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MAYBE  作者: 汐見しほ
24/29

◆ 6 ◆ 04 止まらない疲れると疲れた。そして、睡眠欲。

 加倉さんのいなくなったソファーで、ごろりと身体を倒した。何も考えたくない気分だ。

 やっぱり、眠い。

 テレビから耳障りな声が聞こえる。それに、イラっとした。テレビに目を向けると、海外ドラマか映画かわからないけれど、外人さんが台詞を早口で喋っていた。

 その俳優は、誰だか知らない。けれど、この耳障りな声と汚い言葉を並べるのは、ムカつく。

 見たいチャンネルがあるわけでもない。迷い無く、身体を倒したまま、手を伸ばしリモコンで電源を切った。

 歌詞ならば、汚い言葉が出てきてもそんなに嫌悪感を覚える事はない。大抵のドラマや映画だって、特に問題はない。あの俳優の喋り方と声が気に食わない。

 嫌な事を考えても疲れはますばかりだ。やめよう。

 帰りはどうしよう。タクシーで帰ろうか。いくらかかってもいい。電車を乗り継いで帰る気分でもない。それでも、時間的には電車で帰る方が早い。

 考える事を止めたいと思うのに、頭の中では次から次へと思考が出てくる。疲れている証拠だ。自制できない。けれど、疲れたと思いつつも、考える余裕がまだあるらしい。

 このまま、眠ってしまえればいいのに。ソファーが自分のベッドよりも居心地の良い場所に思えてくる。


「あ。そう言えば」


 思い出してしまった。まだ、キッチンを片付けていない。さっさと、片付けて帰ろう。もう、今日は終わってもいい。するべき事は、片付けだけ。

 もう少し頑張ろう、と自分を励ました。




 シンクの前に立ち、洗い物を済ませた後、バカらしくなってきた。

 それは、加倉さんがどうのという事ではなく、自分が本当にバカだと思ったからだ。

 幾度も目に入っている食器洗浄機があるにも拘わらず、自分で洗ってしまった。中に、突っ込んでしまえば、終わっていたのに。

 知っていたのに、何故使わない!

 一気に、全てに対して嫌気がさした。自分が悪いのは、十分にわかっている。それでも、納得がいかなかった。

 そう思いながら、キッチンにいるついでだと自分の為にコーヒーを入れた。

 コーヒーと来れば対ずるのはタバコで、吸いたい衝動に駆られた。

 コーヒーを手にリビングに戻り、タバコを取り出した。

 火を付けようとして、喉が痛くて全く吸っていない加倉さんの事を思い出すと、遠慮した方が良いのではないかと思う。

 箱にタバコを戻し、バッグに収めようとした。けれど、吸いたいものは、仕方がない。手のひらのタバコを眺め、そして、まだカーテンが閉じられていない窓を見た。

 寒そうだけれど、外でなら臭いが残らないだけ、加倉さんへの影響はないかもしれない。

 ついでに目に付いた携帯も取り出し、スカートのポケットに入れた。

 やっぱり、ポケットはあった方が良い。けれど、前に着いた飾り程度の小さなポケットだ。機能的ではない。それでも、携帯がスッポリ入らないまでも、申し訳程度の機能は果たす。

 灰皿とコーヒーを手に、ベランダに出た。

 外の空気は澄んでいて、寒い。当たり前だ。冬なのだから。ジャケットか、コートを持って出れば良かったかもと思ったけれど、その冷たい空気が目を少し覚まさせてくれていた。

 これは、これでいいだろう。我慢できない程ではない。

 寒さに身体が慣れところで、平たい手すりの上にコーヒーと灰皿を置きタバコに火を付けた。

 今日は、とても長く感じられた。2日分程、あったのではないかと感じてしまう。しなければいけない事を考えたくなかった。もう、休日モードに入っても良いはずだ。

 そうだ、掃除をしようと思っていた。けれど、明日動くことが出来るだろうか。

 手すりに身体を預けて、コーヒーの入ったマグカップを口に運んだ。

 疲れる疲れたと思ってはいたけれど、意外に動けるとわかった。今日を乗り切れたのだから。明日も、掃除を済ませることが出来るかも知れない。

 ふと、携帯の存在を思い出した。メルマガでも来ているかもと、折りたたみの携帯を開いた。


「あさちゃん、何してんの?」


「え?」


 自分の世界に入っていたところに、あたしにしてみれば突然声を掛けられた。

 ベランダに出た時、窓を閉めるのを忘れたようだった。窓が開く音が聞こえれば、加倉さんに気付いたはず。

 何をしてると言われても、何もしていない。答えようがなかった。

 タバコの火を消し、見ようとした携帯を閉じてポケットに戻した。そして、持って出た物を手に部屋に戻った。


「それで、何してた?」


「特に、何もしてませんけど」


 加倉さんは、両手の塞がったあたしの代わりに、窓を閉めながらまた聞いてきた。

 そんなに、興味を持つことだろうか。見たままなのだから。タバコを吸いながらコーヒを飲む。何もおかしな事はない。

 テーブルに灰皿を戻さず、キッチンに持って入った。ゴミ箱に灰を捨て、使ったマグカップも一緒に洗った。

 元有った場所に戻すために、キッチンタオルで灰皿の水分を拭き取りながらリビングに戻る。

 加倉さんは、あたしがリビングを出た時のまま、窓際で頭に覆ったタオルで髪の水分を拭き取っていた。

 何をしているのだろうと、こっちが聞きたくなった。

 さっさと、髪を乾かせばいいのに。今度は、菌じゃなくてウィルスにヤラレてしまうぞと思いながら、テーブルの上に灰皿を戻した。

 加倉さんは放っておいても大丈夫だろう。帰ってあたしも長めに湯船につかろう。もう、そろそろ限界に近い。

 身体の怠さに加えて、瞼が腫れているのではないかと思うくらいに重くなってきている。自分が眠れる場所ではないという理由だけで、保っているだけだ。

 やっぱり早く帰りたい。タクシーの方が楽だけれど、早く帰れる電車の方が良いだろうと想いながら、ソファーの背に掛けていたコートに手を伸ばした。


「今日も泊まっていけば?」


 いつの間に、動いたのか気が付かなかった。

 突然、後ろから抱きすくめられ、手に取ったコートを取り上げられた。

 驚いて声を出すことも出来ないでいると、加倉さんはコートをあたしの視界から届かない所に投げた。


「今日は、電車動いてますから。その必要はありません」


 戸惑い、身体は疲れていても、あたしの口は勝手に返答をした。

 加倉さんは何を考えているのだろう。答えを探してみても、ナチュラルハイ状態は既に抜けていて、見付けることができず、ただ、動けないだけだった。

 外に出て身体は冷え切っていた。その所為か、お風呂上がりの加倉さんの身体は、暖かいを通り越して暑い。

 何を冷静に考えているのだろう。そう思っても、焦ったところで状況は不利になる。

 この状況をどうにかしなければ。昨日ぐらい、フラフラでいてくれたなら、事は簡単なのに。もう一度、熱を上げてくれないだろうか。自分の首を絞めるだけだというのに、そう思った。


「だったら、電車無くなるまでココにいれば?」


「電車があるのに、わざわざ、タクシーで帰れって言うんですか? そんな事する意味がわかりません」


 さっきまで、タクシーで帰ろうと思っていたのを何故知ってるのか少し驚いた。けれど、そんなはずはない。

 心の声が聞こえてしまう才能を加倉さんが持っているとは思えない。


「だから?」


 あたしの理解力は鈍くなっているのだろうか、加倉さんの言う意味がわからない。だから? と、こっちが聞きたい。けれど、ココで押し問答したところで、言いくるめられるような気がする。

 心の声が聞こえる才能が、今、あたしに欲しい。無理なのはわかっていても欲しい。

 キレてしまえば、どうにかなるだろうか。そう考えても、言いくるめられるような気がする。普段よりも、どうしようもない疲れを感じている頭を動かそうとしているのだから。

 あたしが、沸点に到達するには、1分とかからない。酷い時には、相手が言葉を発する前に、意図を汲んでしまうと瞬時に沸騰する。電気ケトルならとてもイイ商品だ。けれど、残念ながら人間のあたしは困ったちゃん。抑えていれば、リミッターはすぐに使い物にならなくなる。

 今のところ、加倉さんの考えている事が見えないだけで、そうではないのだから、敢えてキレる事なんて出来ない。そんなに器用な人間でもない。余計におかしな事になるような気がする。何も言わないのが一番良いのかも知れない。

 それに、加倉さんはこういう人なのだから、一々目くじらを立てても仕方がない。第一、触れるてくるのは、加倉さんにとってはコミュニケーションのひとつなのだから。けれど、こんなのは初めてだ。昨日の熱だれ状態を除けば。

 もう、身体は気力だけで動かしているようなものだというのに、余計なエネルギーも使えない。

 そう、諦めが勝ち始めた時、携帯がバイブと一緒に着信音を鳴らした。

 それに驚いて、ビッくっと身体が反応する。

 加倉さんがバスルームに行った後、テレビを消していたのが不味かった。静かなのとポケットで震える携帯が必要以上に、驚かせてくれた。

 あの俳優を恨んでやる。

 体は解放して貰えないまま、髪とブラウスの襟を器用に除け、首筋にキスされたかと思うと、鎖骨の辺りまで舌が這ってきた。まだ濡れていて、冷たくなり始めた加倉さんの髪が刺激を一層、ハッキリとしたものにしていた。

 加倉さんの行動が把握しきれず、何を考えているのかも一向にわからない。苛立たしさは覚えるけれど、与えられた刺激に目眩がした。

 それでも、まだ、携帯は鳴り続けている。


「何考えてるんですか? そういう人が必要なら、呼べばいいじゃないですか。あたしは、帰って眠りたいんです」


 諦めと呆れ混じりの気の抜けた声で、独り言をいつの間にか口にしたように、溜息と一緒に言葉が出てきた。なんだか、もう、人事のように思えてきた。


「ふぅん?」


 この人は、人の話を聞いているのだろうか。と、ぼんやりと思った。

 首筋に吸い付いたまま、意味のない返事をする加倉さんは、全く理解できない。疲れを感じていない、元気なあたしならば、理解できただろうか…。

 頑張って考えた、大人しくしていれば考え直す時間になるかもしれないは、全く意味がなかった。それならばと、身をよじりながら抜け出そうと試してみた。けれど、腕が深く絡み付いて来るだけだった。

 どうすれば、抜け出せるだろうか。良い方法が見つからず、より暴れてみても疲れが増すばかり。

 もう、面倒で仕方がなくなった。


「そろそろ、放してください」


「それは、無理」


「こっちも無理なんですけど?」


 携帯は鳴りやみ、震えも止まった。もう少し、着信時間を短くしようと、決めた。

 今すぐ、そうしたいけれど、腕ごと絡み付かれては、携帯には手に取れない。


「大丈夫」


「何が大丈夫なんですか?」


「全部」


「はぁ」


 埒が明かない。会話に意味がない。返答の意味もわからない。

 もしかして、ヒロ君は変な薬でも処方したのだろうかと一瞬考えたけれど、それは、あり得ない。

 鈍くなってきたあたしでも焦りを感じてきた。益々、加倉さんにどう対応して良いのかわからない。


「あさちゃんも今フリー。後ろめたさも感じること無い……だろ?」


「何で知ってるんですか? 報告した覚えはありませんけど」


 相変わらず、怠さも面倒くささも打ち消しはせず、そのまま驚きに乗せて吐き出した。


「笠原があさちゃんの代わりに報告してったけど?」


「恭平……」


 そう呟くと、腕が弛み解放された。

 ややこしい事にならずに済んだ。ホッとして、安堵の溜息をつき、目の前のソファーにあるバッグに手を掛けた。


「えぇ?」


 身体が浮いたと思うと、遠慮もなく抱き上げられた。

 ついさっきは、驚いて何も言えなかったけれど、安心した気分浸っていたところに驚かさされ、間抜けな声が出る。手にしたバッグも放り出してしまった。それに、この状況にも恥ずかしさを感じた。耳が熱くなり、顔も赤いと思う。


「何なんですか。いい加減にしないと、部長に言いつけちゃいますから」


 喚き散らしたいのひたすら抑え、静かに言いながら降りる方法を考え、身体をよじっている間も、加倉さんは進む一方で立ち止まろうともしない。

 あまりに暴れれば落ちるのはわかっている。けれど、閉まっていた、寝室へのドアが開いていたのを目にし、そこへ向かわれれば、身体を動かさずにいられなかった。いつ、ドアは開いたのだろう。


「暴れると、落ちるけど?」


「はぁ? うぁあ!」


「だから、忠告しただろ?」


 さも、当たり前のように、あきれ顔で言ってのける加倉さんが信じられなかった。落ちたのはベッドの上で、解放されたチャンスにベッドから降りようと動き出しても、加倉さんのテリトリーからは出られなかった。寧ろ、面白いほど簡単に引き戻された。

 やっぱり、会社を辞めるつもりなのだろう。

 そうなのだろうと、身を屈め近づいてきた加倉さんに、キスされながら思った。静かなでなめらかなその行動は、目は正常に機能し、行動を追っていても、抗う事も止める事も出来なかった。

 そして、自分でも驚く程、それに酔っていた。

 今まで、会社の人間に手を出したという噂もなければ、見た事もなかった。ここで、誰でもイイになっているのならば、辞めるつもりとしか思えなかった。

 だからといって、あたしじゃなくても良いのではないかとも思う。

 なんなら、酒井さんにすればいいのに。そうすれば、酒井さんには一時の幸せを手に入れる事が出来る。けれど、その後は自分の判断が間違っていた事をイヤでも思い知らされるだろう。

 自覚はしていなかった。あたしはキスが好きなようだ。相手が誰で良いのかはまだ不明。

 それでも、加倉さんの唇を受け止めるのは当たり前のような気分になっていた。自分の想いとは、全く関係ない世界いる不思議な感覚。これを流されているというのだろうか。

 そういえば、昌弥の帰り際のキスもそうだったと、ぼんやりする思考が探り当てた。

 あたしの唇に触れる、柔らかくあたしを溶かそうとする唇は、加倉さんだというのは、十分わかっている。どうして、無理矢理にでも引き離せないんだろう。反対に、境界なんてなくなる程引き寄せたいとも思っている。

 自覚してなかったとはいえ、どうしてこんなにあたしはキスが好きなんだろう。眠りにスーっと落ちていくのを自覚している時のように、ふんわりとした気分があたしを満たしていた。

 絡み合う舌と唇は心地よさと共に、麻痺したようにムズムズとする痺れとそこだけ自分の一部ではない感覚。それが、あたしの快楽原則を呼び起こし、支配した。


「うっん!?」


 あたしを現実原則の下に引き戻したのは、あたしと加倉さんの間で震え着信を知らせる携帯だった。加倉さんもあたし同様、振動が伝わったようでスッと身を引いた。


「恭平…」


 この着メロは、恭平だと反応をし、残る加倉さんの身体を押しのけ、身体を起こし携帯をポケットから抜き出した。

 すると、起きあがった加倉さんは、あたしの手から携帯を取り上げ、出てしまった。

 勝手に人の電話に出るとは思わなかった。鈍い動きだったけれど、すぐに取り返そうとした。それは、本当に鈍かったようで、加倉さんの腕に阻まれベッドに押し戻された。


「笠原、ノベルティ搬入するって言ったの忘れただろう?! あさちゃん、キレてたぞ」


 会話を始められると、残る力を使うつもりはなかったけれど、また取り返そうと勢いよく起きあがり、右手を伸ばした。それは、またも見事に失敗し除けられた挙げ句、アンバランスな勢いなまま加倉さんに抱きついてしまう始末。

 加倉さんは、あたしを空いた腕で受け止めたまま、何食わぬ顔で恭平と話している。漏れ聞こえる恭平の声は、何を言っているのかわからない。

 2度も失敗したけれど、引き下がるのも癪で、今度は抱きついたついでに加倉さんの後ろから手を伸ばして奪い取った。


「恭平こっちに来て、加倉さんの面倒見るの代わって。あたし帰って眠りたいの〜?! ちょっと……」


 奪い取ったのまでは良かったけれど、身体を離してくれるかと思えば、加倉さんは自分の身体ごとあたしをベッドに押し戻した。状況は更に悪化して、電話口にいる恭平を知っているのにも拘わらず、加倉さんの唇が顔や身体を這い始めた。


「はぁ? 何言ってんだよ。イヤだね」


 電話の向こう側の恭平は、意地悪で楽しそうな口ぶりで拒否した。それに、あたしのリミッターの制御は、不能になった。


「本当に、恭平って使えないわね! 覚えてなさいよ、絶対何かしてやるんだから!」


「知るかよ。それより、どこにするか決めたのか?」


 恭平は、残りのエネルギーを計算もせず喚くあたしの発言を全く無視して、話題を反らす。この状況を知られるのもイヤだったけれど、助けて欲しかった。

 後者よりも前者の方があたしのプライドが許さなかった。なんだか、加倉さんに負けを認めるようで、癪に障る。それに、恭平に借りを作るのは、後々、後悔しそうだった。


「もう! 知らない! 恭平のバカ!」


「お前なぁ、何なんだよ。喧嘩売ってんのか?」


 恭平は、ただムカつく。あたしが暴言を吐いても、楽しそうに受け流す程度に挑発した。

 恭平と話している間も、加倉さんは益々エスカレートして、ジっとなんてしていられなかった。身をよじりながら的確な範囲から反らした。それでも、加倉さんはそれを見抜いているようで、再々、範囲内に戻ってくる。


「いくら…でも、売って、あげる!」


 力が抜け初め、京香さんとの打ち合わせのために選んだ服は、どんどんと機能を果たさなくなり剥がれていくばかり。吐息が漏れるのを抑えるのに必死で、携帯を耳に宛がう力さえなくなってきた。


「あっ」


 エネルギー配分を明らかに間違え、加倉さんに力を抜かれ、注意散漫を通り越して無防備なあたしから、簡単に外界との接触は奪われた。


「笠原、お前邪魔。来なくてイイ」


 一言そういうと恭平が何か言っているのに切ってしまった。そして、気力だけで暴れ始めたあたしを制御したまま携帯の電源を切った。

 加倉さんは、寝室を出る時に電気は消したらしい。光っていた携帯の背面のカラフルな光は、全く反応しなくなり光源がなくなった。呆気に取られ、消えた光の跡を見ていると、加倉さんは興味を無くしたおもちゃのようにあたしの携帯を放り投げた。

 それは、床には落ちなかったようで、フローリングにぶつかった音はしなかった。ひとまずそれに安心した。壊れはしていないだろう。


「加倉さん、もう何でもイイですけど、勝手に人の物を扱わないでください」


 身体に手を這わされながらも、平気な振りでそう言った。けれど、もうなんだか、どうでも良くなっていた。こんな恥ずかしい格好をさせられても、羞恥心を自らはぎ取り、平常心を保った。

 喚き散らすは、簡単だ。それは、本当に簡単で、ただ理性を押しのけ、口さえ開けば、いくらだって出てくる。もう、最後の気力を削がれていた所為で、それさえも忘れていた。けれど、悔しさはあたしの中で蠢き始めた。

 加倉さんの周りにいる女性のように、加倉さんに惑わされるつもりはない。そして、彼女達のようには簡単に落ちてやる気にもなれなかった。

 確かに、加倉さんは顔立ちも良く、どんな女性も興味を示すだろう。実際、初めて加倉さんと顔を合わせた時、あたしだって見とれた。暫くすれば、それは加倉さんのではないと知った。加倉さんを知れば知るほど、見てくれだけで判断を出来ない事を実感した。

 蠢きだした悔しさは、早くも鈍り、加倉さんに酔い始める。


「麻美は不倫してるんだって?」


「何言ってるんですか……意味わかって言ってます?」


 唐突な発言は、ほんの少しあたしを揺さぶった。ぼんやりと加倉さんを見つめ、答えを待った。


「笠原と不倫してるらしいぞ。噂ではな。こんな事もしてるんだろ?」


 両胸を弄びながら、加倉さんはいたずらを遂行する子供のようにあたしの目を覗き込んでくる。それは、本当に楽しそうで、リビングの光源から放たれるわずかに差し込んでいる光が加倉さんの瞳に反射し、真顔でいるのに、瞳は微笑んでいるようだった。

 うかつにも、それをかわいいと思ってしまった。


「そんな噂聞いた事がありません。あり得ないのは、加倉さんだって知ってるじゃないですか」


 不倫していると、あたしに対して言われたのは少しわかった。けれど、何かをしながら、テレビから聞こえたドラマの台詞のように聞こえ、あたしに対してではないようにも思えた。それでも、恋人同士の浮気なら何とか許せることでも、不倫だけはダメだと思っているあたしには、気分が悪い。そして、悲しさで胸が痛くなった。


「どうかな? よくじゃれ合ってるしな。何とも言えない…」


 加倉さんは意地悪く答え、吹き出した。

 痛くて堪えられなくなってきた。加倉さんが本気そう思っているのかもわからなかった。

 そして、加倉さんから与え続けられている刺激は、頭で何を考えていようとうっとりするには十分で、自然と発情を含んだ吐息が漏れる。

 針が詰まった様に内側から痛む胸の痛みからから逃げ出したくなったのと、身体の疲れも手伝って、甘く誘惑する快楽に身体の力が抜け、力は益々入らなくなっている。それに、溺れたくなる衝動と心地よさにも睡眠欲にも駆られた。次第に、うっすら視界が狭くなる。


「黙って加倉さんに抱かれれば、満足ですか? そしたら、帰って眠らせて貰えます? もう、何も考えず睡眠不足と倦怠感をどうにかしたいんです」


 殆ど諦めが支配した心で、静かに思った事をそのまま言葉にした。

 加倉さんに抱かれても、何の事はない。仕事も気まずくなるとも思えない。一度、抱いた女を我が物のように扱う事もないと思う。

 それに、あたし自身、流されてみるのもイイかも知れないと、思っていた。その相手には、加倉さんなら面倒な事にはならないはず。

 あたしは、子供ではない。快楽に身を任せる楽しみを知っている。ただ、加倉さんの数には全く追い着かないけれど。


「麻美……」


「はい、何でしょう」


 と、天井を意味なく見つめていた目を加倉さんに向けた。

 そこには、寂しそうな顔をする加倉さんがいた。

 ハッキリしないぼやけた頭の中をかいくぐり、瞬きをして目をこらし、加倉さんを改めて見を向けると、縋り付くように身体を密着させ、頬を撫でられた。

 それがとても心地よく、ネコのようにその大きな手のひらに頬をまとわりつかせた。無意識の行動に気づきハッとした時、唇には加倉さんを感じ、また酔わされた。そして、意識が届かなくなり始め睡魔にも襲われた。


「睡眠不足と倦怠感をどうにしたいなら、ここでもできる」


 その言葉は、今のあたしには堪らなく駆られてしまう誘惑で、迷いはなかった。


「はい……」


 もう、身体も言う事を聞いてはくれない程、脳と身体のインターフェイスは機能を制御できていない。

 覆い被さっていた加倉さんは、一度ベッドを降り、軽々とまたあたしを抱き上げると、器用に塞がった腕であたしと一緒に掛け布団をめくり上げ、ベッドに戻した。そして、あたしの右側に滑り込んで、枕と首の間から腕を差し込み、もう一方の腕に身体を引き寄せられた。


「加倉さん…、眠い……」


 加倉さんに包まれたあたしは、その気持ちよさに意識を手放しかけていた。

 髪を撫でられれば、もう夢を見てるようだった。

 ずっと求めていた心の平安が満たされ、安心していられる場所が作り上げられていた。髪に感じる加倉さんの吐息と唇は、心地よさと更に睡魔の勢いを加速させ。

 もう、あたしの想いや理性は必要なかった。何も持たないあたしの腕は、加倉さんを求め絡み付かせていた。


「おやすみ」


 その言葉は、睡眠導入剤のように作用し、もう眠ってもいいんだとぼんやりと思った。そして、ずっとこんな場所があればいいのにと、頭に浮かぶか浮かばないうちにすーっと落ちた。











 重くてしびれているのかと思う程、瞼は無反応。身体も借りてきたように、しっくりと来ない。

 無理矢理起きなければというわけでもなければ、起きたいわけでもない。どちらかと言えば、このまま微睡みに身を任せたいと思う。

 ほんの少し、夢を見たのを覚えていた。それは、内容ではなく、感覚だけ。夢なだというのに感覚なんて変だと、少し目覚めて現実がわかる頭の隅で考えた。それが、自分でもおかしくて笑えてきた。

 瞼は、反応をしてくれていないけれど、他はどうなんだろう。あやふやでハッキリしない思考だけがあたしに戻っくる。

 夢を覚えているのは久しぶり。夢は内容があってもなくても、あたしは好きだ。たとえ、その内容が悪くても。

 どうしてかなんてわからない。考える事なくそうなのだから、あたしは納得する。

 身体もあたしの下に戻ってきはじめた。

 空気を深く吸って、ゆっくりと吐き出しながら、瞼をギュッと思いっきり力を入れた後、開いた。けれど、まだ起きたくない。このままがいい。そう思っているのに、考え無しに誰かがあたしの目を開かせたような気がした。

 目の前はぼんやりしていて、何度か瞬きをした。だんだんと、覚えていた夢の感覚もどこかへ行こうとしている。

 辺りは暗い。あたしは、どれくらい眠ったのだろう。

 今、朝なのだろうか。それとも、まだ夜中なのか。気にはなっても、どうでもいいような事にも思える。


「まだ、起きるには早いけど?」


「うん。朝になったら明るくなって、そしたら起きる」


「麻美?」


「あとね……、欲しいものがあるん」


 問いかけられれば、勝手に口が動き出し声帯も震えた。

 あたしは、何が言いたいんだろう。そう思うけれど、身体が感じる丁度イイ温かさと、居心地の良さが制御を鈍らせていた。


「何が欲しい?」


「えっと……え?」


 目の前にいる加倉さんが目に留まる。というより、ずっと見つめていた。

 ずっと、瞼は開いていた。瞬きはしたかも知れないけれど、よく覚えていない。

 誰かの存在には、漠然と気が付いていたし、それが当たり前のようにも思っていた。そして、それが誰なのかというのも、わかっていたような気がする。それでも、自覚してしまうと驚いた。

 あぁ、加倉さんの家でまた眠ってしまった。と薄ら気が付いた。

 あたしが思いを巡らしている間も加倉さんは、あたしの目を何かを確かめるように覗き込んでいる。何も反応が出来ないでいると、頬に引っかかっていた髪が加倉さんを隠した。

 加倉さんは、微笑みながらゆっくりとそれをあたしの耳にかけ、そのまま短くなってそろそろ慣れ始めた髪を梳くように撫でた。

 そのゆっくりとした動作が繰り返される間に、眠る前の事を思い出した。そして、急に恥ずかしくなった。


「で、何が欲しいんだ?」


「えっと、忘れました」


 絶対に加倉さんは、あたしが壊れてしまったと思っていると思う。だって、あたしがそう思うのだから。

 どうしたらいいんだろう。

 そう思うと、子供っぽくてやめないたいと常々思っているクセが無意識に出ていた。

 何のためらいもなく、指で唇を弄んでいた。

 その間も、加倉さんから目を離す事が出来ずにそれを続けていた。今更ながら、髪を耳に掛けると、はねるからイヤなのにと思いながら。それでも、それを表すことはどうでも良く、身体中が暑い。顔も火照る。そんな恥ずかしさから、解放されたいのに、ボーッとして眠りたい気にもなる。睡魔はまだあたしの中にいる。

 また、夢を見られるかも知れない。眠ってしまえば……。そう思えば、瞼が重くなってきた。


「キスして欲しいって?」


 加倉さんはそう言いながら、髪から手を移動させ唇を弄ぶあたしの手首を掴んで唇から離した。

 唇が寂しくなると、ゆっくりと目を開けた。


「欲しいんだろ?」


 あたしはゆっくりと、頷いた。

 それを確認した加倉さんは、手首から手を放すと頬を撫でながら、唇を重ねてくれた。

 本当は、何が欲しいかったのか覚えていた。キスして欲しくて仕方がなかった。けれど、それはとても恥ずかしく感じ、口にする事なんて出来なかった。

 キスが好きなのか、加倉さんが好きなのか、それとも加倉さんのキスが好きなのかわからなかった。それに戸惑っていても、幸福感を感じられずにはいられなかった。

 それなのに、加倉さんはあたしから離れた。

 それは、ほんの一瞬離れただけだった。けれど、その一瞬はあたしには堪らなく長いお預け状態で、離れた分だけ近づこうとした。

 それを加倉さんに止められ、もっと離れて行く。それでも、近づくのをやめられなかった。それも、またあっけなく止められる。


「麻美、俺も欲しいんだけど?」


「あたしに用意できる? それなら、何でも。だから…」


 そう、言い終わらないうちに加倉さんへ近づき、キスをねだった。もう、後先考えられない程に、待たされているあたしは、中毒患者のように差し出せる物ならなんでも、という浅はかな考えになっていた。

 今度は、止められる事なく、長いキスを繰り返し貰えた。触れ合い絡まる唇は、あたしを満たした。そして、浸した。それ以外の事には、意識は及ばず、そればかり。


「麻美……」


 うっとりして、身体の力も抜けきり自分の存在さえ何処にあるのかわからなくなった頃、加倉さんは唇をあたしの唇に触れたまま、あたしを呼ぶ。

 離れていない事に嬉しさを感じれば、それに反応し、閉じた瞳をゆっくりと開けた。すると、加倉さんは少しずつ身を引く。そして、それをあたしは追いかけた。


「麻美、いい?」


 加倉さんが、何を言いたいのかわからなかった。それでも、そんな事はどうでも良くて、離れて欲しくなかったあたしは、頷いた。

 そうすれば、いいんだと思った。頷けば、キスを貰えたのを思い出したからだ。

 離れた加倉さんを見つめていると、予想通りキスがたくさん振ってきた。けれど、あたしが欲しかったのは唇にで、他はどうでも良かった。

 そう思ていると、それがうっとりする刺激に代わった。お預けのキスをねだりたいのに、できないでいた。

 体中が加倉さんのキスでいっぱいになった。

 甘く気持ちの良い刺激が身体を満たせば、キスの事を忘れかけた。それでも、頭の隅にはキスが欲しいのと呟くあたしがいる。そのあたし自身が加倉さんにその想いを伝えるすべをなくした。

 甘い刺激が治まりその余韻に浸っていると、あたしの中に加倉さんを感じた。そして、そのまましばらく加倉さんを感じていると、欲しかったキスが戻ってきた。

 その嬉しさから、加倉さんの背中に腕を回した。そして、加倉さんの素肌を手のひらに感じるとぼんやり、熱もまだちゃんと下がっていなかったのに何で服を脱いじゃったの? そう思った。

 それは、あたし全部が優しさと快感に酔い、加倉さんしか感じられなくなると、何でもない遠い国の日常の出来事になった。

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