あるストーカーの事情
君の瞳に僕が映ることはなかった。殺伐とした空気に呑まれ、まるで自分だけがこの世の被害者みたいに君は振る舞うだけだった。
街路灯の下で君は近くの僕じゃなく目の前の虚空を見つめた。君の瞳に映っているのは、僕でもあいつでもない。結局、君自身だったようだ。例えば君に優しくしても、君に恋をしても、君にはきっと何の影響もないのだろう。僕は君になんにもメリットを与えられない。それだけはどうしても嫌だった。僕が君を守ったことなんて、君の記憶にはきっと残らない。少し寂しくはあったけれど、後悔などしていなかった。
「酷いよ」
薄黒くなった首を両手で包み込んで、僕は一人の人間を終わらせた。
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大学一年の夏。僕が君を見つけたのは、確かそんな時だ。君はキャンパスを友人と歩く。僕は近くのベンチで一人座っていた。綺麗な人だな……。そんな何気ない感想が全ての始まりだった。黒い艶やかな髪が夏の陽射しに照らされる。眩いくらいの笑顔が気がつくと目の前にあって僕は一瞬自分に光が当たったのかと錯覚した。足取りは本当に軽やかで、気だるさなんてものはなくて、背が小さく曲がった僕とは真反対に君は希望に満ちていた。だからどうしようなく惹かれた。そうしてる間に時折君を見かけるようになって、同時にある思いも芽生えた。
ーー話をしてみたい。一度でいいから、一言でいいから。君と言葉を交わしてみたくなった。でもそれは僕には到底不可能なことで、どうすればいいのか見当もつかなかった。
だから結局、僕はキャンパスで君を見つけては、後ろ姿を遠くから眺めるだけだった。手の届かない存在。そんなことは、出会った瞬間にわかっていたから。君がいそうな講義に行ったり、君がいそうな時間に食堂を訪ねたりそんな無駄なことを繰り返した。当然それで何かが変わるわけもなくて、結局君と話せる機会なんて一度も来なかった。
……俺って、ストーカーだよな。
そんなことは何度も思った。それに僕のせいで君を怖がらせるがあってはいけないとも思った。だからキャンパス内でだけ、その時だけは君を探すことにした。会えたらいいな、もし会えたらちょっとだけ眺めていようくらいに思っていた。そうして一ヶ月が過ぎた頃。
キャンパスで見かける君の顔が曇っていくような気配があった。もしかして僕のせいかな……。それも不安に思ったけれど、どうやら違った。君は僕の前を通っても一瞥もせず、何の感慨も無さそうに素通りしているだけだったから。
僕じゃないもう一人のストーカー。それが君の悩みの原因だった。そいつは君の家まで押しかけ、君を恐怖に陥れているようみたいだった。当然許せなかった。だからキャンパスで君の後をつける奴がいないか探して見た。けど結局何も手がかりは見つからないまま時間だけ過ぎた。
それから暫して。休日を迎えた僕は外に出て、目的も無しに街を徘徊していた。街は休みに浮かれた人々で溢れかえり、僕と同い年くらいの男女が涼しげな顔で笑い合っていた。その時。
君を街中で見つけてしまった。僕はとうとうやってしまった。悪いことをしたと思っていたけれど、この一回限りだと思って君の姿を追った。君はキャンパスで見かけるよりも少し着飾っていて、それを見て何だか嫌な予感もあった。
……あっと思わず声が漏れた。口を開いたまま、顔があっという間に歪んだ。やっぱり君には好きな人がいたんだ。当然僕じゃない、僕とはかけ離れた笑顔の素敵な恋人が。
予想はしていた。予想はしていたからそんなに衝撃は受けなかった。けど悔しかった。なんで君の笑顔は、僕じゃなくあの人に向けられているんだろうって。何で君は、そんなに気安く彼の手を握るんだろうって。怒りが膨らんで、膨らんで、でもすぐ萎んだ。
結局僕の役回りなんてこんなものだろう。彼と君は今も夏の暖かい陽射しに包まれている。ビルの影にひっそり佇む僕は、暗く湿った空間で小さく拳を握っている。
世の中そんなものなんだろう。僕みたいに生まれ持って幸福から遠ざかっている人間は、君みたいに華やかで愛らしい人間には到底近づくことはできない。できたとしてもそこには常に一本の線が引かれていて、僕はその先へ進むことを許されてはいない。そう思うと悔しかった。
だからだろうか、だったら僕はその線にかかるくらいの場所で君を見つめていようと思った。ただし今日だけ。今日だけキャンパス以外で君を見ていようと思った。酷く自分勝手だけれど、君に知られたら顔を歪められるだろうけど。でも僕は、それくらいに君が好きだった。
綺麗だった。キャンパスでは見せない君の艶やかな姿に心拍数は上がった。時を忘れるように君を眺めて、気づけば夕方になった。街にはさらに人が溢れ活気が生まれる。辺りは賑やかな声に包まれていく。なのに
「そろそろ帰ろうか……」
突然。思い出したように顔を強ばらせて、君は彼の手を引きながらそう促した。彼はそれに反対せず頷くと、君の手をさらに強く握った。
嫉妬。一番最初にその感情が渦巻いて、次に疑問が浮かび上がった。なんで帰るんだろう。普通ならこれからカップルは楽しむはずなのに、なんで君達は街を後にするんだろうって。けどそんな疑問は直ぐに解消された。思い出したんだ。君の顔が曇っていた時のことを。
ーーストーカー。僕じゃない、もう一人のストーカーが君を悩ませているということを、その時思い出した。だから君達はなるべく早めに帰って、自分達の大切な時間を削っているんだと思った。僕はそこで何故か心に痛みを感じ、後をつけるのをやめようとした。けれどこれで最後だと思って見守ることにした。これで最後。これで僕は彼女のことを忘れようと思った。
日が暮れて辺りが薄暗くなる中。君と彼は二人手を繋いで帰っていた。街路灯が等間隔で並ぶ一本道。人気の無いそこを歩く君達は、肩を寄せ合い不必要に手を絡ませていた。激しい嫉妬。掌に爪を食い込ませて、僕は気づかれないよう距離をとった。そんな時。
君達の目の前に、知らない一人の男が現れた。知らないっていっても僕が知らないだけだから、君達の知り合いである可能性はあった。でもその可能性を否定せざるおえないくらいに、そいつの顔は歪んでいた。酷く、醜く、君と手を繋ぐ彼のことを睨んでいた。僕は確信した。こいつがもう一人のストーカーだって。
君の彼は立派だった。君の手をスッと引くと、自分の後ろに守るように隠した。君は不安気な表情で何かを叫んでいたけれど、生憎この周辺に人なんていない。睨み合う彼とそいつは怒声を浴びせあって、暫く硬直状態が続いていた。けど、瞬間、そいつは動き出した。ストーカーは懐からスタンガンを取り出すと、彼の体目掛けて思いっきりぶつかった。
バチっと一回、電気の弾ける音が聞こえた。君は甲高い悲鳴を上げ、彼は小刻み震えだすと前に倒れた。そいつは気が動転していたのか、可笑しくなっていて、気を失ったはずの彼に何度も何度もスタンガンを突き刺した。
暫く時間があった。君は地面にへたり込んで声すらあげなくなり、彼はピクリとも動かなくなり、僕は息をするのも忘れて眺めた。ストーカーは君の腕を掴むと優しく微笑んで、嫌がる君を無理に連れ去ろうとした。
「タスケテ……」
たぶんそう言ったんだと思う。街路灯の傍にひっそり立ち尽くしていた僕と目があって、いやあったような気がして、君は掠れた声で助けを求めた。放心状態の中。目を赤く腫らした君の顔は痛々しくて正直見ていられなかったけれど、でも嬉しかった。求められたと思ったから。他の誰でもない僕を君は求めてくれたから。期待以上に答えたいと思った。
気づくと体は動いていた。ストーカーの背後に音もなく駆け寄ると、ストーカーの僕が、もう一人のストーカーに渾身の体当たりを決めていた。
「がああああっ」
人間とは思えない声が響いて、ストーカーがコンクリート壁にぶつかった。そのままズルズルと壁に倒れかかって、でも気絶はしなかった。頭から血は流れ、その血が額にかかり目の真上を通り過ぎていったけれど、そいつはゆらりと立ち上がった。
「逃げろっ」
ストーカーと君の間に入ると、震える声で僕は叫んだ。君は状況が飲み込めずわなわなし、暫く逡巡した。けど、
「助けを呼んできますっ……」
蒼ざめた顔でそう言うと、僕から離れていった。それから君がこちらを振り返ることはなかった。
これで良かったんだよな……。僕は薄暗くなった空を見上げて思った。傍で倒れている彼はなんとか息をしていたみたいで、君に置いていかれ少し可哀想だと思ったけれど、ざまあみろとも思った。
バチッと音が聞こえた。首を戻せば目の前に顔が薄黒くなったストーカーが立っていた。狂気を感じた。嫉妬に狂った人間は、こんな姿に成り果てるのだろうか。僕もこんな顔をしているのだろうか。だったら嫌だな。なんて思ったりして、僕は一歩を踏み出した……
全ては君のためだった。君を守って、君の愛する彼を守る。それが幸福から遠ざかった僕に与えられた、唯一の役回りだと思った。こいつは何度でも君の前に現れる。同じストーカーだからそれが痛いほどわかった。君に魅入られた人間の気持ちが痛いほど理解できていた。こいつも僕も、君を一生追い続けるだろうとわかっていた。だから。
だから終わらせる必要があったんだ。全ては君のために。
「酷いよ」
薄黒くなった首を両手で包み込んで、僕は一人の人間を終わらせた。