移り変わり
携帯を握る薫がコール音を鳴らして耳に当てた。
「もしもし……」
電話越しから晃平の声が聞こえた。
梅雨を迎えて雨が降りしきる夜の街。車通りの激しい交差点、人ごみに紛れながら横断歩道を渡ると薫の持っている青い傘が無数の人間の傘とぶつかりそうになって、彼女は片手で携帯を耳に当てたまま、上手く避けようとした。
「雛乃と何かあったの?」
尋ねる薫の声を車のクラクションが掻き消した。
「ごめん、聞こえない。何?」
「雛乃と付き合っているんだから分かっているでしょ?雛乃が何日も仕事を休んでいること。雛乃の家に行っても不在だし、どこで何しているのか当然知っているわよね?」
横断歩道を渡り終えた薫は水たまを踏んで汚れた雨水が足にかかった。
晃平は黙り込む。
待ってて欲しい。我儘言ってごめんなさい。
雛乃と最後に交わした電話越しの言葉が蘇った。
「ねえ、聞いてる?」
強い口調の薫に晃平は我に返る。一瞬、考えるような顔をして、「雛乃と喧嘩したんだ。それから連絡は取ってない。休んでいるのも何となく耳にしたけど俺から電話するのはちょっと……くだらないプライドが邪魔してね。」と申し訳なさそうに言った。
薫は駅に着いた。改札を通りながら眉をひそめる。
「喧嘩?雛乃が小さな喧嘩で仕事を休むなんて考えられない。あなたが何かショックを受けるようなこと言ったんじゃないの?」
「そうかも。俺って言葉がきついってたまに言われるし、無意識に雛乃ちゃんを傷つけるようなことを言ったのかも。」
電話越しで晃平の顔が見えないため、彼の真意が薫にはつかめなかった。
「晃平って、いつもそうだよね。私に心の底から思っていることを決して口にしない。」
電車を待っている薫の苛ついた声が晃平に伝わって呆れたように笑った。
「どうして俺が心の底から思ってないと感じるんだよ。俺は正直に話したよ。」
「そんな風に聞こえない。いつも本心を隠して相手の行動だけ鋭く観察して、いかに自分の気持ちを知られずに相手のことだけ分析できるか。そんなことばっかり考えている。」
怒りを隠すように冷静に言う薫に晃平が厳しい声で、「それはお互い様だろ。」と返した。
帰りの電車が珍しく中々来ない。
「俺たちはいつだって本心を隠していただろ。今更、何しらけたこと言ってんだよ!人の気持ちを利用したり、馬鹿にしたり、自分本位なところとか俺とお前は似た者同士だから平気で人を裏切ることが出来る。裏切り者同士が何を本心で話すんだよ。」
晃平の怒りの声を聞いていると帰りの電車が来るアナウンスが流れた。
「電車が来た。また雛乃の家に行って、雛乃がいなかったら連絡するから。いつも通り、あなたからは私に連絡しないで。でも、もしも雛乃と会えたなら私にメールを送って。それ以外でも何か分かったらすぐに私に伝えて。」
一方的に言った薫が電話を切って電車に乗り込んだ。電話を切られた晃平をやるせなさと苛立ちが襲って舌打ちをした。何もかも上手くいかない。
「おかえり。」
薫が家に帰ると先に帰っていた涼介がテレビの前に座って笑顔を向ける。
テレビはコント番組がやっていて漫才師のツッコミがよく響いて観客たちの笑い声がテレビ越しから部屋中に広がる。
「ただいま。今からご飯作るね。」
雨で濡れた肩や腕をタオルで拭いて冷蔵庫を開ける。玄関にはさっきまで使っていた青い傘が折りたたまれてドアの前で立てられている。傘の布についていた無数の水滴たちが滴り落ちて一つの大きな水玉が出来ていた。
フライパンを油で熱している間に冷蔵庫から出したピーマンをまな板の上で細切りにする。
どうして雛乃は仕事を休んでいるのだろうか。大和田部長は体調不良だと言っていたが今まで雛乃が体調不良で休むことなどなかった。この前まで元気だったのに急に何日も休んで、自分には何も言ってくれていない。メッセージを送っても読んだ形跡すらない。電話だって出てくれない。単なる風邪なら返事くらい返してくれるはずなのにどうして何も言わないの?
晃平の言っていることは信用できない。彼はいつだって肝心なことを伝えない。まるで自分みたいに。
晃平が何か知っているのだとすれば晃平の家に行って直接聞いた方が良い。会社だといつ、誰に見られているか分からないから。彼の家には今まで散々行った。人に見られないように、赤木薫だとばれないように、いつも細心の注意を払いながら彼の家に通って、涼介と雛乃を裏切ってきたのだ。
「薫?大丈夫?」
ハッとして横を向くと傍で涼介が心配そうに薫を見つめていた。
「なんかすごく張りつめた顔をしていたけど、、、仕事で何かあったの?」
薫を気に掛ける晃平に笑顔を見せる。
「大丈夫。難しい仕事があってね、ついそのことを考えてた。」
フライパンを熱し過ぎて慌てて火を弱める。細切りにしたピーマンをフライパンの上に乗せるとジュワッと音がした。薫の言葉に涼介が安心したような笑顔を見せる。
「そっか、薫の仕事は色々と頭を使うだろうから大変だもんね。大きな会社だと人間関係とかの問題もあるし…でも薫はまだ雛乃と同じ部署だから何か辛いことがあったらお互いに相談できるね。」
「そうだね。」
何も知らない涼介に無理やり笑って熱したピーマンを菜箸で軽くまわした。油が数滴、跳ねて腕に当たった。小さな滴なのに熱くて、一瞬わずかな痛みが広がる。
「涼介、冷蔵庫からひき肉取ってくれる?」
優しく尋ねると彼は嬉しそうに背を向けて冷蔵庫を開けた。
「ひき肉どれー?」
「真ん中らへんに入ってない?」
「あ!あった、あった。」
涼介が冷蔵庫から出したひき肉を、ありがとう。と言って笑顔で受け取って上に張り付いたラップを剥がす。すると涼介が後ろから薫のお腹に手を回して抱きついた。
「料理しにくいよ。」
薫が笑うと涼介のクスクスと笑う声が彼女の耳に当たってくすぐったかった。
俺とお前は似た者同士だから平気で人を裏切ることが出来る。
電話越しの晃平の言葉が急に頭から離れなくなった。玄関の見えない薄暗い部屋にいる彼の姿が頭に浮かんだ。そんな姿、見たこともないのに。
後ろから薫を抱いていた涼介が顔を近づける。そのまま薫も顔を近づけてキスをした。彼女の心に罪悪感が残る。こんな気持ちは久しぶりだった。
ビジネスホテルを出た雛乃は今日も昼間の都会の街を一人、転々とする。
街にはゆっくりとシルバーカーを引いて歩く一人のおばあちゃんがシャッターの閉まった商店街の電気屋を通り過ぎた。梅雨なのに珍しく雨が降っていない晴れた空。昨日、携帯で見た天気予報は降水確率80パーセントと書いてあった。大外れだ。雛乃が荷物を持って頭の中で何度も悩みながら行くあてもなく歩いていると商店街の外れにある公園に辿り着いた。公園のベンチに腰を掛ける。木製のベンチはピンク色で塗られたペンキがほとんど剥げてしまって木、本来の色が剥き出しになっている。公園内に雛乃以外でいるのは砂場でお山をつくっている小さな子供とそれを傍で眺めている母親一人だけだった。
雛乃はバックから携帯を取り出して電源を点けた。体調不良を理由に仕事を休んで幾日が経っているだろうか。携帯には今日も薫と晃平から着信やメッセージが数件入っていた。
仕事を休んでから雛乃は自分の住んでいるアパートに薫や知り合いが尋ねてくるのが恐くて、簡単な着替えなどを入れたボストンバッグをを持って家を出た。携帯の着信音を聞くのも嫌で電源を切って、携帯を開くのは一日一回だけにしている。
ベンチの上で雛乃はため息を吐いた。これからどうすればいいのか。
今はビジネスホテルや漫画喫茶に行けばその場をしのぐことは出来るが、いずれアパートに帰らなければならない日がもうじき来る。仕事だっていつまでも休んでいられない。雛乃が休んでいる間にもやらなければならない仕事は溜まっていて、それを仕事に戻った自分が全部処理しなければならない。それだけなら雛乃自身の問題のためいいが、最悪なのは雛乃がいない分、他の社員たちに仕事の負担が来ていることだ。周りに迷惑をかけてはいけない。そう思いながらも気持ちが重くて中々仕事を復帰する気持ちになれない。薫に会うのが辛い。晃平に会うのも苦しい。自分勝手だと分かっていても雛乃は現実から目を背けたくて仕方がなかった。画面を覗くたびに分かる現実。涼介からの着信もメッセージもゼロ件であることを。
俺の傍にいるだけではあいつを忘れられないの?
電話越しの晃平の言葉が頭を過る。晃平はこんなにも自分のことを気にしてくれている。
「ちいちゃん、おうちに帰っておやつ食べようね。」
公園の砂場にいた親子が手を繋いで雛乃の側を横切った。子供に笑いかける母親の母性に溢れた表情。今も昔も変わらない結婚やお母さんに対する憧れ。いつかこんな風に子供を公園に連れて行くお母さんになりたいと小さいころから夢だった。雛乃の中で幼いころに描いていた未来設計が蘇る。雛乃の夢を叶えてくれるのは涼介ではない。好きで好きで、どうしようもなくても彼と幸せになることはできない。近すぎる存在の人たちと離れて、独りになった時にようやく気付く。罪悪感とか高ぶる感情とか、そんなのを捨てて自分の幸せを冷静に考えた時、幸せは彼とは築くことが出来ないのだ。
じゃあ、どうすれば彼を忘れることが出来る?涼介という存在を……
家に帰ろう。雛乃はベンチの上に置いたボストンバッグを持ち上げた。疲れた心と向き合って分かったこと、幸せになりたい。
誰が?
それは自分自身。
涼介でも薫でもない、「私」という存在。
幸せになるための方法が分かった気がした。しかし今まで苦しんできたことが簡単に解決できる訳ではない。方法は分かってもそれを実践しなければならない。実践は続けなければならない。続けるということほど難しいことはない。ボストンバッグを握って晴天の下に晒されたコンクリートの上をスニーカーで歩く。長いスカートに安物のTシャツ。こんなラフな格好をして平然と都会の街を歩いているのは初めてだった。雨の降っていない六月の地面は太陽の光を集めて熱を放出させている。体からじんわりと汗が出て、髪や服が湿る。
雛乃は夕方までに家に帰ろうと思った。一度、家に帰ってシャワーを浴びよう。そして無駄な荷物を置いて、晃平に会いに行こう。自分のしたことを素直に謝って、許してほしいと、それでも私を好きなままでいてほしいと我儘を言って自分も彼と新しい未来を築きたい。
いつか晃平と一緒になって薫と涼介に笑いかけたい。新しい未来は明るい。それを信じて彼の元へ行く。
商店街を抜けて駅を歩いていると花屋に置かれたアマリリスに白い蝶が止まっていた。綺麗、と心の中で静かに呟いた。美しいものを見ると自然と心が晴れやかになる。
土曜日の午後の駅はいつもよりも人通りが少ない。朝の満員電車や仕事終わりの街中の人ごみとかけ離れた穏やかな光景。ここにいる人間たちはいつも見る人々の姿とは違う。同じ色のスーツを着た男たちや同じような服装で同じような髪形や化粧をした雛乃自身を含めた女たちとは違って、休日を楽しんだように思われる解放感に溢れた様子の若い少女、買い物袋を持って楽しそうに笑いあう老夫婦、電車待ちのベンチに座って熱心に携帯画面を見つめている少年がいた。反対側の椅子に座って後ろを振り向くと少年の携帯画面を覗き見た。乗り物に乗っている設定の画面を指で動かして器用に障害物を乗り越えていっている。少年にばれない様に思わず後ろから息をひそめてゲームの様子を窺った。やがて避けきれなくなった障害物が当たるとフロントガラスにヒビが入ったような演出になって、英語でゲームオーバーと書かれた。
あっと雛乃が小さく声を漏らすと少年がパッとこっちを振り向いた。慌てて視線を逸らして前を向く。
気まずそうに息を潜める一方で、面白さが雛乃の中で込み上げてきて一人で静かに笑いを噛み殺した。
土曜日の夕方、晃平は一日何をするわけでもなくずっと家にいた。
頻繁に雛乃の携帯に電話を掛けるが、電波が届かないか電源が入っていないと何回も言われた。
電話を切るたびに携帯をベッドの上に雑に投げる。冷蔵庫から麦茶を出してコップに注いで飲んだ。コップは洗わずにそのまま放置してソファーの上に座る。静かな薄暗い部屋の中で独り。
彼女に会いたいと思った。どんな形であれ好きになってしまった、どうしようもない気持ち。
だけど彼女は、
ピンポーンと家のインターホンが鳴った。大学時代の友人が突撃で遊びに来たのかと思いながら訪問者を覗く。言葉を一瞬失った。何で来た?
「どうぞ。」
晃平はそう短く言って玄関に向かった。こっちに向かってくる足音が聞こえる。玄関のドアを静かに開く。足音が目の前で止まって、顔を上げた時に目が合った。
「電話があれだったから、もう来ないかと思った。」
晃平が困ったように笑う。短い髪は一度も揺れずに晃平の目を真剣な眼差しで見つめた。
「今日は別に晃平に会うために来たわけじゃないの。」
薫が一ミリも笑わずに言った。相変わらず冷たい目をしている。その奥で揺れる哀しみ。
「お前はいつも俺を信用したことがないからな。」
晃平は笑う。虚しい乾いた笑い声だった。
薫がそれをじっと見て眉をひそめる。苦しそうだった。
中々書く気になれずに、かなり遅くなりました。後半が雑になっていますが、雛乃の気持ちの変化が伝わったか心配です。
あと4話で完結予定です。
どうかお付き合いください。




