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あなたをずっと愛してる  作者: 黒乃白
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秘密を知る者

 晃平が渡した合鍵を、しまっておいた財布から出して眺めていると雛乃の中で罪悪感が生まれた。

会社の前で涼介と目が合った時の全てを奪われるようなあの感覚。

会っていなければ忘れられると思っていた彼女の前に現れた現実は、理性ではどうにも出来ないほど苦しい。海底で自分が為す術もなく沈んでいくように、涼介の顔が見えて手を伸ばして何か言おうとすると、どんどん彼が離れて行く。そこは息も出来ない。苦しみだけの、苦痛だけの場所。

そこから逃れたくて晃平と付き合ったのに、昨夜はずっと玲奈の顔が浮かんでいて晃平が何をしても、どんな話をしても彼女と晃平への疑問や不安で何も感じることが出来なかった。

二人の間に一体何があったというのだろうか。

一日ぶりに帰った自分の家に雛乃はどこか安心感を覚えた。朝の知らせのように窓から小鳥のさえずりが聴こえる。手にしていた合鍵をテーブルの上に置いて服を着替えた。

今日も一日が始まる。当たり前の一日。仕事をして、ご飯を食べて、排せつをして、眠って。ただその中に晃平という存在が入っただけ。いつか彼と結婚をする時が来るのだろうか。雛乃は漠然とそんなことを考えた。




 残業の夜。

コピー室で大量の資料が量産されていくのを一人でうっそりと眺める玲奈がいた。

機械音が響くコピー室内は静かで、待っている間に彼女の身体を一気に疲労感が襲ってくる。思わず深くて長い溜め息を一つ吐いて一瞬、目を閉じた。眠りそうになってウトウトしたころに背後から人気を感じた。振り返ると書類を持った晃平がいた。

玲奈の身体から眠気が飛んで一気に緊張した面持ちになった。晃平が軽く会釈をして何事もないように傍で書類をシュレッターにかける。

玲奈の資料はもう少しでコピーが終わりそうだった。大量に積み重なった薄い紙たちを眺めていると切なくなる。こんな気持ちになるのなら知らなければ良かった。知らない方が幸せなことがある、なんにでも。

「そういえば明地さんって俺と同じ大学だよね。」

急に晃平に話しかけられて玲奈は不意を突かれたように驚いた目で彼を見た。晃平が玲奈のその顔を見て、「なんか、ビビッてる犬みたい。」と笑った。恥ずかしくて顔が赤くなる。

「俺たち、大学であんまり喋ったことないよね。同じ会社に入っても結局、全然交流していないし…」

晃平の言葉を聞いていても玲奈は何も答えられずに黙り込んでいた。それを気にすることなく彼は喋り続ける。

「明地さん、よく雛乃ちゃんと話しているよね。最近はあまり見ないけど、前は二人が話しているところよく見かけたよ。なんか、すごく雛乃ちゃんを頼りにしている様に見えたんだ。」

切り刻まれる書類を眺めながら晃平が優しく言った。玲奈はコピーされた書類を静かに整理する。雛乃の名前を聞いて動揺するように目を動かした。晃平にはその表情が見えなかった。

「じゃあ、お先に。」

書類がなくなっていくのを見届けた晃平が爽やかに立ち去ろうとした。何も言わずに背を向けたままの玲奈。会社のコピー室は扉がない。扉のはずされたコピー室から音も立てずに静かにその場を離れる晃平。

「待って!河西君!」

整理している最中だった書類を置き去りにして玲奈が叫んだ。晃平がまるで何も聞こえないように背を向けたまま歩みを止めなかった。勘の鋭い彼は彼女が発する言葉が聞きたくないことのような気がして、何も聞こえていないような振りをしたかった。しかし玲奈はそんなことで発言をあきらめる気はなかった。

「私、見たのよ。どうして?」

玲奈の叫びに晃平が振り返る。無言のまま彼女の傍に歩み寄る。玲奈は周囲に人がいないのを確認してから言った。

「安達さんと付き合っているんでしょ?みんな知っている。でも私、みんなが知らないこと知っているから。」

「何を?」

冷静に聞く晃平の視線が冷たかった。玲奈の背筋がぞわぞわとした。でもそれ以上にある、怒り、苛立ち。

「先週、ここでキスしていた。河西君と浜田さんが。」

強い口調で言った玲奈に晃平が静かに目を閉じた。

確かに玲奈は見たのだ。その日、昼間のコピー室。コピー機やシュレッターに用がない限り、人通りの少ないそこに落し物を探しに行った玲奈が、中にいる二人の男女の後ろ姿を見た。一目でそれが薫と晃平だと分かった。特に気にせず中に入ろうとしたが突然、晃平が薫の腕を掴んでもう片方の手で頭を自らに引き寄せると強引に唇を奪った。玲奈は衝撃で思わず死角に隠れた。一瞬の出来事だった。

薫が抵抗するように晃平の体を引き離した。そしてじっと冷たい視線を彼に向ける。

「場所をわきまえて。」

冷静に言う薫に晃平が鼻で笑った。

「ごめん、ごめん。」

反省したようには聞こえない小馬鹿にしたような晃平の声がコピー室に響き渡る。玲奈は粗くなる息を鎮めるように口を押えて慌ててその場を離れた。

「明地さん、これお願いしていい?」

オフィスに戻ると雛乃が笑顔で玲奈の顔を見た。玲奈は何も言えずに言葉を失っていた。

「どうしたの?顔色悪いよ。」

何も知らない雛乃が心配そうに玲奈の顔を覗く。悟られるのではないか、彼女は恐怖で心臓が破裂しそうだった。そこへ薫が何事もなかったかのように戻ってきて自分の席に着いた。彼女は驚くほど普段と何一つ変わらない様子で仕事を開始した。

「大丈夫です。それよりお願いってなんですか?」

知りたくないことを知ってしまったと思った。こんな秘密、知らない方がマシだった。

「何の話?」

晃平が表情一つ変えることなく冷静に尋ねた。玲奈は無言のまま得体の知れないこの男の顔を眺めていた。

「見たって、そんなことか。」 晃平が笑う。

「それ、誰かに言った?」

玲奈が首を横に振ると晃平は冷たい口調で言い放った。

「言っても無駄だよ。そんなこと誰も信じないよ。目撃したって証拠がないんだから。」

背を向けて立ち去る晃平の後ろ姿が、玲奈は悪魔に見えた。




 雛乃は携帯画面から連絡帳を開く。

その名前を見つけると静かに電話を鳴らした。

外は梅雨入りした雨が夜空からシトシトと地面を濡らしていた。雛乃の家の窓には無数の雨粒が張り付いて垂れ落ちていく瞬間が見えた。夜の雨は好き。

「どうしたの?」

雛乃の耳に晃平の優しい声が電話越しから聞こえた。

「今、大切な話をしてもいい?」

躊躇いがちに聞くと晃平の間に少しの間があった。

「直接会ってからじゃ駄目なの?」

困ったように尋ねる晃平。雛乃は思わず首を横に振って、今なの。と伝えた。晃平が承諾する代わりに無言で応える。

「私たち、まだ付き合ってそんなに経っていないから、これからだって思っている。でも……私はまだ忘れられない、涼介のことが。だから涼介をちゃんと忘れるためにしばらく会社を休んで一人になってみようと思ってる。」

優しく言う雛乃の言葉を静かに聞く晃平。外の雨が急にザアーッと激しく降り始めた。

「涼介を忘れて晃平君が好きだと思えたら、今度は私から告白させてほしい。我儘言ってごめんね。その時、晃平君がもう私を好きじゃなかったら振ってもいいから。」

「一人にならないと駄目なの?俺の傍にいるだけではあいつを忘れられないの?」

晃平が必死に言葉を投げかける。雛乃はそれを優しく受け取って、投げ返すだけ。

「時間が欲しいの。今は時がないと解決できないことだと思ってる。すごく辛いけど、私はいつか晃平君を心の底から好きになって涼介と薫の前で堂々と二人でいたい。それがいつになるか分からないけど。晃平君が私のことをどうでもよくなっても構わない。」

雛乃が最後に力強く言った。

「前に進みたいの。もう過去に縛られたくない。」

そう。もう学生時代で止まっている時を進めたい。今までどんな人と出会っても、どんな男と付き合っても、雛乃は涼介を忘れることが出来なかった。だけどそれを全てリセットさせたい。涼介と薫からもっと離れて、もっと自分だけの未来を。光が見える新しい未来を。その未来に晃平がいればいい。雛乃は静かに目を閉じた。

「待っててほしい。我儘言ってごめんなさい。」

電話を切られた晃平は携帯画面を黙って見た後、遠い目をした。そして、ふっと現実に戻った顔をして考え込んだ。表情は暗かった。




「どうも。新人歓迎会で一緒だったんですけど覚えていますか……」

 着始めて間もない新しいスーツはまだパリッとしていて着心地が悪かった。入社したばかりの晃平は急に来たメッセージを読み上げて名前を見ながら、どんな顔の誰だったかを必死に思い出そうとした。隣では一緒に飲んでいる大学時代の友人たちがまだ卒業して然程経っていないにもかかわらず、再会の喜びに馬鹿騒ぎをして羽目を外している。

メッセージを送った相手の名前が表示されていた。薫。どっかで聞いた名前だと思った。

やがて、この前の会社の飲み会で自己紹介をした時に雛乃の隣にいた短い黒髪の女性の顔を思い出して、あぁーと声を伸ばした。突っ掛かっていた何かが取れたようにすっきりした表情の晃平。

「おい、晃平!何、真剣な顔で見てんだよ!彼女か!?」

隣で大学時代の友人が酔っぱらって顔を赤くしながら冷かしてきた。

「そんな人いないよー」

笑って返しながらメッセージを送る。

 覚えていますよ。雛乃さんの幼馴染ですよね?

ふざけて何かを言ってくる友人に笑っているとすぐにメッセージが返ってきた。

 そうです。あの後、雛乃を送ってましたね。雛乃は大切な友達なので河西君の気遣いに感動しました。今度、雛乃も誘って三人でご飯でも行きましょう。

思わず手で顎を触った。神妙な面持ちになる晃平。薫のメッセージの意図が読めなかった。彼女は雛乃と自分が結ばれるために協力しますよ、という意味で言っているのだろうか。

自己紹介で薫が言っていたことを思い出す。彼女は結婚している。雛乃が古くから知っている幼馴染と結婚した。三人で一緒にいたのに自分だけその男と結婚して取り残された雛乃に引け目を感じているのだろうか?見た感じ雛乃は恋愛面では奥手そうだ。簡単に彼氏が出来るタイプではないだろう。薫は雛乃が心配で自分と上手くいくようになってほしいのだろうか。

 いいですね。でもあなたの言葉の意味が理解できません。俺は好きな子にはガンガン押すタイプです。別に上手く取り持ってあげようなんて考えなくても俺なりに動くので変に気を遣わないでください。それにしても雛乃さんと本当に仲が良いんですね、こんなことまで考えて。

最後は少し嫌みも入っていた。いくら仲が良いとはいえ、こんなことまで首を突っ込む友人は雛乃も大変だなと晃平が短い溜め息を吐く。

数分してまたすぐにメッセージが来た。早いなと晃平は思わず苦笑する。

 私と雛乃は幼馴染です。雛乃には変な男に引っかからずに幸せになってほしいんです。河西君は積極的だけど、それだけじゃ上手くいかないですよ。訳があって雛乃は中々、人を好きになりません。

訳があってってなんだよ。食べていた食事も箸が止まって飲んでいたお酒も減らずに携帯画面に食らいついて考え込む。

 訳とはなんですか?

短く返した。近くにいる酔っぱらった女子が晃平に甲高い声で、ずっと画面見て考えてる~と言って笑った。適当に愛想笑いを浮かべて携帯を握ったまま返信を待つ。数分で携帯がぶるぶると短く振動した。

 その話は二人で会ったときにします。とりあえず今度二人で会いましょう。

薫の返信に首を傾げながら、ふーん。と短く呟いた。心の中で黒い雲が立ち込めるようにモヤモヤした感覚。それなら早く二人で会う約束を取り付けておきたい。

 分かりました。いつなら二人で会えますか。

送って少し経つと返信が来た。

 今週は特に予定が入っていないため、仕事がある日の夜なら大丈夫です。雛乃の話とはいえ私は結婚して夫がいます。会うのは構いませんが、くれぐれもこのことは他言無用で。雛乃にも言わないでください。彼女は私が訳を言うのを嫌がると思います。私の立場もあるので…… 

私の立場もあるので……?晃平はまた薫の文章を読んで首を傾げた。彼女が並べる文字たちは何か本心を隠している様に見えた。一体、この女は何者なのだろうか。顔を思い出しても初めて会ったときに不自然なところは何も見当たらなかった。しかし急に来たメッセージと、このやり取りのせいで、それまで一ミリも考えていなかった薫のことでいっぱいになっている。謎だらけの女。考えれば考えるほどに疑問が湧いて分からなくなる。この女は俺が好き?まさか…。晃平は鼻で笑った。そんなことないと。だって二人はこの前の飲み会で初めて顔を合わせたばかりだ。夫もいる身でそんなすぐに誰かに惹かれるものか。とてつもないイケメンならまだしも、自分の顔はそんなに目立つほどではない。

「そろそろ帰るぞ!お前ら明日も仕事だろ!もう終電がなくなる!」

誰かの言葉に賑わっていた酒場が一気にお開きムードになった。それぞれが財布からお金を出して徴収する同期の人間に渡す。

「晃平、ごめん。俺、今日あんまりお金なくてさ……」

大学時代、よくつるんでいた同じ学科の男が晃平の様子を窺うように困り顔で言った。

「建て替えとくよ。」

晃平が笑顔で返すと男はホッとしたような顔で声を弾ませて、「サンキュー!お前はいつも困った時に助けてくれてありがたいよ。俺の心の友~!」と腕に絡みついてきた。優しく笑う晃平の目の奥が乾いている。

「晃平は金持ちだからな~」

誰かの呟きが賑わう店内の笑い声と共にどこからともなく聞こえた。コップにわずかに残った飲みかけのビールを最後にグイッと飲み干して、二人分のお金を払うと皆に紛れて外に出た。

「春は新しい出会いの季節だよなー」

晃平の両隣を囲んで歩いている友達の片方が呟いた。友達と言っても晃平の中では、そういえばこんな奴いたっけ?という印象の男だった。

「新しい職場で運命の相手に出会っちゃったりして!」

もう片方の男が晃平の肩を抱きながら、話に乗ってふざけたように笑う。

運命の相手ねえ…晃平は心の中で嘲笑した。四月の暖かい風が彼の頬に触れて髪を撫でた。

酒が残った体は腹の底まで温かくて彼の心と不釣り合いだった。




遅くなりました。

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