◆ 6 ◆ 03 まだ続く疲れると疲れた。犯人と加倉さん。
春香ちゃんの運転する車に乗ったのは、覚えている。それから、少しお喋りをしていたのも。けれど、その内容は皆無。覚えていない。
ぼんやり、目を開けた。そして、その先に見える風景を何となく、眺めていた。
少し眠っていたのだと思う。それにも気付かなかった。自然と、ゆっくり目覚めれば、心地よさを感じる。
「先輩? 起きました?」
「あ、ゴメンね。寝ちゃったね」
「いいんですよ。本当に、お疲れですね」
信号に止められていたようで、車は止まっていた。
少し寝ぼけている所為か、それに中々気付く事が出来なかった。
春香ちゃんは、本当に良く人間観察をしている。信号で止められている所為かもしれない。あたしは、動きもしなかったのに、起きたとわかったのだから。もしかすると、自分でも知らないうちに小さく動いたのかも知れない。
まだ、ハッキリしきれない頭で前を見ると、変わる瞬間の信号が見えた。
春香ちゃんも、ちゃんと信号を見ていたようで、すぐに車は走り出した。
「ねぇ、ここどこ?」
「もうすぐ、加倉主任のお宅近くだと思うんです。加倉主任の使う駅は知ってたんで、向かってるんですけど。自分で運転して遠出した事が無いもので、とりあえず、標識信じてココまで来たんです。ココ何処ですかね?」
「ごめん、あたしそんなに眠ってた?」
「1時間も眠ってないですよ」
京香さんのお宅から最寄り駅まで送って貰うつもりだった。思った以上に眠っていたようだ。その所為で、あたしを降ろすに降ろせなかったのだろう。
せっかくの休日なのに、春香ちゃんには悪い事をしてしまった。あの後、宮内に会いに行く予定だったのかも知れないに。
どの辺りかわからないと言った、春香ちゃんの言葉を思い出し、流れる風景を観察した。
見覚えがない。けれど、目に入った標識で、春香ちゃんが間違った方向に向かっていないとわかった。
膝の上に置いたままの急かされ着られなかったコートと共にある、バッグの中から携帯を取り出した。
GPS機能が、役に立つとは思えなかった。けれど、実際使ってみると使える。
現在地の確認が出来ると、思った以上に加倉さんの家に近づいていた。そんなに、眠っていたのかと改めて驚いた。
「本当に、ゴメンね。お休みなのに」
「いいんですよ。日頃しない事するのって、面白いです。先輩、加倉主任とうまくいきそうですか?」
何を言い出すのか!
驚いて、春香ちゃんを見ると、その横顔はニコニコ。しかも、楽しそうに運転している。ワクワクしているようにも見える。
春香ちゃん自身、あたしが加倉さんに対して、そんな感情を持ち合わせていない事くらい知っているはず。
「そんなに、あたしを誰かと引っ付けたいの? 恭平と同じね」
声を抑える事が出来ず、自分でもその声に驚く程の音量で、少しキツく言ってしまった。それに春香ちゃんは、怯むどころか楽しんでいるようにこちらに、ちらりと視線を投げてきた。
不覚にも、あたしがそれに怯んでしまった。
「笠原さんも私と同じ心境なんですね。うぅ〜ん。月曜、笠原さんとお喋りしなくちゃ」
呆れるばかりだ。そんなに、あたしの何が面白いのかわからない。
あたしは、話題に出来る程、楽し要素も悲惨な要素も持ち歩いてはいない。どちらかと言えば、春香ちゃんや恭平の方が楽しい。
春香ちゃんは、モテモテ。恭平は、人知れずなかなか面白い行動を取ってくれる。
「春香ちゃん、左の車線に入って」
「はぁ〜い」
「……」
なんて、楽しそうなんだろう。
あたしにもそんな楽しい事は無いのだろうか。
今日の流れる風景は、無機質で何も感じない。それを楽しく感じられる脳が欲しい。それならば、どんな事でも楽しめるような気がする。それに、超前向き、ポジティブ見解を持てる。
ふと、思い出した。佐崎部長は、宮内と組めと信号を出した時、あたしがポジティブではないような事を言った。
そうなのかも知れない。ネガティブではないにしても、自分が思おう以上に、あたしは内向きに行動しているのかも知れない。
実際、自分中心に事を運ぼうと考えている時もある。世間一般では、それを自己中という。
そうか、あたしは自己中か。誰でも、多少は自己中だろう。その度合いが問題なのであって、そうなるとあたしは、どうなのだろう。自分では分析しきれない。
「先輩、そう言えば聞いた事ありましたっけ? どんな人が好みなんですか?」
唐突な春香ちゃんの質問に、答えに詰まった。自分の自己中具合を判定していた頭は、すぐには切り替わらなかった。
暫く、春香ちゃんの言葉を噛みしめた。あたしは、どんな人が好きなんだろう。深く考える機会がなかった。
特に、好きな芸能人がいるわけでもない。ステキだな、と思ったからといって、好きなタイプという事もなく。
それは、和也がいたからかも知れない。関係を危ぶみながら、それでも和也の存在に安心していたのだろう。その時は、わからなくても今になってみれば、深くは考えず取っていた行動の意味がわかったような気がする。
和也と出会う前は、どうだったのだろう。記憶を辿ってみても、どんな恋愛をしていたのか、誰と付き合っていたのかは覚えていても、その人の何処に惹かれたのか思い出せなかった。
そこから、あたしの好みの分析をしようとした。思い出せないのだから、どうしようもない。
「そうね、余計な事を考えないでいい人かな」
近頃、考えている事を答えてはみたものの、自分自身がしっくり来ない。
それは、あり得ないからだ。余計な事を考えずに築ける恋愛関係なんて、存在しない。
イヤ、絶対あるという人がいるならば、是非とも話を聞いてみたい。
余計な事を考えるのが、女の性。あーでもない、こーでもない。そして、最後には自分の考えの行き着く先で、自滅するのだ。それが、プラスになるか、マイナスに働くかは、相手と自分のフォロー次第。
マイナスのエネルギーにやられてしまうと、瞬時のうちに不安の渦の中に辿り着く。そして、余計な嫉妬をしたり、不安を抱く。
ピーク時なら尚更。
考えなくても良いところに、不思議と結論を据え、さもそれが正しいかのように振りかざしてしまう。
その逆もしかりで、プラスに働いても失敗はある。結局テンションを上げすぎて温度差が生じるのだ。
どちらも経験済み。そして、どんな恋愛であれ、今のあたしには考える必要がない。欲しいのは、安らげる場所での休息だ。
「先輩、何を考え込んでるんですか?」
「え? そんな事ないわよ」
「加倉主任の事ですか? 心配しなくても、先輩がその気になればうまくいくんですよ」
「ご期待に添えなくて申し訳ないけどね、それは、無いから。全く、無いから」
「はいはい。とりあえず、そういう事にしておきましょう!」
つい、2、3日前までは昌弥と引っ付けようとしていたのに、今度は、加倉さん。春香ちゃんは、あたしが誰が好きというより、言葉の通りラブラブを目撃したいらしい。あたしが、人前でイチャつくとでも思っているのだろうか。
それとも、そうして見せろとでも言うのか。
恭平といい、春香ちゃんといい。急かされているような気する事とあたしを無視な事に、憤慨を通り越してあきれ果て、溜息が漏れた。
「そういえば、木曜日に先輩は早く上がりましたよね。加倉主任、あの後、帰社されたんですけど、もうあの時くらいから、熱出てたんじゃない勝手思うんですよね」
「そうなの? 辛そうだって、春香ちゃん言ってたじゃない? それは、それよりも前からだったの?」
「ええ、そうなんです。その日の朝、先輩、早々に出掛けて……。あの後、どこからか、帰ってきた加倉主任、変にハイテンションだったんですよね。変だと思ったんですよ。あまりない事だし。そしたら、先輩が帰ってくる前には顔色悪くて、ゲッソリしてたんですよ。ビックリして聞けば、頭痛いっておっしゃるから、鎮痛剤あげたんです。先輩がミーティングルームから出てくる頃には、少し具合良くなったみたいですけど」
それならば、尚更だ。何故、病院に行くだとか、対処してくれなかったのだろう。そうしていたなら、金曜日は休んだにしても、今頃は元通りだったかも知れない。
それに、あたしも今頃、バスルームでバスタブにお湯を貯めながら、入浴剤を選べていたはずだ。
加倉さんのマンションの前で車を止めた春香ちゃんは、あっさりと帰ってしまった。
ココまで来たのだから、ついでに会っていけばいいのにと誘っても、暇だと言っていたのに、用があるんですと言い残し、車から降りる事無く車を出した。
少し顔を見るくらいなら、時間は掛からないのに。
それにしても、早く良くなってくれないだろうか。というより、具合悪く感じていたのならば、早く何とかしようとは、思わなかったのだろうか。
そう思いながら、エントランスの自動ドアを開けた。
ここのセキュリティーは、暗証番号でも開くけれど、部屋のキーでも開くらしいと昨日ココに来た時、悩んでいる間に観察してわかった。
そして、加倉さんの部屋を出る時、キーを持って出てきた。あたしが出た後に、鍵を掛けられないからだ。
無断でいいのかと思ったけれど、仕方がない。それに、もう一度来るつもりではいた。今日帰る時は、ちゃんと起きていて貰わないといけない。明日は、もう勘弁して欲しい。
少しは熱は下がっただろうかと今更ながら気になった。
食事と薬、後は安静に。それ以外にもう、どうする事も出来ない。喉も腫れているらしいから、当分は痛いのだろうと思う。週の半ばくらいまでには、どうにか出勤して欲しい。
下駄箱の上に置かれたプレートにキーを戻した。他には、何だかわからないキーが3本と車のキーがあった。
途中で寄ってもらったスーパーで買った荷物と一緒にリビングに入ると、加倉さんが動いた形跡はなかった。それとも、動き回った後に、全部片付けて回ったか。
荷物をソファーに置き、加倉さんの様子を見に行く事にした。
寝室の扉を静かに開けると、相当寒さを感じているらしい加倉さんがいた。目だけを出し、丸くなって静かに目を閉じていた。
苦しくないのだろうか。そこまで、布団を引き上げるなら、いっそうの事、頭からかぶってしまえばいいのにと思う。
おでこに手を当てて、熱はどうなっただろうかと加倉さんの体温を感じた。マシになっているのではないかと思う。昨日の熱さは尋常ではなかった。それに比べれば、平熱より高いにしても大げさに心配しなくても良いだろう。
「あさちゃん、何処行ってた?」
布団でくぐもった声に驚いて、手を引っ込めた。
ぐっすり眠っているのかと思えば、そうではなかったらしい。
「恭平の手伝いと、会社に寄って仕事して、それからクライアントに会ってきました」
気を取り直して、質問に素直に答えた。
引っ張り上げていた布団と引き下げ、顔を見ればそんなに酷くはなかった。怠そうではあるけれど、辛そうには見えない。
ヒロ君の診断通り、症状は落ち着き始めているのだろう。
「一度も起きなかったんですか? 何か食べました? 用意しますから、ちょっと待っててください」
何も返事をしない、加倉さんに痺れを切らせ用意をするために寝室を出た。
いらないと言われても、それでは薬が飲めないのだから強制だ。少しは食べさせないと。
少し肌寒かったけれど、邪魔なジャケットを脱いだ。そして、エアコンのスイッチも入れた。
今頃、気付いたけれど、加湿器を発見した。タンクの中には、殆ど水が入っていなかった。タンクを持って、キッチンに行き中をすすいで水を満たした。
エアコンを付ければ、乾いて仕方がない。
ご飯がもうすぐできるぞという頃、加倉さんが寝室から出てきた。
昨日ほどの辛さは、ないらしい。なんだか、少し寝ぼけてる感はあるけれど。
「どうしたんですか?」
「あさちゃん、喉かわいた」
それならば、自分の家なのだから冷蔵庫でもどこでも漁ればいいのに。と、思いながら、冷蔵庫から昨日買ってきたスポーツドリンクを取り出した。
その重さが、思った以上に軽く、ペットボトルのを横から覗くとカナリ減っていた。何度か起きだして飲んだのか、一度に飲んだのかはわからないけれど、水分補給をちゃんとしているのだと安心する。
グラスに移したドリンクを手渡すと、オフィスとは違う加倉さんに違和感を覚える。けれど、同じ人物だ。それは、間違えない。
「起きたんだったら、お湯をはりますからお風呂にしませんか? 汗かいてるんですから。それに、身体を温めるのもいいんですよ」
ダイニングの椅子を引き出して、腰を下ろした加倉さんに促してみたけれど、反応が鈍い。ココまで、出てきたのだからあと少し足を伸ばせばいい。
加倉さん自身、気持ち悪くなり始めてるのではないかと思う。
この部屋から受ける印象は、整理整頓がお好きな加倉さん。それならば、自分も自身もきちんとしていないとイヤなのではないだろうか。
もしかすると、そんな事を考えていられる気分ではないのかも知れない。
それでも、湯船に身体を浸せば、気分も変わるだろう。
「あ、そう言えば、熱はどうです? 下がってるんですか?」
「どうだろう?」
「それじゃ、喉の腫れはどうなんですか?」
「まだ痛い。けど、腹減ってきた感はある」
昨日今日と、ベッドにへばり付いていたのだから、体力は落ちているのだろう。けれど、本調子にはほど遠くても、昨日ほどの気怠さは緩和されてきたらしいのが、口調にも表れている。ハッキリと喋っている。けれど、曖昧な返答をよこす。
昨日は、モゴモゴと籠もったしゃべり方をしていた。言葉を発するのも怠かったのだと思う。起きだして、ソファーで力尽きていたのだから。
寝室に置いたままになっている体温計を取りに行くき、加倉さんに渡すと、大人しくそれを受け取り、リセットボタンを自分で押して計り始めた。昨日は、計るのをためらっていたというのに。
自分でも、熱が下がってきているのを自覚しているのではないかと思う。だから、計って確かめたいのかも知れない。
一緒に持ってきた、フリースの上着も渡すと、あたしはキッチンに戻った。そして、加倉さんは、リビングの方に行った。
ベッドに戻ったのだろうか。気にはなったけれど、特に声を掛けなかった。
まだ、普通の食べ物は早いだろう。昨日は、味気ない上に粒のほとんど無い重湯の様なおかゆだったけれど、今日は具をしっかり煮て柔らかくしてから合わせた雑炊にした。食欲が戻ってき始めているようなので、味を少し濃くする事にした。
味見をして大丈夫だと確認できると火を消して、加倉さんの体温計がどうなっているかを確認する為にキッチンを放れた。
ベッドに戻ったのかと思ったけれど、加倉さんはリビングでテレビをつけ、だらしなくソファーに座っていた。
こんなにだらしなくしている所を初めて見る。それでも、自分の家なのだから、当たり前だろう。
センターテーブルの上に置かれた体温計を手に取ってみると、表示が消えていた。自分で見て消したのだろうか。
「どうです? 何度でした?」
「普通かな」
「普通って……。平熱って事はないですよね? 何度だったんですか?」
加倉さんとテレビの間に割り込み、あたしの言う事を聞いているようで、聞いてないように見える加倉さんの邪魔をした。
あたしを除けるように、テレビを覗く。土曜日の夕方に、それほど面白い番組をしているようには、思えない。それを必死に見ようとするとは。
やっぱり、あたしの言葉を聞き流している。
「加倉さん?! 何度だったんですか?」
「37度くらい?」
「くらいって……」
気のない返事に、全く取り合って貰えていないような言い方。心配しているあたしが報われない。
仕事では、あり得ない。それは、そうだろう。コレでは、仕事にならない。
仕事ではないにしても、それは無いだろう。何だか、無視されてるような気分にもなる。
睡眠不足の上に、仕事までしてきたというのに、それはないだろう。熱がどれくらいか教えてくれてもいいのに。何を隠す必要があるのだろうか。
今日はキレるというよりも、虚しくなってきた。
37度くらいと言うのなら、熱は昨日よりかなり下がっている。けれど、くらいとは、38度の可能性もあれば37度5分という事だて、そのまま、37度という事も。その差は、1度でも全然違う。
昨日の薬の中には、解熱剤の他に抗生剤もあった。喉の炎症が完全に治まるには、まだ早いにしても、炎症が治まってきているのならば、熱もマシになっているのかも知れない。けれど、加倉さんの物言いでは、読み取る事ができない。全くもって、わかりづらい言い方をするのだから。
「そうですか…」
テレビを見ていられるのだ。食事もベッドではなく、ダイニングで食べられるだろう。
ダイニングテーブルの上に、食事の用意を済ませると、あたしもお腹が空いてきた。お腹に貯まる濃い物を食べたい気分でもない。少し多めに作っているし、帰って作るのも面倒だ。一緒に頂いてから帰ろう。そうすれば、後は、お風呂に少し長く入って、ベッドに直行できる。
現金なもので、そう考えれば加倉さんの態度なんて、どうでも良くなってきた。
「加倉さん、ごはん出来ましたよ。食べちゃってください。そしたら、薬を飲んで、大人しくしてください。それに、お風呂!」
と、ダイニングから、少し声を上げて呼びかけた。
けれど、反応がない。ベッドに戻ったのだろうか。そう思い、リビングを覗くと、加倉さんはこっちに向かって来ていた。
聞こえているなら、何か言えよ。そう心の中で、呟いた。
食事を済ませ、昨日、キッチンを漁っている時に見付けた玄米茶を入れて出した。コーヒーでもイイのだけれど、雑炊の後にコーヒーはちょっと違うと思う。
テレビのチャンネルをグルグルと放浪中の加倉さんは、出したお茶を受け取り、飲み始めた。
本当に、お腹が減っていたようで、飲み込むだけでも痛いだろう喉に構う事なく、食べてくれた。
あたしもリビングのソファーに落ち着こうと、思ったところにテーブルの上に置いたままにしていた、薬袋を見付けた。
もしかすると、さっきのが今日初めての食事なのだろうか。あたしが出て行ってから、何も食べなかったのであれば、薬も飲んでいないのかも知れない。
ソファーに落ち着くのをやめ、お水をとりにキッチンに向かった。
グラスに水を満たし、テーブルの上に置くと、加倉さんは、あたしの意図が読めたようで、薬袋から錠剤を出し、一度に全部を飲み込んだ。
痛くないのだろうか。その前に、全部飲めるのがスゴイ。
あたしには出来ない。1錠でも手こずって中々飲み込めないというのに。食べ物は飲み込めても、何故薬はダメなのだろう。自分でも不思議に思う。
相変わらず加倉さんは、チャンネルの放浪をやめない。
テレビに映る映像が同じチャンネル出はない事に気が付いた。チャンネルの数が、異様に多い。地上波だけではないようだ。
食事前に、加倉さんがテレビに夢中になっていたのが今わかった。地上波ではしていない、何か興味のある番組をしていたのかも知れない。その時、テレビに映されていたのを確認していなかった。何だったのかは、わからない。
チャンネルが落ち着き、加倉さんはリモコンをテーブルの上に置いた。そして、寛ぎモードに入ったらしい。
それを見ていると、もう大丈夫そうだと思った。このまま、症状が落ち着いて、怠さも抜けてくれれば、早ければ月曜にも出てこられるかも知れない。念のために、月曜を休んでも火曜日には復帰できるだろう。
帰る前に、お風呂の準備だけはして帰ってあげよう。
手に持っていた湯飲みをテーブルのに置き、バスルームに向かった。
本当に、良く片付けられていて感心する。これなら、いつ誰が来ても慌てる事はない。
浴槽もキレイだったけれど、洗う事にした。
この貸しは、長期休暇だけでは足りない。加倉さんに貰った、プリペを含めても足りない。
貸しを作っておくに越した事はない。何かにつけて、利用できる。
特に加倉さんならば、良い事が盛りだくさんだ。
リビングに戻り、大人しくテレビを見てる加倉さんに、浴槽を洗いながら思い出した事を確認したくなった。
「今日からのイベントで使う販促のノベルティ受け取ったのって、加倉さんですか?」
「そうだけど。それがどうかしたか?」
「あれのお陰で大変だったんですよ」
仕事の話を振ったからか、今日初めてまともに答えて貰ったような気がする。それが少し、嬉しいかった。
それでも、それを聞いて、何故ちゃんとあたしに言っておいてくれるか、岸君でも野田君でもいい、誰かに伝えておいてくれれば、あんな事にはならなかったのにと、思うと少し腹が立ってきた。それは、口調にも反映されていて、しっかり苛ついた。
「あれは、笠原が会場に前日搬入するって言うから、保管してやってのに、あいつ、忘れて行ったのか? ちゃんと、何処に保管してたか伝えたはずだぞ」
「えぇ?! 恭平が犯人?! あれで、あたしどれだけ頭下げたか……。恭平にまた、奢らせないと。あぁ、けど、今日のでチャラかな」
あたしがキレると思っていたのか、見ていたテレビを放って、加倉さんは逃げようとしたけれど、自己解決してしまったあたしに、意外そうな顔をした。
恭平のお陰で、営業部の線は消えた。後残るは、二つ。
それは、考えない事にした。部長の前で、即決しようと今決めた。もう、悩むのは、うっとうしくなってきた。部長には悪いが、本当にどうでも良くなった。
「あぁ、そう言えば決めたのか? 何処にするか。月曜、部長に報告するんだろう?」
「恭平が色々と整理してくれたんで、もういいんです。加倉さん、ヘバってるし。いちよう上司なのに頼りに出来ないんですから」
「そんな事、言ってもなぁ。仕方ないだろう。そんなに責めなくてもイイだろ?」
「それにですね、葉折さんのスケジュール抑え過ぎですよ。あたしのが他の人に流れちゃうじゃないですか。ただでさえ、営業からの発注だってあるんですから。まぁ、加倉さん発注分は、ズリ下げときましたから。今頃、週末は休みたいって言ってたから、デートかも知れませんけど」
「なんだよ。折角埋めてやったのに」
「何が折角ですか! 迷惑です。それから、岸君達も販促の行方不明の所為で、踊らされて、ヘバってたんで早々に帰しましたから。月曜に調整しておきます。ご心配なく」
逃げるのはやめた様子で、あたしの事はお構いなしに、加倉さんはソファーに根を張った。
それがうちの父ならば、母がヒステリーを起こすまで動かないだろう状況と似ていた。自分の特等席に陣取って、動かないぞオーラを放っている。
「そうか。もう、落ち着くからな。少々ずれ込んでも構わないだろう」
「そう言えば、今井さん来られましたよ。一通り、説明受けておきましたから。相変わらず、感じのいい人ですよね。加倉さんとは全然タイプ違いますけど、仲が良いんですね。心配されてましたよ」
「あぁ、決まったのか」
すっかり忘れていた、加倉さんが絶不調極まりない日の来客を思い出した。
加倉さんは、あたしが話すまでもなく、その内容を把握しているようだ。それならば、話が早いとバッグに入れっぱなしの資料を手渡した。
休養中の加倉さんを仕事に触れさせるのは、どうかと思った。けれど、月曜日のあたしの都合もある。何か対処すべきなのか、判断をして貰わないといけない。
資料に目を通している加倉さんは、オフィスの加倉さんだった。こうも、雰囲気が違うのかと改めて気が付いた。
そうは、思っても当たり前だ。あたしだって、いつもオフィスと同じではない。切り替えが自然と出来る。
「麻美、来週どうなんだ?」
「今のところ、あたしの方は片付いてるんで、大丈夫ですけど」
「そうか。なら、コレは麻美に任せる」
「え? 加倉さん、月曜に来れないからって、全部振らなくてもいいじゃないですか?!」
確かに、あたしは今、本城君に任せた事と谷間という事もあって、手は空いている。だからといって、暇だというわけではない。
自分の仕事なのだから、どうにか自分でしてくれないだろうか。こんな大きな仕事をさせられると、京香さんの方は、どうなってしまうのだろう。
「いいだろ? これは、麻美の方が適任だしな。それに、今井も麻美を気に入ってるし、やりやすいと思うぞ」
「加倉さん、会社辞めるつもりですか?」
最後に大きな仕事を残して、顧客を持っていくつもりなのではないだろうか。
うちの会社のような中堅の会社より、大手の方が加倉さんにとってメリットが大きいのもわかる。引き合いがいくつかあるのも知っている。
そして、この課の立ち上げのために、加倉さんが呼ばれた事も知っている。
だからといって、ココが引き際なのかは怪しい。
加倉さんが考えている事が、全くわからない。どうしようというのだろうか。
それでも、顧客を持っていく事はしないと思う。加倉さんを欲しがる会社が、顧客を欲しいわけではないと思うからだ。それでも、納得がいかない。
「あのな、そんな事、誰も言ってないだろう?」
「そうですけど」
言わないのが、普通。だから、わからないのではないか。口には出さなかったけれど、突っ込みたかった。
今週に入ってから、色々と目の前を過ぎていく事柄が多い。色々な事が発覚してくれる。
「どうした、やりたくないのか?」
「いえ。させていただきます。それより、お風呂入ってください。準備できてるんですから」
根は切断されているらしく、加倉さんは着替えを持ち出し、バスルームに行った。
加倉さんは否定したけれど、やっぱり、辞める気なのではないかと思ってしまう。前々から、思ってはいた。それは、いつか辞めるんだろうな、と漠然と思っていただけだった。なんだか、変な気分だ。
あたしが、何を思っても仕方がない。加倉さんの決める事だ。どうしたって、なるようにしかならない。ざわめく気持ちを、そう、言い聞かせた。