◇ 5 ◇ 05 風邪引きさんは、わがままな事この上ない。
地下から、地上に出る電車。外の風景が見えれば、もうすぐ加倉さんの住む街。
暫くすると、電車はホームに到着した。
この駅で降りるのは、初めてだった。出口の改札が二つある。どちらから出ればいいのだろう。先に、聞いておけば良かった。
少し、どっちから降りるか迷っていると、改札に別れて向かう人達に取り残され、ホームの人は疎らになった。
悩んでいても、仕方がない。加倉さんに電話してみる事にした。
少しは、マシになっているだろうか。反対に、悪くなっていたらどうしよう。
「あさちゃん、今どこ?」
「加倉さん家の最寄り駅まで来たんですけど、どっちの出口からでたらいいんですか?」
昼間と変わらず、加倉さんは辛そうで、声を絞り出している感じがする。まだまだ、復活の兆しが見えていない。それどころか、酷くなっているような、気もしなくもない。
なんとか月曜までには良くなって欲しいと思いながら加倉さんに、出る改札と簡単にマンションまでの道のりを聞いた。
改札を無事通ると、思い出した。あたしがご飯を作ると言っておきながら、何も材料を買っていない。忘れてくれていればいいのだけれど、今の加倉さんに食べさせないのは、ヒドイ人になってしまう。
今日明日で、加倉さんが外に出られるとは、思えない。食材以外にも、必要になりそうなものを買って行った方が良いだろう。
駅前で行き交う人の中から、この街の住人であろう人を見定めて、スーパーの場所を聞いた。
そのスーパーは、スグに見付けることができた。心の中で、教えてくれたエコバッグに食材を詰めたお姉さん? に感謝した。
加倉さんに必要な物を物色して、買い物かごに入れると、スグに一杯になった。買いすぎたかも知れない。自分が買い物をして帰るより、遥かに重い。
重さに堪えかね、会計を済ませた。
その重たい荷物に少し苛つきながら、加倉さんの家に向かう。
迷ってしまうかと心配たった。着いてしまえば、駅からは近く、教えられた目印も的を射ていて心配など必要なかった。
マンションのエントランスで、部屋番号を入力して呼び出した。
少し待っていても、応じてくれない。違う部屋番号を押したのかと心配になり、加倉さんに電話を掛けてみた。けれど、出てくれない。もしかして、まだ、看病に来させた女がまだ帰っていないのか。
「どうしよう」
メールボックスの前に行き、加倉さんの部屋番号を探した。そこには、ちゃんと加倉さんの名前もあった。
帰った方が良いのだろうか。けれど、この荷物を持って帰るのは、イヤだ。しかも、あたしには必要がない。使って使えない物ではない。重いのがイヤなのだ。
諦め切れずに、もう一度、電話を掛けてみた。すると、今度は諦めて切ってしまう前に出てくれた。
「加倉さん、大丈夫ですか?」
「悪い、もう着いてるのか?」
「ええ、少し前に。下、開けて貰えませんか?」
出てくれた事に安心した。
電話をしながら、部屋番号を入力し、呼び出しボタンをまた押した。
「ちょっと、待って」
ベッドから出た様子で、開けに向かってくれているようだ。駅での電話の後、寝ていたのだろうか。
エントランスの扉が開くと、電話を切った。
思っている以上に、加倉さんは具合が良くないのかも知れない。昨日は、そんな様子を感じる事はなかった。けれど、春香ちゃんは、そうではなかったと言っていた。観察癖のある春香ちゃんが言うのだから、そうなのだろう。実際、加倉さんはダウンしてる。
ここの所の忙しさに区切りが着き、安心して気が抜けたのだろうか。
エレベータの中で少し考えていると、目的の階に着いた。
初めて来たマンションでは、どういう順番で部屋が配置してあるのかわからず、部屋番号を見ながら加倉さんの部屋を探した。端から見れば、怪しい人かも知れない。
エレベータから一番遠い部屋が、探す部屋だった。
インターフォンを鳴らしても、また、返事がない。本当に、コレはマズイかも知れない。月曜日までに、復活してもらえるだろうか。
また、会社に縛られては、仕事が出来ない。本当に、もっと増やして貰わないと、手が足りない。今のところ、あたしは健康体で休む予定はない。けれど、これからもないとは言い切れない。現に、加倉さんだって、そうなのだから。
加倉さんには、アシスタントが二人もいるのだから、まだましだ。しかも、あたしが、代わりをせざる得なくなれば、どうにでもなる。けれど、あたしはどうだろう。今は本城君に全部預けてしまっているけれど、今日みたいに急ぎでプランの変更を迫られて、本城君一人で大丈夫だろうか。加倉さんがいれば、もちろん、何とかしてくれていると思う。共倒れなら、どうなるんだろう。
そう、思いながら待っていても、扉は開かれるどころか、返事さえない。
もう一度、インターフォンを押した。返事もなければ、鍵を開けられた音さえ聞こえない。
痺れを切らせて、ドアをノックした。それでも、反応がない。ドアに手を掛けてみると、簡単に開いた。鍵を掛けていないのか。物騒な人だ。
「加倉さん、何で鍵かけてないんですか!」
重い買い物袋を二つ玄関に置きながら、声を掛けてみても、何も返ってこなかった。あまりの静かさに、廊下から続く、リビングであろう部屋の扉が開きっぱなしなのをじっと見た。
勝手に入ってもイイものかと、少し悩む。
部屋番号を確認する為に、一度玄関から出た。そして、部屋番号をしっかり確認する。プレートには、名前が書かれていなかったけれど、間違えなく加倉さんの部屋番号だった。
仕方なく、無断で入る事にした。廊下を進むと、開け放たれた扉からは暖かい空気が流れてきていた。けれど、それはリビングからではなかった。寝室らしき、開け放たれている部屋から、空気の冷たい玄関の方に向かって流れているようだった。
「加倉さん? いないんですか?」
せっかくの暖まった空気を逃がさないように、玄関に通じるドアを閉めた。辺りを見回してみても加倉さんはいなかった。ベッドに戻ったのだろうか。来た事を伝える為に寝室に向かおうとしたけれど、その前に、コートを脱ぎ、マフラーをはずした。何気なく、目の前のソファーの背にコートを置いた。
「加倉さん、こんな所で寝てないでくださいよ。ちゃんとベッドに……」
ソファーの後ろ側からでは、全くわからなかったけれど、加倉さんはソファーに毛布さえ掛けず、寝ころんでいた。というより、力尽きたというところか。
呼びかけていても、全く反応がない。眠っていると言うより、気を失っているの方が、正しいのかも知れない。
ソファーをぐるりと回り、加倉さんに近づくき起きてくれないかと、肩を揺すった。
「加倉さん、ベッドに行った方が良いですよ。寒くないんですか?」
横向きで、足を曲げて寝ころんだまま、何も反応を示してくれない。流石に、加倉さんを一人でベッドに連れて行くのは、無理だ。せめて、覚醒してくれたらと思う。それならば、何とか連れて行く事が出来るだろう。
加倉さんの額に指の先を置いてみると、あたしの手が冷たいと言うだけではないと思う程、熱かった。手を少し擦り合わせ温めてから、改めて、ちゃんと触れると、やっぱり熱がある。体温計が何処にあるのかわからない。どれくらい、熱があるのか確認できないけれど、38度以上はあるのではと思う。
「少しでイイから、起きてください」
このままでは、余計に悪化させてしまいそうだ。そうなれば、あたしの所為になってしまう。それだけは、避けたい。甘んじて、加倉さんの仕事を引き受けなければならない。挙げ句に、治った後も加倉さんにあたしの所為にされるような気がする。
「加倉さん、何で誰か呼ばなかったんですか! 少しでイイから起きてください!」
今まで以上に、加倉さんを揺すり、ウルサイほどに声を上げた。
誰かを呼んでいれば、病院にちゃんと行っていただろう。ここまで、具合が悪いのなら、何とか連れて行ってくれていたはず。
必要な時は呼んでいるのに、何故呼ばなかったのだろう。あれだけ、念を押しておいたのに。
病人に対して、この扱いは無いかとは思う。けれど、そうは言ってられない。何とか、ベッドに連れて行かなくては。少しは、反応してくれるかと、揺すりながら加倉さんを見ていた。
体温が上がり、呼吸は苦しそうなのに、瞼は閉じられて身体にも力が入っていない。力なく身体を揺らされた結果、流れてきた前髪があまりに哀れで、顔に掛からないように除けた。
来なかった事にして、帰ってしまおうか。けれど、電話してしまったし、着信が残っているだろう。携帯を探し出して、消去してしまおうか……。そして、行くだなんて言ってないですよと、とぼけて終わらせよう。と、いうわけにはいかないだろうか。このまま放っておくのは、自分の首を絞めてしまうと諦めた。
「起きてください。ベッドに行きましょうよ」
少し諦め気味に、また呼びかけると少し反応を示した。瞼は閉じられたままだけれど、少しまつげが動いた。
このまま、少しでイイから起きて貰おうとジャケットを脱ぎ、また、加倉さんに近づいた。
「ちょっと、失礼しますよ。これだけ、ゴソゴソしてるんだから、起きてくださいっよ、重い……」
とりあえず、身体を起こせば、覚醒するかも知れない。足をソファーからおろして、首とソファーの間から手を入れ腕で頭を抱え、身体を入れる隙間を作ると加倉さんの身体だけでも、起こそうとした。けれど、力の入っていない身体は予想以上に重い。
「成美?」
「愛想を尽かされたのを忘れたんですか? 残念ですが、伊藤です。起きてくれて、助かりました。さっさと、ベッドに行きましょう」
少し自分で、身体に力を入れてくれたお陰で、ソファーの背に凭れさせられた。このまま、ベッドまで行ってくれれば、悪化するのは避けられるかも知れない。けれど、力が入りきっていない、加倉さんはあたしが退けてしまえば、そのまま、ココにまた寝ころんでしまいそうだ。
「あさちゃんって、結構、積極的だな」
「出てない声で、冗談を言わないでください。このまま、ベッドに行きますよ……。加倉さん、何してるんですか?」
伸びてきた手は、ベッドに行くのに手伝って欲しいのかと思えば、全く違うところに伸びてきて、ゴソゴソとし始めた。
「ご期待に応えようかと、頑張ってるんだけど」
「頑張らなくてイイです。セクハラも良いところですよ。知ってます? 今はどう考えてもあたしの方が優位なんですよ」
「あさちゃん、見かけより胸あるんだな」
「その手を退ける気はないんですか?!」
「あっ」
加倉さんから勢いよく離れると、ソファーの背に凭れ、こちらに身体を預けていた加倉さんは、ソファーに突っ伏した。
脳が熱だれしている所為か、手を出す相手を間違っている。何故、この状況で、そういう事を考えられるんだろう。もし、身体を開いてくれる人であったとしても、今の状態では出来るわけがない。
「加倉さん、大人しくベッドに行く気になりましたか? なったなら、手伝ってあげます。じゃなかったら、置いて帰りますよ。加倉さんのお陰で、家に帰ってからまだ仕事をしないといけないんですからね」
「あぁ」
力なく少し起きあがった加倉さんが、そう答えたのを確認すると、ベッドまで行くのを手伝った。移動する間も足下がふらついていた。あまり、頭も働いていないらしい。
加倉さんの体温は高く、熱があたしに伝わってくる。昼間言っていた、なんとか大丈夫、というのは、大目に見ても間違っている。いつから、こんなに熱が出ていたのだろう。
加倉さんをベッドに寝かせると、寝室を特に何を探すわけではなく見回した。
寝室は、リビングと同じくシンプルで綺麗に片付けられている。ベッド、それにサイドテーブルだけ。あとは、壁一面のクローゼット。その所為か、すごく広く見える。一人なのだから、この部屋にいろいろと詰め込む必要がないのだろう。あと、どれくらい部屋があるんだろう。加倉さんが、元気なら見せて貰うところだけれど、今日はそんな事を言ってられない。
加倉さんは、潔癖性気味かなとは思っていた。あまりにスケジュールを完璧に動かしているし、出した物はちゃんと元に戻す。よく出しっぱなしにしている、本城君に説教まではいかないまでも、片付けろと言っている。あたしも、散らかしながら作業するクセがある。加倉さんがウザイから、いつもミーティングルームに籠もり作業をする。
「熱は計ってみましたか?」
「いや」
「何で計らないんですか。現実逃避しても、熱は下がりませんよ。熱があるのには、変わらないんです。体温計、何処にあるんです?」
何故か嫌がる加倉さんから、有りかを聞き出した。
あまりの強情さに、呆れながらも体温計を取りにバスルームに行った。
戸棚の中かを探ると救急箱があり、その中にちゃんとあった。さすが、潔癖気味に加倉さん。出した物は、ちゃんと同じ所に戻すのだろう。あたしならば、少し探さなければ出てこない。
体温計は、加倉さんにあまり必要になる物だとは、思えなかった。ちゃんと、動くかどうかスイッチを入れてみた。ピっと音がすると、ちゃんと反応しているようで、このまま計れそうだ。
それを持って戻ろうとすると、洗面台の大きな鏡に映る自分に目に留まる。さっき、加倉さんに引き出されたブラウスの裾が前だけ出ていた。あまりのかっこ悪さに、ベルトを外しファスナーを下ろすと、元通りブラウスを押し込んだ。そして、いったい、どれくらい熱が出ているのだろうかと思いながら、寝室に戻った。
覚醒したのは良いけれど、もう、加倉さんは目を閉じ、意識を手放しているように見える。
サイドテーブルに体温計を置き、寝室を出ると玄関に向かった。買ってきた物を全部置いたままにしていた。それを持ってキッチンに向かうと、ダイニングテーブルの上に置いた。
加倉さんは、あたしより遥かにいいお給料を貰っているようだ。あたしの部屋並みに広い部屋。いや、それ以上か。キッチンだけではなく、ダイニングまである。
羨ましいと思う気持ちを少し横にやり、氷があるかと冷凍庫を開けた。けれど、全くなかった。製氷を止めているようだ。仕方なく、買った来た氷を別の目的で使う事にした。キッチンをひと眺めしてみて、どこに何があるのかわからない。
探すのは、時間の無駄だ。探し出すのを諦めて、買ってきた物を全て出すと、買い物袋に氷を少し入れお水を少し足して、空気を抜くき、きつく口を縛った。漏れないのを確認し、先程バスルームで目に止まっていたタオルを取りに行くと、それを包んだ。
買ってきた常温のスポーツドリンクを出した。すぐに見付ける事が出来たグラスにそれを移した。そして、それらを持って寝室に戻った。
「加倉さん。ちょっと起きてくさい」
先程とは違い、気を失ったわけでも眠っていたのでも無いらしく、ゆっくりと目を開け、反応してくれた。
見る限り、水分補給もせず、ただ横になっていただけのように思えた。グラスを差し出すと、いらないというのに無理矢理飲ませた。グラスに三分の一程しか入れていないのに、一口、口に含みグラスを返してきた。水分補給をしていないとどうなるかをキレ気味に言うと、不満げに飲み干した。加倉さん自身もそれくらいは、知っているだろう。それでも、嫌がられてしまっては、ウザくても言うしかない。
空になったグラスを受け取ると、体温計を渡して計るよう促し、さっき作った即席氷嚢を額に置いた。
それを手で少し押さえながら、そのまま、加倉さんは目を閉じた。
初めて見る、加倉さんの寝顔と憔悴しきった姿。どれちらも、オフィスではお目に掛かる事が出来ない。珍しい物を見たと、最初は、意地悪な気持ちでいたけれど、段々と心配になってきた。
こんなになる事もあるんだと、加倉さんを見ながら思った。
それにしても、最初に出てきた名前が、元カノの名とは驚いた。気に入っていた事は知っていたけれど、あんなにあっさり別れた上に、スッキリさせた顔をしていた。本当は、そうでもなかったらしい。そのダメージも出てきたのかも知れない。
そう考えると、加倉さんが本当に思っている事は、あたしには殆どわかっていない。
寄りを戻したいのであれば、まだ、間に合うはずだ。連絡を入れてあげようか、と思った。けれど、あたしにはそのすべはない。それに、コレばかりは加倉さん自身が行動を起こさなければ、何の意味もない。
キッチンに戻り、出したままの氷を冷凍庫に入た。そして、冷蔵庫の中身を確認しながら、買ってきた物を入れた。
こんなに大きな冷蔵庫だというのに、食材は殆ど入っていなかった。何の為に、こんなに大きいのだろう。一家族分は十分にある。
冷蔵庫を閉めると、何処に何があるのかわからないキッチンで、少し悩んだ。あれだけ、思考がまとまっていない加倉さんに、一々何処にあるのかを聞いていられない。何を探すわけでもなく、キッチンにある扉と引き出しを全部開けた。だいたい、どのような物が何処に入っているのかを確認する。そして、改めて加倉さんには、整頓癖がある事も確認できた。
これから使う物を出している最中、インターフォンの呼び出し音が響いた。
今頃、加倉さんが呼んだ人が来たのではないかと、鍋を手に焦った。それでも、出ないのは、先程のあたしの様に途方に暮れるかも知れない。
意を決して出てみると、下からの呼び出しで宅配便だった。ややこしい事にならずに済んだと、解錠しながら安心する。
暫くすると、また、呼び出し音が聞こえ到着した事を知らせてくれた。玄関に向かい荷物を受け取り、サインをした。
そういえば、今日荷物が届くと言っていた。
あの時、宮内がエレベータの前にいた春香ちゃんと加倉さんに向かって言った事は、加倉さんに向けてのカモフラージュだったのだろうか。
あの後、春香ちゃんは様子がおかしかったのは、宮内が本気で言っているのか、敢えてそうしていたのかがわからなかったからかも知れない。
年は離れているけれど、あの二人には何の問題は無いと思う。確か、宮内は加倉さんと同じぐらいの年だったはず。それならば、春香ちゃんとは10歳くらい離れている。宮内は、若い子が好みなんだろうか。犯罪でもないし、問題は見あたらない。宮内は結婚していない。隠す必要性は何処にあるんだろう。
もしかして、宮内は加倉さんよろしく、同時進行している人がいるんだろうか。けれど、春香ちゃんぐるみで、内緒にしておきたいのならば、それは、成立しない。
これは、疑問のままにしておくのが良いのかも知れないとは思っても、気になる。それでも、今考えても何もわからない。受け取った荷物を置きながら、結論を出す事を諦めた。
すっかり忘れていた加倉さんの様子を伺いに寝室へ向う。
体温計を出して貰おうと、呼びかけても答えてはくれず、眠っていた。呼吸が辛そうだ。眠っているのなら、それを感じる事はないのだから、起こさない方がいいだろう。
体温計は、もう計測を終えているはず。加倉さんを起こさないように、体温計を取り出し、表示されている数字を見て驚いた。
見間違いではないかと、何度もその数字を確認した。もう、あたしの手に負えない。月曜には復活して欲しいなどとは、言ってられなくなってきた。
体温計をリセットすると、もう一度、加倉さんに戻した。間違いであって欲しかったけれど、たぶん、間違いではないだろう。
リビングに戻り、脱いだジャケットと一緒に置いたバッグを開け、携帯を取り出した。そして、応援を呼んだ。
「大丈夫かな?」
「何故、もっと早く僕を呼ぶか、病院に連れて行かなかったの」
加倉さんは眠り続けていて、腕には点滴の針が入っている。
往診にスグに来てくれるとなれば、祖父を継いで医者になった叔父の荒木弘成しか思い浮かばなかった。
「あたしが来たら、もうこんなで……。昼間はあたし仕事だったし……ごめんなさい」
応援を呼んだのは良かったけれど、ヒロ君は説教モードに入っている。機嫌悪く低い声で言われ、動揺してしまう。いつもは、穏やかで優しく接してくれるのに。
何故、あたしが叱られているんだろう。あたしの所為では無いのに。
理不尽さを覚えながらも、こうなったヒロ君には逆らう事が出来ない。ヒロ君は、してはいけない事や彼にとって都合の悪い事があると、1から10までキッチリ筋を立て、どうしてダメなのかを声を低くし目を合わせ、反らす隙を与えることなく説明する。それは、しつけられている犬のように感じてしまい、身動きが取れなくなる。悲しくもないのに泣きそうになり、挙げ句に口ごもってしまう。
両親より、彼の言う事ならあっさりと聞いてしまう。あたしが飼い犬ならば、飼い主の中での大ボスは、父ではなくヒロ君だ。
今日は、それを聞きたくはない。理不尽でも非を認めて謝った方が続きを聞かなくて済む。
いい加減にやめて欲しい。子供ではないのだから。
一人っ子のあたしには、イイ遊び相手だった。兄のようであるけれど、ちょっと違う感覚。
今考えると、あたしの相手をいつもしてくれていたのは、年の離れた姉、あたしの母に良いように使われていたのではないかと思う。あたしがヒロ君にそう感じるように、逆らえ無かったのかも知れない。
「まぁ、いい。それより、正月も帰らなかったんだって?」
「うん。帰らなかった。コーヒーでもどう? 点滴終わるまで暫くあるんでしょ?」
その話には触れて欲しくなくて、話をそらし、返事を聞く前にキッチンにお湯を沸かしに行く。
加倉さんが、コーヒーを買い置きしているかどうかなんて、わからなかった。
絶対に飲みたくなると、スーパーでちゃんと買っておいたお湯を注ぐだけでドリップできるコーヒーの封を開けカップに乗せ準備する。
暫くは、ヒロ君を引き留める事になるだろう。となると、さっきの会話の続きをしなければならない事を覚悟しておかなければならない。うまく、話を反らせればいいのだけれど。
あまり、母の事をヒロ君に言いたくはない。理解はしてくれるだろうけれど、彼等は仲が良く、話のネタにされるような気がする。
少し憂鬱になりながら、入れたコーヒーを持ってリビングに向かった。
「今日、予定はなかったの?」
「特にはね。それより、いつ別れたんだい?」
ヒロ君は、コーヒーを受け取ると、予想していなかった話題に触れてきた。何故、別れたと知っているんだろう。母には、その話はしていない。
「どうして、知ってるの? 母さんにも話してないのに」
「彼は、姉さんの話していた僕と同じ名字の恋人ではないだろう? その内容と、写真からは一致しないからね。僕に会わせてくれるって事は、その彼以上に本気だって事なんだろ? 姉さんや父さんは、ガッカリするだろうけどね」
「信じられない。母さんって、どれだけお喋りなのよ……。おじいちゃんも和也の事、知ってるの?」
「そうだね。この間、麻美の部屋を大掃除した時に学生時代の写真を見付けたらしいよ。それを持って、ハイテンションで父さんに会いに来てたよ。姉さん、彼と会った事あるんだろ? 会わせたわけでは無いと、僕は思うけどね」
母には参ってしまう。最近では、結婚を迫ってくる。周りからあたしを結婚に向かわせるつもりなんだろう。
だから、帰りたくなかった。帰らなくて正解だ。連絡さえ取っていない。
それにしても、学生時代に何度か、家まで迎えに来てくれたり、送ってもらった時のほんの少しの時間で、和也の顔を覚えてしまっているだなんて……。
「父さんは、麻美が同じ名字になる事をとても、喜んでいてね。違う家なのにね。ところで、彼はどんな人なんだい?」
「誰のこと?」
「長く付き合った彼よりも、寝室にいる麻美が本気になってる彼の事だよ」
ヒロ君は、そう言いながら寝室を指した。
加倉さんの事を言っているんだろう。ヒロ君を呼んでしまったのは、軽率だったかも知れない。ここで、いくら否定しても和也との事も含めて報告されてしまう。けれど、否定しないわけにはいかない。
「加倉さんとは、そんな関係じゃないから。上司よ。加倉さんには月曜日にはちゃんと、会社に来て貰わないと困るの。あたし、自分の仕事が出来ないしね。今日だって、様子を見に来ただけなんだから」
「そうは、思えないけどな。別に隠すことはないだろう? 麻美はやっぱり年上の人の方が合うと思うよ。ちゃんと話せる時に会いたかったな。優しそうな人じゃないか。それにしても、上司とはね」
「だから、違うってば。加倉さんと付き合うなんて、とんでもない。そんな事になれば、あたしはいつも心配してないといけくなるし、刺されるのもイヤよ」
「そんなにムキになって否定するなんてな。そんなに、姉さんに知られたくないのかい?」
どうしても、加倉さんと引っ付けたいのか。
順番から行くと、あたしより、ヒロ君の方が先に結婚するのが普通だろう。もう、34歳なのだから。
「あたしの事より、ヒロ君はどうなの? あたしより、先に結婚するのが順番でしょ?」
不思議そうにあたしを見ると、コーヒーを口に運びカップをテーブルに戻した。
それを黙って見ていたけれど、なんだか気になった。
「どうしたの?」
「帰ってないだけじゃなくて、連絡も取っていないんだね。僕は、直接麻美に知らせたかったんだ。けど、姉さんがどうしても自分が言いたいって言うから、伝えて貰う事にしたんだよ。姉さんが、やけに心配してる意味が今わかったよ。連絡くらいしたらどうだい?」
「だって、母さんは、結婚を迫るだけで……。話したくないの。急かされるのだって、イヤだし。何の話をしてても、結婚を出してくるのよ。その時が来れば、ちゃんと報告するのに」
やっぱり、話を反らす事は出来なかった。少しばかりの覚悟はしたけれど、やっぱり、教えたくはなかった。
「それが、帰らなかった理由にもなるって、事かな?」
「そうよ。けど、母さんには言わないで。諦めてくれるのを待ってるんだから。母さんに知られると、余計にムキになっちゃうから。それで、知らせたかった事って何?」
母さんが、ヒロ君の事で伝えたかったがったというは、きっと、それを糸口にまたあたしに結婚を迫りたかったのだろう。それならば、その心配のないヒロ君から聞きたい。
「結婚するんだ。あとは、麻美だけだな。知ってるかい? 姉さんは、母さんのウエディングドレスを麻美に着せたがってる。自分で着たかったみたいだけど、あの時、姉さんのお腹の中には麻美がいたからな、着れなかったんだよ。だから、麻美の出来ちゃった結だけは、避けたいのさ」
「ヒロ君、おめでとう。母さん、そんな事を企んでたの……。それはいいとして、あたしてっきり、ヒロ君は女に人には興味がないと思ってた。まさかとは思うけど、カモフラージュで結婚するって事はないわよね?」
常々思っていた事を思い切って聞いてみた。
ヒロ君は、驚いた様子で、あたしをマジマジと見ている。ちょっと、唐突すぎる質問だったかも知れない。けれど、ヒロ君に女の人の影を見た事はないし、あの情報通の母からも、その話題を聞いた事はない。
「何を言い出すかと思えば。麻美にそんな風に見られてたのかい? 何を根拠にそんな事を思っているのか、見当もつかないよ。それより、薬を渡しておくよ」
あたしの勝手な思い込みいだったらしい。母さんが、あたしにばかり口を出すのだから、余計にそう思った。それはきっと、母さんは、ヒロ君がそうだと知っているのだと思っていた。
ヒロ君がいてくれる間に、薬局で凍らせても固くならない枕タイプの保冷剤とシート状の物を入手して、とりあえず作った物と交換した。枕タイプの保冷剤は、まだ冷えるまでに時間が必要だった。
そして、落ち着いてからは、本城君が持ってきた内容変更の企画を修正と変更を加えながら、ヒロ君と話していた。
ヒロ君のお相手は、あたしより若く、あたしの受けた印象よりも、付き合いは長く、3年付き合っていたらしい。
あたしが思う以上にヒロ君は、隠すのが上手ようだ。考えてみれば、当たり前。うちの母に、干渉されてはたまらないのだろう。
「彼、起きたよ。少し何か食べさせた方が良いね。けど、喉腫れてるから、水を飲むだけでも痛いと思うよ。固形物はやめた方が良い。それから、薬を。もう暫くは、熱は引かないと思うから、安静にね。それじゃ、僕は帰るよ。明日は予定があるからね」
だから、加倉さんは、水分補給も嫌がったのか。ヒロ君の言葉で納得をした。
加倉さんの様子を見に行っていたヒロ君は、リビングに戻ってくると、あたしと同じくソファーの背に掛けていたコートを取った。
腕時計を見ると、もう11時を回っていた。
ご飯だけは、炊いていたのでおかゆにするのが一番早い。また、加倉さんが眠ってしまわないうちに、作ってしまわないといけない。
「ありがとうね。お願いだから、母さんに今日の事は言わないで」
コートと鞄を持って、玄関に向かうヒロ君を追いかけながら、念を押す。
ヒロ君は、あたしの話していることを聞いているのか、聞いていないのか、玄関で鞄を置き、コートを羽織る。そして、意地悪な笑顔を向けた。
「わかったよ。そんなに、彼との事をそっとして欲しいって事は、カナリ本気なんだね。僕もその気持ちは、わかるつもりだよ。姉さんの知りたがりには、参るからね」
「だから、違うってば。加倉さんとは、そう言うんじゃないってば」
完璧に拗ねながら、そう言ったけれど、ヒロ君は全く本気にしてくれていない。これは、これで、困った事になった。けれど、もう、勝手に勘違いさせておくしかない。
「少し、話したけど、変な人ではなさそうで安心したよ」
「ヒロ君って、見る目無いのね。いつか誰かに騙されそう。加倉さんは、変な人よ」
「そんなに、照れること無いだろう? それじゃ、またゆっくり」
本気で言ったのにもかかわらず、一頻り大笑いした後、ヒロ君はそう残して帰った。全く、本気で取り合ってくれていない。
閉まった扉を眺めながら、ため息をついた。
リビングに戻り、テーブルの上を少し片付け、ヒロ君に出したカップと自分の使ったのを持ってキッチンに向かった。シンクにカップを置き、湯冷ましをグラスに注ぐと、寝室に加倉さんの様子を見に行った。
「加倉さん、大丈夫ですか?」
寝室のドアを開け声を掛けると、加倉さんは身体を起こした。
グラスを渡すと、少し飲んでくれた。今度は、強制はしなかった。予想通り、グラスはすぐに返され、受け取るとサイドテーブルに置いた。
「汗かいてますね。怠いのはわかりますけど、着替えてくださいね。少しは、楽になりました?」
「どうだろう……」
加倉さんは、身体をベッドに戻しながら、呟くようにそう言った。まだ、起きて行動するには、無理がある。
着替えは何処にあるのか教えて貰った。クローゼットを開けてその場所を探す。そして、適当に着替えを出した。クローゼットも、他と一緒で綺麗に整頓されていた。
「コレでイイですか? じゃ、着替えてくださいね」
着替えを近くに置きながらそういうと、ベッドに張り付いている加倉さんは、力なくこちらを向いた。何か言いたい事があるのかと、目を合わせたままでいた。
「あさちゃん、着替えさせてくれないのか? 少しは優しくしてくれても良いんじゃない?」
「何言ってるんですか! 十分に優しいじゃないですか。放って帰らなかっただけでも、感謝してください」
「面倒だし、このままでイイ……」
「ダメです。着替えてください。ココでキレさせるつもりですか? 子供みたいな事言わないでください」
加倉さんは、掛け布団を引き上げると、頭からかぶってしまった。
ため息をつき、布団を引っ張っても、加倉さんは内側からきつく掴んで、沈黙を決め込んでいる。
思っていた以上に、加倉さんは子供じみた事をしてくれる。加倉さんを慕っている、岸君や野田君に見せてやりたい。酒井さんにも。幻滅すること間違い無しだ。
加倉さんが、布団を引き上げてフローリングの床に落ちた着替えを拾った。ベッドの端に座って、それを広げた。
「あたしの気が変わらないうちに、出てこないと……。ご飯も作らずに帰りますよ」
加倉さんに背を向けて座っていたけれど、布の擦れる小さな音と動きがあったのを背後で感じた。加倉さんの方を向いて、広げた着替えを見せた。
加倉さんは、布団を目の下まで出して鼻は隠している。おでこに貼った保冷シートは、少しめくれていた。子供ならば、可愛いところだけれど……。
のろのろと動き出した加倉さんは、身体を起こし、着ていたパジャマのボタンを外しはじめた。そのおぼつかない手つきに、じれったさを感じ手を退けさせると、ボタンを外した。
「加倉さん、ヒロ君に余計なこと言ってないですよね? 思いっきり勘違いして帰って行ったんですけど」
パジャマから腕を抜くのを手伝いながら、確認も含め聞いた。
加倉さんは、身体を動かすのも辛いようで、思うように動いていないように見える。
「聞かれた事に答えただけ。特には、言ってないと思うけど? あさちゃんの彼氏は大変だな」
少しふざけ気味に言う加倉さんは、クスクスと笑っている。けれど、それで喉を刺激したらしく、咳き込んだ。
仕方なく、呆れながら加倉さんの背中をさすった。どうしようもない人だ。余計な事をしなければいいのに。
「そんな事はどうでもいいんですよ。それより、腕上げる位してください」
下に着ていたTシャツの裾をたくし上げ、腕を上げてくれた加倉さんから引き抜いた。脱がせた物をベッドの端に置き、出してきたTシャツを頭からかぶせた。
「あさちゃん、もう少し優しくできないか……」
「そんなこと言われても、人を着替えさせるだなんてした事無いんですから。諦めてください」
やっと、着替え終わらせるとしみじみと言われ、少し苛ついた。勝手な事を言われ、文句まで言われては、キレないだけ有り難いと思って欲しい。
「もう、あとは自分でしてください。食事の用意してきますから」
脱がせた物を持って、寝室を出た。
憤慨しながらも、放っておく訳にもいかず、帰れない。誰か代わりに来てくれないだろうか。
そんな事を考えながら、洗濯機に脱がせた物を放り投げた。
この時間から、代わりを見付けるのは難しい。諦めるしかない。けれど、加倉さんの意外な一面を見られたのは、ちょっかいを出された時に反撃の材料として使えそうだ。
出来上がったおかゆを持って行くと、加倉さんは予想よりたくさん食べてくれた。食欲はあまり有るようではなかったけれど、何も食べていない事を考え、少しでも多く食べて症状を緩和させる事を気にしたのかも知れない。無理に食べて、嘔吐されても困ってしまう。途中で切り上げさせ、その代わり、水分補給も兼ね、葛湯を新たに出した。
食器を片付け終わると、加倉さんの様子を見に行った。お腹が満たされた事と、薬が効いてきたせいか、眠っていた。
額のシートを貼り替え、十分に冷えた保冷剤にタオルに巻いて、頭の下に入れた。明日には、少しでも良くなっているとイイのだけれど。上がりすぎた熱だけでも、下がればと思う。
終電の時間は、もう既に過ぎている。タクシーで帰るにも、遠すぎる。どうせ、帰ったところで、徹夜は決定だ。それならば、ココで済ませた方が、時間を有効に使える。
一度片付けたけれど、バッグの中の物をリビングのセンターテーブル広げて、仕事に取りかかった。
心地よい温かさを感じ微睡んでいる事に気付き、重たい瞼を懸命に開けようとした。けれど、瞼だけではなく、身体も怠く重く感じた。
やっと、目を開けると辺りは暗く、静かだった。目が暗さに慣れてくると、ハッとした。
あたしは、どうしてベッドで寝ているのだろう。企画の変更を加え終えたのは覚えている。そして、始発の時間まで、ゆっくりとしていようと思っていたのも覚えている。何故、こんな事になっているのだろう。
加倉さんは、あたしの身体に腕を巻き付けて、眠っている。
ブラウスは、皺になっているだろう。スカートだってそうだ。布団を捲ると、やはり服を着たままだった。寝かせてくれるのならば、スカートくらい脱がせてくれてもイイと思う。けれど、加倉さんには、ダメだと思い直した。
これから、帰らなくてはいけないのに、ブラウスは隠れるからイイけれど、スカートの皺は目立ってしまう。何故、家を出る時にロングコートにしなかったのかと後悔した。けれど、買ったばかりのショートコートを着たかったのだから仕方がない。
ベッドから出ようと、加倉さんの腕を退ける。それでも、脱出には失敗した。さっきよりも身体に腕が絡まってきた。
「何なのよ……」
身体を動かす隙間も無くなった。加倉さんが、寝返りを打つまで待つしかないのだろうか。
除けた布団が無いと寒さを感じ、腕を伸ばして指の先で布団の端を捕まえると、引き戻した。すると、加倉さんの腕が少し弛んだ。もしかすると、加倉さんは寒かったのかも知れない。
加倉さんの額に手を当ててみると、いくらか熱さは無くなっていた。けれど、平熱ではない。額に貼っていたはずのシートは、無くなっていた。何処に行ったんだろう。枕に張り付いているかも知れない。そんなに、すぐに取れてしまうものではないとは思う。加倉さんは寝相が悪いのだろうか。
サイドテーブルの上に、体温計を置いたままなのを思い出し、手を伸ばした。
「あさちゃん、何暴れてんの……」
「あ、起きました? なら、離して貰えませんか。少しは、熱下がったようですね」
「ダメ」
「少しは楽になってません?」
もしかして、下がったように思えたのは、気のせいだったのだろうか。あたしの身体が暖まっている所為で、手の感覚がおかしくなっているのだろうかと、また、加倉さんの額に手を当ててみた。
「やっぱり、少しは下がってるような気がするんですけど、気のせいですか?」
ココから抜け出したいと思っていても、一度失敗している。少し、様子を見ることにした。
加倉さんの方を向いていた身体を、楽な仰向けにしながら同意を求めた。けれど、無視されたのか返事は返ってこなかった。加倉さんの方に、顔を向けると、目があった。
「どうかな……」
「で、何で離してくれないんですか?」
「イヤだから」
そう言いながら、緩く空いていた隙間を埋められた。何を考えているのだろう。もしかして、彼女に捨てられたショックで、誰でもイイになっているのかも知れない。甘えたいのだろうけれど、人選ミスだ。
「そんなに、寂しいなら何で彼女に助けを呼ばなかったんですか。あ、元カノか……。けど、これなら、絶対来てくれたと思いますよ。しかも、より戻せたかもしれませんよ」
少し意地悪く言うと、止める間もなく、器用に身体を加倉さんの方に向けられた。驚いていると、潜るように胸に顔を埋めた。
「信じられない! 何で、服はそのままなのに、下着だけ器用にハズしてるんですか!! それなら、皺にならないように、スカートにしてくださいよ!」
「あさちゃん、うるさい……」
家に戻れば、すぐに外す習慣のあたしはそれに全く気付かなかった。暴れてみても、腕だけではなく身体ごと絡まってくるばかりで疲れてしまった。身体を動かすだけでも、辛そうだったというのに、どうしてこんなに力が入るんだろう。
「あぁ、もう。何考えてるんですか。セクハラを通り越してますよ……」
「うるさいって、このままでイイんだって」
強引に引き留める腕とは違い、押し出されるような声には、まだまだつらさを感じる。これ以上、体力を消耗させるのもどうかと、抗うのはヤメにした。
「良いわけ無いじゃないですか……もう、帰りますから。そろそろ、始発が動き出すハズですから」
「まだ、そんな時間じゃないから」
「何でわかるんですか? 時計有りましたっけ?」
「体内時計でわかる」
「ああ、そうですか」
「もう少し、このまま……」
張り付いている加倉さんは熱く、もしかすると、やっぱり熱が下がったと思うあたしの方が、間違っているのかも知れない。力なく言葉を発する加倉さんが眠るまで少し、待った方がいいと判断した。暫く付き合うしかないようだ。けれど、それは、あたしに何のメリットもない。
「加倉さん、あたしのお願い聞いてくれます?」
「何、を?」
加倉さんは怠そうに呟くと、顔を上げあたしを見上げた。
やはり、回復の兆しはまだのようだ。
「部長から、任された仕事が一段落したら、有給をまとめて使ってもイイですか?」
押し黙った加倉さんに、いいでしょ? と目で訴え続けた。言葉に出して有休を取らせろと迫るのは、さすがにしつこい様な気がした。
「いいよ。それなら、コレくらいイイよな。麻美がいないなら、本城の面倒も見ないとイケナイしなぁ……」
そう言いながら、元の位置に顔を戻し、ベッドとウエストの間から差し込まれている腕と反対の腕で今まで以上に張り付いてきた。
目がハッキリと覚めてしまったあたしは、早く眠ってくれないかと、暫く無言でそのままでいた。
すると、加倉さんは少し動いて、全身の力が抜け始め、そして、規則正しく寝息も立て始めた。顎に掛かったくすぐったく感じる加倉さんの髪を、後頭部に向かって除けた。加倉さんの髪が、こんなに柔らかいとは思わなかった。整髪料を何も付けていないからか、いつも見ているそれとは質感とは違うのかも知れない。
空調で暖まった空気とは違い、心地よい温かさのベッドの中だと、別にこのままでもイイかと思えてきた。そして、隣で眠る人が愛しく感じる恋人ならばいいのにと思う。けれど、残念ながら、これは加倉さんだ。
もしかすると、完全にセクハラだというのに、特に身の危険を感じる事無く、言う事を聞いてあげてしまっているのは、ある意、味加倉さんの魅力なのかも知れない。
コレに騙されて、散々振り回された女性はどれくらいいるんだろう。あたしが知っているだけでも、カナリの数だ。実際は、もっといるのだと思う。可哀相に……。
けれど、そういう女性達を一体どこから、拾ってくるのだろうか。
そういえば、元カノは、加倉さんがよく行くバーの常連だったらしく、恭平と打ち合わせの帰りにお持ち帰りしたと、恭平に聞いた。と言う事は、どこからでも拾ってくるという事か。けれど、不思議と会社ではそんな事をしいない。いちよう、弁えているのかも知れない。
呼吸はいくらか楽になった様子で静かに眠る、寝顔を見ていると、加倉さんが言った事を思い出した。あたしの彼氏が大変なのではなくて、加倉さんの彼女が大変なのではないかと思う。
いい加減に落ち着いたらいいのに。
当分は仕事に集中しようと思っていたけれど、なんだか、余計な心配をしなくてもいい恋愛関係を持てる人が欲しくなってきた。そうは思ってみても、思い通りに行かないのだろう。春香ちゃんの言う、あたしのラブラブなんて、まったく欠片もない。なんだか、虚しくなってきた。
とりあえずは、ラブラブで過ごす恋人との時間より、加倉さんが確約してくれた長期休暇を楽しみにしている事が、今のあたしの待ち遠しい時間のようだ。