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あなたをずっと愛してる  作者: 黒乃白
13/16

全てを失った

「雛乃はどこにいるの?」

 薫が無表情で尋ねる。

晃平の目の前に久々の晴天となった空に浮かぶオレンジ色の夕日が見えた。

「俺は何も知らないよ。」

冷静に返すと薫は晃平の瞳をじっと見据えた。

「会社を何日も休んで家にもいないのよ?実家に連絡しても帰省していないし、私と涼介以外で雛乃が頼れるのはあなたしかいない。」

「そうなんだ。それなのに雛乃ちゃんが俺のところに来ないなんてそれは不思議だ。」

いかにも訝しげな表情で首を傾げると薫は首を振って呆れたようにため息を吐いた。

「どうして俺のことばっかり疑うのかな~。怪しいのは俺だけじゃないでしょ?」

ワザとらしいくらいに眉を下げて困ったような表情で尋ねる晃平。

「どういうこと?」苛立った声で薫が返した。晃平は薫の瞳をじっと見つめて、少しの沈黙の後、静かに言った。

「あんたの旦那だって本当に何も知らないとは限らない。」

薫は声に出して笑う。しばらく笑いが止まらなかった。晃平はそれを一度も笑わずに怒りの目で見つめていた。

「涼介は雛乃がいなくなっていることすら知らないんだから。私が言っていないの。それにあの人は嘘が下手だから隠し事をしていたらすぐに分かるから。私に内緒で雛乃と二人で会っていた時もすぐに態度で分かった。分かりやすいの。」

薫が涼介のことを思い出した時、わずかに目尻が下がった。深い親しみと愛が伝わるような表情だった。

「俺たちと正反対。」

晃平がぼそっと呟くと薫は表情を変えて彼を鋭く睨みつけた。晃平がまた乾いた声で笑う。

「そんなに気になるなら家の中に入って調べてみれば?その方が早いよ。」

晃平が中へ入るように誘う。薫は彼の怪しげな笑みに一瞬悩んで躊躇った。

「早く入れよ。」

有無を言わさない声で痺れを切らした晃平が冷たく言い放つ。彼が創り上げた、今更引き下がることの出来ない謎の威圧感に押されて薫は仕方なく足を踏み入れる。いつも通りの彼の家が異世界のように見える。この家はゴールのない暗闇。

中に入ってすぐのリビングにあるソファーに近づくと背後から晃平が抱きついてきた。固く巻きつけられた腕を離そうと必死で抵抗する薫を晃平はそのままソファーに押し倒した。嫌がる彼女に唇を押し付ける。薫は首を何度も振って抵抗したが、やがて諦めたように抵抗を止めて彼の動きに従った。苛立った表情の晃平の瞳の奥で見える哀しみの混ざった怒り。薫にはそれが見えた。

薫は笑って上にかぶさっている晃平にさっきのお返しとばかりに唇を押し付けた。二人の舌が絡み合って唾液の交わる音や漏れる吐息の声が部屋中に広がる。薫の着ている服をゆっくりと上にあげていく。彼女のお腹が見えて、やがて下着が見えた。下着をそっと上にあげると見慣れた乳房が姿を現した。

いつものように強く求めあう関係。強引な晃平に従い、時に大胆に返す薫。しつこく絡み合う身体が二人の表情を歪ませて甘い吐息や声を出す。しつこく、しつこく。何度も。二人はそれを止めない。お互いの複雑な感情から生まれた苛立ちや怒りが口論の代わりにこうやって身体を触れて強引に責めて責められてを繰り返すことによって誤魔化せる。だけど事が終わった後に生まれる感情は、苦しみ、哀しみ、後悔。

二人はいつだってそうだった。



 晃平がくれた合鍵を握りしめる雛乃。

久々に自分の住んでいるアパートに帰って荷物を片付けてからここに来た。

そこは晃平の住んでいるマンション。蒸し暑い外はもう少しで日が落ちる。

突然、家に入って晃平がいなかったらどうしよう。ふとそんなことが雛乃の頭を過った。しかし、それならば家の中で彼の帰りを待とう。雛乃は鍵を握りしめてエントランスに入る。テンキーの鍵穴に鍵を差し込むと自動ドアが開いた。エレベーターに乗って七階のボタンを押すと扉が閉まってゆっくりと上がっていった。誰もいない静かな密室に一人だけの緊張感が漂う。思わずスカートの裾をギュッと握りしめると寄れてしわが出来た。七階のボタンを点灯させたエレベーターの扉が静かに開いた。

外に出て晃平の家の扉まで来ると急に恐くなって逃げ出したい気持ちになった。彼にどうやって顔向けすればいいのか。今更、自分を受け止めてくれる?雛乃の気持ちが一気に弱気になる。

恐いけれど逃げ出せない。今、ここで逃げ出したら雛乃は一生何にも向き合えないような気がした。インターホンを鳴らすべきだったのかと今更考えるがもう遅い。それに晃平はいつでも入っていいと言う意味でこの鍵を渡してくれたに違いない。何度も自分に言い聞かせて雛乃は鍵穴に鍵を差し込んだ。鍵は穴に優しく入って、指に力を入れて回すとカチャッと言う歯切れのいい音が響いた。静かに引き抜いて息を潜めるようにドアを開けた。

扉の先には見覚えのある玄関が広がっていて、雛乃は前を見つめたまま扉を音を立てずにゆっくりと閉めて中に入った。玄関の先にあるリビングの方から何やら声が聞こえた。不思議に思って思わず耳を澄まして目を凝らす。そのまま進もうとしていると足元に何かが当たって動揺した。足にぶつかったのは靴だった。しかしそれは晃平のとは考えられない女物のパンプスだった。雛乃はこのパンプスをよく知っている。この靴を雛乃と会う時もよく履いていた。雛乃は足元をじっと見つめる。何故ここに、この靴が……?

やがて聞こえる声が女の声だと分かった。女の生々しい喘ぎ声。雛乃の頭がガンガンする。奥で聞こえる聞き慣れた女の声と見慣れたパンプス。雛乃は頭を抱えて顔を歪めた。乱暴に並んだ薫の靴と晃平の靴の間に雛乃の足元があった。彼女は口元を手のひらで覆って足音を立てずに、静かにドアを開けて外に出た。

そのままエレベーターを下るとマンションを出て早歩きする。どこに行くわけでもないのに足を止めずにただひたすらに歩き続ける。外は日が落ちて夏の夜空となっていた。星一つない曇った暗闇のような空。明日は雨が降るだろう。晴れていた先ほどの空と変わってまるで絶え間ない雨が降りそうな空に変わっていた。

雛乃は歩いていた足を止めて、近くにあった空き地の草むらに駆け寄った。急に激しい吐き気が襲って嘔吐した。胃の中のわずかな食べ物たちが胃液と混ざって外に出た。その瞬間、涙が止めどなく溢れた。ボロボロの状態で、のそのそと歩いてその場を離れる。歩いている間、声をしゃくり上げながら溢れる涙を手のひらで無理やり押さえつけた。

いつから裏切られた?薫も晃平も自分の前で涼しい顔をして、裏ではあんな関係だったなんて、、、

涙が止まらない。人通りの少ない夜道を歩いていると、近くに転がっていた空き缶が靴に当たって鈍い音を響かせた。そのままろくに前を見ずに夏とは思えないほど冷たいコンクリートの上を歩き続ける。

やがて雛乃は近くにあった誰も座っていないバスの停留所のベンチに腰かけて涙を落ち着かせた。そして鞄の中からごそごそと音を立てて携帯電話を取り出した。画面に触れて電話番号をコールする。

「お願い、今すぐ来て。お願い。」

電話に出たその人に雛乃は有無を言わさないような口調で伝える。電話越しで戸惑っているのが分かった。それでも引かない様子の雛乃にその人はどこにいるのか尋ねて、場所を伝えると電話が切れた。携帯電話を握りしめたまま夜が冷えていくのを半そでから出た二の腕から感じ取った。蒸した冷たい空気は肌触りが悪くて気持ち悪い。

一時間以上は待っていた。その間にバスが二回やって来たのを見送った。

やがて下を向いて、じっと待っている雛乃の足元に所々汚れが目立つくたびれたスニーカーが見えた。顔を上げると困った顔をしてこっちを見ている涼介がいた。

「どうしたの?」

泣きはらした雛乃の目を見て驚いた顔になる。涼介の目を見つめたまま何も言わない雛乃に彼はひとまず隣に座った。

「何があったの?」

何も知らない涼介が理由を知ろうと何個も質問してくる。

どうしてここにいるの?何で泣いているの?何で僕を呼んだの?彼氏と喧嘩したの?

何て話せばいいのか。雛乃は言葉を失って何も言うことが出来なかった。何も答えてくれない雛乃に涼介は困ったように頭を抱えて、やがて黙り込んだ。

しばしの沈黙の後、涼介が携帯電話を取り出して、「薫も呼ぼう。」と言い出した。

雛乃は涼介の腕を掴んで、「やめて!」と声を荒げた。彼は驚いた顔をして雛乃を見つめる。

雛乃は気まずそうに掴んでいた腕を離して、「薫には何も言わないで、お願いします。」と頭を深く下げた。濁った空が上から二人を眺めている。

「頭を上げてよ、雛乃。薫は呼ばないから。」

涼介の言葉に頭を上げようとする雛乃だったが、急に涙が溢れて顔を上げられなくなった。鼻水を啜りながらボロボロと涙をこぼす。涼介はまた困惑した表情で雛乃の頭をそっと撫でた。

「何があったのか分からないけど、きっと楽になる時が来るよ。」

柔らかくて優しい涼介の声。頭の上で伝わる彼の体温が温かかった。彼を抱きしめたい、彼を愛したい、そんな衝動に駆られる。

「雛乃、僕もね、苦しいんだ。」

彼の言葉に涙を止めて、ゆっくりと顔を上げた。頭の上に乗っていた彼の手が静かに離れる。涼介は力なく微笑んでいた。目を細めて、そこにいない誰かを想っていた。

「僕は何でこんなにも情けないんだろう。分からないんだ、薫の考えていることが。」

涼介の目から涙がこぼれた。彼の涙を見たのはいつ振りだろうか。昔、家の近所で可愛がっていた猫が死んだとき、彼は雛乃と一緒に泣いていた。あの時、雛乃の手を強く、ギュッと握ってくれた。寒くてかじかんだ手から彼の温かな体温が伝わって、悲しくて泣いているのに彼の温もりのお陰で心細くない。まだ幼い小学生の冬だった。

「涼介、薫がそんなに好き?何があっても好きって言える?」

涼介の瞳を雛乃が捉える。彼を見つめたまま、一度も離さなかった。彼は呆然とした顔で雛乃を眺めていたが、やがて一瞬だけ下を向いて顔を上げると雛乃を真っ直ぐに見て言った。

「僕は一生、薫を嫌いになることは出来ない。彼女がうんざりしても、嫌がっても、僕は薫だけを想っていたい。」

嗚呼、そうなんだ。これが彼の答え。きっと私が何を言っても変わらない答え。確かな愛。薫はみんなに愛されている。私とは大違いだね。

雛乃はまた涙が流れる。涼介は力なく、「ごめん。」と呟いた。謝られることの惨めさ。きっと彼には分からない。

「涼介、急に呼び出してごめん。私はちゃんと帰るから、先に行って。」

雛乃の言葉に涼介は心配そうに、「駅まで送る。」と言った。彼女は何度も首を横に振ってそれを断る。

最初は頑なにその場を離れないようにしていた涼介が、やがてゆっくりと腰を上げた。名残惜しそうに雛乃を見つめている。

「これ。」

涼介が雛乃にハンカチを差し出す。淡い水色のハンカチだった。

「電話で何か辛いことがあったんだと思って持ってきたけど、僕はこういうのを大事なタイミングで出すのが下手だとつくづく思ったよ。今更出して……」

涼介は言葉を詰まらしてまた泣きそうな顔になった。顔を歪ませる涼介に雛乃はハンカチを受け取って、「ありがとう。」と笑った。顔が引きつっていないか心配だ。早く背を向けてほしい。でないと今にも泣き崩れそう。

「ばいばい。」

雛乃が手を振った。涼介がそれを目を細めて見つめて、何かを振り切るように背を向けた。遠のいていく彼の背中。何だかこれが永遠の別れのような気がして、それが彼女の心を引き裂くような哀しみとなる。

雛乃はこの短い間に次々と起こった出来事で心は折れていて、どこかで落ち着いてそれを整理して、傷を癒したかった。

 きっと楽になる時が来るよ。

さっきまでいた涼介の香りがまだ隣に残っている。

私はすべてを失った。全てを失ったのだ。

誰もいない夏の夜のベンチに一人で座る雛乃は涼介が来る前よりも孤独だった。




 リビングのソファーで裸の薫が仰向けになって天井を見つめている。丸い電気のオレンジ色の光。

晃平は事を終えて、脱力したように薫の傍に座り込んだ。二人の間に沈黙が流れる。

薫も晃平も天を仰いで何かを考えていた。

「雛乃ちゃんはもう二度とここに来ないよ。」冷たく言う晃平。

「どうしてそんなことが言えるの?」

丸い電気の灯りをじっと見つめていると目がチカチカしてきた。

「勘。」 晃平は短くそう言って視線を落として目を掻いた。そして体制を変えて薫の方を見る。

「勘だけじゃ信じられないか。」笑う晃平を薫は首を動かして見つめた。

「歪んだ愛だね。」

晃平が薫の目を見つめて優しく笑って言った。それが心の底から笑っていないことを薫は分かっている。

「哀しい人間。お互い様。」

薫の呟きが晃平から笑みを失くした。

「本当のこと言うよ。俺、雛乃ちゃんと別れたんだ。もう連絡を取ることはないと思う。」

無表情で冷静に晃平が伝えると薫は特別、動揺をするわけでもなく、ただじっと晃平を見つめていた。

そして晃平の頬に静かに触れて力なく笑った。晃平はそれが何の意味なのか分かって、嗚呼と心の中で嘆いた。

「薫、好きだよ。」

最後に晃平が呟いた。彼は初めて心の底から思っていることを駆け引きなしで伝えたのだった。

薫は彼をじっと見たまま頷いた。そのまま首を動かしてまた天井を眺める。視界の右側を捉えるオレンジ色の光が眩しい。

晃平は崩れるようにソファーにおでこを当てた。苦しくて、涙が出る。




あと3話で完結する予定です。


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