバイ。」 雛乃が手を振る。木崎も手を振ってその場を離れようとする。
「待って。」 木崎に背を向けた時、後ろから声が聞こえて振り返ると目の前に木崎の顔があった。
驚いて離れようとする雛乃の両腕を掴んで離さない木崎。段々と顔が近づいていく。
雛乃は咄嗟に木崎の身体を押しのけて抵抗した。木崎が手を離して気まずそうにこっちを見た。
「ごめん、早まった。」
申し訳なさそうに言う木崎に雛乃も謝った。
「私もごめん。まだ、緊張してキスは出来ないかも。」
木崎は納得してくれたが気まずい空気が二人を包んだまま互いにその場を離れて行った。梅雨が明けて本格的な夏が迫っている頃。地面は徐々に真夏に向けて熱を帯びていく。
七月十八日、雛乃は十七歳の誕生日を迎えた。
「雛乃、メール見た?お誕生日おめでとう。放課後、空いてる?」
学校で薫が教室まで来て尋ねた。夜中に薫からお祝いのメールが来ていたことを朝になって気づいた。
「ごめん、今日はちょっと……」 教室内では木崎が友人と楽しげにふざけ合っている。
薫が木崎を一瞥して納得したような表情をする。
「わかった。明日は予定空けといて。放課後、渡したいものがあるの。」
そう言って手を振る薫の笑顔がわずかに引きつっていた。
「ごめんね。メールありがとう。」 雛乃の言葉を聞いて薫の背中が寂しげに離れて行った。
プレゼントの袋を開けて雛乃は笑う。
「可愛い。私このキャラクター大好きなの!何で分かったの?」
可愛くラッピングされた赤の袋の中には雛乃が好きなクマのキャラクターの電子カードケースとポーチが入っていた。木崎が得意げに笑う。
「雛乃が好きそうだなって思って。」
雛乃は、「ありがとう。」と言って木崎を上目づかいで見つめた。喜んだ木崎が顔を近づける。しかし雛乃が一瞬で警戒した顔になりそれに気づいた木崎が、「ごめん、キスの前にこれだね。」と言って雛乃の手を握った。雛乃にとって木崎に手を握られることは嫌なわけではないが決して嬉しいことではなかった。雛乃は自分の中にある受け入れられない気持ちを払拭したくて握られた手をしっかりと握り返した。
「わざわざ家まで送ってくれてありがとう。」
雛乃は自分の家の前で木崎に言う。空の薄い青と夕日のピンクグレープフルーツのような色がグラデーションとなって景色を包んでいた。
「雛乃と別れるの寂しいな。」 そう言って駄々をこねる木崎。少しの間ふざけあった二人だが、やがて手を振る木崎に笑顔で別れた。
「あれ~涼介の幼馴染だー!」
木崎と別れてすぐ、突然聞こえた背後からの声に雛乃は動揺した。顔を見なくても分かる。振り返ればそこには涼介とその彼女の岩田奈穂がいた。涼介と目が合う。彼は一ミリも動揺した様子を見せない。
「へえ~びっくり。まだ木崎君と続いていたんだ~」 岩田奈穂が驚いた様子で言う。雛乃はこの状況から逃れたいのに上手く声が出ない。
「雛乃、お誕生日おめでとう。」
突然、何の前触れもなく涼介が笑顔で言った。覚えていたのだ、誕生日を。雛乃は途端に胸が熱くなった。本当は涼介に祝ってほしかった。隣に彼女がいる涼介を見てそんな不謹慎なことを思ってしまう。
「誕生日なんだ、へえ~。勘違いしてたよ、私。木崎ってD組の浜田さんとも仲が良いから、てっきりそっちと付き合っているのかと思ってた。」
涼介の隣で岩田奈穂が笑った。雛乃は驚く。木崎が薫と喋っているところなど一度も見たことがない。
「え?どういうこと?」思わず雛乃が聞き返す。すると岩田奈穂が気まずそうな顔をした。
「いや、この前二人で街歩いていたよ。木崎と浜田さん。」
目の前にある世界が遠くなる。岩田奈穂の言葉に雛乃は返す言葉がなかった。何も聞いていない。何それ?
八月になると夏休みになり皆、バイトや部活に友達との遊び、さらにはデートで高校二年生という中だるみの時期に甘んじて思い思いの時間を過ごす。
「どうして?」
雛乃が尋ねる。彼女の眼は死んでいる。
「ごめん。他に好きな子が出来た。」
蝉がうるさく鳴く。木崎が自転車を片手に汗を流しながら気まずそうに言う。
好きな子って誰よ。確かに私にだって本当は別に好きな人がいる。でもあなたは最初、私が好きだったでしょ。どうしてそんな急に気持ちが変わるの。本当は大して好きじゃなかったんでしょ。
雛乃の頭の中でいくつもの言葉たちが声になることなく浮かんでは消えていく。真夏のむせ返るような暑さが二人の肌にまとわりつく。流れてくる汗がわずかに冷気を感じさせる。めまいがしそうなほど暑い。しかしそれは暑さのせいではないのかもしれない。一つの関係が終わりを告げた。はっきりとした恋愛感情を抱けぬまま二人はただの恋愛ごっこをして終わりの時を迎えたのだった。
「ねえ、知ってる?あの二人、別れたらしいよ。」
「え~?何でえ?」
「なんかね、木崎がフッたんだって。」
「だから教室で目も合わせないんだ~へえ~。」
「そういえば浜田さんがフラれた原因、木崎が別に好きな人が出来たらしいんだけどその相手がさ……」
雛乃が木崎と別れたことは夏休みが明けたころにはクラスメイト全員が知っていた。雛乃は木崎と目も合わせなかった。木崎も雛乃と関わらないように避けているのが分かった。そして彼女とも関わりをなくそうとした。
「雛乃さ、最近薫と何かあった?」
たまたま廊下で会った涼介が聞いてきた。
「別に。クラスが違うから喋る機会がないだけだよ。何でそんなこと聞くの?」
雛乃が尋ねると涼介は、「いや、それなら別にいいんだけどさ。薫は気にしているみたいだから少しは構ってやれよ。」と言って雛乃の肩に軽く触れて去っていった。
気にしているみたいだから?薫、自分のしたこと分かっているでしょ? 雛乃はますます苛立つ。
夏休みが明けて元の授業に戻った九月中旬、雛乃は薫を避けたまま一か月以上経っていた。その頃、雛乃の耳に新たな噂話が入ってきた。木崎が薫に告白をした。薫はそれを受け入れずにフッた。
「え~でもD組の浜田さんって安達さんの幼馴染でしょ。木崎も凄いことするね。親友に乗り換えようとするなんて。」
「そのせいであの二人、今めっちゃ仲悪いらしいよ。安達さんが浜田さんのこと無視しているんだって。」
噂話は本人の前ではするべきではない。クラスメイト達は悪気なく聞こえていないと思ってこそこそ話しているがそれは雛乃本人の耳にはっきりと届いていた。雛乃は何も聞こえていない振りを装って本を読む。
休み時間、雛乃には社交的な薫と違って友達がいなかった。別にクラスで浮いているわけではない。仲良くしてくれる子はいる。しかし彼女たちは雛乃の存在を求めているわけではない。彼女たちにとって雛乃は居ても居なくても一緒の存在だった。
「どうして無視するの?」
一人でトイレを出た後、廊下で薫が待ち構えていた。雛乃は何も答えずにその場を去ろうとする。
「私、何かした?木崎と別れたんでしょ。なんか私に好きとか言ってきたけどそれが原因?」
雛乃の心がささくれ立つ。何故、そんな白々しくいられるのか。
「私が木崎君と付き合ってた頃、薫も木崎君と会っていたんだね。噂で聞いたよ。」
振り返って薫を問い詰める。薫は一瞬、目を見開いたがその後、冷静な表情になった。
「赤の他人の噂だけ信じて私には直接聞いてくれないんだね。」 薫の言葉に雛乃の心が痛む。
「確かに会ったけど二回ぐらいしか会っていないし、それだって雛乃の誕生日プレゼントの相談をされただけだもん。」
え?雛乃は予想外の言葉に不意を突かれた。何て返せばいいのか分からない。
「私、別に木崎のこと好きじゃないし、雛乃がそんなに木崎が好きだったんなら悪いことしたなって思うけど、木崎のせいで今までの仲が壊れるのは嫌だよ。」
雛乃は薫の気持ちを知って自分のしてしまったことに申し訳なさが残った。
「私、勘違いしてた。薫、ごめんね。」
雛乃の言葉に薫が優しく笑う。雛乃は木崎のことが好きでショックだった訳ではない。かつて心の救いとなった薫に裏切られたのがショックだったのだ。だって彼女は薫を全面的に信頼している。薫は何でも正直に自分に話してくれる。薫はそういう性格だから。いつ陰で裏切り行為をするか分からない、そんなのを友達だと言っている子がたまにいる。しかしそんなのは友達ではない。雛乃にとって薫は唯一信頼できる存在なのだった。
「そういえば涼介、彼女にフラれたらしいよ。」 薫の言葉に雛乃は驚きの声を上げる。
「え?何で?」 雛乃に何か言おうとする薫だがニヤニヤして中々言い出さない。
「それがさ、涼介の奴、口下手なうえに積極的じゃないから岩田に愛想尽かされたんだって。岩田が最後、涼介に、つまんない男って言って二人はお別れ。」
何て、あっけない……雛乃は驚いて口を開けたまま、ぽかんとした表情になった。すると二人の元に涼介がやってきた。
「なんか揉めている様に見えたけど、二人とも大丈夫?」
何も知らない涼介が空気を読まずにやってきた。涼介は昔からそうだった。しっかりしている様に見えて実は少し天然で、何よりも鈍感。いつも肝心なことに気づかない。噂話だってろくに知らない。
薫は現れた涼介を見て堪えきれなくなったか、クスクスと笑いだす。
雛乃は岩田奈穂に見切りをつけられて呆然としている涼介の姿を想像してみた。すると確かに面白くて雛乃も薫のようにクスクスと笑いだす。涼介は二人の顔を理解できない表情で交互に眺めた。
長いようで一瞬の夏休みが終われば、地面を照りつけるような暑さは徐々に過ぎていく。暑いのは九月まで。着ている布の面積が徐々に増えていく秋は涼しくて真夏の暑さでどうにかなった気持ちを少し冷静にさせる。そんな季節が近づいていた。