真夏の記憶
薫と涼介が暮らしているアパートは小奇麗なよくある二階建てのアパートだった。
二人で住むその家は決して広くないが一人暮らしならばそれなりの広さがある。
涼介はお風呂から上がってテレビを点けると頭を拭いたタオルを首にかけてTシャツに短パンというラフな格好で床に座ってベッドの壁に寄り掛かった。テレビはたまたまやっていたドッキリ番組を観る。VTRを観ていた芸人や売り出し中の若手の女優や今人気の俳優、タレントなどが次々と感想を述べて時には変なものまねを挟んだりボケたりしていた。ボーっとその番組を観ているとドアの方から鍵を開ける音が聞こえた。ドアの方をじっと見つめていると扉が開き、薫が明るい声で、「涼介ただいまー!」と叫んだ。
立ち上がる涼介。歩いて近づいてくる薫に、「おかえり。初出勤どうだった?」と尋ねる。
薫は涼介を避けるとベッドに倒れこんで眠そうな顔をした。
「楽しかったよ、雛乃がいたから。そういえば飲み会で雛乃の隣に座っていた男が雛乃にやたら話しかけててさ、あれ絶対雛乃のこと狙ってるよ。分かりやすい男。」
そう言っている薫の目はもうトロンとしていてまぶたが何度も閉じようとしているのを薫は必死に持ち上げようとしている。
「へえ。そんな人いるんだ。」
涼介が薫の寝ているベッドの傍に座って薫の方を見つめる。
「懐かしいな雛乃、最近全然会ってないし。」
涼介の呟きに薫は眠さで返答をすることが出来ない。
「眠いなら寝ちゃえば?」
「駄目だよ、明日も仕事なんだから。お風呂入らないと。」
薫は眠い身体を無理やり起こして立ち上がった。そしてお風呂場に向かう前に涼介の唇にソフトなキスをした。
「ごめん、こんなお酒臭い口で… 」 薫が全く申し訳なさそうに見えない表情で涼介を見つめる。
「いいよ、別に。今更だよ。」 涼介はそう言って笑った。
薫は照れ笑いを浮かべてその場を立ち去る。涼介はその背中を黙って見つめていた。
「ここまででいい。」
走っているタクシーを止めるように雛乃が晃平に言う。
さっきから膝の上に乗っている鞄をぎゅっと握りしめていた。雛乃がタクシーを止めたそこは駅の手前にある駐輪場だった。朝、自転車で家を出ると雛乃は最寄駅の近くにあるこの駐輪場に自転車を置いていた。
「自転車で帰るの?やっぱり危ないから家まで送るよ。」
晃平が心配そうに聞くが雛乃はそれを遮るように、「大丈夫!」と強く返した。
「ちゃんと自転車押して帰るから。」 笑顔で話す雛乃。
「そういう問題じゃないよ、夜道なんだから。ここまで来て女の子を一人で帰すわけにはいかないな。」
晃平が得意げに笑う。雛乃はその手には乗らないぞとばかりに晃平と同じくらい強気な笑顔を見せた。
「残業の時は終電に乗って帰ったこともあるんだから、大丈夫よ。」
「いや、駄目だ。俺は気になっている女の子を危険に晒すことは出来ない。やっぱり家まで送るよ。」
晃平が雛乃の腕を掴んだ。長らく男の人とこんな風に触れあっていないせいかドキッとした。よくよく見ると整った綺麗な顔をしているな。彼の顔を見て雛乃は一瞬そう思ったが腕に掴まれていた手を振り放してタクシーを降りた。そのままわずかな距離を振り返らずに進んで、「また明日!」そう叫んで自転車乗り場に向かった。
晃平は追いかけようか悩んだが、くどい男だと思われたら嫌だという気持ちと雛乃が望んで動いたことのため、そこは尊重しなければならないと考えて止めた。彼は自転車を引っ張る雛乃の後ろ姿を見えなくなるまで目で追って姿が見えなくなるとようやくタクシーを自分の家へと走らせた。
自転車を押して歩いている雛乃は静かな夜道を一人でぼんやりと歩いていた。
雛乃はさっきまで一緒にいた薫の顔を浮かべる。幸せそうな笑顔をした薫。涼介との関係は良好なのだ。
涼介の結婚相手が何故自分じゃなくて薫なのか。雛乃は分かっている。自分は涼介と同じくらい、いやそれ以上に消極的だった。その性格は今でも変わっていない。いつだって控えめで、しかしその控えめな女らしさをさり気なく誰かにアピールする力もない。そして薫のように堂々としていて、それなのに落ち着いた雰囲気も持ち合わせていない。周囲の印象はただの大人しい子で終わる。雛乃は薫の明るくタフで頼りがいのある性格に憧れている。それはどれも雛乃が持っていないものだからだ。
雛乃は思い出す。涼介はいつから薫を好きになったのか。薫と出会う前、涼介と雛乃は唯一無二の幼馴染だった。
小学校五年生の時、静岡で一人の転校生がやってきた。名前は赤木涼介。
涼介は雛乃の隣の家に引っ越してきた。雛乃と涼介は母親同士が仲良くなったことから自然と二人も仲良くなった。涼介の父、直仁は静岡で営業の仕事をしているごく普通のサラリーマンで母の雅美は木曜日から月曜日までの週五日、近くのピアノ教室に勤務していた。
雛乃と涼介は学校が終わると毎日のように二人で遊びまわっていた。時には雛乃の弟の小太郎も交えて三人で遊ぶ時もあった。
「仲が良いね。将来、雛乃ちゃんが涼介のお嫁さんになればいいさ。」
涼介の家には十二年前に夫をがんで亡くした父方の祖母が同居していた。祖母は雛乃と会うたびにそう呟いていた。雛乃が朝、学校に行くための登校班に涼介と合流するとき祖母が毎朝、外でラジオ体操をしていたことを彼女は今でも覚えている。
小学六年生の時、二人で秘密基地を作った。秘密基地と言っても家に一番近い自然公園の大木近くの草むらで草を刈って目印になるように小石を並べたりしてそこで肩を並べてくだらない遊びを延々としているだけだが、秘密基地の傍では大声で喋りあっていたのに中に入ると何故か小声で話し合った。
「雛乃、僕は雛乃が好きだ。」
二人で何度も生えてくる雑草を引っこ抜いていた時、突然涼介がそう言った。
雛乃は驚いて涼介の方を見たが彼は頬を赤らめたまま雛乃に顔を向けずに、そのあと黙々と雑草を抜いていた。二人の間に沈黙が生まれる。夕日の中に蝉の鳴き声が響き渡る季節だった。
「私も好き。」
雛乃がそう告げて涼介の顔をちらっと覗く。涼介はやはり顔を合わせてくれなくて、でも少しだけ笑みを浮かべていた。雛乃はそれが嬉しくて静かに笑った。雑草を抜いているだけなのに、目も合わせていないのに、二人はこの瞬間が永遠に続けと願った。
涼介に告白され両想いだと判明してもそのあと二人の関係が変わることは特になかった。前よりも目が合ったときに、はにかむ回数が増えたくらいで当時はまだ付き合うという概念は未熟すぎてなかった。ましてや涼介の祖母が言っていた結婚なんて考えられもしなかった。
( 雛乃、雛乃。)
まだ声変りをしていない涼介が何度もそう呟く。あの時の二人は間違いなく誰も入り込めない関係だった。
「雛乃さん、今日そうやって仕事をしているってことは昨日無事に帰れたんだね。安心したよ。」
会社で書類を取りに廊下を出ると晃平が近づいて笑顔でそう言った。
「もういい大人なんだからそんな心配いりません。」
雛乃が少し素っ気なく答える。
「そう?いい大人でも力がない者は危ないと思うけど。」
晃平が訝しげな表情で返した。
雛乃は周囲を見渡す。会社には沢山の人間がいる。入ったばかりの新入社員と早々に噂になりたくない。
「今、仕事中だから。こういう話は勤務外にして。」
雛乃はそう呟いてその場を立ち去ろうとした。
「雛乃さん今度二人で遊びましょうね!」
背後から晃平の声が中々の大きさで聞こえた。数人の社員が二人を見ているのが分かる。雛乃は思わずうな垂れながら晃平の言葉を無視してその場を逃げるように去った。
早足で廊下の曲がり角を曲がると壁に背をつけた薫が待ち受けていて驚いた雛乃は思わず後ずさりした。
薫はニヤニヤした表情で腕を組みながら雛乃を見つめている。
「何?」と雛乃は動揺しながら薫に聞く。
薫は表情を変えずにニヤついたまま、「お坊ちゃんといい感じ?」と言った。
「そんなんじゃないから。」 雛乃は強めに返して薫の顔を見ずに彼女を横切った。
勘違いしないで。私が好きな人は彼じゃない。雛乃はそう思ったがそんなこと誰にも言えない。
「雛乃ちゃんってさ、四組の赤木と付き合ってるの?」
中学一年生になった雛乃と涼介はそれぞれ友人に何度もそういった質問を受けた。二人が幼馴染で仲が良いことは学校中に広まっていてクラスは離れていてもみんなが二人の関係を認識していた。
二人はそう質問されるたびに付き合っている事実はないことを同級生たちに伝えていた。
「好きなの?」
多くの人がそのあとそう聞く。二人は最初こそ、その質問に戸惑いを見せたがやがて当たり前のように互いに向ける好意を否定した。否定すればするほど雛乃は涼介への想いを募らせ、涼介は雛乃以外の女子と目を向けようとした。そのため内気な雛乃と違って涼介はたびたび雛乃が知らないクラスの女子と楽しそうに絡んでいる姿が目撃された。雛乃はそのたびに胸が張り裂けそうになって彼から目をそむけた。
その頃、一組の雛乃のクラスに二組の薫が別の女友達に会いに頻繁に顔を見せていた。雛乃はまだ薫の名前を覚えていなかったがよく顔を見せては友達と楽しそうに会話して笑い声が響く明るい薫をたまにボーっと見つめていた。薫と友達になるなんてその頃の雛乃はまだ微塵も思っていなかった。
「雛乃さん、途中まで一緒に帰りましょう。」
今日は残業もなく無事仕事を終えた雛乃を笑顔の晃平が待ち受けていた。
晃平の積極性に雛乃は苦笑しながらも内心、感心していた。薫のようだ。雛乃は自分の気持ちに素直な晃平にほんの一瞬憧れを抱いた。
「あれ、総務の河西さんですよね?」
雛乃の後ろから薫が顔を出した。
「もう仕事終わったんですか?」 薫が晃平に尋ねる。
「そう。雛乃さんに一緒に帰ろうって言ったら今、あからさまに迷惑そうな笑顔を向けられたところでね。」
晃平がそう言って雛乃に笑顔で同意を求めた。雛乃は同意できずにまた笑って誤魔化す。確かに少しだけ晃平が言っている気持ちもあったのだ。
「じゃあ駅まで三人で帰りましょうよ。」 薫の提案に雛乃は、え?と嫌そうに返した。
「いや~、今の反応で雛乃さんの本心が見えちゃったな~。でも俺、車通勤なので飲み会があるとき以外は電車に乗らないんですよね。今日も車なので。」
「車?まだ入社したばっかなのに、大学生の時にでも買ったの?」 薫が聞く。
「はい。おじいちゃんが大学の入学祝で買ってくれたんですよ。」
爽やかな笑顔の晃平。お坊ちゃんだ……その時、二人は同じことを思った。
「でも会社近の先にあるコンビニに用があるんでそこまで一緒に帰りましょう。」
晃平の一言で三人は途中まで一緒に帰る羽目になった。
三人で肩を並べている間、雛乃は二人と上手く会話できずにただ黙り込んでいた。薫と晃平はお互いに積極的な性格のため話したいことや気になる質問をどんどんとしていて綺麗な放物線を描いた会話のキャッチボールが出来ていた。
「あ、そうだ。」
会社を出た時、薫が思い出したように呟いた。
「さっき連絡が来てさ、この近くに仕事があったから会社前で待ってるって言ってたんだよね、涼介。」
携帯を片手に何気なく言った薫。雛乃は思わず顔色が変わった。嘘でしょ。だって長らく会っていない。急に戸惑う雛乃の表情をこの時、晃平は見逃さなかった。
「あ、いるよ。」
薫がそう言って名前を叫んだ。
「涼介ー」
会社を出た外で作業着のような恰好をした男が一人立っていた。雛乃と目が合う。何も変わっていない、昔のままの顔。
涼介が薫に手を振って近づいてきた。
「今日はもう仕事ないの?」 薫が優しく尋ねる。
「今日はもう終わったよ。帰れる。」
久しぶりの涼介は声も喋り方も何も変わっていない。雛乃は久々の再会を果たした涼介をただ呆然と眺めていた。最後に会ったのはもう何年前だか覚えていない。薫と涼介が結婚をしてお祝いをしに行った時以来だろうか。あの時も雛乃の心は苦しくて二人の笑顔を見るのが辛かった。
「私の夫の赤木涼介です。」
薫が晃平に涼介を紹介する。状況を呑み込もうと黙っていた晃平がすべてを理解したように笑った。
「ああ!旦那さんね!へえ~爽やかですね。総務の河西です。雛乃ちゃんと仲良くさせてもらってます。」
涼介が、ああ~なるほど。と言って雛乃の方を見た。雛乃は咄嗟に目を逸らした。
「仕事場はこの近くなんですか?」
晃平が興味津々に尋ねる。涼介は相変わらず爽やかに笑う。
「いや、今年から新橋にある本社に移動になって…」
あ、そうなんですか。晃平は当たり障りのない返事をしてラフな作業着姿の涼介を一瞥すると少し遠慮がちに、「何の仕事をなさっているんですか?」と聞いた。
「業務用電子機器の修理ですね。」 涼介は笑顔で答える。
彼は千葉から東京の新橋に本社を構える大手家電メーカーで修理を担当している。そのため外回りが多く、今回はたまたま雛乃たちがいる会社の近くに仕事があった。
雛乃たちが働いている会社の近くは無数のビルが並んだ所謂オフィス街である。涼介は度々このオフィス街で依頼された修理の仕事をしに足を運んでいた。
「へえ~この人が薫さんの旦那さんかー。」
四人は歩きながら会話をすることにした。晃平はさっきから涼介と喋りながらも雛乃の様子を窺っている。
「ここには頻繁に来るんですか?」 晃平が聞く。
「たまに来ますね。新橋と品川って近いんでよく仕事が来るんですよ。たまに薫がいるこの会社も横切ったりしますね。」
たまにここに来ているんだ。雛乃は心の中で密かに思う。
「てか、雛乃さんも涼介さんと幼馴染ですよね?さっきから黙っているけど喋らないんですか?」
晃平が気になって突っ込んだ。薫がそれを聞いて笑いながら、「久しぶりすぎて緊張してる?」と言う。
「いや、今更緊張なんてしないですよ。僕と雛乃は小学校からの仲で親同士も仲良いので。」
雛乃の代わりに涼介が答えた。
「そんなに仲が良かったのにねえ……」
晃平が雛乃にしか聞こえない声の大きさでぼやいた。
そんなに仲が良かったのに。そんなに仲が良かったのに。
雛乃は唇を噛み締めて感情を抑えた。そして涼介に笑顔を向けると言う。
「涼介久しぶり。なんか全然変わってないね。」
そう言って笑う。笑うのはこんなに苦しいことなんだ。これが雛乃の心の声だった。