本能の証拠
「雛乃。」
会社で薫に呼ばれてドキッとした。
「たまには一緒にご飯食べに行かない?ネットで調べたら近くに美味しそうなお店があったの。」
薫は知らないのだろうか。雛乃は自分が昨日、涼介と会ったことを脳裏に過らせながら相づちを打った。
「良かった。急に誘ったから、もしかしたら河西君とデートの約束していたら悪いなって思っていたの。」
安心したような表情を見せる薫。
「それはないよ!絶対ないから!」 全否定した。
「そう?でもよく喋っているところ見かけるし、この前、誰かが付き合っているんじゃないかって噂していたよ。」
止めて!違うから!!雛乃が心の中で叫んだ。
「まあ、いいや。それより今晩楽しみしているね。」 薫が笑顔で雛乃の肩に触れて去って行った。
仕事を終えた雛乃は薫が携帯で道を調べて歩いているのを見ながらただ黙ってついていく。
「なんかね、ラーメン屋さんの隣にあるお洒落なイタリアンのお店なの……あった!ここかな?」
薫が何度も携帯画面とお店の外観を見比べて確かめる。そして確信したような表情を見せて雛乃を一緒に中へ入るように促した。
お店はウッド調の外観でイタリア語で書かれた看板も木で作られていた。お店の前に黒板でカラフルに書かれた今日のおすすめメニューが木製のスタンドの上に乗っている。お店は地下にあるため狭い階段が入口へと繋がる。薫と階段を下りてopenと金のプレートに書かれた木製の扉を開けて中に入る。
時刻は夜八時。お店は繁盛していて多くの人がワインやパスタ、リゾットにサラダなどをテーブルに並べて楽しそうに会話していた。
「涼介、家で待ってない?大丈夫?」
店員に席を案内されて着くと荷物入れの籠に鞄を入れた雛乃が薫に尋ねる。薫の顔色がわずかに冷たくなったが雛乃は気づいていない。
「今日は自分で適当に食べてって言ってあるから大丈夫。それより雛乃、何食べる?」
渡されたメニュー表を開いて薫が嬉しそうに尋ねる。雛乃は何も知らないような薫の笑顔に罪悪感が胸の中でくすぶった。
料理を頼んだ後、二人は他愛もない会話をした。学生時代の思い出を少し、日常の些細な話、仕事の話で盛り上がった。
「近藤先輩ってこの先もずっと独身なのかな。過去の恋愛とか聞いたことないし。」
仕事先の噂話の流れで薫が近藤先輩の話をする。
近藤さとる先輩は雛乃たちのいる経理部のいわゆるお局のような存在の人で四十二歳で未だに独身である。毒舌でハキハキした物言いが特徴的である。しかし特に嫌われている感じではなく大和田部長も何かあると近藤先輩を頼った。
「噂で聞いたぐらいだから本当か分からないけど長く付き合っていた人はいたみたい。もう別れたみたいだけど。」
去年の冬に後輩たちが話しているのをたまたま雛乃が聞いた話だった。その日、一人昼食を終えて給湯室を通り過ぎた際、近藤先輩が長年付き合っていた彼氏にフラれて、その彼氏が別の女と結婚した話を後輩たちがしているのを耳にした。自分には関係ない。そう思いながらオフィスに戻った雛乃だったが一人パソコンと書類を交互に睨めている近藤先輩の背中を見て急に同情心が芽生えた。彼女は何故か自分と近藤先輩が重なっているように思えた。大好きだった人にフラれる。大好きだった人が自分ではない別の人と結婚する。それは計り知れない悲しみ、無限の寂しさを生む。その人だけを愛していた時、その人の代わりはどこにもいなくて気持ちなんて全く切り替えられない。人は誰も信じられなくなった時、誰からも愛されず、守るべき存在も失った時、生きる指針をなくす。そして弱き者は孤独から抜け出せずに灰のようにいなくなる。永遠に。
「雛乃もいつか誰かと結婚するんだよね。なんか寂しいな。ずっと三人だったのに、そこに誰か入るんだ。」
薫の言葉が耳の奥で鳴った。薫が嫌だと言ってもそこに誰か加わればいい。涼介のことを忘れるくらいその人に夢中になっていつか月日が流れた時に、そういえば昔の私は涼介が好きだったんだ。あの時は辛かったな。今は全然平気だけど。そう思える時が来ればいい。雛乃は今、涼介と関われば関わるほどに生まれる欲望を別の誰かで抹消したいと願っている。
「お腹いっぱい。結構食べちゃった。」
食事を終えて店を後にした薫がお腹をさすって満足げに喋る。
「この後どうする?」 薫がさらに尋ねる。
「明日も仕事だし今日は帰ろう。涼介が待っているよ、きっと。」
雛乃の言葉に薫が賛同する。
「確かに、明日も朝から仕事か~。早く休みになれー!」
祈るように両手を合わせる薫に雛乃が笑った。
「じゃあ、駅まで一緒に行こう。」
一歩先にいる薫が振り返って笑顔で雛乃を見つめる。この人を裏切ってはいけない。雛乃の心の中で本能が呟いた。薫を裏切ることは間違っている。彼女はこんなに優しくて雛乃を友達だと思っているのに。もう忘れたの?昔のことを。高校一年生の時、雛乃を唯一庇ったのは彼女だったじゃないか。
「あの二人まだ付き合っているんだって。涼介の奴、意外と上手くいっているんだね。」
一年B組の教室で机に座った薫が雛乃に言った。
椅子に座った雛乃は一瞬だけ薫を見上げて力なく、「そうみたいだね。」とだけ返して俯いた。
高校に入って、一人だけクラスの離れた涼介はすぐに同じクラスの彼女が出来た。涼介の彼女となった瀬尾歩美は長い髪を高いポニーテールにしてシャツのボタンを何個も開けてスカートが短い。薫と雛乃が廊下を歩いているとよく同じような子達と意味もなく大きな声を出して馬鹿騒ぎをしていた。
歩美は涼介と小学校からの幼馴染である雛乃に嫉妬していた。そのため雛乃が近くを通ると彼女に冷たい視線を友人たちと共に送りつけた。歩美が陰で雛乃の悪口を言っているのは本人も分かっていた。涼介はそれに全く気付いていない。
六月に交際を始めた涼介と歩美は秋になっても冬になっても関係が続いていた。
「あの二人、このままずっと付き合い続けるのかな。」
不安げに呟く雛乃に薫が冷静な声で、「そのうち別れるでしょ。」と返した。涼介と歩美がいるところに遭遇しても薫は特に気にする素振りを見せなかった。楽しそうに雛乃とお喋りをしてその場を素通りした。
雛乃は家に帰ってたまたま部屋のカーテンを開けると涼介が歩美を家に入れているのが見えた。涼介の父も母も仕事で家にはいない。祖母の透子は日課である散歩のついでにご近所さんと長話をしてしばらく帰ってこない。嫌だ。雛乃の中で嫌悪感が芽生える。涼介と歩美が家の中でしていることを想像しただけで悲しみと同時に歩美への憎しみがさらに勝った。
「彼女と順調じゃん!」
放課後、歩美を待っている涼介に薫が後ろから背中に軽いパンチをして茶化す。涼介は振り返ってグーの手を当てられた背中をさすりながら冷静な顔で薫を見た。雛乃はそれを笑うことも出来ずに横でじっと見ている。学生たちは冬休みを終えて授業にあくびをする元の日々に戻っていた。
「涼介と瀬尾歩美、すぐに別れると思っていたけどもう付き合って半年以上経ってるよ。結構長続きしているね。」
薫の言葉を聞きながら女子トイレに向かった二人はそれぞれ個室に入る。用を足していると後から入ってきた女子たちが水道の鏡の前で喋っている。その中に瀬尾歩美がいることに雛乃は声で気づいた。
「てか、さっきいたね。安達さんだっけ?」
「ああ、赤木君の彼女気取りの子ね。」
瀬尾歩美の友人たちが個室にいる雛乃の存在に気づかないまま会話をしている。雛乃は自分の名前を呼ばれるたびに血の気が引いていくのが分かった。
「あの子ってさ~私が涼介の家に行くといつも窓から覗いて見ているんだよ。恐いよね。ああいう地味な子って何するか分からないし。」
瀬尾歩美の声が女子トイレに響く。雛乃の心がナイフで刺されたような感覚になった。知っていたんだ。二人が家の中へと入っていく瞬間をいつも窓の外で見ていたことを。
「何それストーカー?こわっ」
瀬尾歩美の友人が低い声で言う。その瞬間トイレの個室のドアが開く音が響いた。
あっと言う瀬尾歩美たちの気まずそうな声が聞こえた。雛乃はハッとする。薫……。
トイレ内に叫び声が響いた。薫が瀬尾歩美の肩を強く押して平手打ちをしたのだ。
「何すんのよ!」
瀬尾歩美の声と共に二人は互いの髪やシャツを掴みあってそれを友人たちが止めようとするがどうすることも出来ない。二人の喧嘩をトイレに入った女子たちが見て皆棒立ちになっている。やがて誰かが呼んだ先生が駆けつけて二人を制止した。雛乃はその間、一度も個室から出ることが出来なかった。教師が抑えて二人を連れて行こうとした時にようやく個室のドアを開けた。驚いた顔をする瀬尾歩美とその後に気まずそうな表情を見せるその友人たちの顔があった。
トイレから出ると滅多にない揉み合いの喧嘩を見に来た野次馬女子たちの外れで中に入れず外で様子を窺っている男子たちの中に涼介の姿があった。
「あんたって女見る目ないね。」
教師に連れて行かれる際、薫が近づいてきた涼介に吐き捨てた。瀬尾歩美は涼介を見ることなく去って行った。後から静かに出てきた雛乃の存在に気づいた涼介と目が合う。雛乃はその視線を黙って逸らして覇気を感じない足取りで教室へと向かった。
後日、雛乃は薫に感謝と謝罪を伝えた。
「薫は私のために動いたのに私は個室から出れなかった。」
雛乃が申し訳なく伝えると薫は笑った。「私が勝手に腹立てて動いただけじゃん。雛乃は無関係だよ。ありがとうもごめんねも必要なないよ。」
瀬尾歩美はその後すぐに涼介と別れた。話し合って別れたらしいがその詳細を二人は何も聞かなかった。薫はいつもの薫に戻って何事もなかったように涼介と接した。涼介もそれに安心して前と変わらずに二人と接して気づけば三人はまた元通りになっていた。
ほら、裏切ってはいけない。
駅の改札が段々と近づいていく。薫の背中が帰宅ラッシュの多くの人々に混ざっていく。改札に向かって皆電子マネーを片手に歩き出す。雛乃は思わず薫の名前を叫んだ。薫が振り返る。
「お店に忘れ物したみたい。先、帰っていいよ。じゃあね!」
薫が何か言いたそうだったのを聞かずに雛乃は走った。薫は雛乃を止めることが出来ずにそのまま人ごみへと流されていく。雛乃は走って駅の人ごみを抜け出すとそのまま早足で向かった。涼介と再会した時に二人で行った自然公園へと。
春が終わり、始まりかけの夏。公園から虫の音色が聞こえる。
雛乃は公園のベンチに座る男の前に立った。
「どうしてここにいるの?」
雛乃が尋ねると男が顔を上げて目が合う。そして笑った。いつもの涼介の笑顔だった。
「雛乃に会ってから懐かしくて何となくまた来た。何で雛乃はここに来たの?」
それはまた自分と会いたいと思ってここに来た、そう解釈していいのだろうか。雛乃は理性を捨てて本能でここまで来た。今までそんなことしたことなかった。常に内気な自分と理性に負けていた。大胆な人間に憧れの眼差しを向け、自分はいつだって消極的。そのせいでいつも欲しいものを手にすることが出来ない。
雛乃は静かに口を開く。
「私は…涼介に会いたくてここに来た。わずかな期待のためにここに来たの。今も涼介が好きだから。」
涼介はベンチに座ったまま黙って雛乃を見上げていた。少し驚いた顔をしている。雛乃はそれを見て涼介に近づくと彼の顔を両手で包み込んで口づけをした。一瞬の時の流れ。公園内には他にもカップルがいてキスする二人を一瞬だけ見る者はいても誰も気にする様子はない。
唇を離した雛乃は涼介と目が合うが恥ずかしさですぐに視線を逸らし、「ごめんなさい。」と謝る。
涼介が何かを言おうと口を開く。しかし雛乃はそれを聞かずにその場を走り去った。
「痛っ。」
公園を走って離れた後、足の痛みで走るのを止めた。左足のパンプスを脱ぐとかかとが靴擦れしている。痛みと同時に自分のしてしまったことに激しい後悔を覚えた。なんてことをしてしまったのだろうか。もう後戻りは出来ない。雛乃は本能に勝ち、本能に敗れた。取り返しのつかない事態になった。涼介にフラれるかもしれない。上手くいってしまったら今度は薫を裏切ることになる。抜け出したいと思っていた迷路はさらに複雑になり、ますます抜け出すのに困難となった。これからどうすればいいのだろう。漠然とした不安を抱える雛乃だが、それと同時に涼介にしたキスが記憶で蘇り顔が赤くなっていくのが自分でも分かった。久々に恋をした時のときめきや恥ずかしが生まれる。それと同時に薫への罪悪感と、この先の不安が足された。どうしてもっと早く行動を起こさなかったのだろう。靴擦れした足を引きずりながら歩く。もう少しで駅に着く。涼介が追ってこないか不安だったが結局追ってくる様子はなかった。安堵と追ってきてくれなかった悲しみが雛乃を襲った。
改札を過ぎてプラットホームで電車を待つ。薫は今頃、家で涼介の帰りを一人待っているだろう。雛乃と今さっきまで会っていたことも、その後の出来事も何も知らずに。
回送電車が雛乃の前を通り過ぎた。風で雛乃の髪がさらさらと揺れる。