◆ 6 ◆ 02 疲れると疲れた。春香ちゃんと京香さん。
最寄り駅から、フラフラしないようにしっかり一歩づつ足を進め、京香さんのお宅へ向かう。
この辺りは、住宅街で静けさがある。大きな道路がないのがいい。うちとは、違う所だ。
休日の午後ということもあって、犬を連れて散歩する人も見かける。
あたしも、犬を飼ってみようか。
そう思っても、すぐに諦めた。
帰りが遅くなる事もある。休日でさえ、ゆっくり出来ない事も。何より、散歩に連れて行ってあげられないかも知れない。ダメな飼い主決定だ。ハムスターぐらいなら大丈夫かも知れない。けれど、もっと大きい方がイイ。
まとまらない頭で、どうでもいい事ばかり考えながら歩いていると、唐突に『春香ちゃんは、やっぱり気が利くなぁ』にぶつかった。
京香さんからは、住所しか聞いていなかった。それを元に、地図を見ていると春香ちゃんは、詳しく教えてくれた。
そうでなければ、眠さはいくらか消えていても、思考能力の落ちてきた今の状態では、迷子になっていたかも知れない。区画整理の行き届いたこの辺りは、デザインは全く違えど、イメージが似ている所為で同じ所を通っているような気がしてくる。
方向音痴というわけではない。今は、カナリ注意散漫になっている。
いつまでも倦怠感に浸っていてはいけない。もう少し、身体が軽くなってくれないのだろうか。
そんな無理な事を考えていると、戸田山邸についてしまった。
思っていたより大きなお家で、少し驚いた。考えてみれば、当たり前だ。戸田山さんのお店は、それなりのイイお値段のお店。しかも、経営状態もいいようだから、こうなるのだろう。
それよりも、気持ちを切り替えるくらいは、しないといけない。そう思っても、うまくいかない。
もう、どうにでもなってくれと、インターフォンを押した。
押したいいが、マフラーもコートもそのままだった事に気が付いた。急いでマフラー外しコートから手を抜いていると、インターフォンでの返事ではなく、玄関のドアが開き、春香ちゃんをお淑やかなお姉さん風にした女性が勢いよく出てきた。
それは、春香ちゃんの行動そのもので、この人が絶対京香さんだと確信した。
「お待ちしてました! どうぞ、お上がりになってください」
あたしが誰かを確認する事もなく、家に引き入れようとする。少し、不用心すぎないか。
そうは思えど、バッグを持つ手にコートとマフラーを引っかけ、必要に迫られビジネスモードに切り替えた。
「あの、初めまして。伊藤と申します。この度は、誠におめでとうございます」
「あっ、こちらこそ! ありがとうございます!」
あたしの通常の挨拶に、必要以上に反応し、深々と頭を下げられてしまった。
それに、少しそれに驚いた。
春香ちゃんは、焦ると勢いが良くなるけれど、通常は大人しい。京香さんは、春香ちゃんのそれより、エネルギー源が不明で、元気の良さは、春香ちゃんの数十倍はありそうだ。
そう思っていると、忙しなく導かれ、反応する間もなくリビングに押し込まれた。
何て強引な人なのだろう。まるで、一緒に遊びたくて仕方のない女の子に手を引かれて急がされているようだった。
あたしとは、真逆。テンション高めのお嬢さんだ。
ソファーに荷物を置かせて貰い、京香さんの方を伺うと姿がなかった。
いつの間に消えたのだろう。ほんの少し、目を離していただけなのに。
「お父さーん! 何してるの?! お母さん何処にいるのよ!」
大きな声を張り上げているのは、たぶん、京香さんだろう。パタパタと高い音が響いている。それは、スリッパを履いたまま走り回りながら、ご両親を探しているのだろうと容易に推測できる。
元気がよすぎる。今のあたしには辛いものがある。
「麻美嬢、ご苦労様。京香いったい何をしてるんだのだか。悪いね、騒がしくて」
つきたくないため息が漏れ、これからを仕事なのにも拘わらず、憂鬱に思いかけた所に、覚えたての戸田山さんの声が聞こえ、振り向いた。
けれど、この人が余計に憂鬱にさせてくれるかも知れない。それでも、少し知っている人が出てきてくれ、ホッとした気分になった。
「こんにちは。ちょっと、仕切り直しましょうか。お父様、この度はおめでとうございます。至らない事があるとは思いますが、当日を快く迎えて頂けるよう取り組ませていただきます」
「それはそれは。こちらこそよろしくお願いします」
戸田山さんとの会話の中で、ちゃんと挨拶をしていないように思う。
初対面でいきなり冷やかされ、その後も、ちょっかいを出されてばかりでまともな会話をしていない。
こちらが、改まれば一般的な返しがあった。それに、驚いた。
この家に着いてからは、驚かされてばかりだ。まだあるかも知れない。覚悟をしておくべきなのだろうか。
戸田山さんは、冗談ばかりの人だと思っていた。今日は少し違うようにも思う。きっと、あたしの勝手なイメージなのだろう。
「お店とは、雰囲気が違いますね、戸田山さん」
「そうかい? 照れるじゃないか。そんなに褒めなくても」
前言撤回。やはり、イメージ通りの方のようだ。
突っ込みたいけれど、今日もこの人に付き合っていられない。佐崎部長よろしく、聞かなかった事にするのがいいだろう。
「お母さん、早く! お父さん何処?! あ、いた」
「京香、少し落ち着きなさい」
戸田山さんは、小さな子供を諭すようかに静かに言った。呆れ風味も入っていたかも知れない。けれど、京香さんのテンションはそれを物ともせず、無視を決め込み、あたしにソファーを進める。
「もう、京香ったら。どうしちゃったの? 騒がしくて、申し訳ありません。京香の母でござます」
「この度は、おめでとうございます。伊藤と申しますよろしくお願いいたします」
佐崎部長から、戸田山さんは春香ちゃんの親戚だとは、聞いていた。奥様と春香ちゃんのお母さんが、姉妹なのではないだろうかと思う。
一度、会ったことのある春香ちゃんのお母さんと雰囲気が似ている。そして、落ち着きを持ち合わせ、はしゃぐ京香さんを心配そうに見つめていた。
心配する理由がわからないけれど、我が子だからこそ、感じる何かが有るのかも知れなかった。
対して、テンション高めな京香さん。今度は、ソワソワとした様子で落ち着かない。
どうぞ、楽になさってねと、リビングから出て行ったお母さんを追いかけて行ったかと思うと、すぐに戻ってきた。そして、あたしの目の前のソファーに陣取った戸田山さんを邪魔者扱いし、リビングから追い出してしまった。
あたしは、一体どうすればいいのだろう。この事態をどう動かしていけばいいのか、途方に暮れてしまう。
今までの仕事では、こんな状況に置かれたことはない。プライベートでもだ。
助けは誰もいない。どうにかしなければ。
そう思い、バッグから資料を取り出した。そして、京香さんに視線を移すと目があった。
ソワソワから転じ借りてきたネコのように、向かいのソファーにちょこんと浅く腰掛けて大人しくなった。
取り出した資料を膝の上に置き、大人しくなったうちに確認したかった事を先に、済ませておこうと切り出した。
「少しお伺いしてもイイですか?」
「あっ、はい。どうぞ」
自分の家だというのに、この挙動不審ぶりは、何なのだろう。
目であたしの行動を追っていたのに、ビックっと身体を反応させ、コワイ話の最中に驚かされたように、少し飛び上がった。
何故そんな反応をするのかと、聞きたいくらいだったけれど、失礼だと思い直した。それよりも、気になっていた事を聞いた方が良い。
「立ち入ったことかも知れませんが、準備が滞っていると伺いました。何か理由があるんですか? それとも、ただ決まらないだけなんですか?」
こんなに元気な京香さんだ。意思表示もちゃんと出来ている。何も言えず口ごもり、話に置いて行かれしまうようなタイプの人には見えない。
あれこれと迷ってしまうのは、どの新婦でも仕方がない。色々と迷った挙げ句に、どうしたいかをハッキリさせる物だ。
こうして、京香さんに会ってみると、父親の戸田山さんが口を出してしまうほど、準備が進まず滞っているのが、どうしてなのか、とても気になった。
春香ちゃんの言うように、京香さんはおっとりさんなのかも知れない。けれど、決められないだけの理由で、進まないとも思えない。
おっとりさんとは、今のところあたしの口からは、言いにくいけれど。
だからといって、お相手とうまくいっていないような印象も受けない。もし、そうでないならば、仲の良い春香ちゃんからそう言った話が出てきたと思う。何か、別の理由があるようにしか思えなかった。
それを解決しなければ、これから進めて行くにしても障害になるような気がする。
「それが、一度は進んでいたんです。会場も決めて、担当のプランナーさんが着いてくれたんですけど……」
少しためらっているよだった、京香さん。立ち入りすぎたかも知れないと、質問の内容を変える為に口を開きかけた時、京香さんは、それを遮るように話し始めた。
話を聞けば、やっぱり、優柔不断で決められずにいるという事ではなかった。
要は、担当したプランナーが頂けなかっただけだった。そして、怒りは頂点に。そこでの挙式はキャンセルしたと言う事だった。
結局、他の人に代わって貰ってもどうにもならない所まで、信頼感を削がれたようだ。それからは、すぐに全てをやり直す気にはなれなかったと、京香さんは怒りを表しながら話していたのに、一気に空気を重くし沈んでしまった。
式場のプランナーであれば、通常、何件も抱えて動く仕事だ。それは、あたし達と大して変わりはないだろう。
回答が得られない、対応がない、連絡が取れないというのは、ただでさえ不安を抱えながらも準備をする新婦にとっては、許される限度を超えていたのかも知れない。しかも、それ等に対して、心ない対応だったとすれば、尚更だ。
そのプランナーは、きっとそれなりの事情があったのかも知れない。けれど、それなりのお叱りがあっただろう。もし、この案件以外にもなにか不手際があったなら、もうそこには居ないかも知れない。
経験のないあたしには、どんな心境であったかは見当はついても、同様に感じてあげる事は出来なかった。
春香ちゃんの話から受けた京香さんの印象は、あたしのようにすぐにイライラして、キレてしまう人ではないと思う。あたし自身、会ってみてそうは思わない。
そうなると、担当者は相当、京香さんをないがしろにされている様な気持ちにさせたのだろう。
あたしなら、些細な事でキレて、わがままを言ったんだろうと、周りの人間に思われたり、言われたのではないかと思う。
自分でもそう思ってしまうあたしは、やっぱりもう少しどころか、大いに穏やかに出来るよう、努めていかないといけない。けれど、一瞬にして煮えたぎってしまう気持ちを、どう処理したらいいのだろうか。
「あ、先輩! もう来てたんですね」
リビングにコートを脱ぎながら春香ちゃんが入ってきた。
何故、来たの? と思うより早く、京香さんとは違った所で重くなってしまったあたしは、少し助けられたような気分になった。
「はるちゃん! いらっしゃい」
京香さんは、春香ちゃんに飛びつく勢いで、ソファーから立ち上がると寄っていた。
インターフォンが鳴ったのは聞こえたけれど、場の空気が沈んでしまったので気にしていられなかった。それに、自分の家ではないので余計だ。
「先輩、どうです? 進んでますか?」
「これからよ」
一頻り、京香さんの歓迎を受けた春香ちゃんは、あたしの隣に落ち着いた。
宮内には、あたし一人で行くと言ったのだから、春香ちゃんは宮内を置いて来たのだと思う。ラブラブデートは、しなくてもイイのだろうか。
「お休みなのに、どこかに出掛けないの?」
「あたし、暇ですから。特に予定もなかったし」
そんな事を言われるとは、宮内は可哀相だ。
少し同情しそうになったけれど、途端に、宮内の日頃の行いが悪いからだ、ざまぁみろ! とココにはいない宮内に心の中で毒づいた。
「京香ちゃん、サンプルプランまだ見てないの? 私は、どれもそのまま使いたいって思ったの」
春香ちゃんの言葉に京香さんは、目を煌めかせた。
それに気付いたのは、あたしだけではなく春香ちゃんもだったようで、あたしの企画書は必要なくなってしまった。
女の子独特の無駄話を挟みながら、プランの詳細を全てしゃべり尽くしてしまった。その間、あたしの口を出す隙間はなく、お茶を出してくれた京香さんのお母さんにお礼を言っただけだった。
京香さんのテンションは、落ち着いた。けれど、春香ちゃんと一緒に落ち着きながらも興奮し、ワクワクしているようだ。
これだけ早くプラン提示を終わらせられたのは、感謝すべきだ。
春香ちゃんは、あたしが意図していた事を正確に伝え、無駄話があったとは言え、スムーズだった。
二人が仲が良い事とは別に、意思の疎通がとても簡略化され、双方が誤解もしていないのを目の当たりにすると、とても良い繋がりを感じる。
「ところで、ご予算の方はどうのようになってるんですか? もし、前回のプランをそのまま再現したいとおっしゃるのなら、そうしますけど」
「それは、いいんです。もう、気分も変わってますしね」
京香さんからは、春香ちゃんが来てくれる前の沈み方がウソのように、明るく穏やかな微笑みがこぼれている。
そして、ささやかで、ゲストも身内と身近な人だけにしたい等、今考えているアウトラインと心境も含め予算を教えてくれた。
あたしの持ってきたプランは、元々、イメージを膨らませて貰うためだけの物だった。それは、ちゃんと役目を果たしたようで、京香さんからは、スラスラと希望が出てきた。
ココから削いだり、新たに提供できる案もある。コレならば、これから先の打ち合わせは、スムーズに進みそうだ。
お相手の意見は、全く無視の状態だったけれど、決定権は明らかに京香さんにある。全く問題はなさそうだ。
「そう言えば、遅いな……。今日来るって、昨日も言ってたんだけど。遅かったから疲れたのかな?」
「京香ちゃん、心配しなくても大丈夫だよ。遅かったんなら、ちょっと寝坊しちゃっただけ……、ほらね?」
一通り、今日の仕事が済んでしまうと、3人でお喋りをしていた。
急に心配し始めた京香さんを春香ちゃんがなだめていると、玄関のインターフォンが鳴った。
笑顔を取り戻した京香さんは、あたしを迎えた勢いでリビングを慌ただしく出て行った。
「京香さんって、元気な人ね。種類は少し違うけど、春香ちゃんにもよく似てる。姉妹みたい。年はどれくらい離れてるの?」
「よく言われます。えっと、京香ちゃんの方が二つお姉さんです」
「もう少し離れてると思ったけどなぁ。それにしても、仲が良いわね」
「中学まで、同じだったんですよ。この近くのマンションに住んでたんです。うちの家族が今の家に引っ越すまで、ずっと一緒だったんですよ」
春香ちゃんは、オフィスと同じ可愛らしい笑顔で楽しそうに話してくれた。従姉妹同士とはいえ、何故こんなに仲が良いのだろうと思っていた答えもくれた。
姉妹のように育ったのだろう。
「お相手の方、見えたんでしょ? 遅くない?」
「あぁ、先輩には、ちょっと、遠いかも知れませんけど、二人はラブラブですから。ここの所、京香ちゃん仕事が忙しくて、彼の方も。会えなかったみたいなんですよね。で、昨日久々に会えたら呼び出されて、帰っちゃったんですって。浮気してるのかって、電話掛かってきて、なだめるの大変だったんですよ」
「そうなの。それは、大変ね。拗れなかった?」
「それでも、やっぱり、会えるとなるともう機嫌が直っちゃってるんですから、ラブラブなんですよ。早く、先輩のそういう所、見てみたいです。ねぇ?」
「やめてよ。そんな目したって、何も出てこないわよ」
春香ちゃんは、満面の笑みを向けながらも、あたしの隅々を探るようにしっかりとあたしの目を捕まえる。
どうにかこの目を反らせたい。けれど、春香ちゃんはしっかり捕まえたまま、放させてくれない。
「あ、荒木さん。お久しぶりです」
春香ちゃんは、あたしを放り出し立ち上がった。
放れたのは嬉しかったけれど、その勢いに、驚いて身を引いてしまった。
「初めまし!? えぇ?」
驚いてはいられない、挨拶をしなければ。そう思い、春香ちゃんに続いて立ち上がったのは良いけれど、見慣れすぎて忘れることも出来ない人が目の前にいた所為で変な声を出してしまった。
唖然としていると、春香ちゃんがあたしを突っついてきた。それにも、反応できないでいると、激しく揺さぶられた。
京香さんの対処法も春香ちゃんと同じで、隣の彼を春香ちゃんよりは控えめに揺すっていた。
「どうしてココに? 京香さんがお相手なの?! 信じられない……」
「え?! もしかして、先輩の元彼とか言います?! 昨日呼び出したのって、先輩だったりします?」
春香ちゃんは、揺すっていたあたしの腕を更に激しく振り回しながら、かぶりつくように追求する。
「馬鹿なこと言わないでよ! 違うに決まってるでしょ?! けど、呼び出した……」
「そうなの?」
二人で騒いでいると、京香さんは彼の腕を引いて意識をあたし達から、自分に向けさせた。
視界の端にそれが目に入っていたあたし達は、それに反応して押し黙ってしまう。
春香ちゃんは、京香さんの存在を吹っ飛ばして、口にしなくても良い事を言ったと気付いたらしい。
目であたしに、助けを求めてくる。
「ヒロ君、昨日はありがとう。けど、置いて帰ってくれて良かったのに」
「そう言うわけにもいかないよ」
ヒロ君も、春香ちゃんの言葉にしっかり惑わされている京香さんを感じているらしく、全然らしくない。少し、気後れしているようにも見える。
たぶん、こういう事になれていないのだろう。真面目なこと極まりないのだから。同じ名字でも和也とは全く違う。けれど、浮気をしないにしても、本気なら有るかも知れない。その方が、質が悪い。
そうは思っても、そうだとは考えられない。ヒロ君は、そう言う面では器用ではない。加倉さんなら、十分に考えられる。
「ところで、先輩。荒木さんとは、どういう?」
春香ちゃんは、京香さんの一番聞きたいであろう事を直接的に聞いた。
ちょっと、訳のわからない状況になっている。軌道修正をした方がいいだろう。
「ココと、同じような感じ」
京香さんと春香ちゃんを両方の人差し指でそれぞれ指しながらそう言った。
京香さんは、目を丸くしてあたしを見たと思うと、控えめにヒロ君を見た。
あれほど、元気が有り余っていたというのに、違う人のようだ。
「麻美は姪だよ。姉さんの娘。招待状のリストにいたでしょ?」
ヒロ君はやっと、京香さんに対して口を開いた。
あたしよりも早く、この場を何とかする物でしょ?! と言いたいのを後が、コワイのでやめておく。
あたしは、ちゃんと考えて言葉を選べるではないか。何故それを日常的に出来ないのだろう。難しい課題だ。
「ヒロ君、もっと早く、あたしに色々と教えてくれてたら、良かったのに。そしたら、こんなに驚かされる事無かったのよ」
「そんな事を言ってもね、麻美。実家に帰らない麻美が悪いんじゃないの? それは、昨日も言ったと思うけど。何なら、しっかり、姉さんに報告するよ?」
「それは……」
後がコワイから、ほんの少し嫌味を言おうと思ったのが間違えだった。
笑顔で爽やかに言ってのけるヒロ君がコワイ。
春香ちゃんと京香さんにはわからないかも知れないけれど、脅されている。あたしが、引きつった顔をしているのは、間違いない。嫌な汗もかいてきたような気がする。
もうこれ以上、何も言うまい。言うわけにはいかない。絶対、叱られる。母に加倉さんの事を誤解したまま、報告されてしまう。
「先輩? 先輩もちゃんと、人なんですね」
「それ、どういう意味よ」
「特には。なんとなく、そう思っただけです」
その答えに、納得は行かないけれど、気を取り直して、ソファーに座りこれからの大切な話を再開した。
やっぱり、主導権は京香さんに譲られてあり、今後の障害は、春香ちゃんが教えてくれた、京香さんのおっとり具合によるだろう。
ヒロ君が来る前に、必要な事は聞いていた。残っていたのは、情報の共有だけだった。
「でも、助かったよ。うち側の問題は、麻美が解決してくれるんだろ? 一番の強敵は、姉さんだからね。流石に僕も参ってたんだ」
「何とかするわ。母さんには、口出しさせない。あの人出てくると、ややこしくて仕方がないわ。おじいちゃんは、どんな感じ?」
「父さんは、相変わらず姉さんに押されてるかな。姉さんには甘いからね」
「大丈夫。あたしの方にが、もっと甘いから。とりあえず、明日、会いに行くわ。母さんには……。来週中に。京香さん、お父様は、どちらにいらっしゃるかしら?」
「たぶん、キッチンか自分の部屋にいると思うけど。呼んできましょうか?」
「いえ、あたしが。佐崎部長に連絡するだろうから、報告をしておきたいだけだから」
京香さんは、あたしの制止を聞かず、案内すると立ち上がった。
キッチンに案内されると、ダイニングテーブルに二人仲良くお茶の最中だった。
役目を終えた京香さんは、リビングに戻っていった。その入れ違いに、春香ちゃんがやってきた。きっと、あたしの事が気になったのだろう。
戸田山さんは、あたし達に椅子を勧めた。
遠慮無く、座らせて貰う。すると、春香ちゃんは、戸田山夫婦を相手にあたしとヒロ君の関係を興奮気味に話し始めた。
前言撤回。春香ちゃんは、あたしの事など気にしていない。先程入手した情報を公表したくて仕方がなかっただけなのだ。
「春香ちゃんは、今頃気付いたのかい?」
「え? 伯父様は知ってらしたの?」
「戸田山さん、どうして知ってるんですか?」
二人して身を乗り出し、戸田山さんを追求する。けれど、戸田山さんは涼しげな顔でしらーっとしている。
戸田山婦人は、あたし達同様、何故なのか気になる様子で、次のアクションを待っている。
「佐崎とうちの店に来た時、帰り際、名刺をくれたじゃないか。見覚えがあってね。招待状リストにあったのを思い出しただけだよ」
「そう言うことは、言ってくれても良いんじゃないですか?」
「知っていると思ったんだよ」
全く、悪びれる様子はない。かといって、悪い事をしたわけではない。けれど、この状況を面白がっている事は明らか。
なんだか、騙されたような気分になる。
「それにしても、偶然ってあるんですね、先輩」
「偶然の固まりで、必然に思えてくるわ。もう、何があっても驚かない。春香ちゃんは、気付かなかったの?」
「だって、私、リスト見てないですもん」
あたしは、その答えに納得した。
あたしの名前を見付けたなら、その数秒後には、携帯片手にあたしが出るのを待っているだろう。
戸田山さんは、あたし達を楽しそうに見物している。
どっと、疲れが押し寄せてきた。何も考えることなく、ベッドに入りたい。飛び込んだってイイ。
「そろそろ、お暇します」
席を立ち上がり、そう言った。
見送ろうとする二人を制止し、春香ちゃんと一緒にリビングに向かった。
「先輩、ちょっとお疲れ気味ですね。なんだか、顔色悪いですよ」
「眠れなかったのよ。誰かさんのお陰でね。しかも、本城君は余計な仕事持ってくるし。本城君の所為ではないけど」
リビングに戻ると、ヒロ君と京香さんは、仲良くあたしの企画書を見ていた。
あたし達に気付いた京香さんは、夕食を一緒にと誘ってくれた。けれど、あたしには、食欲より睡眠欲だ。
丁重にお断りさせていただいた。
「先輩、本当に大丈夫ですか? そんなに、加倉主任の風邪の具合良くなかったんですか?」
「もう、思い出すだけで疲れるわ。今朝も、熱下がってないってごねるし」
「まだ、少しも熱下がらない?」
「ヒロ君、どれくらいで下がるのかな? あたしは、少し下がってるように思うんだけど。今朝は計ってないの」
「けど、今頃は熱下がってきてると思うよ。後は、渡した薬を飲んで安静にだね」
ヒロ君は、あたしと春香ちゃんの関係がわかってしまえば、話の内容がわかったようだった。それは、春香ちゃんにしてみれば、疑問だらけのようで、ヒロ君を質問攻めにした。
それに応えヒロ君は、昨日、何故あたしが呼び出したのかを話し始めた。
京香さんもその話に便乗し、あたしは帰ろうとしているのに、3人で盛り上がっている。本人そっちのけ、帰るタイミングを外してしました。
用が済んだのだから、早く帰りたいと思うあたしは、焦点がずれ始めている。自分でも、何処を見ているのかもわからない。見ようとも思っていないけれど。
「ちなみに、春香ちゃん、彼は風邪じゃないよ。確かに、風邪が原因でなる事もあるけどね」
「それじゃ、何なんですか?」
春香ちゃんは、あたしも考えていた事をヒロ君に質問してくれた。
「そう言えば、風邪らしい症状って無かったような? くしゃみだとか、咳なんかは、してなかったように思う」
熱ばかりに気を取られていた。熱が出ていれば、怠いのは当たり前で、それに伴ってか、身体を動かしずらそうにしていた。後は、呼吸が苦しそうだくらい。その他の症状は、見ていないような気がする。ティシュを近くに置いてもいなかった。
「急性扁桃腺炎かな。休息が不十分だったんじゃないのかな? 免疫や抵抗力が弱まってたんだろうね。その結果の炎症。忙しかったりしたんじゃないのかな。それでも、数日のうちに良くなると思うよ」
「そうですね。確かに、加倉主任は先週から、先輩より遥かに忙しかったですからね。それに、今週の先輩みたいに眠れてなかったみたいですよ」
「その人って、伊藤さんの彼氏ですか?」
「そうみたいだね」
話を聞いていた京香さんは、突然口を開いたかと思ったら何を言い出すんだろう。しかも、ヒロ君はあっさりと肯定する。
どうしてこうも、あたしの言葉は信じて貰えず、無視されるのだろう。
「じゃぁ、次のラブラブ候補は、加倉主任にしましょうね、先輩」
「やめてよ。あたしにも選ばせて」
「麻美、本当に違うのかい? 彼とは」
ヒロ君は、春香ちゃんへの説明に、昨日勘違いしたままの内容は触れなかった。けれど、春香ちゃんの振りに、加倉さんとのちゃんとした関係を見付けたようだった。
あたしと春香ちゃんの間柄を見ていると、春香ちゃんに隠して付き合っているとも、思わなかったのだろう。
有り難い事に、春香ちゃんはそれを証明してくれた。
「だから、最初からそう言ってたでしょ?」
「まぁ、そう言う事にしておこうか」
「荒木さん、違うんですよ。ラブラブなんです。こないだなんか、先輩、プレゼント攻撃してたんですよ。誕生日でも、お祝いでもないのに。加倉主任、すっごい喜んでたし。ねぇ、先輩」
「もういいわ。好きにして」
いっそうの事、加倉さんに迫って既成事実にしてしまえば、納得して放っておいてくれるのだろうか。
もう既に、彼等に抗う気力さえない。それより、帰らせて欲しい。
春香ちゃんは、相変わらず楽しそうで、蚊帳の外になりかけている京香さんに、あたし達の説明を続けた。
ヒロ君は、春香ちゃんに惑わされ、どれが本当なのかわからなくなっていると思う。
思いっきり、聞き役のヒロ君と京香さん。これは、長くなりそうだ。
あたしは、もう堪えられない。
荷物を準備し始めたあたしに気付いた春香ちゃんは、会話を中断しあたしに振ってきた。
「先輩、加倉主任は、月曜には会社に来れそうですか?」
「どうだろう。ちょっと、あやしいかも。無理矢理来させてもね。もう、仕事が落ち着いたんだし。けど、また、加倉さんの仕事を引き受けるしかなさそうね。トラブルないといいけど」
「先輩は大丈夫ですか?」
「眠れさえすれば、問題ないわ。けど、その前に一度、加倉さんの様子を見に行くしかないようね。また、何も食べずにいるだろうから」
「私、今日車で来たんで送りますよ」
そう言うと、身支度を始めた。
春香ちゃんは、気を遣ってくれるけれど、悪いので断った。それでも、春香ちゃんは、京香さんとヒロ君に断りを入れると送ると言い張った。
まだ、話し足りなさそうだというのに、引き際は鮮やかだった。もしかすると、二人の時間を増やす為だったのかも知れない。あたしのゲッソリ具合も、影響したかも知れない。
来たとき同様、今度は春香ちゃんに急かされた。
疲れた身体には、まったくもって、疲れる。そんなことは、眼中にないような春香ちゃんに靴もちゃんと履けていないまま、玄関から押し出された。
そして、二人に見送られ、戸田山邸を後にする。
二人はきっとうまくいくだろう。お似合いだ。
あたしがするべき事は、邪魔する物を排除する事とスムーズに事を運ぶ事。それは、そんなに難しい事だとは、今のところ思えない。
あたしを邪魔する物がなければ、きっと大丈夫だと思う。
春香ちゃんと、京香さんは似ているようで、似ていない。遺伝子が違うのだから、当たり前だ。
春香ちゃんは、少し心配性だと思っていたけれど、京香さんは、その上を行く。それは、今落ち着かない時期にあるからかも知れない。
春香ちゃんが誰かをなだめている所など、見た事がなかった。京香さんをなだめている光景は、意外でも当たり前に見えた。
プライベートを含め付き合いのある春香ちゃん。それは、ほんの一部だったようだ。あまりにも知らない事が多すぎる。宮内の事だってそうだ。隠す意味がわからない。近いうちに語って貰わなければ、あたしの好奇心は治まらない。
宮内に聞くのも悪くない。春香ちゃんが思っている事より、宮内の思うことの方が面白そうだ。
よく考えてみると、それは、まず無理だろう。聞き出すまでの間に、あたしが堪えられなくなるのが、面白いほど見える。それに、宮内が話すとは思えない。嫌味と仕事の中身以外の言葉を聞いた事がない。
やっぱり、春香ちゃんを突っつく方がいい。
そう思っても、今日は無理だ。人事を楽しむ余裕がない。
もう、今日は乗り切った。という、気分で一杯だ。後は、適当に加倉さんにご飯と薬を飲ませたら終わり。居心地の良い、自分のベッドで昼過ぎぐらいまで寝るだけ。そう思うと、いくらか気分が上昇してきた。