◇ 5 ◇ 01 睡眠不足は、思う以上にあたしの敵だ。
夢見が悪かった。けれど、どんな夢だったか覚えていない。何とも、スッキリしない。挙げ句に、睡眠不足。眠りたかったにも関わらず、眠れなかった。
頭の働かないまま、いつも通りの時間に会社に辿り着いてもボケーッとしたままだった。
それでも、昨日は集中力切れと疲労を溜め込んだ所為にして、早々に引き上げてたのをしっかり覚えている。誰も来ていない静かなうちに、ペースアップしておかないと、と思えば、頭の切り替えがスムーズにできた。
まだ、取引先は業務を始めたばかりという時間から、電話も掛けまくった。そして、3カ所ある倉庫にまで確認に行ったりと、朝から社内をウロウロしていた。
ウロウロの最後に向かったのは、あたしのオフィスと同じ階にある、更衣室の隣、営業企画と共同の倉庫。
今日、在庫として置いているリピート物の出荷を行う予定だった。やっと引き渡せる。けれど、すっかり忘れていた事もあって、準備をしていなかった。
加倉さんに邪魔だと言われていたけれど、仕方がない。本来なら、もう営業のお荷物のはずだった。置き場がないと、仕方なく保管していた。これで、だいぶここは、スッキリするだろう。
納入された物の保管確認、販促物の進行具合を確認し始めて、かなり時間が経ったと思う。キリを付けると、自分のデスクに戻った。
休憩を要求している身体を休ませあげよう。腕時計を確認すると、もうそろそろ、本城君が出勤してくる時間だった。
自分のデスクを見てうんざりする。来て一番、デスクを散らかしてし、そのまま、オフィスを出て行った。いらないメモは捨て、散らかる物を特定の場所に片付けた。
今日は、斉藤さんが来てくれる。来週からでも良かったけれど、佐崎部長がせっかく直ぐに手配してくれたのだから、今日はここになれて貰おうと考えていた。
「先輩、おはようございます。制作部から、コレ貰ってきましたよ。確認してくださいね」
「おはよう。それから、ありがとう」
春香ちゃんは、あたしがうろついている間に来ていたようだった。今、来ましたという様子ではなかった。
今日は、加倉さんに挨拶しただろうか。会話をした記憶がない。加倉さんのデスクに目を向けてみても、不在だった。まだ来ていないのだろう。
最近は、今の時間に会社には着いていたけれど、いつもはもう少し遅い。加倉さんの方の仕事は、落ち着いてきたのだろう。
「どうしたんです!? 無いじゃないですか!」
「え?」
春香ちゃんは、制作部からの書類をあたしのデスクに置くと、次は何を思ったのかゴミ箱まで行き中を覗いた。そして、揺さぶって、ゴミ箱を覗き込んだ。
春香ちゃんが何をしたいのかわからないあたしは、ただそれを見ているだけ。春香ちゃんがおかしいのか、あたしの理解力が足りないのか。
「もう、全部飲んだわけではないようですね。どうしたんです? 誰かにあげたんですか?」
全く春香ちゃんの言いたい事が、わからない。
春香ちゃんに、主語を言えと目で訴えた。
「どうしたんですか!? 先輩、しっかりしてくださいよ。全部飲んだんですか?」
あたしの訴えは、まったく理解されず、目の前で視線を春香ちゃんの手で分散させられてしまった。そして、さもあたしがおかしくなったかの様に、原因を探そうとする。
春香ちゃんは昨日に引き続き、何を拘っているのか執拗に聞いてくる。
「何の事を言ってるの?」
「コーヒーですよ。先輩の必需品です」
そう言えばと、買っていなかった事を思い出した。ついでに、朝一番のタバコも吸っていなかった。習慣になっている事を忘れていた。久々の、ほぼ徹夜状態の所為かも知れない。
「あぁ。買ってくるの忘れた。行ってこようかな。春香ちゃん、暫くココお願いね」
気が付かされた事で両方が無性に欲しくなった。春香ちゃんの介入が激しくなる前に逃げようと、財布だけを持って会社を出た。
外の空気は昨日に負けず、冷たかった。春香ちゃんから逃れたくて、コートもマフラーも持ち出すのを忘れていた。それでも、寒さに怯むことなく、コーヒーショップを目指した。寒さよりも、あたしには、コーヒーが必要なのだ。
コーヒーショップの自動ドアが開くと、寒さに固まった顔が、大好きな香りにゆるりと綻んだ。
幸せを感じながら目に入ったのは、並ぶいつもより多い人達。
この時間は、いつもあたしが買っている時間より込むようだ。
今日は、いつもの電車の時間には間に合ったけれど、少しだけ遅くなった。疲れが取れていない所為もあるのか、いつもより支度に手間取ってしまった。まだ、何もお腹に入れていない。
カウンターのケースに美味しそうなベーグルサンドを見付けると、急にお腹が減ってきた。これはきっと、あたしに食べた方がいいと教えてくれている。
いつもより、時間は掛かったけれど、コーヒーを3つと予定にはなかったベーグルを入手し、コーヒーショップを出た。
眠さは、どこかに行ってくれた。それでも、身体の怠さは残っている。ここ2日ほど、睡眠不足なだけだと言うのに、この有様は何なのか。
エレベータまで辿り着くも、しっかり歩いているつもりでいるのに、進んでいるような、いないような。
頭が起きていても身体が働かずにいるのは、きっと、コーヒーをまだ補給していなかったからかも知れない。
中途半端に始めていた仕事をいったん中止して、ベーグルを食べる為と自分の仕事をする為にミーティングルームに陣取る準備をしよう。その前に、足りない物を補給しなければ。
今日は始まったばかりだと、エレベータの中で一人気合いを入れ、周りから見れば、何だと思うほど、気勢を上げてエレベータを出た。
誰もいないと思っていたのに、階段で下りてきたであろう、恭平と視線がぶつかった。
「何やってんだ?」
「ちょっと、張り切ってみた」
恭平は、お馬鹿な子を見た様に呆れた顔をする。
それに抗議をしたいと思うけれど、見られたからには何も言うことは出来ず、仕方なく馬鹿な子でイイやと、開き直った。
「麻美、ちょっと話せるか?」
恭平は、少し機嫌悪そうにそう言った。
恭平が会社で不機嫌をさらけ出すのは珍しい。あたしならまだしも。
「いいわよ。第2ミーティングルームで作業するから、行こうか?」
タバコは少しお預けにして、オフィスに戻るとバッグに財布を戻し、コーヒーを置く事なく持てるだけ資料を持って、恭平と一緒にミーティングルームに向かった。
その間、春香ちゃんの攻撃を受ける事は無かった。
もしかすると、恭平の少し覗かせている不機嫌を感じ取ったのかも知れない。
コーヒーを紙袋ごと机の上に置き、今必要のない少し持って来た資料を邪魔にならない程度に除けた。
昨日、作業をしていた席に落ち着き、少しは恭平の機嫌が直ればとコーヒーを差し出した。
「はい、どうぞ。何でそんなに不機嫌なのよ。話って何?」
今週は、あたしの大事なコーヒーをあげてばかりだなと、思いながら話してくれるのを待った。
「お前、嘘つきか?」
恭平はコーヒー口を付ける前に、本題に入った。
これが、本題か? とは思っても、恭平は殆どの場合、不機嫌な時には、前置きはさておき、本題から入ってくる。結局は、不機嫌の理由を気にして欲しいのだ。
驚きながらも、飲もうと思っていたコーヒーを落とさなかった。スーツを汚してからというもの、コーヒーの扱いは慎重になっていた。
「恭平に言わない事はあっても、ウソはついてないと思う。何か誤解させるような事言ったんなら、何の事を言ってるのか教えて貰いたいんけど」
気を取り直して、恭平の質問に答えた。
恭平の不機嫌は、あたしのウソが原因なのかと、驚きはした。驚いたところで、それに全く心当たりがない。
恭平は、コーヒーに口を付けると、紙コップを机の上に置いた。
それを大人しく見ていると、恭平はこわばっていた表情をいくらか和らげ、軽い口調で話し始めた。それには、安心したけれど、中身は頂けなかった。
「お前、新しいのが出来たから、和也が邪魔になったのか?」
「はぁ? どういう事よ。当分は一人で居るつもり。仕事に集中しないといけないし。まぁ、いい人がいたなら、考えるけどね。もしかして、和也と話した?」
昨日の事が原因だろうと、予想がついた。
恭平の機嫌の悪さは、遠のいた。けれど、そこまで和也と情報交換をしているのかと、不機嫌の理由よりそちらの方に驚いた。
「あぁ。それより、どうなってんだよ」
恭平は、簡単に肯定した。と言うことは、あたしの発言の殆どは和也に筒抜けなのだろうか。いくら何でも、弁えていると思いたい。
「昨日の事を言ってるんでしょ? 確かに、彼の発言は、和也に誤解させたと思う。けど、それはあたしが帰って欲しいって言いまくってたのに遭遇したからだし、たまたま送ってもらっただけ。挙げ句に、買い物しまくったのを全部、彼の車に忘れたのを持って来てくれたのよ。そう言う関係じゃないから」
「よりを戻すつもりはないって事か?」
「そう、努力してる。昨日、どれだけ苦労した事か。和也はあたしを知りすぎてるのよ。それに、あたしの落とし方もね」
恭平は、あたし達が戻ればいいと思っているのかも知れない。けれど、戻れない理由は言ったはずだった。まだ、恭平には言っていないもう一つの理由もある。
和也は、あたし以外の誰かにプロポーズをした事を、恭平には言っていないのだろうか。それとも、タイミングを見ているのか。
それならば、今、あたしが敢えて言う事ではない。彼らの事は、彼らに任せよう。
「何でまた、努力してまで別れるんだ? 好きなんだろ? 和也だって麻美を手放すつもりは無い様子だしな」
机に肘をつき、コーヒーを飲む恭平は、全く、理解できないと言いたげで、投げ出すようにそう言った。
あたしは、それに少し苛ついた。恭平に干渉される事が煩わしいのではなく、この間話したあたしの気持ちが伝わっていなかったからだ。
「あたしって、プレゼン出来ても自分自身の事については、賛同を得るようには発言できないみたいね」
苛つく気持ちを通り越して、だんだんと虚しくなってきた。あたしの気持ちは、誰にも理解して貰えないような気もしてきた。
「いや、お前の言いたい事は、わかったけどさ。すれ違ってるようにしか思えないからな」
「限界なのよ、本当に。あたし、一人でも大丈夫な部類の人間だって事は、自分でも自覚してる。実際、和也に何ヶ月も放っておかれても、自分の好きな事してるし。それでも少しは、寂しいと思う事もある。けどね、構って欲しい訳じゃなくて、あたしの気持ちとか、都合だとかを考えて欲しいだけ。それを和也は出来ないのよ。無理矢理、割り込んで来て、自分の都合だけで動く人なんだから。ホント、それに付き合ってたんだから、都合のイイ事この上ないわよね。もう、ちょっとやそっとの好きだという理由だけで満足できるほど、お子ちゃまじゃないのよ。少しは我が儘になってもいいと思わない? それとも、それは我が儘すぎる事なの?」
早口で一気に捲し立てた。まるで、恭平を責めているみたいだ。全く、そんなつもりはなくても、恭平にはそう思えたと思う。
恭平は、あたしが捲し立ての最中にコーヒーを手に取り、口に運べないでいた。それを、机に戻し、あっさりと負けを認めた。
「すれ違いの幅は、思ってたより広いって事だな」
納得したのか、諦めたのか、どちらにしてもあたしを無理矢理、引き戻すつもりはないようだ。
恭平が仕事に戻ってから、ずっとミーティングルームに籠もって、仕事を続けていた。
籠もっている最中に、斉藤さんが手伝いに来てくれ、宮内に約束した通りリストを渡すことが出来た。
それを確認すると、忘れずに斉藤さんに届けて貰った。機会を増やしてあげているのだから、斉藤さんには頑張っていただかないと。
自分の仕事を一段落させ、今はこれ以上出来る事が無いと判断し、本城君一人では手が回らないであろう、案内状の校正に手を付けた。
実際、本城君はクライアントに呼び出され、外出している。本来なら、あたしが行っていただろう。もう、細かな詰めしか残っていない。本城君で十分だ。
それに、葉折さんがとんでも無い物を提出しないと約束してはくれたけれど、どんな物が仕上がって来ているのかが気になった。
デザインにチェックを入れ、誤字脱字もチェックする。それも慣れた仕事ではあるけれど、やはり自分で制作に携わりたいという気持ちもある。
「先輩、お昼にしませんか?」
「もう、そんな時間? 本城君帰って来た?」
「まだですよ。それより、加倉主任今日お休みなんです。先輩、お願いできますか? 加倉さんの仕事は、お昼から動き出しますし」
「どうしたの? 加倉さん」
無欠勤を誇る、皆勤賞ものの加倉さんが休むだなんて、休暇以外で無かったというのに。その際は、あたしに手が掛からない様、万全の準備をして行く。
こんなに急に休むのは、不思議で仕方なかった。
「それが、風邪みたいなんです。電話、私が受けたんですけど、声が出て無くて。どこからか、貰ってきたんでしょうね。ちょっと、昨日も辛そうではあったんですよね。先輩に早く知らせようと思ったんですけど、集中乱すと悪いと思ったんで。部長には報告してあります」
あたしには、そんな印象を受ける様な、昨日の加倉さんの記憶が全くなかった。
そういえば、昨日もここに籠もっていた。接触が無かったと言えば、無かったかも知れない。朝は、訳がわからない上機嫌だった。
「ありがとう。取り合えずの仕事は終わらせたから、後は本城君に任せてても大丈夫だし。お昼、一緒に行く?」
「はい。何処行きましょうね?」
春香ちゃんと一緒に、ミーティングルームを出と、デスクにバッグを取りに戻った。
あたしのデスクには、斉藤さんがいて、あたしの頼んだ仕事を進めていてくれた。自分の仕事と勝手が違い、苦労しているだろうと思う。
「斉藤さん、お昼は?」
「行きます。ちょっと、区切りがつかないんで、もう少ししてからと思って」
斉藤さんには、あたしが本城君に引き継いだ仕事の雑務も頼んでいた。慣れていない仕事では、捗らない事に焦っているのかも知れない。
「急ぐ仕事じゃないから適当に切り上げて行ってね。それじゃ、先に行かせて貰うわね」
「はい、どうぞ」
斉藤さんを置いて、オフィスを出た。
春香ちゃんとの折り合いはどうなのだろうと、気になった。けれど、双方に聞くのは止める事にした。変な雰囲気も感じられない。それなりに、大人として仕事に徹しているのかも知れない。わざわざ、介入する事もないだろう。
会社から出ると、寒そうに歩道を歩く人たちの中に春香ちゃんと一緒に紛れた。
呼吸をすれば白い息が、寒さを増幅させた。
二人で色々と迷った結果、会社からそう遠くはないカフェのランチにする事にした。
「先輩、昨日のデートはどうだったんですか?」
注文も済ませ通された席に落ち着くと、ウズウズしている様子で聞いてきた。春香ちゃんは、タイミングを逃していた。今朝から聞きたかったのだろう。
春香ちゃんからすれば、今朝からあたしの様子がおかしく、続いて出てきた恭平は機嫌が悪い。そして、そのままミーティングルームに籠もられてしまっては、聞きたくても聞けない状態にあった。
いつも、春香ちゃんとランチに出かけている訳ではない。
あたしの仕事の立て込み具合などを見て、一人で行ったり、帰りに何か買ってきましょうかと、気を遣ってくれている。今日わざわざ顔だしたのも、加倉さんの事を伝える為だけではなかったのだろう。
「だから、デートじゃないってば」
「デート以外になんて言うんですか?」
「食事をすれば、全部デートになるの?」
「先輩はそんなつもりは無くても、相手の方はそう思ってませんよ。きっと」
「春香ちゃん。何でそんなに、嬉しそうに聞くの?」
「だって、先輩のラブラブな所、見たいんですもん。私の知ってる人なら、尚更です。先輩のそういう所、興味あるんですよね」
春香ちゃんは、満面の笑みで嬉しそうにそう答えた。
あたしはと言えば、春香ちゃんの追求は止む事がないと諦め肩を落とした。
どう話せば春香ちゃんが納得してくれるのだろう。考えてみても何もまともな策は見つからなかった。
「ご期待に添えるような事がありましたら、一番にご報告させて頂きます」
もう降参のあたしは、ふざけながら笑顔でバカ丁寧に言ってみた。そんな事で、春香ちゃんが誤魔化されてくれるとは思えない。それでも、今は、提供できる情報は無いのだから、仕方がない。
「そうれは、どうもです。はぁ、ラブラブはお預けですね。けど、先輩? これから大変でしょうけど、あたしで良かったら相談に乗りますよ。惚気でもイイですよ? 愚痴でもイイですし。」
「何言ってるのよ。今朝から、春香ちゃんの言う事は理解に苦しいんだけど」
ランチがやって来ると春香ちゃんは、はぐらかすように会話を打ち切り、話題を変えた。
その意図はわからない。追求を逃れられるなら、それでもイイと思った。それに、機嫌のイイ春香ちゃんを見ていると、和まずにはいられない。ここは、あたしも流しておこう。
けれど、その顔が昨日の昌弥を思い出させた。今まで彼の話をしていたにも関わらず、今頃。
本当に、昌弥はどういうつもりなのか。
それを考えた所で、あたしにわかるわけがない。