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MAYBE  作者: 汐見しほ
25/29

◇ 7 ◇ 01 知らぬのは自分だけ

 決断を迫られるその日、あたしはとんでも無く早く出社した。

 早すぎて、コーヒショップも開いていなかった。仕方なく、コンビニでメーカー違いで一本ずつと、ミルクたっぷりのパックのラテも買った。

 それらを買い物袋から取り出しデスクの上に並べ、早速、仕事に取りかかた。

 今日は、残業したくない。それに、日曜日の予定は、予定のままで終わってしまっていたし、圭吾にだって少しは情報を渡さなければならなかった。

 何と言っても、進めなければいけない事がが多すぎた。そして、考えなければいけない事も。

 週末を抜け、仕事のペースを取り戻さないといけない今日は、寒いだとか眠いだとかの怠さを感じさせる感覚を気にしてなんていられない。

 そんな気合いが十分入っていた所為か、缶コーヒーを3本空けて、オフィスに社員が集まり始めても集中力は衰えなかった。

 春香ちゃんが出てくる頃には、あらかた片付いて、取引先が業務を始めてくれるのを待つばかりになっていた。

 本城君と入れ替わりの時間までデスクワークで過ごし、夕方に部長にアポを入れ会社を出た。






 発注先の状況確認と、京香さんのウエディングプランの為に必要なサンプルの発注、そして必要な予約を入れた。わざわざ出掛けるまでもなく、電話で済ませることもできたけれど、少し見ておきたかった。あたし自身、京香さんの件に関しては、もう少し実感が欲しかった。そして、彼女の意向を具体的に把握したくもあった。他の仕事での発注先回りは、ただのついで。

 早知子の所にも帰り際に少しだけ顔を出し、状況報告をした。

 早知子にも話したけれど、京香さんから預かったキャンセルしたという式場の見積書を今朝確認してみると、こちらで原価がわかるものにつては、驚いた。しっかりいい値段をしていた。取れる所からとっているんだろうとは思ったけれど、高過ぎはしないだろうか。

 部長からはもう既に、価格については許しが出ている。こちらの取り分は、それなりでいいだろう。今回に関しては、振り回されたとしても料金に対して文句を言いたくなる気にはならない。たまには、そういうこと抜きの仕事があってもいいと思う。

 営業の経験が先だった所為か、クリエータにはあるまじきそれ相応の対価を求めてしまう所があたしにはある。割に合わないと、しっかり人目を阻んで手抜きをしてしまっていいるし、最後には抗うのも面倒だと、デザインやプランがダサかろうが、似つかわしくなかろうと相手の意見そのままにしてしまう事もある。さすがに、その時には、その仕事があたしだと誰にも知られたくない。そして、自分自身の記憶からも消したくなる。

 今回に限っては、絶対にそうならないだろう。あれだけなかった自信も、何故だか根拠もなく湧き出してきている。あたしに限っては、これはいい兆候。

 宮内に出してもらった概算での見積もりは、幅をきかせてあったし、何より招待客が大幅に減らす予定になっている。この分だと、サプライズに回す予算が増え、お得感を得てもらえそうなプランを作成できそうだ。

 満足してもらえるかは、当日までわからない。けれど、まだ予算を抑えられる所がたくさんあった。この案件には、いつもにはない、わくわく感がある。いつの間にか不安要素は、消えていた。



 そろそろ、どこかでお昼を食べよう。

 そう思い始めた頃には、ランチタイムは終わり、お腹が空きすぎで胃が痛くなり始めた。散々頭で何を食べたいかと自分に問うてみても、全くまとまらない。結局はあまり迷わなくても食事を出来るカフェで落ち着いた。

 お腹は空いていても、あたしの身体はカフェインの方をより求めていて、注文の際に先にコーヒーを出して貰うように頼んだ。

 注文したランチがテーブルに並ぶまでの時間をもてあまし、メールでもチェックしようとプライベート携帯をバッグから取り出した。

 手に取り開いた携帯は全く反応をしてくれず、電池が切れてしまっているようだ。けれど、そんなに電池を消耗するほど放置していた覚えはない。ダメ元で携帯の電源を入れてみれば、電池切れの表示は出なかった。

 なんだ、使えるじゃん。と、気をよくして携帯を弄り始める。

 暫くすると、コーヒーを持って来てくれたウェイトレスのお姉さんが、とても感じの良い笑顔を見せてくれた。その笑顔にあたしは、少し温かい気持ちになった。

 彼女の笑顔は、作られてものではない穏やさと機嫌の良さがあった。きっと、今は悩みもなく満たされているのだろう。全くの予想でしかないけれど、幸せの中にいるのではないかと思う。それを、ほんの少し分けて貰ったような気分。妬みはしない、羨ましさを感じた。

 笑顔の行方には、その途中で触れた人をこんな気持ちにさせる事が出来るんだと、久しぶりに感じる。

 そんな気持ちのままコーヒーを口に含むと、ふと何故携帯の電源が落ちているかを思い出した。そして一気に、恥ずかしさの中に落とされる。

 その直後、同じお姉さんがランチをあたしの目の前に置いき、またさっきと同じ笑顔を見せてくれる。けれど、一瞬それを目にした後あたしは目を伏せ、ありがとうと慌ててお礼を言った。きっと、今のあたしは変な顔をしていたと思う。顔の熱さから推測するに、お姉さんの笑顔が違う表情に変わるほどではないだろうか。

 考えないでいようと、お仕事モードに移行していたというのに、振り出しに戻ってしまった。思わず意味もなく叫びたくなる。

 それを抑えようと、必死で目をギュッと閉じて携帯に絡ませた手をグッと握った。暫くそのまま動けずにいた。


「大丈夫ですか?」


「え? あ、大丈夫です! ちょっと」


「けど、顔が赤いですよ。ご気分が悪いんじゃないんですか? 近くに、病院有りますけど、ご案内しましょうか?」


「いえ、本当に大丈夫です。ごめんなさい。平気ですから」


 笑顔のお姉さんは、気を遣ってくれる。それに、苦笑いか、引きつった笑顔になっていたかも知れないけれど、健康体だとアピールした。


「そうですか? コーヒー、変な味してたとか?」


「いえ、大丈夫です。ランチ、いただきますね」


 そう言う、セッティングしてあるフォークを手に取り目についたプチトマトを突き刺し、口に運んだ。

 それを見たお姉さんは、大丈夫と感じてくれたのか、持ち場に戻って行った。誰も近くにいなくなり、安心するとあたしの動揺も少し遠くへ行く。けれど、安心したのも束の間、携帯が着信音を響かせた。まだ携帯は左手の中にあるのに、焦って着信に答えた。


「はい、伊藤です」


「あ、あの、美希ですけど……麻美さんですよね?」


 思わず、プライベート携帯だと言うことも忘れて、お仕事モードで出る。

 相手は、それに驚いたのかまごつきながら、確認を求める。あまりに驚いて、表示の確認ができなかったけれど、相手は、たまに電話でお喋りしていたけれど、ここ暫くはこちらからも連絡していなかった恭平の奥さん、美希ちゃんからだった。

 そういえば、恭平とどうなっているのか聞いてみようと思っていたのに、すっかり忘れていた。


「美希ちゃん、どうしたの?」


「大した事ではないんです。お仕事中でしたらかけ直します」


 この時間なら、普通は仕事だよね。そう思っても美希ちゃんの口調は早く、こんな時間に電話してきた事を後悔しているようだった。けれど、お仕事の時間だとわかっていても、踏みとどまらなかったのならば、何か話したい事があるようにしか思えなかった。それをランチを食べたいから後でね、とは言えない。


「いいのよ。今、会社じゃないの。出先でこれからランチにしようかって所だから、気を遣わないで。それより、恭平と喧嘩中なんだって?」


「え、あっ。そうなんですよ」


 恭平との事で何か軽く愚痴れば、話しやすくなるかな。そう思って、誘導してみたけれど、美希ちゃんはためらいがちに肯定した。


「で、原因は何なの? 恭平、全然教えてくれなくて。しかもね、美希ちゃんのいない家に帰るのが嫌みたいで、ご飯に付き合えって言うのよ。あたしにも、予定があるって言うのにね。だから、殆ど断っちゃってるだけどね」


「っそ、そうなんですか」


 恭平の落ち込み具合をちゃかしてやろうと思っていたのに、美希ちゃんは暗い声を出した。顔が見えない分、どんな反応をしているのか心配になった。


「どうしたの。美希ちゃんらしくないけど」


 いつもなら、恭平のヘンテコ話や反応を教えてあげると、照れながら可愛い反応をしてくれるのに、今日は違った。違和感どころか、本当に美希ちゃんなの? と、不信感さえ抱く。


「あの、麻美さんって。こんな事聞くの失礼だってわかってるんですけど、どうしても聞きたくて」


 躊躇するように話し始めた美希ちゃんは、そんなに長くない言葉の中で段々と勢いをつけて最後には、思いっきり叫んでいるかのように一気に捲し立てた。

 その声が大き過ぎ、思わず携帯から耳を遠ざけた。その分、勢いに押されずに済んだ。けれど、驚きは大きく、初めて遭遇するこんな美希ちゃんに、余程切羽詰まった状況が有る事を思わせれた。いったい、何があったというのだろうか。


「何だかわからないけど、何でも聞いて。別に、失礼だからって怒ったりしないから」


 あたしに何か聞く事で解消されるなら、何でも聞いてくれという気分になった。

 電話しながら、食べ物を口に入れることが出来ず、それでもお腹が空いて仕方なかったあたしは、コーヒーに手を伸ばした。

 電話口からは、美希ちゃんの溜息が聞こえた。あんなに、勢いが付いていたのに、今度は何だろうと不思議に思う。彼女が何を言いたいのかサッパリわからないのだから、あたしは待つしかなかった。


「麻美さんは、人の物が欲しいですか?」


「はぁ? ごめん、意味がわからない」


 口から離したカップを落としそうになり、中のコーヒーが激しく揺れた。それにも驚いたけれど、美希ちゃんの言葉にも驚いた。

 このまま、カップを持っていては危ないと溢さないうちにソーサーに戻す。


「えっとですね、既婚者とか彼女のいる人とかしか好きにならないとか。それで、自分に振り向いたら、飽きちゃうとか」


「何でそうなるの? あぁ、まず答えておかないとね。今まで、不倫はした事ない。それから、好きになった人が彼女いたかどうかは、あたしが知る限りでは無いと思う。けど、二股というか、今誰かいるなっていう状況にはなった事あるかな。あたしが後なのか先なのかはわからない。それが、美希ちゃんが言う定義に当てはまるのかはわからないけど」


 何でも聞いてと言った以上、曖昧な答えをするわけにもいかなかった。それを聞いて、どうしようというのかもわからないけれど、ちゃんと答えてあげる方が大切なのではないかと思った。


「そうですか。じゃあ、敢えてとか、たまたまそうだったって事とかは、ないんですか?」


「あり得ない。反対に、冷めちゃうかなぁ。だって、一人の人と満足に付き合えなくて、他にあたしから得られない物を求めたりてのは、すぐ別れればいいのにって思うし、あたしにはそれほど興味ないって事でしょ。そういう癖のある人にあたしは興味ない。けど、和也と本当に別れようって思うまでに時間が掛かり過ぎた。曖昧な関係続けちゃった。とりあえす、あたしの理想は、ちゃんとした二人だけの関係かな。飽きたり、愛情を感じられなかったりなんだったら、別れを選んで欲しい。繕ってまで一緒にいる必要はないんだし。あたし自身、そういう状況を作りたくないわ」


 美希ちゃんはあたしが話している間、静かに聞いていた。相槌も聞こえなかったから、もしかすると聞いていないのかとも思ったけれど、携帯からはなんとなく美希ちゃんの存在を感じていた。


「そうですよね、あたし麻美さんがわざわざ選んで、略奪するの楽しんでるとは思えなかったんです。って、麻美さん、和也さんと別れたんですか?!」


「あぁ、そういえば、恭平と話してないの? 恭平には色々と、この間愚痴ったって言うか、報告というか。ちょっと、迷惑掛けちゃってね。それを知らないって事は、恭平とまともに話してないのね」


 てっきり、恭平が美希ちゃんに報告済みだと思っていたけれど、そうではないようだ。加倉さんに言ったクセに、美希ちゃんには言っていないとはどういう事なんだろう。というか、加倉さんに言う方が余計。しかも、迷惑。


「ええ、話してないんです。勢いで出てきちゃって、電話にも出る気になれなくて。ちょっと、冷静になったらあたしが悪かったのかなって、思いもしたりしたんですけど、恭平の態度にムカつく気持ちもぶり返してきたりで」


「何があったのって、聞きたいんだけど、そろそろ会社に戻らないと。会社に戻ってから、電話するわ。戻って仕事の状況確認が出来たら、電話するから。時間大丈夫?」


「ええ。あたしは、何をするわけでもないですから。けど、お仕事大丈夫なんですか?」


 詳しく聞きたいけれど、帰って部長と話さなくてはいけない。その前に、本城君の仕事具合も気になった。

 あたし自身の仕事は、午前中に片を付けている。美希ちゃんに電話する時間は、十分にある。それに、少し間を置いた方が美希ちゃんもいきなりよりは、話しを整理できるかとも思った。

 仕事の方は、心配しなくても良いと美希ちゃんに伝え、急いで冷めてしまったランチを食べ、急いで会社に戻った。






 「先輩どうしたんですか? 今日、おかしいですよ。ねぇ、斉藤さん」


 佐崎部長に報告を終え、自分の席には斉藤さんがいるので邪魔は出来ず、本城君のデスクで項垂れていると、春香ちゃんが心配そうに話しかけてきた。


「ちょっと、疲れただけだから大丈夫。早く出てきたからね。もう、2日分は仕事したし」


 怠さ加減は半端ではない。それが、外に出ている。けれど、止めることは出来なかった。

 あたしとは反対にオフィス内は順調で、滞りなく動いていた。本城君も出掛けているし、あたしに連絡がないと言う事は、休日出勤をして仕上げた企画書にも問題はなかったようだ。

 今朝は殆ど説明もせず、本城君に企画書を手渡した。ちゃんと、プレゼンできたかどうか心配ではあったけれど、ちゃんと必要な事は伝えた。ソワソワしてし、持て余す心配ではない。どうなっただろうか程度の心配。

 なんだかんだ言っても、本庄君は人当たりがいい事と理解して無くともちゃんと覚えて帰ってくるのだから、掘り下げれば出てくるし理解もする。すっとぼけた見解を見せる事はあっても、クライアントを心配させ無い努力をしている。それに、一番最初に言い聞かせた、「取り繕って曖昧な答えをするな」も実行している。回答を多少先延ばしにしても、完璧なものを用意する。完璧さからの信用性をあたしよりも、加倉さんで学習したらしい。加倉さんとは、仕事をしたこともない癖に。岸君あたりから何か影響を受けたのかも知れない。

 本庄君を信頼していると言うよりも、出来て当たり前なの時期にはきている。そうでなければ、本城君に仕事を任せはしない。


「伊藤さん。今朝、末原課長に呼ばれて正式に異動が決まったて、言われたんです。辞令も出て。あたし、お手伝いじゃなかったんですか?」


 斉藤さんは、困ったような口ぶりでそう言うと、あたしが帰ってきてからすぐに聞きたかったのだけれど、タイミングが掴めなかったと続けた。

 確かに、あたしは『誰も話しかけてくるんじゃない』オーラを出していたと思う。けれど、話しかけられない程にあからさまだっただろうか。春香ちゃんはあたしに話しかけているのだから、そうでもないと思う。それでも、あたしに慣れていない斉藤さんはそのタイミングを逃したのかも知れない。


「あぁ、その事ね。あたしも、さっき佐崎部長から聞いた。斉藤さんには申し訳ないけど、丁度良かったわ。本城君だけで、どうにもならない仕事が入ったから。来て貰いたかったのよ。それを、部長が知っていたかどうかは、わからないけどね。後、派遣で一人来て貰うから」


「はぁ、なんだか急過ぎて、嫌とかそういうんではないんです。あたし、何だかついて行けてないというか」


 斉藤さんの表情からは、確かに、嫌そうな雰囲気を受け取れなかった。ただ、納得しきれないような曖昧な表情を作り出していた。

 元々、あたしがここに連れてきたのだって、急だった。それから、週末を挟んでみれば、いきなり異動なのだから戸惑うのも無理も無い。


「そんな事ないですよ、斉藤さん。私とは、大違いですよ。私がこっちに来てすぐは、失敗ばかりで先輩にすごくフォローしてもらっちゃったんですから」


「そうかしら。十分あたし戸惑ってるし、たぶん、伊藤さんには仕事が遅いとか使えないだとか、思われてると思うけど」


 斉藤さんの言葉に少し驚く。あからさまに、あたしがどう思っているかを口にするとは思わなかった。

 先週の仕事ぶりだけでは、確かに遅いかなと言う印象も受けるけれど、初めてさせられた事を、最初からそつなくこなせる人なんて、早々いない。斉藤さんの目標は、どれほど高いのだろうか。完璧主義者なのか。と、いうことは加倉さんといい勝負かも知れない。


「そんなこと無いですよ。ね、先輩」


「まだ、これから覚えて貰わないといけない事が有るし、負担も増えると思うけど。あたしは心配してないかな」


「ほら、先輩もこう言ってるんですから、斉藤さんは大丈夫なんですよ」


 この二人は、いつからこんなに仲が良くなったのだろう。あたしの知らないところで、和解しているようだ。それにしても、馴染みすぎだ。

 初めから、あたしが心配する事なんてなかったのかも知れない。

 それでも、理解できない物同士が和解できたのならば、良き理解者になれるのではないかと思う。それに、酒井さんの出没頻度も増えている。今日だけで、ここで2度見た。今まで、顔さえも知らなかったというのに。

 もう既に、あたしが触れる問題ではないのは明らか。どうなっているのか、気になるには、気になる。だからと言って、今聞き出すのは止めた方がいいだろう。

 考えてみれば、当たり前なのかも知れない。ここで、春香ちゃんを今まで通りに扱えば、不利になるのは、自分なのだから。


「斉藤さん、本城君が帰ってきたら打ち合わせしましょう。それから、急だけど、オフィスの模様替えよ」


 さっき、佐崎部長から報告された事を二人に伝えた。

 今日は残業決定。残業は避けようと早く出てきたというのに。無駄な努力にも程がある。

 何故だかわからないけれど、佐崎部長は準備が良すぎる。今日、追加の備品やデスクを搬入する手配を済ませていた。4時過ぎには、業者が来てオフィスの配置換えもする事が決まっていた。

 部長には部長のコネがあるのかも知れないけれど、今日発注したとして今日既に手配が済んでしまうなんて、早過ぎはしないだろうか。あたしの知らないところで、人員不足をちゃんと考えていてくれていたのかも知れない。それが、たまたま重なっただけなのか。そんな疑問を持っても、部長に素直に聞くというのは何となく気が引けた。

 他の課と違って人員が少ない分、今まで広々と使えていた。デスクが一つ二つ増えるくらいは何ともない。けれど、使い慣れた配置が変わるのは少し嫌だ。そんな事を思っている場合ではないのは、わかっているけれど、少し憂鬱にもなっている。変化を恐れているわけではない。展開が急すぎた。


「先輩、そういえば加倉主任すっかり元気じゃないですか。てっきり、今日もお休みだと思ってましたけど。今度は先輩の方が、バテるんじゃないですか?」


「えっ、加倉さん来てるの?! 通りで、こっちにちっとも連絡が入らないはずね」


「伊藤さん、知らなかったんですか? まぁ、加倉主任が来られたのは、伊藤さんが出掛けた後でしたけど」


 斉藤さんは、知っていて当たり前の情報を知らなかった人を見るように、驚いた顔を見せた。その表情に、取り残されているような気分になったあたしを放ったまま、斉藤さんと春香ちゃんは、加倉さん話に花を咲かせる。


「っそ、そうなの…。来てるのね。それじゃ、あたし休憩しても良いかな? タバコ吸って来る」


 あたしの発した言葉が届いていたかどうかは定かではなかったけれど、必要な物を手にオフィスを出た。

 加倉さんは、休むものだと思い込んでいた。けれど、加倉さんが部長に報告したのなら、部長の準備の良さも頷ける。部長には加倉さんから今井さんの仕事を引き継いだ事を報告していなかった。敢えて報告しなかったのではなく、クライアントである今井さんからの引き継ぐ了解も得ていなかったし、加倉さんに任せるつもりでいるのだろうから。それを勝手に報告はできなかった。

 派遣を入れてくれるというのは、てっきり人手不足を実感してくれているのかと勝手に思っていたけれど、加倉さんが今井さんの仕事を受ける事を報告したのだと気が付いた。

 斉藤さんが来てくれるとしても、足りない。本城君にもこっちを手伝って貰わないといけないだろう。そうなると、本城君に引き渡した仕事も引き戻して、双方が全てを把握しておく必要がある。

 斉藤さんにも、今以上の負担を強いる事になるのは明らかで、忙しさは営業部の比ではなくなるだろう。改めて戦力に加わって貰わないとならない。

 最初はただ単に、宮内との橋渡しにと思っていた。けれど、たった一日の仕事ぶりで、それは勿体ないという結論も出ていた。偶然とはいっても、斉藤さんを選んで連れてきたのは正解だった。

 タバコに火を付け、帰りに買ってきたコーヒーに口を付けた。

 口に流れ込んだコーヒーを味わいながら、ふと思う。それにしたって、部長の行動は早過ぎやしないだろうか。

 そう思い至ると、やっぱり加倉さんは辞める準備を既に整え始めているのだろうと、勘ぐらずにはいられない。

 よくよく考えてみれば、あたしの異動の話が出た時の加倉さんの反応は、おかしかった。加倉さんが本城君をそんなに役不足だと思っているとも考えづらい上に、変に不機嫌になった。そうなると、部長が加倉さんにあたしの異動の予定があると伝えた時には、行動を起こそうとしていた事になる。きっと、あたしを中心に課を回そうと考えていたのだろう。

 加倉さんは、辞めるとは言っていないと言った。けれど、これではもうそうとしか思えない。

 タバコで肺を満たしながら、考えを巡らせてもあたしにはどうする事も出来ないと、結論を出した。無駄な事を考えるのは止めよう。

 今日は残業決定ではあるけれど、今のところ急いでしなければならない事もない。そうとなれば、美希ちゃんにどういう事なのかを聞かなければ。

 頭を切り換えると、早速携帯を手に取った。






「早速だけど、どうなってるのか教えてくれる?」


 携帯の着信歴から、美希ちゃんの番号を出すと迷い無く通話ボタンを押した。

 美希ちゃんは、近くに携帯を置いていてくれたのか、2コール目には出てくれた。


「あの、本当にお仕事の方は大丈夫なんですか?」


「気にしないで。あたし、要領は良いのよ。隙間を見付けるのなんて、大したことじゃないから。それで、どうして喧嘩になっちゃたの?」


「それがですね、すごく、言いにくいんですけど」


 そして、話し始めた美希ちゃんは、恐縮しながら言葉を紡いだ。

 初めのうちは、相槌を打ちながら最初は興味津々で、やっぱり、おもちゃが原因なのかと楽しく聞かせていただこうと思っていた。

 けれど、聞けば聞く程、どうしてそうなるのかが不思議で仕方がなかった。


「それじゃあ、その元同僚の子が話した事を真に受けたわけね?」


「すいません」


「けど、疑ったにしても、本気であたしと恭平が不倫してるだなんて、思ってはなかったんでしょう?」


「恭平が否定でもしてくれれば、そのまま、その子の言う事を流せたんですけど」


 電話口の美希ちゃんは、話し始めより一層、申し訳なさそうなか細い声で疑心暗鬼に至ったかを話し始めた。

 それに吊られ、本当に不倫をしているような気になってきた。全く、そういった事実はないのに。

 けれど、美希ちゃんの話す恭平の態度も気になった。どうして、そんなに素っ気なく、静かにキレたのか。


「まぁ、わからなくもないわね。恭平の反応。だって、否定するのも肯定するのも、あたしが相手じゃ面倒だったんじゃない? 美希ちゃんだって、わかってるって思ってたんだろうしね」


 元社内恋愛の彼等にとって、共通の知り合い、友達とはややこしい事をしてくれる。

 美希ちゃんは、自嘲気味に溜息を漏らしながらあたしの言う事を聞いているけれど、恭平に小馬鹿にしたように言われてしまえば、怒りたくもなるだろう。それに、疑心暗鬼になっているところに、そんな態度で返されれば、ますます怪しいと勘ぐってしまうのもわかる。

 恭平もそこで、疑われいる事にムカつかず、もっと優しい言葉で安心させてあげれば良かったものを、わざわざ火に油を注ぐのも悪い。それでも、あり得ない事を疑われ、自分を信じて貰えてないと気分を害した、恭平の気持ちもわかる。

 そもそも、喧嘩の発端なんて行き違いと決まっている。

 美希ちゃんも、自分に対する恭平の態度とあたしに対しての態度を知っているのだから、怒る気持ちが先行しなければ理解できていたはず。あたしとは違って、美希ちゃんには、とんでも無く優しいのだから。

 何度となく、そう言った場面に遭遇したことはある。こっちが恥ずかしくなるようなラブラブぶりには、目を向けられない。とにかく、引っ付きたがるのだから。

 そんな時は、目の前の男が、いつも目にする恭平なのだと理解するのが恐ろしくなる。

 あたしには同性に対する態度と変わらない。それでも、美希ちゃんにしてみれば、あたしの存在は邪魔なのかも知れない。

 今まで美希ちゃんがそんな事を考えていると、考えた事がなかった。わかっているからと、あたしも恭平も無神経だったのかも知れない。

 異性の友達とは、中々難しいところがある。特に、相手がいる時には。

 もう少し、あたしも心得ていた方が良いだろう。


「たまに思ってたんです。恭平の態度に麻美さんが何で怒らないんだろうって」


 突然、明るく年より若く思えるような浮いた声を出し、いつもの調子に戻った美希ちゃんは、思い出したついでに思える発言をする。


「何の事を言ってるの? 恭平にはいつもキレてるけど」


「それは、恭平がやらかした事とか、麻美さんの気に障る事を言った時とかですよね。それじゃなくて、恭平の男友達とかと扱いが一緒だから、それに怒らないのかと思って」


「反対に、あたしが不思議よ。それに怒る必要があるのかが。あたしは、恭平が女の子達にどんな態度をとってるのか知らないけど、そんなにあたしと違うわけ?」


「ええ。全く。あたしが勤めてた時なんて、それにカナリ嫉妬しまくってたんですよね」


「彼にしてみれば、あたしは女じゃないんでしょうね。あたしはその方が良いけど。美希ちゃんみたいに扱われたら、気持ち悪いし、鳥肌もの。それにしても、良くわからないのは、嫉妬したって、恭平の女の子に対する態度にって事?」


「そうなんですよ。だって、なんか話しながらデレデレしてる事多いんですから。しかも、仕事の話しにしたって、他に話題を広げるようにしてるような気もするし」


 その場面を思い出したのか、美希ちゃんの言葉の端々にトゲが見え隠れする。けれど、好きな人が自分以外の人と楽しそうに話していれば、面白くないのだろう。それに、恭平は社内でも人気のある部類。恭平がその気がなくても、女の子達は、どうなのかはハッキリしない。好みの異性ならば、彼女がいるにしても結婚していても、接触を求めるだろう。


「何言ってるのよ。美希ちゃんにベタ惚れなのに。けど、コレで恭平が原因をひた隠しにするのかわかったわ。あたしに不倫疑惑があるってのを耳に入れたくなかったのかも。あたしの態度が変わるかもって、思ったのかも知れないし」


 疑惑を持たれているのに、毎日、夕食誘って来るって事は、本当に家に帰りたくなかったのだろう。それに、あたしに何かアドバイスを求めてたいと思っていたとも考えられる。けれど、その話を避けているのも事実で、知った今では恭平が困惑している様子が面白い。

 今の事態を伝えないまま、どう話しを持っていくか考えても答えが出なかったのだろう。


「自分が悪くないのに謝りたくないとか思ってるんじゃないかな、それでも仲直りしたいしで、ジレンマにはまってるんじゃない? 今も」


「そうなんですかね。 それなら、いいんですけど。今回は、あたしが悪かったのかなって、思ってはいるんです。けどやっぱり、恭平の態度にもムカつくし、あのおもちゃも何とかして欲しいんですよね。掃除するのも邪魔だし」


 穏やかに話していたのに、後半強い口調で怒りが籠もっていた。口ではそう言っているけれど、喧嘩はもう十分だと思っているようにあたしには思えた。

 ムカつくのは、しかたがないだろう。それでも、美希ちゃんは最後に愚痴っただけで、あたしに同調して欲しいわけでもないと思う。素直に帰って、話そうという気になっていて、恭平の前でそれを出さずに進めたいのかも知れない。

 あたしにも、そういう時がある。特に、仕事では。全くの第三者に、ただ愚痴るだけ愚痴って、スッキリしてから仕切り直す。

 今の美希ちゃんも、そうではないかと思わずにはいられなかった。


「少しだけ、お手伝いするわ。あたしの所為でもあるわけだからね。じゃ、がんばってね」


「あ、はい」


 突然の話題の切り替えに、少し驚いたような声を出して返事をした美希ちゃんは、それに続けやっぱり電話して良かったと言って電話を切った。

 暫く使い終わった携帯を眺めていた。

 あたしは、知らないうちに彼女を悩ませていた。知って、迷惑を掛けている事は多々あっても、知らないうちにというのは、今回が初めてだった。もしかすると、自分が気付いていないだけで、まだあるのかも知れない。そう思うと、恐ろしくなってきた。

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