何も知らない
「おかえりなさい。」
仕事を終えて帰宅した涼介を、味噌汁を作る薫が笑顔で迎えた。
その笑顔を見て彼はホッとする。彼女が突然いなくなってからどん底に突き落とされたように暗い顔をしていた薫が最近ようやく笑顔を見せるようになっていた。早く元の薫に戻ってほしい。涼介は切に願う。
ナスの味噌汁にキャベツと豚肉の炒め物、きゅうりの漬物と白いご飯が湯気を立てて二人の食卓に並ぶ。小さなテーブルの前に座る二人が同時に味噌汁の入ったお椀を手に持った。
「雛乃のね、実家に電話をしてもやっぱり何も知らないって言うの。でも最近おかしいなって思う時があるの。本当は雛乃のお父さんもお母さんも知っているんじゃないかって思うの。雛乃の居場所。小太郎君はまだ電話に出てないから今度は小太郎君に電話してみようかな。雛乃のお母さんたちが知っているのなら小太郎君だって弟なんだからきっと何か知っているわよね。」
薫の言葉を涼介は無言で聞きながら味噌汁を啜った。
「薫の味噌汁は美味しいね。」
涼介が笑顔で言うと薫は苦笑した。そして何かを諦めたような表情でご飯を食べる。
涼介は最後に雛乃に会った三か月前のことを静かに思い出した。彼女の頬を濡らした沢山の涙たち。雛乃が何故あの時、泣いていたのか未だに理由は分かっていない。しかしあの後すぐに雛乃は仕事を辞めて自分たちの前から姿を消した。連絡もつかず、どこにいるのかも分からない。薫はいなくなった雛乃を必死に探している。
「雛乃がどこにいるのか探偵とかに頼めばいいのかな?」
この前、テレビを観ながら呟いた薫を思い出す。和やかだった二人の空気が一気に暗くなった瞬間。
「お母さんのところにも仕送りをしているのに、僕たちに探偵を雇うお金なんてないよ。雛乃は何か理由があって姿を現せないだけでいつかまた会えるよ、きっと。」
涼介が優しく諭すと薫は力なく頷いて彼の肩にもたれかかった。
寄り掛かる薫を受け入れてテレビを観ながらも涼介の頭の中はぼんやりとしていた。雛乃と最後に会ったことを涼介は薫に話せずにいた。何も知らない薫を涼介は横目で見ながら彼女の体の熱を肌で感じる。
都会のオフィス街は相変わらず人通りが激しくて、うるさく賑わっている。
ごめん、もう少しで仕事終わるから待ってて。
携帯画面に映された薫のメッセージを読み上げながら薫のいる品川の会社の前で涼介は無数の窓が灯りをともしている高いそのビルを見上げた。後ろでは大きな声で笑いながら集団で通り過ぎていく若いサラリーマンたちと道路を走る車のクラクションやバイクのエンジン音が騒々しいが、もう耳が慣れていて何とも思わない。今夜はたまたま薫の働く会社の近くで仕事を終えたため、一緒に帰るためにこうして彼女が現れるのを待っていた。足元に落ちた枯葉がカラカラと音を立てて風に乗っている。まるで生きているみたいだ。秋の風に髪を揺らしながら枯葉を眺めていると背後から声を掛けられた。
「あの、すみません…。」
涼介は一瞬、自分ではない別の人に向かってかと思いながら何となく後ろを振り向くと黒髪を綺麗に一つに束ねた女性と目が合った。目の奥が輝いていて、幼さが残っている彼女の顔を惚けた眼差しで眺めた。
「はい。」と間の抜けた声で返事して涼介はその女性を不思議な顔で見つめる。
彼女の雰囲気からして明らかに知り合いではない。道でも聞かれるのだろうか。
「あ、突然すみません。声かけちゃって……。私、この会社の経理部の明地玲奈って言う者です。えっと、もしかして赤木薫さんの旦那さんですか?」
緊張した面持ちで玲奈が尋ねる。涼介はハッとして、「はい、そうです。」と返した。玲奈は安堵した表情で頬を緩ますと、
「良かった~、人違いじゃなくて。前に一回だけ会社の前で奥さんを待っているのを見ていたんですよ。それで、もしかしたらって思って声をかけたんですけど。赤木さんには同じ経理部でお世話になっています。」と照れた笑みを浮かべた。
涼介も話を聞いて彼女が何者なのか分かるとホッとして笑顔になった。
「いえいえ、こちらこそ。妻がお世話になっています。」
二人の横を仕事を終えて会社を出た人たちが何人も通り過ぎていく。玲奈はその人たちを横目で見ながら様子を窺うように、「最近、色々あって大変ですね…」と声を小さくして涼介に憐みの表情を浮かべた。
涼介はすぐにそれが行方不明になっている幼馴染の雛乃のことで、そのせいで薫が落ち込んでいることも言葉の意味に含まれているのだと思って、控えめに小さく会釈した。玲奈は涼介に心底、可哀想に思っている目を向ける。
「私、安達さんのことが同じ職場の先輩として大好きでした。とても優しくて、親切で…。でも、もう安達さんと二度と会えないなんて。あんなことがあったから。可哀想に。裏切られることほど辛いことはないと思います。」
涼介は雛乃に一体何があったのか分からないため、いかにもそれを知っているように喋る玲奈をただぼんやりと眺めることしか出来なかった。
「旦那さんはどうするんですか?このまま本当に離婚しないんですか?あんなことがあって安達さんは河西君と別れたのに、薫さんと離婚しないでいいんですか?」
心配そうに涼介を眺める玲奈に彼は頭が真っ白になった。どういうことだろか。彼女は一体何を言っているのだ。その言葉たちが何を意味しているのか、涼介の中で徐々に浮かび上がってきて、嘘だ!と逃げたくなる。玲奈は呆然とする涼介の表情を見て全てを理解した顔になった。
「何も知らないんですね、お気の毒に。安達さんはきっと薫さんやあなたの前に二度と現れないと思います。河西君の前にも、二度と。薫さんは安達さんがいなくなっても旦那さんに何も言っていないんだ……凄いな。」
目の前に立つ人間を憐れむように、それでいて冷めた目で見つめている玲奈。涼介は首筋に当たる風が冷たくて身震いしそうになった。かくしごと。
玲奈は涼介を見つめて最後に、「でも……」と躊躇いがちに言うとその後はハッキリと責めるように尋ねた。
「そんなに長くいて今まで奥さんの何を見ていたんですか?」
今日の風はこんなに冷たいはずがない。朝から天気予報で暖かい風だと予報士が言っていたのだ。薫もそれを聞いて、「それなら厚着しなくていいね。」と笑っていた。涼介は薫の笑顔を見て、嬉しかった。元の生活に戻れると思っていた。だって彼女は笑っていたから。
会社から出る人の数がさっきよりも増えた。玲奈はそれを見て警戒するような眼差しで周りを見回すと、「さようなら。」と言ってその場をサッと離れていなくなった。一方の涼介はその場から一歩も動くことが出来ずにただ項垂れて通り過ぎる人々の足音を聞いていた。自分だけが取り残されているような気分になる。
急に誰かに背中を押されてゆっくりと振り返ると薫と目が合った。薫が涼介に笑いかける。
今まで奥さんの何を見ていたんですか?
「帰りにスーパー寄ろうよ。」
さっきまでのことを何も知らない薫が当たり前のように話しかける。その奥に秘密があるなんてとても思えないように。涼介は、「ああ…」と短く頷いて薫の手を握った。薫の手はいつにも増して冷たかった。すると二人の間に大きな向かい風が、ピューッと吹いて二人の髪が大きく乱れた。薫は咄嗟に握っていた涼介の手を離して乱れた髪を整える。涼介は髪を乱したまま離されたことによって行き場をなくた手をどうすることも出来ないまま、執拗に髪を触る薫をただ黙って見つめていた。
「涼介、ポストの中見てくれる?」
スーパーの袋を両手に持った薫がドアの前に立ちながら言うのを聞いて涼介は自分たちのポストの中を開けて覗いた。チラシ厳禁と書いても毎回平然と入れてくるパチンコ店のチラシが一枚入っていた。涼介はそのチラシを手に取って薫に見えるようにひらひらと揺らしながら見せた。
薫が苦笑いしながら、「両手塞がっているからドアの鍵、空けて。」と、お願いする。
チラシをクシャクシャに丸めながらポストの扉を閉めようとするとポストの中に白い封筒が入っているのに気が付いた。
誰からだろうか。思わず手に取ろうとしたが、何故か目の前に薫がいるのが気になって何も見ていないようにポストの扉を閉めた。そして薫にはそのことを何も言わずに何事もなく傍に寄ってドアの鍵を開けた。
家に着いて涼介はそのまま部屋にあるテレビを点けて、いつものようにバラエティ番組を観始める。テレビから聞こえる笑い声と共に薫が包丁でキャベツを刻む小気味よい音が奥から聞こえる。薫には見えていないはずなのにテレビを楽しそうに観ている自分を何故か無意識に演じていた。バラエティ番組の中で聞こえる観客の笑い声と共に笑ってみせるが、頭の中は別のことでいっぱいだった。
さっきまで話していた玲奈の意味深な言葉たちがずっと頭の中で綺麗な文字の羅列として浮かび上がっていて、そのまま薫の顔を見ると何もかも分からなくなる。そして薫のことが恐くなる。
昔から薫の考えていることが分からなかったが気にしたことなど殆どなかった。だけど今は薫が何を考えているのか分からない自分に不甲斐なさを感じている。怪しもうと思えばいくらでも怪しめた。どうしてもっと早くに気が付かなかったのだろうか。薫と晃平の関係を。
涼介はもうテレビの音などBGMにすらなっていない状態で笑うことを止めて二人の関係のことを考えている。彼は雛乃がいなくなったのは自分せいだと思っていた。雛乃の気持ちを拒んで、あんなに苦しそうに泣いていた彼女に薫への気持ちを告げて更なる追い打ちをかけた。自分への失恋のショックでいなくなったのかもしれないと思う時があった。しかし何も知らない彼でも今唯一ハッキリと分かったことは、雛乃がそんな単純な理由でいなくなったのではないということ。雛乃はあの時、涙を流しながら自分を見て何を思っていたのだろうか。心の中に憐みはあったのだろうか。何も知らない自分を見て、可哀想な男だと思っていたのだろうか。
「今日さ、お好み焼きなんだけどマヨネーズないからソースだけでいい?」
フライ返しを持った薫が冷蔵庫を覗いた後に聞いた。涼介は一瞬、頷こうかと思ったがハッとして、「今日はマヨネーズが欲しいからそこのコンビニで買ってくる。」と言って小銭を持って家を出た。
薫は、「そうなの?ありがとう。」と特に気にしていない様子で料理を続けた。
コンビニで買ったマヨネーズの入った小さな紙袋を下げたまま涼介は先ほど覗いた郵便ポストをまた開ける。白い封筒がさっき見た時と変わらずに入っていた。不思議なオーラを醸し出すその封筒を静かに手に取って裏表を交互に見る。この家の住所と宛名は薫の名前であった。赤木薫様。
差出人の欄は何も書いていないがこれが誰の書いた手紙なのか涼介には当然分かる。子供の時からこの字を見ていたのだから。
涼介はその手紙をズボンのバックポケットの中にしまって少し長めのトップスの裾で隠した。
「マヨネーズ買ってきたよ!」
ドアを開けた涼介が明るく言うとお好み焼きの入った白い皿をテーブルの上に置いていた薫と目が合って、彼女が優しく笑いかけてきた。白い湯気を立てたお好み焼きにかかったソースの甘酸っぱい匂いが鼻の奥に広がって彼は、「美味しそうだな。」と微笑んだ。
食事を終えた薫はお皿を洗いながら涼介に先にお風呂に入るように促したが涼介は漫画本を読みながらそれを拒んだ。テレビを点けっぱなしのまま漫画本に夢中になる涼介に薫は呆れたように小さなため息を漏らしたが、やがてお皿を洗い終えて、「じゃあ私が先に入るからね!」とキッチンから部屋に向かって叫んだ。
「そうしてよ。」
涼介の言葉を聞いて苛々した様子の薫が脱衣所に入って服を脱ぎ始める。涼介はそのまま漫画を読み続けた。お風呂場からシャワーの音が部屋まで聞こえた。涼介はお湯の流れるその音を黙って聞きながら漫画本をベッドの上に置くとバックポケットに隠し入れていた白い封筒を取り出した。その封筒はずっとポケットに入れていたためにヨレヨレになって皺がついている。シャワーの音に神経を尖らせながらハサミで封筒を切って中身を取り出した。中は数枚の手紙で、便箋に懐かしい彼女の文字が綺麗な羅列で並んでいた。
涼介は自分宛ではない、その手紙を静かに読み始めた。
薫へ
この字を見て私が誰なのかわかるでしょう。私がいなくなって薫は何を思いましたか?悲しい?寂しい?それとも嬉しい?
(省略)
私は仕事を辞める前にとてもショックな出来事がありました。今まで信じていた人に裏切られたのです。
薫を裏切って涼介に会っていた時、私は罪悪感と喜びの狭間で揺れていました。私の裏切りが分かった時、薫はとても辛そう見えました。
今ならその気持ちが痛いほど分かります。信じていた人に裏切られた時の苦しみ。何も信じられなくなって、その先の日々に待っているのは絶望。
薫、あなたのことはあなたが一番分かっているでしょう?
だからこの手紙に書かなくても自分のしたことを分かっているよね?
でも私はあなたのしたことを決して責めないよ。私にも薫に告げていない気持ちがあったからお互い様だね。
薫が裏切ってくれたおかげで私は今、ずっと胸の中にあったモヤモヤがすっと取れて楽になりました。私はもう二度と涼介の前にも薫の前にも現れないから安心して。
私は私で新しい人生を送ります。新しい人に出会って、新しい友達をつくって、新しい恋をする。
薫もどうかお元気で。さようなら。
雛乃
薫がお風呂場の扉を開ける音が聞こえた。涼介は持っていた手紙を自分の会社の鞄の中にしまって、ベッドの上に置き去りにしていた漫画本を手に持った。先ほどと同じ体制で漫画本を読んでいる涼介にお風呂上りでバスタオルを巻いた薫がタオルで髪の毛を拭きながら、「まだ読んでいるの?」と少し驚いた様子で聞いた。
「でも、もういいや。お風呂に入る。」
持っていた漫画本を本棚にしまって涼介が笑顔で立ち上がる。
「この漫画、何回も読んでいるのに本当好きだね。」
薫が感心したように涼介が本棚にしまった漫画を取り出して表紙を見つめる。涼介は薫のその姿を黙って見つめながらお風呂場に向かった。脱衣所で服を一枚一枚、脱ぎながら長いため息を吐いた。そして壁にもたれかかって顔を歪ませた。苛立ち、苦しみ、哀しみ、情けなさ、いくつもの感情が彼の心を襲ってどれを処理すればいいのか何も分からない。壁にもたれたまま俯くと足元に指輪が転がっていた。薫の結婚指輪。彼女は普段、指輪をつけていない。
「家事する時に邪魔になるから。」
いつの日かそう言って笑っていたのを思い出した。落ちているその指輪を拾い上げると薬指に常につけている自分の指輪と一緒に視界に入る。
いつから彼女の気持ちが離れていた?
涼介は薫の結婚指輪を見つめて、洗面台の上に置いた。主を失った指輪は洗面台の上でポツンと置かれたまま孤独だった。




