◇ 7 ◇ 03 今日の恭平、明日の葉折さん02
腑に落ちないまま、6階へ向かうために階段を下りていた。けれど、なんだかそれが癪に障ってきた。
「なんか、ムカつく……」
階段を下りていた足を止めた。
都合のいい事にタバコはポケットの中にある。携帯だって、手に持ったままだ。プライベートの携帯も、美希ちゃんと話したきりで、上着の左ポケットに入っている。
「こうなったら、葉折さんに捕まるまでこっちから行ってあげない」
あたしは葉折さんに少しムカついていた事を思い出した。恭平に金曜の葉折さんを教えてあげた時には、すっかり治まっていた。気にもしていなかった。けれど、元々は、葉折さんにムカついていた。
それを根に持って葉折さんを避けている事にしてしまおう。それなら、葉折さんの所為だって事にもなる。
葉折さんにそれぞれが怒られると思っている彼らにも制裁だ。
痺れを切らせば、またうちの課まで葉折さんは足を運ぶだろう。そうして、怒りを買ってしまえばいい。
ついでに、ミーティングも遅らせてやる。帰りを遅くしてやる。そして、本城君にはオフィスの模様替えの事を教えてやらない。と、言っても誰かが言っているかも知れないけれど、あたしの口からは言わない。お片付けもみんなでやってしまえばいいんだ。
あたしは、捻くれた考えと社会人にあるまじき責任転嫁をし、もう自己解決できる事ではなくなっていた。
抑も、葉折さんはあたしを本気で捕まえる気があるのだろうか。
そう考えると、仕事の話ではないのだろうと思う。携帯を使えば、あたしを捕まえる事なんて造作もない事。メールでだっていい。それこそ、会社のでもプライベートのでもいいのだから。絶対、仕事絡みではない事は明らかだ。実際、どちらの携帯には着信がない。
仕事絡みだとしても、知らない。あたしを捕まえられない葉折さんが悪い。と、いう事にしておこう。
喫煙室に行こうと思った。けれど、そのままオフィスのあるフロアの喫煙室に居ればすぐに見つかってしまう。喫煙室なんて所は、葉折さんにはすぐ見当がついて当たり前。
あれこれと考えを巡らせた結果、8階の喫煙室に辿り着いた。
葉折さんが営業の所に足を運ぶ事はあっても、あたしがいつも避けているフロアなのだから、居座っているとは考えないと思う。この習性は葉折さんも知っているはず。
恭平には、葉折さんの様子を見に行くと言ったけれど、約束したわけではない。言ってみただけだ。それに、恭平が困る事でもない。
そう考えながら、先にいた営業2課の人達と雑談をして時間を弄んだ。
「あ、失礼」
携帯に着信があり、話していた人達に断りを入れ喫煙室を出た。
着信は、宮内からだった。そして、携帯を手にした宮内がこちらに背を向けているのが見える。
恭平は会議はもうすぐ終わると言っていたというのに、宮内からはまったく連絡が来なかった。暇を持て余していたけれど、会議ではなく他の仕事が入ったとも考えられ、大人しく待っていた。
「会議、今終わったの? お疲れさま」
携帯を切り宮内の背後から会議の終わった宮内を労うと、嫌そうな顔をされた。やっぱり、宮内はムカつく。愛想がなさ過ぎるではないか。それを宮内に期待するは間違いなのかも知れない。そう思っても、相変わらずムカつく事には変わりはない。けれど、せっかく気遣ってやったというのに、あたしがかわいそうだ。
「何よ、そんな顔しなくてもいいじゃない。もっと、他にあるでしょう」
「そんな物があるか。何なんだ、気持ちが悪い。大体、何故そんな所にいるんだ。笠原に伝言を頼むほど、忙しいんだろうに」
「ええ、忙しいですよ。宮内主任をお待ちするのに」
ムカつくついでに、嫌みたっぷりを含ませた営業スマイルで答えた。すると、宮内はいつものように、冷めた視線を向け鼻で笑い、さっさと報告をすませろと眉間にしわを寄せウザイと言いたげにため息をついた。
どれをとっても、今までのあたしならすぐにキレていただろう態度だった。けれど、何を言っても宮内を喜ばせるだけだとわかった今では、触れずにいられる。
宮内に対しては、流すという事を覚えた。
「その前に、春香ちゃんから聞いた?」
「何をだ」
「新郎が、あたしの叔父だって事を」
「その事か、確かに聞かされた。だからどうしたと言うんだ」
「じゃあ、その経緯は省くけど……。もし、あなたと春香ちゃんが結婚する事にでもなれば、遠いけどあたしと親戚になるって、わかってる?」
あたしが話している間に宮内は気づいたのか、見る見る中に顔が歪んだ。言い終わる頃には、より一層眉間に深くしわを刻んだ。しかも、あたしを睨んでいる。あたしが悪いと言いたいようだ。
もうそんな顔は見飽きている。それでも、気分が悪い。同じ顔をあたしだってしたい。そして、それを見ながらあたし自身も気がついた。
今更だけれど、悔しくて仕方がない。しかも、ムカつく。
佐崎部長は、あたしと宮内の揉め事など気にも留めておらず、ただ単にこの状況を作り上げたかったんだろう。
憶測だけれど、春香ちゃんと宮内の事を佐崎部長は知っていたのだと思う。そして、楽しんでいるはずだ。
見当をわざわざ付けなくとも、情報源は戸田山さんのはず。
もしかすると、春香ちゃん自身が宮内との付き合いについては、いくらか情報提供していたとも考えられる。
部長に連れられて、戸田山さんのお店を訪ねた時には、部長自身その事には気づいていなかったと思う。実際、戸田山さんが気付いたのはあたしたちが帰ってからだ。後日か、すぐなのかはわからないけれど、佐崎部長にも伝えたのだろう。
京香さんから連絡がないからといって、放置していたあたしに隙があった。その日の中に、部長に確認を取っておけば、営業担当は恭平だって良かったはずだ。
部長の口から宮内の話が出てきた事を今になって考えてみれば、納得するしかない。そして、この状況下ではあたし達は、予算云々より尽力を尽くさねばならない。それは、否が応でも誰もが満足行くよう成果を上げる必要性がある。給料以上に働かねばならないも目に見えてきた。
「ねぇ、あたし思うんだけど。佐崎部長に嵌められた気がする」
「お前の上司だろう。何とかしろ。俺は降りる」
「何、言ってんのよ。そんなの無理に決まってるでしょう。元は、営業部の部長よ。あなただって、お世話になったでしょう? しかも取締役兼務なんだし。関係ないとは言い切れないじゃない。あたしはその頃の部長は知らないけど。それを置いておいたとしても、そんな事したら春香ちゃんは残念がるでしょうね」
「知った事か」
「へぇ〜、いいんだ。春香ちゃんの思考回路だと、きっと別れ話にまで発展するんじゃないかな」
「伊藤には関係ないだろう。わかったような事言うな」
「そういう事言う? 元々は、宮内が変な嫌がらせをあたしにするのが悪いんじゃない。春香ちゃん、気にしてると思うけどなぁ。あんたが、エレベーターホールで春香ちゃんの目の前で言った事」
「フォローは済んでいる。伊藤のように手の回らない人間ではないからな」
「何よ。あたし、結構要領いいのよ。それよりね、よく考えてみなさいよ! 宮内、あなたって、何考えてるかわからない部類の人間でしょう。自覚してるかどうかは知らないけど。いくら彼女だってね、そう言う人が相手だと、言葉のまま、態度のままの飲み込めないものなのよ。女をわかってないわね、その時は納得したとしても、次のタイミングには負のエネルギー全開で襲われるんだから。余計にそのフォローが怪しくなるの」
宮内は、言葉を詰まらせた。
そして、あたしは気分が上昇する。春香ちゃん絡みでも黙らせる事ができるようだ。今日はいい勉強をした。本日の収穫は、これでいい。
どうやら、宮内は女に対して加倉さんより浅はからしい。加倉さんの場合は、落とす事と、その後の何かしらのハプニングのフォローはいい。けれど、ウザくなり始めた時と興味を無くした時がまずい。
どうせ宮内の事だから、気にするな程度の事しか言ってないんじゃないだろうか。その程度をフォローと見なす、言わなくてもわかるだろう的なニュアンスで、男特有の切り抜け方をしたのだと推測できる。宮内が、そういう対応を上手くこなせるタイプの人間だとは、到底思えない。
ちゃんとフォローできているのか、言葉を詰まらせる時点で怪しい。何かしら、身に覚えがあるからこそ、そういう反応になるのだろう。
何が気にくわないのか知らないけれど、あたしに遠回りに手の込んだ嫌がらせをしてくる事自体が、そう思わせる。抑も、あたしに嫌がらせをして、何をしたいのかがわからない。
特に、宮内に対してあたしから仕掛けた覚えもない。
細かな嫌がらせが発生しだしたのは、いつ頃からだっただろうか。宮内に対して、ムカつきと苛つきといった感情が先行しすぎて、全く覚えていない。愛想がない、不機嫌顔は、常識的に彼に存在していたけれど、前は他の営業社員と同じように普通に接していたと思う。営業部のある8階を今みたいに避けていなかったはずだ。
今となっては、加倉さんや本城君まで巻き込んでくれている。加倉さんは、放っておいていいとしても、本城君を浮上さえるのは大変なのだから、できる事ならばやめて欲しい。
何にしても、男というのはお馬鹿さんなんだろう。余計な事はしなければいいのに。それだから、深読みを得意とする女に少しつつかれるだけで、変な方向に自分で梶を切る事になるのだから。益々拗れる。
それにしても、何故こんなに身近な事で振り回されているのだろう。
それは、宮内も同じだろう。かわいそうな気もしたけれど、あたしの方が被害が大きい。
営業課のミーティングルームを借り、まじめに仕事に取りかかった。
宮内は、拗ねているのか終始機嫌の悪いまま。
最初は報告だけで終わらせるつもりだったけれど、あたしは逃げなければならなかったし、宮内は終わった会議が外せないものだっただけで、融通が利くらしく、そのまま打ち合わせに持ち込む方が都合が良かった。
改めて宮内を捕まえるのも、時期が時期だけに大変そうではあった。それに、明日からはあたし自身も動き回っている。初めが肝心なのだから、慌ただしく時間を取りたくない。
1時間と少し、今考えているアウトラインと情報共有をした。それは、一方的にあたしが話し、それに対する宮内の粗探し。ディスカッション的内容だった。
資料も何もないけれど、頭には入っている。現時点では、宮内を納得させる事ができていた。
今回は、企画書を上げる事もないだろう。それより中身だ。それに適した業者と見積もりを取ってもらうよう頼んで、区切りがつくとコーヒーが欲しくて堪らなくなってきた。
「と、という事で。今回に限っては、勝手にさせてもらおうと思ってるの。流石に、確認は必要になってくると思うけど。クライアントもある意味ゲストって事で」
「クライアントがそれでいいなら、俺はどうでもいい」
「そうでしょうね。全部あたしの責任にするつもりでしょう?」
「当たり前だ」
「評価が良ければ、いい所持って行くつもりでしょう?」
「何度言わす。当たり前だ」
「そうでしょうね。まぁ、いいわ。とりあえず、今週末、三連休でしょ? 行ってこようと思うの。ちょっと、古い記憶だから曖昧だしね。それに、久しぶりだし一人旅も悪くないし」
「勝手にしてくれ。俺は俺の仕事をするだけだ」
「それは、そうなんだけど。もう、子供じゃないんだから、そろそろ拗ねるのは止めなさいよ」
「誰が拗ねてると言う。お前と一緒にするんじゃない」
それを拗ねていると言うのだ、と突っ込みたいのを押さえなくても、呆れて言う気にもならなかった。あたしのどこが拗ねているというのだろうか。キレた所は、散々見せただろうが、宮内にそんな所を見せた覚えはない。
宮内は、そんなにあたしと関わるのが嫌なんだろうか。親戚だと言っても、遠い過ぎる。冠婚葬祭でもあたしとは、ほぼ会う事はないだろう。ヒロ君はそうはいかなくても、あたしにはかなり遠い話なのに。
本気で、春香ちゃんと結婚を考えているんだろうか。付き合い始めてどれくらいなのかは知らない。いい時期まで来ているにしても、それが結婚の障害になる事とは思えない。
もしかするとあたし同様、嵌められた感が嫌なのかも知れない。宮内のお高そうなプライドが傷ついているのか……、佐崎部長と何か他にもあったとも考えられる。
その辺りには、巻き込まれるのは本意ではないので流す事にした。
「まぁ、機嫌がいい方が気持ち悪いわ。それじゃ、あたしは行く。身体がコーヒーを求めてる。限界よ」
それには宮内も共感したらしく、大きなため息をつくと席を立ち出口に向かった。それに続いて、あたしもミーティングルームから出た。
恭平は、どうしているのかとデスクに目を向けると空いていた。
雑務を終わらせると言っていたのに、どこに行ったのだろう。
ここでウロウロ恭平を探し回れば葉折さんに見つかってしまうかも知れない。
とりあえず、缶コーヒーで身体を満たそうと営業部の休憩ルームで買う事にした。
葉折さんから逃げ通す為には、このフロアから動かない方が無難。そう、判断したあたしは、コーヒーを入手するとそのまま喫煙室へ向かった。
念の為、うちのフロアと同じくガラス戸とガラス壁の喫煙ルームをこっそり葉折さんがいないのを確認した。葉折さんは、いなかったけれど見慣れた二人を発見した。
「加倉さんに恭平、お疲れさま」
「あさちゃん、どこ行ってた? もう、全部終わって、本城たち待ってるぞ」
「そうですか。宮内と喧嘩もせず仲良く打ち合わせしてました」
そんな事は、十分わかっている。けれど、そんな事を言うと逃げ回っているのがばれてしまう。素直に答えて触れないでいるのが一番だろう。
加倉さんの発言から思惑通り、事が動いているようで機嫌が良くなった。もう、18時間を超える労働も報われた気がした。よくよく考えてみれば、あたしは会社に朝の5時からいる。外が今と同じくらい暗く、違うのは人の数ぐらいだ。
「いったい何の仕事をしてるんだ?」
「加倉さん……、話せば長くて、ムカつくんでスルーさせてください」
加倉さんは、ただ単に好奇心だったろうけれど、話し始めれば綻んでいるムカつきが、油を注がれて燃え上がりそうだった。
あたしの言葉に何故か納得した様子で加倉さんは、はいはいと興味が失せた返事をした。もしかすると、あたしは自分が思っている以上に苦痛の表情をしていたのかも知れなかった。
「あ、そう言えば、麻美。葉折さんどうだった? 面白い事になってただろう?」
恭平は、思い出したようで話を振ってきた。けれど、あたしは知り得ない。
どう話を逸らそうか……。
戸惑いながら苦笑いでごまかすと、加倉さんが口を挟んできた。
「あさちゃんは、葉折から逃げてるんだよな」
「それ、なんですか? より面白そうな事になってるじゃないですか」
恭平の燻っていた好奇心に火がついた。
あたしよりも、加倉さんに聞いた方が面白い事がより面白いと判断したらしく、あたしから興味は失せた様子で加倉さんにかぶりついた。
「加倉さん、気づいてたんですね」
「まぁ、なぁ。なんとなく。そういえば、松原女史からも連絡あったぞ。部長の用件は済んでるらしい。今更だけどな」
「わかりました」
「俺、無視?」
恭平の興味の対象に関しては加倉さんには関係が無い。少しの後ろめたささえ感じる。逃げ回っている事に気が付いているのなら、加倉さんに被害が及んでいない事を祈るしかない。けれど、加倉さんの事だから、葉折さんを煽ったかも知れない。となると、葉折さんのお怒り具合は、増しているはず。それならば、加倉さんがここに居るのも頷ける。本城君たちは、制裁をより受けていると言う事ならば、あたしにとっては、面白い話しだ。恭平にとっても面白い話だろうが、全体を把握してなければ、何が何だかわからないだろう。
恭平は、余程面白そうな話だと位置づけているのか、あたしからは聞けないと判断した様子で、プレゼント目の前にはしゃいでいる子供のように加倉さんに迫っている。加倉さんはそれを横目に、あたしの缶コーヒーとは違う、どこから入手したのかドリップしたであろう、おいしそうで湯気を立てるブラックのコーヒーを口に運ぶ。
加倉さんはあたしに気を遣ってくれたわけではなく、恭平を焦らしているのだと思った。加倉さんにかかれば、いつも本城君で遊んでいる恭平も遊ばれる側になっている。なんだか、それを見ていると複雑な心境になった。
「笠原、お前は本当にそう言うの好きだな」
「好きですよ。面白いじゃないですか。最近、麻美の周りは騒がしくて、面白い話が転がってるんですよ。その麻美が絡んでるとなると、より増して面白い話になってるはずです。違いますか、加倉さん?」
「詳しくは、俺もどうなってんだか……。どうなってるんだろうな?」
巻き込まれたくなくて、二人から距離を置いてソファーに腰掛けタバコに火をつけながら傍観していたあたしに、ニヤニヤしながら加倉さんは視線を送ってきた。それを無視して、缶コーヒーのリングプルを押し上げ元に戻した。
「とりあえずは、葉折の怒りが本城から俺に向く前に逃げてきた」
「おっ。本城が今回の被害者か。本当にそういう所、本城だな。要領悪すぎ」
「っうわぁ?!」
すっかり存在を忘れ、膝の上に置いていたマナーモードの携帯が震え出し、驚いて声を上げると、二人の視線があたしに突き刺さった。
携帯を確認すると、噂の主、本城君だった。少し考えて、二人を無視ししたまま着信に答えた。
「どうしたの本城君。何かあった?」
「伊藤さん、戻ってきてくださいよ。助けてくださいっ」
「あたし、知らない。自分で何とかして」
通信強制終了。そのまま長押しで携帯の電源を切った。
もう、就業時間はとうに終わっている。クライアントからの連絡も無いだろう。そう考えて、本城君たちには、もう暫く悲痛な叫びを上げていただこうと決心した。
「あさちゃん、どうしたんだろうなー。いつもより数倍、S入ってるよな、笠原」
「そうですね」
恭平は、クッっと込み上げてきているであろう、楽しさ全快の笑いを堪えながら加倉さんに返した。
あたしは、大きなため息をつくと、無視を決め込みコーヒーを呷った。
それを二人して、肩を揺らせた。
ここまで来て、押さえる事はないだろう。笑いたければ、笑えばいいのに。そんな事をされると、余計に面白くない。予定通り、無視を決め込んだ。
「まぁ、今日の葉折はおかしいな。今朝は機嫌良かったかと思えば、1時間もしないうちに、あさちゃん探し回ってるし。出没頻度が多すぎる」
「そう言えば、うちの課にも何度か来てましたよ。いつもは、自分のデスクから離れる事なんて希なのに。休憩くらいだったと思いますけど」
「あさちゃんに会いたくて仕方ないんじゃないか?」
「お熱い事で。いつの間にそう言う事になったんですか? 加倉さん知ってます?」
何だか、間違った方向に話を進めている二人。もう、軌道修正をする気にもなれない。勝手に話してればいいんだと、それに関しては口を挟まなかった。
「加倉さん、あたしに恩を売る気ありませんか?」
抗議ではないあたしの発言に、二人は顔を見合わせた。
それは、そうだろう。いつもなら、ここでキレ始めるか二人を馬鹿にする発言をするはずだ。軌道修正もするだろう。
あたしの意図を探っているのか、目を注ぐ加倉さんと視線を絡めてしまった。少し、気まずさを感じ、続けて発しようとしていた言葉を詰まらせた。
「それは、喜んで売るけどさ。あさちゃん、要領を得ないんだけど?」
「そろそろ、ここもバレそうなんで、さりげなくあたしのコートとバッグ取ってきてもらえませんか。ついでに、マフラーも」
「本格的に逃げ出すつもりか?」
「逃げるんじゃありません! 色々重なっただけです。プチ会議するつもりでしたけど、明日でも構いませんしね。そっちは、あたしが会社を出た後に本城君たちに朝一番でと伝えてください。で、どうなんですか? 行く気あります?」
「おっ、元気はあるようだな。」
最初に認めてはいたけれど、それを改めて強調され認めるのが癪。自分の口から逃げていると言いたくなかった。もうすっかりバレていたけれど、そんな事は知った事ではない。
なんだか、仕事放棄しているように聞こえなくもない……。悔しいけれど直の上司に当たる加倉さんに何を言っているんだろうかとは、思う。けれど、散々働いた後なのだから、これくらいは許してもらいたい気分だ。
「バッグは、場所変わってるでしょうけど、元あったポールハンガーの後ろの書類ラックの間にありますから」
「仕方ない。あさちゃんの頼みだからな、いい事あると期待して行ってきますか」
そう言いながら、立ち上がりだるそうに喫煙室から出て行った。病み上がりで、少しまだ本調子ではないのかと思ったけれど、そんな事はないだろうと思い直した。
加倉さんが、あたしの頼みを断ると念頭になかった。行ってくれると、確信じみた考えがあった。
敢えて言わなくてもいい、恩を売ってくれという言葉で、逃げている事を茶化してはいても、それなりのバックグラウンドがあると、感じてくれているはずだったからだ。それが、ただ単にあたしのわがままであったとしてもだ。
加倉さんは、鈍い人では決してない。どちらかというと、変に鋭すぎて困る事でさえある。それを考えると、敢えて言ったあたしの言葉を変に取り違えていないといい。それは、祈るしかない。
さほど、その言葉には意味はないのだから。
「なぁ、麻美。結局、葉折さんどうなってたんだ?」
「知らないわよ。葉折さんが機嫌が悪いのと、あたしが葉折さんを避けてるのは関係ないから」
恭平はもう痺れが切れているのだろう。加倉さんが帰ってくるまで待っていられなくなり放たれた疑問は、あたしには到底わかるものではなかった。
そして、敢えて、逃げるという単語を使わなかった。避けるも逃げるも結果として、大差ない。ここまで来ると、変な意地になりつつあった。
逃げていた事に関しては、あたしの自己満足に過ぎない。それを言いたくない気持ちはやっぱり大きい。ここは、少しの情報は渡した方がいいと、当たり障りのない切り返しをするしかなかった。
「どうしたのかしらね。葉折さん……あっ!」
「おぉっ。いきなりなんだよ」
恭平の好奇心は、まだまだ削がれたわけではなかったらしく、目元が緩み、抗議じみた台詞にはに相似しない表情を向けてくる。
思い出した事は大した事ではなかったけれど、ここで言わなければ恭平は拗ねてしまうかも知れない。この事で、まっすぐ家に帰ってもらえなくなるのは困る。
「そう言えばね。葉折さんの不機嫌っていうか、キレてる所を最近見たなぁと。その後、接触なかったんだけど、次の日には機嫌直ってたし……」
「いつだよ、それ」
「先週初め頃だったかな。加倉さんにクレーム付けながら、キレかけてて。それか、キレた後だったのかわからないんだけど、ちょっと危ない雰囲気だったから、葉折さんには仕事手伝ってあげるって少しなだめてから、会社出たのよ」
「でも、その後は大丈夫だったんだろ?」
「そうなの。普通だったんだから、尾を引いてるとも思えないんだけど……。間を空けて、不機嫌ぶり返しってあるのかしら?」
「結局、わからずじまいって事か」
恭平はタバコに火を付けながら、残念そうに言うけれど、元々楽しい事ではないように思う。恭平が勝手に面白いと決めてかかるのが、おかしい。
とりあえずは、あたしが逃げ回っている事は、恭平の頭からは追い出されたようで安心した。
「明日は、一番に葉折さんに会う事にするつもりよ。どうなってるかしらね。今、本城君に当たり散らしてるみたいだから、スッキリしてるかも」
「それは、言える」
「そしたら、明日は葉折さんにあたし褒めてもらわないと」
そこまで言って、思い出した。墓穴を掘っている……。
自分から、逃げ回っている原因をばらそうとしていた。散々、触れないでおきたいと思っていたというのに。
あたしの心配は余所に、恭平は葉折さんの件に関しては興味を無くしたのか、少しぼんやりしながら紫煙を眺めていた。
よく考えてみれば、恭平は週末休んでいない。疲れがたまっているのだろうか。明日は、代休にするつもりでいるのなら、腑抜け始めていても仕方がない。
「ねぇ、もう帰れるんでしょ。支度してきたらどう?」
「だな。終わらせてくるか」
恭平は静かにタバコの火を消すと、伸びをした。オフィスに戻るのに気合いを入れたいかも知れない。
これから、まっすぐ家に帰れば、夕食もちゃんとした物を食べられる事を知らない恭平は、お疲れ具合が増しているように見える。
知っていれば、もっと違った反応だったかも知れないと、背を向けて出て行こうとしている恭平を見て思った。
「ちょっと、待って。ここにいなかったら、携帯どっちでもいいから鳴らせて。場所変えてるかも知れないし」
わかったと、少し振り返り恭平は喫煙室を出て行った。
一人になってしまえば、作りも同じ喫煙室は、自分のオフィスフロアと勘違いしそうだった。特に、さっきまでは恭平だけではなく、加倉さんも居たのだから尚更だった。
火を付けたままのタバコは、知らぬ間に短くなり、フィルターを燃やし始め違うに臭いを漂わせた。吸った気になれていなかったあたしは、もう一本出そうと、少し遠い灰皿に吸い殻を投げ入れた。それは行儀が悪かったけれど、誰が見ていたわけでもなく、ちゃんと入れば単純に嬉しかった。
まだたっぷり残っている、甘ったるい缶コーヒーを一口飲んだ。
明日は、葉折さんに差し入れでもして制裁のお礼をしよう。機嫌が直っている事を期待をしながら、タバコを取り出した。