03話 魔王さまは部屋から出ない
「魔王さま、お仕事です」
「うん、あぁ、もうそんな時間か」
朝一番の始業の挨拶に、魔王は本から目を上げて秘書を見やる。今日も今日とて、大量の書類を両手に持っている。そして、いつも綺麗に片付いている書斎机に、叩きつけるかのように置く。どんっ、と書類が書斎机のスペースのほとんどを占拠する。
目の前に積まれた書類の塔を、なんとなしに眺める。書類の内容を、魔王は知らない。手にとって読んだことがないから当たり前だが、どうも読もうとも思えない。
よくこんなにも仕事があるものだ、と変な感心をして、再び本の世界に没頭する。そうしていると、秘書はいつもなら自分の業務をしに出て行くはずだが、今日はどうやらそうではないらしい。
秘書のいつにも増して鋭い視線が、魔王に嫌な予感をもたらす。彼女がそんな目をしているときは、決まって魔王にとってあまり良くないことを言われる時だった。秘書とは長い付き合いになる魔王には、なんとなく察しがついてしまうのだ。
一体どんな話を切り出されるのか、夕食なしの通達か、それとも仕事の大切さを説かれるのか、労働の喜びを語られるのか。
「そういえば、ですが」
そらきた、と魔王は平静を装いながらも、内心ではドキドキしていた。秘書は有言実行を大切にする。なので、彼女は相手が誰だろうが、自分が言ったことを遂行しようとする。そうして夕食を抜かれたことを、魔王はほんの少し、ほんの少しではあるが根に持っていた。
「……なんだね」
目線は本にやったまま、ただ全意識を秘書に向ける。本のページをぱらりと捲るが、内容が全く頭に入ってこない。場合によっては実力行使、話題を無理やり逸らすことも辞さないという心意気で、魔王は秘書の次の言葉を待つ。
「最後にこの部屋から出たのはいつですか? ご飯もいつもここで食べていますし、日中の業務中も城内で姿を見ませんし」
警戒していたわりに、普通の質問が飛んできたものだと、少しだけホッとする魔王。質問への答えを考えながら、考えて、思い出そうとして、思い出せなかった。
「……いつだったかな…………」
「え? ……まさかですが、思い出せないくらい部屋から出てない、なんてことはないですよね?」
「いやいや、そんなまさか……そんな、えーと、どうだったかな……」
「まさかですが、俗にいう引きこもり、ですか、魔王さま」
凛と澄んだ声に、魔王は悪寒を感じる。ヤバイ、間違えた、どうにか取繕はなくては、面倒なことになってしまう、と脳内をフル回転させて言い訳を探す。
「いや、部屋から出てないというわけではないんだ、出る必要が無いだけなんだ。ここにいればずっと本を読んでいられるし、食事も取れるかからね。だから、何ら不自由はないんだよ。だから儂は引きこもっているわけではなくてだな、不要なことをしたくないだけなんだよ。というわけでだな、儂の事は心配せずに仕事に戻ったら良いんじゃないかな、うむ」
「部屋から、出ましょうか、魔王さま」
「嫌だ、儂はこの部屋から一歩も出んぞ! ここが儂の魔王城だ! この城から、誰が出て行くものか!」
意味不明なことを言いながら本を投げ出し、安楽椅子にしがみつく魔王と、そんな形式上の上司を無表情で眺める秘書。そして、秘書は確認するかのように質問を投げかけた。
「一歩も踏まなければいいんですね?」
「は?」
一瞬、何を聞かれているのか分からず呆けた声を上げてしまう。ただ、トンチの効いた質問に気づいた時には、少々遅かった。
「では、そのまま座っててください」
魔王が気がついた時には、ふわりとほんの少し安楽椅子ごと浮かんでいた。不思議な浮遊感に、魔王は秘書が魔法を行使したことに気づく。魔王の秘書兼護衛の彼女の実力は折り紙つきだ。全盛期とは程遠い、引きこもりのオッサン系魔王では、すぐに魔法の解除できないくらいに、秘書の魔法はよくできてきた。
「なるほど、そうくるかぁ……」
「さぁ、参りましょうか」
秘書が先導を切るカタチで部屋から出て、その後ろを安楽椅子にしがみついたままの魔王が付いてくる。
魔王さまは部屋から出ない。ただ、連れだされてしまっては、しょうがなかった。