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あなたをずっと愛してる  作者: 黒乃白
10/16

危険な初デート

「え?ごめん、もう一回言って。」

 仕事の制服を着た雛乃と薫が廊下の隅で書類を片手に立っている。

薫が驚いた表情で雛乃を見る。雛乃は恥ずかしそうに頬を赤らめながらもう一度発した。

「その…無事に晃平君と付き合うことになりました。」

照れて笑う雛乃を薫がじっと静かな表情で見つめている。

そしてやがて大きな笑顔を花開くように見せて、「やったじゃん!おめでとう!」と雛乃の肩を掴んだ。

「今度お祝いしないとね。」

部署に戻るために歩く二人、薫が満面の笑みで言うと雛乃は嬉しそうに頷いた。

「でもまだ付き合ったばかりでお祝いなんて気が早いんじゃない?」恥ずかしそうな雛乃。

薫は堂々とした足取りで、「なんでも祝った方が楽しいでしょ?」と笑顔。

経理部のオフィスの入り口まで戻った二人が中に入ろうとすると、雛乃の後輩で同じ経理部の明地玲奈と思わずぶつかりそうになった。

あっと声を上げて止まる雛乃。それにつられて薫が止まる。下を向いていた玲奈がこっちを見た。

彼女は雛乃と合った目を気まずそうに外すと、薫を横目で見た後に何も言わずにその場を逃げるように廊下へと出て行ってしまった。いつもは癒されるような喋り方で人懐っこい玲奈は雛乃に懐いていて、頼りにしてくれていた。こんな避けるような態度は初めてだった。

雛乃と薫が目を合わせてお互いに不思議そうに見つめ合った。しかしそれも一瞬、二人はすぐに特に気にすることなく軽く小首を傾げただけでそのことを忘れて自分たちの席に着いた。

職場の人たちは玲奈以外、特に変わった様子はなかった。



「安達さんって彼氏が出来たんですよね。噂で聞きました。」

書類をしまいに管理室へ行く途中、雛乃は玲奈に声をかけられた。いつもは恋愛話などする仲じゃないのにどうしてそんなことを聞くのだろうか。雛乃の心が緊張した。

「どうしたの?急に……」

「彼氏って河西君ですよね?」

戸惑う雛乃に玲奈が遠慮せずに尋ねた。玲奈は晃平と同い年で同じ大学出身であることを新人歓迎会の時に言っていたことを思い出す。

「そうだよ。」

雛乃の心がざわつく。何故それが気になるのか。

雛乃の言葉を聞いて玲奈の表情が暗くなった。ふっと光を失って、当たっていた灯がすっと消えるように玲奈の顔が変わったのだ。

「なんでもないです。」

玲奈が暗い声でそう言ってその場を離れた。取り残された雛乃は一人で立ち尽くしたまま彼女の小さな背中を見届けて、その背中が一瞬、自分のように見えてしまった。何故だろうか。何故、そんな風に見えてしまったのだろうか。嗚呼、そうか、彼女は少し自分に似ている。どこがどう似ているのかは分からないが、喋り方だろうか、兎に角不思議だ。雛乃はぼんやりと見ていた彼女への視線を持っていた書類の方に落とした。


 オフィスに戻って席に着くと雛乃のポケットで携帯がバイブ音を鳴らして揺れた。

手に取って画面を覗くと晃平からメッセージが来ていた。

--今晩、空いてる?仕事終わりにご飯でも食べようよ。

雛乃は嬉しくなって笑みがこぼれる。さらに次の文章を読むとドキッとした。

--その後、俺の家に来ない?

雛乃の心臓が高鳴る。もう大人の男女。それってつまりそういうことだよね?途端にソワソワして動揺した勢いで持っていた携帯を落とした。拾って顔を上げると隣にいる薫と目が合った。

「大丈夫?」

冷静な声で聞く薫に雛乃は恥ずかしそうに、大丈夫を二回も言って何故か無意識に携帯画面を見られないように手のひらで隠した。薫は特に何も突っ込まずにそのまま視線を前に戻して頬杖をつきながら自分の書類に目を通していた。思わずホッと胸をなで下ろす。

--仕事終わりに待ってるね。

返信してしてデスクの作業に戻った。



 総務部の前で仕事終わりの雛乃が携帯を片手に何かのリズムに乗るようにかかとを上げたり下げたりして、その度に履いているフレアスカートの裾がゆらゆらと揺れた。

もう片方の手には仕事でよく使っている薄ピンクの鞄を肩に掛けていた。

オフィスに繋がる扉が何度か開いて、人が出入りするたびに雛乃は顔を上げて出てくる人の顔を確認した。

五分ほど経った頃、開いた扉から晃平が顔を出して雛乃に向かって優しい笑みを浮かべた。雛乃も笑いかける。

「今日は付き合って初めての仕事終わりのデートだからさ、残業しないように早く仕事切り上げようと思って頑張ってみた。でもちょっと遅くなった、ごめん。」

会社の廊下を歩く晃平が少し子供っぽい感じで言って申し訳なさそうに謝ったので雛乃は穏やかな表情で、「いいよ、お仕事お疲れ様。」と柔らかく微笑んだ。晃平の表情が緩やかになっていく。

どこでご飯を食べようか。何が食べたいか。仕事が大変だった。今日も疲れた。二人はそんな話をしながら会社を出た。

外は月が雲で隠れて濁った暗闇のような夜空が雛乃たちを待っていた。

「雛乃!」

会社を出てすぐに名前を叫ばれた雛乃が振り返る。

薫が笑顔で手を振っていた。その隣に涼介がいる。

涼介と一瞬で目が合って、その瞬間、体中の血液の流れが止まるような感覚になって思わず体がふらつきそうになった。サァァーという音を立てて何かが雛乃の中から崩れそうになる。

涼介は緊張した面持ちで持っている鞄の持ち手をグッと握りしめた。

「あ、河西君だ。あの人と付き合っているのよ、雛乃。」

何も気づいていないような声で薫が明るく言った。

雛乃の彼氏……。前に一回だけ会ったことがある。涼介が雛乃の隣にいる晃平を見ると、晃平はずっと涼介を見ていたみたいで二人はしっかりと目が合った。晃平の目の奥に憎しみが見えて涼介は目を見た瞬間に少し驚いて思わず目を逸らした。軽い会釈でもしようかと思っていたがそんなこと望んでいないような目をしていた。全ての憎しみの原因がまるで涼介であるような、そんな黒目の奥に得体の知れない何かが、何かが揺れていた。何だろうか。濁っていて汚れた川のような目をした男だと涼介は感じる。そしてこの男が自分を好いていないことは嫌でも分かった。何故、一度しか会ったことがないのにこんなにも憎まれるのだろうか。前に会ったときはあんな恐い瞳で見られることはなかったのに。

「雛乃ちゃん、もう行こう。」

薫に弱弱しく手を振りかえしていた雛乃の手を強引に引っ張って晃平は薫たちから離れて行く。

雛乃は気まずそうに自分の手を掴んだまま早歩きで進む晃平の背中を見つめながら必死に彼の歩幅に合わせた。

「そっちに何かお店あるの?」

振り返らずに歩き続ける晃平の後ろ姿に雛乃が困って堪らず聞いた。晃平が雛乃の言葉に反応する代わりに掴んでいた手をグイッと引っ張って彼女を抱きしめた。雛乃が晃平の胸の中に納まる。

「どうしたの?」

辺りは人通りの少ない道であったが何人か知らない人々が通り過ぎていく。恥ずかしさと気まずさが入り混じって頬を赤らめる雛乃が晃平に聞いた。

晃平はしばらく黙っていたがやがて静かに口を開いた。

「あの男がそんなに好き?忘れられない?」

雛乃は言葉を失う。哀しいのは、苦しいのは、雛乃だけじゃなかった。やがて彼女は消えりそうな声で静かに、「ごめん…。」とだけ呟いた。

晃平が困ったように短いため息を吐く。

「謝るのは俺だよ。俺のこと、あの男を忘れるために利用していいって自分で言ったのに、あの男を目の前にしたらさ、苛ついて腹が立ったんだ。あいつは何にも分かっていないんだなって思って……」

晃平の目が熱く揺れていた。怒りで染まった彼の瞳。彼の胸の中にいる雛乃はそれが見えない。

「私、忘れたい。本気で涼介のこと忘れたいって思っている。」

雛乃の必死な言葉を晃平がハッと我に返って聞いた。雛乃の髪を撫でて頷く晃平。底知れぬ闇のような色をした空。眩しい都会の光を乾いた目で見ているような濁った空。危険な初デート。危険な奴。




 音姫が会社の女子トイレの個室から響き渡っていた。

雛乃は一つだけ扉が閉まっているその個室に背を向けて鏡に向かって化粧直しをしていた。

唇の上にピンク色のリップをなぞって見つめる。やがて個室の扉が開いて下を向いて歩く玲奈が鏡越しで雛乃の視界に入った。玲奈が顔を上げて雛乃の存在に気付くと、少し動揺したのが分かった。

雛乃が何も気にしていないように玲奈に挨拶をすると、彼女も動揺を隠すように笑顔で何事もないように返した。

「明地さん、この前の質問なんだけど…」

雛乃が尋ねると手を洗っている玲奈が顔を上げて急に強い口調で、「何の話ですか?」と聞き返した。

普段では考えられないほど警戒した眼差しを雛乃に向ける玲奈を見て思わず口を閉ざした。

「なんでもない。やっぱりいいや。」

笑って誤魔化す雛乃。手に持っているリップをポーチの中にしまった。何気なく前を見ると鏡の中にいる自分と目が合った。

「安達さんはどこが良かったんですか?」

急に質問が投げかけられて雛乃は鏡に映る玲奈を見る。玲奈も鏡の中の雛乃を見ていた。

「何の話?」

今度は雛乃が同じ言葉で聞き返す。

「河西君と付き合っているんですよね?彼のどこが良かったんですか?どこに惹かれたんですか?」

また晃平の話。雛乃の胸が針で刺されたようにチクッと痛くなる。

どこが良かったのか。どこに惹かれているのか。考えても雛乃の中に明確な答えはない。雛乃は困って、間違ってはいない、無難な考えを思わず口走る。

「彼が私を好きでいてくれるから。」

鏡に映る自分と目が合った。化粧をして、会社の制服を着たいつもと変わらない私。彼氏が出来て、彼に愛されている私。本当に?これは私?鏡越しの人間は得体が知れなくて、いつか今まであたなの真似っこをしていただけなのよ、とか言って自分を憐れむような目で見たまま消えてしまいそうな気がした。だって今、鏡の前にいる私が私をそうやって見ている。そして私も鏡越しのあなたをそう見ている。

雛乃の周りで当たり前のように動く世界が暗くなっていくような気がした。

鏡の前で玲奈が一瞬、下を向いた。ハンカチで手を拭いている。さっきから何度も何度も肌を擦るようにしつこく手を拭いていた。

玲奈がしばしの沈黙の後、顔を上げて、「そうですか…」とだけ返した。拭き終わったハンカチを綺麗に畳んで内ポケットの中に入れていた。

「好きでいるよりも好きでいてくれる方が楽よね。」

雛乃が何気なく口走った。玲奈が鏡越しの雛乃ではなく、隣にいる雛乃の顔をわざわざ首を動かして見つめた。玲奈がいつものように弱弱しく笑う。雛乃の心がじりじりと追い詰められていくような感覚になった。しかしそれが何故なのか彼女自身にも分からなかった。

「私には分かりません。他人のものを奪って当たり前のように生活する人の気持ちが。大切な人を安達さんは裏切れないですよね?でもそれを平気で裏切る人がいる。テレビを点ければ、不倫や浮気のドラマや、ニュースで溢れているけど、どうして一人の人だけを見ることが出来ないのか、私には分かりません。」

玲奈が今までにないほどの強い口調で言った。雛乃は何て返せばいいのか分からない。ただ今の彼女の発言、一つ一つがまるで雛乃自身のことを言っている様に聞こえて、玲奈はそんなつもりがなくてもまるで彼女が何かを知っている様に、そしてそれが許せないような目をしていた。嗚呼、この瞳、どこかで見たことがある。彼女の目を見て雛乃はうっそりとした様子で考えた。少しの間、考えると何故見たことがあるのか案外すぐ理由が分かった。彼女の目の奥が分かりやすいほど見えていたから。

彼女の瞳は晃平に似ていた。しかし晃平よりも聡明な目をしていた。決して淀んではいなかった。

玲奈の目の奥で揺れている光が晃平にそっくりだった。何を揺らしているのだろうか。何がそんなに気に入らないのか。何がそんなに許せないのか。



「あんま綺麗じゃないけど、どうぞ。」

 大崎のマンションの七階に晃平の家があった。

薫と涼介の二人と遭遇したあの日、雛乃はご飯を食べた後、晃平の家に行った。

晃平の住んでいるマンションは高層マンションで近くに同じような建物がいくつか密集していた。静岡のボロい一軒家から浜松町の小さなアパートで独り暮らしをしている雛乃にとってマンションに住んでいる人間は子供のころからの憧れだった。

「小さいころ、マンションに住んでいる人ってお洒落でお金持ちなイメージだった。」

晃平の家の中に入った雛乃がリビングのソファーに腰を掛けながら懐かしむように言った。彼の家は置かれているものがきちんと整理整頓されていた。何があんま綺麗じゃないのか、辺りを見回す雛乃。リビングの隅っこの床に何故か、洗濯されていないと思われる衣類が無造作に置かれていた。晃平はキッチンでコップに麦茶を注いでいる。クシャクシャになったシャツやズボンを眺めていると、それに気づいた晃平が慌ててこっちへ来て拾い上げた。

「昨日、疲れてそのまんまにしていたの忘れてた。」

彼は衣類をそのまま乱暴に洗濯機の中に入れて、雛乃はその姿を笑いながら見ていた。

「笑うな。」 晃平が拗ねたようにムッとして言う。雛乃がそれでも笑っていると晃平は諦めたようにキッチンに戻って麦茶を持ってきた。晃平が雛乃の隣に腰を下ろすと彼女は一瞬、緊張したがその後すぐに晃平が思い出したように、あ、と叫んで、腰を上げてその場を離れる。雛乃がその様子を不思議そうに眺めていると彼が戻ってきて雛乃の前に、「はい。」と言って差し出した。雛乃の目の前で晃平が握っていたのは鍵だった。

「なにこれ?」 雛乃が思わず尋ねる。

「なにって合鍵ですよ。」 当たり前のように答える晃平。

「初デートでいきなり合鍵渡すの?」 思わず苦笑した。

「変ですか?それだけ雛乃ちゃんを信頼している証なんだけど。」

至って真顔で言う晃平に今度は吹き出しそうになった。

「はいはい、ありがとう。」笑顔でそう言って鍵を受け取ると晃平がそのままソファーの上で雛乃を押し倒した。受け取った鍵が鈍い音を立てて床に落ちる。

「晃平君…」

雛乃の弱くて甘い呟きが煌々と光る灯りの中でゆっくりと溶けるように消えた。晃平が雛乃と唇を合わせて、そのまま首筋へと舌を這わせる。掴まれた腕。乱れた雛乃の柔らかい髪。晃平が動くたびに雛乃の心臓の鼓動が高鳴っていた。

しかし彼女の頭の中は晃平ではなく、どこか別のところへ行ってしまっていた。

さっきから頭の中で玲奈の顔がちらついて離れなかった。何故、自分と晃平の関係をあんな複雑な様子で聞いたのか。晃平は彼女とどういう関係なのだろうか。

なんでもないです。

暗い顔でそう言って離れた玲奈の後ろ姿。今、思い返せば何かを隠している様にも見えた。

隠しているって一体何を?彼女が晃平の何を知っているというのだ。

唇を離した晃平と目が合った。彼は潤んだ瞳をしていて雛乃に優しく笑いかけた。その目の奥が、まだ淀んでいる。雛乃は力なく笑って、その後、どうにでもなれと思った。




だいぶ遅くなってしまいました。とても眠いですが、頑張ります!

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