◆ 4 ◆ 04 ごめんなさいは使い慣れない
早く帰りたいと思う気持ちを誤魔化しながら、ミーティングルームの清掃を終えると、もう終業時刻は目の前だった。
自分の席に落ち着くと、今まで目に入らなかった事が目に入った。
本城君は、まだ帰っていないし、春香ちゃんも席を外している。
加倉さんもまた、部下二人を置いてどこかに行っている。
静かなはずだ。
疲れから来るため息をつくと、とんでも無く余計に疲れを感じた。デスクに両腕を置いてその上に頭を伏せた。
眠い。頭を使いすぎた。しかも宮内と思いの外長く一緒にいてしまった為に、グッタリとベト付く疲れが重い。
「先輩、終わったんですか? はいコレ」
頭を上げると、春香ちゃんが微笑みながら、携帯を差し出してきた。
「あたしの携帯?」
「先輩、デスクの上に置きっぱなしでしたよ。しかも、何度か掛かってきてたんですよ」
「ごめん。携帯のこと忘れてた」
携帯をバッグの中にしまおうと、バッグを手に取った。
「先輩、悪いとは思ったんですけど、電話出ちゃいました。結局連絡取れてなかったんですよね。さっきまた掛かってきてたんで。その他の人には出てないですよ」
ディスプレイの端に貼り付けたままにしていたPost-itを指しながら春香ちゃんは、事後報告をした。
「気を遣わせちゃったね。もう帰りたいんだけど。ドタキャンしたらダメかな…?」
「ダメです」
春香ちゃんは、キッパリと言い切り、腕を組んでお説教モードに入った様子。
何度か目にした事のある、春香ちゃんの表情。子供を叱るお母さんだ。今日は、春香ちゃんに押されっぱなし。春香ちゃんに、同意を求めて言った言葉がむなしくなってきた。
「先輩、考えてもみてくださいよ。どうです? 自分がドタキャンされたら」
「別に。構わないけど」
何の迷いもなく答えたあたしに、春香ちゃんは眉を顰めた。
「先輩、普通はそんな事されたら、ガッカリしますし、良くないですよ」
今度は、諭すように優しく言うと、デスクに手を付き、身を乗り出してきた。
「だよね。お腹すいてきたし、ご飯食べてたらすぐ帰ろ」
「先輩…、まぁいいです。とりあえず、連絡入れてきたらどうですか?」
春香ちゃんは、呆れモードに切り替わるとあたしを解放してくれた。
何をそんなに熱く語っているのかと、言いたいのを抑えた。春香ちゃんの意図が全く見えて来ない以上、そう言うわけにもいかない。
春香ちゃんがこんなにもハッキリと言うのは、珍しい。
コレはコレで、春香ちゃんらしいと思う。
それにしても、変な所で拘りを見せる。害はないから、このままでも構わない。
「それより、もう行くよ。約束した時間より早いけど。もう、会社にいたくない気分だし」
携帯をしまうために、取り出したバッグをデスクの上に置くと、立ち上がりコートとマフラーを手にしながら春香ちゃんに報告をした。
「けど、まだお店終わってないんじゃないですか?」
「いいの。顔出し手から、ショッピングでもしてる。髪切ったから、合いそうな私服買いたくなっちゃたしね」
コートに腕を通し、いつものクセで襟足の髪を引き出そうとすると、無くなっている事に改めて気が付いた。
「先輩、まだ短いのに慣れないんですね。それじゃ、お買い物楽しんでください」
春香ちゃんに見られていた事を少し恥ずかしく感じた。尾を引くような恥ずかしさでない。けれど、よりオフィスから早く出たい気分に襲われる材料には足りる。
「お疲れ様、お先にね」
そう、課に残っていた春香ちゃん達に声を掛けると、エレベータへと向かった。
センスの良いお店が増えている。春香ちゃんとこの間、この辺りを冷やかして回った時から思っていた。
仕事からの帰りにショッピングなんて、どれくらいしていなかっただろう。
今週は、毎日のように帰りに出掛けていたけれど、食事とショッピングではテンションが違う。会社を出る前は、帰りたくて仕方がなかった。今は通りに並ぶウィンドウを歩きながら眺めていると、ショッピング特有の浮かれた気分になる。
目的のショップに着くと、ショウウィンドウ越しに中の様子を伺った。
中には、接客しているお兄さんがいた。
名前を聞いたはずだけれど、忘れている。今週は色々とあった。忘れていても許してくれるだろう。
勝手に結論づけると、中に入った。
ショップの中には、4人のお客さんがいた。どうやら、お連れ様のご様子。
ショッピングモードに入っているあたしは、お客さんが捌けるまで、ディスプレイしてあるアクセサリーを見ている事にした。
さほど広くはないこのショップ。
あたしが入ってきた事には、気付いた様子だった。けれど、お客さんのお相手をしていたので、それどころではないらしい。
それは、お店を覗いた時に、既に気付いていた。特に気にする事もなく、目に付いたリングが並ぶエリアをなんとなく眺めていた。この間は、余りよく見て回っていない。
もう、リングの用意は出来ているのだろうか。
明後日、京香さんに会う。
いったいどれだけの準備が出来ているんだろう。電話があった時に、少しでも情報を得ておくべきだったかも知れない。
けれど、仕事が始まる前の少ない時間を使って、連絡をくれた京香さんに、あまり多くの時間はなかった。
あたしが焦った所で、どうにもならない。少しは、落ち着かないと。本人が一番どうしてイイかわからないのかも知れない。
春香ちゃんが言っていた。決められずにいると。優柔不断とは、どうしたものか。
「いらっしゃい。何か見付けた?」
「あぁ、見てただけ」
「え? 麻美?」
ショーケースのペアリングを見据えたまま答えたあたしを覗き込む。
あたしはそれに少し驚いて、彼の方を見ると目があった。
「髪、切ったんだ。気付かなかったよ。雰囲気変わってて」
「今日オファー入れに行ったついでに、売り上げに貢献してきたの。まだ、短いのに慣れてなくて、変な感じはするけど」
そう言ったあたしに、彼は優しく微笑む。なんだか、彼は春香ちゃんに似ている。
ルックスがというより、彼が出す雰囲気が。春香ちゃんにお兄さんがいたらこんな感じなのかも。
「もう、仕事終わった? 春香ちゃんは、麻美が忙しくて大変だって、言ってたけど?」
春香ちゃんと情報交換をしたようだ。
きっと、必要以上にあたしが忙しいと言ったのだろう。
「うん。忙しい。けどね、あたしの手を離れたから、週明けまでは解放されたの」
「よかったね。けど、まだ閉めるわけにはいかないんだよ」
申し訳なさそうに彼はそう言うけれど、あたしはそんなつもりは全くない。
「いいの。久しぶりにショッピングしようと思って。連絡取れてなかったし、その前に寄っただけだから。気にしないで」
「そうか。じゃ、7時には戻ってきてよ」
「うん、わかった。けどさ、遊びに行く子供じゃないんだから」
今日は、子供扱いされる日のようだ。春香ちゃんといい、春香ちゃん似の彼といい。
何故だろう。
あたしは自分で思っているより、大人になりきれていないのか。それとも、童顔か? それはあり得ない。
髪を切ったら、子供扱いされる。と言うことなのだろうか。
「そんなつもり無かったんだけどな。さ、行ってきたら? 何を買うか決めてんの?」
「服買うつもり。後、靴も。それじゃ、行って来る」
お店の出口まで、歩きながら答えるとドアに手をかけた。
「いってらっしゃい」
彼は、笑顔で手を振りながら送り出してくれた。本当に男版春香ちゃんだ。
日が落ちて、時間が経つにつれ寒さは一段と強くなっている。
歩き回ったのにも関わらず、身体は温まることはなかった。
買い物をし過ぎてしまった。
靴が一番お荷物になっている。2足も買ったのが間違い。その内、一つはブーツ。けれど、欲しかったのだから仕方がない。
「もう、7時はとっくに過ぎてるよ」
「ごめんね。ちょっと、思ったより遠くへ行き過ぎた」
彼のお店まで辿り着いた時には、もう既に7時半を回っていた。
反省をしているのだけれど、反省しているようには聞こえていない、あたしの言葉。
謝るのは、苦手。
お店のガレージは、もう既に閉められていて、寒そうにしている彼は、少し不機嫌で。
「本当にごめんね。寒かったでしょ」
「寒い…」
「ごめんね」
言い訳をすればいいのだろうか。何をどうすればいいのかがわからない。
久々のショッピングにテンションで上がりすぎた。
「スゴイ荷物だね。そっちの貸して、持つよ」
「あ、ありがとう」
右手に持っていた、靴の箱が入った紙袋を指され、悪いとは思いながらも有り難く厚意を受ける事にした。
「じゃ、行こうか」
「うん」
機嫌悪くもなるはずだ。こんなに寒いのに待たせてしまったのだから。
きっと、すぐにあたしが来ると思って、お店を閉めたのだろう。
悪いと思う気持ちは膨らむのに、それを表す言葉を見付けられない。
企画書を作成する時やプレゼンの時には、スラスラと出てくる言葉が全く出てこない。
無言のまま、何処に行くのかわからないで着いていく。
「携帯にぐらい出てくれてもイイのに」
「え? 携帯?」
突然の彼から投げられた言葉が理解できない。ハッとして、バックの中の携帯を探した。携帯という物の存在を忘れていた。
「気付かなかった?」
「ごめんね。マナーモードのままにしてる。連絡くらい入れれば良かったのに…。時間過ぎてるのがわかってから、そっちの方に気を取られてたから」
本当にあたしは、何をしているのか。
それくらいの事に気が付いてもいいはずなのに。
探し当てた携帯の画面を見ると、着信の表示が出ている。
「いいよ。寒かったけど、そんな怒ってる訳じゃないから」
「ごめんね。買い物に夢中になりすぎてた」
ため息をつくと、また謝った。
これで、謝っている事になっているだろうか。こんなに、『ごめん』と言う言葉を一人の相手に使った事がないような気はないような気がするけれど、それでも足りているのかさえわからない。
「早く終われたのも、嬉しかったんでしょ。春香ちゃんの話からすると、相当忙しかったみたいだし」
やっぱり、春香ちゃんは必要以上に忙しいと言ったようだ。確かに忙しかったけれど、そこまでは忙しくはなかった。その忙しさは、葉折さんだろう。
春香ちゃんは気を遣ってくれたのだと思う。話を合わせておくのが無難だろう。
「そうかも。自分では、そう思ってなったけどね。浮かれてたのは事実」
「コレを見ればわかるよ」
そういうと、持ってくれた靴の入った大きな紙袋二つをあたしに向け、あたしの持つ服の入った紙袋の束を指した。
「久々だったから…」
苦笑いしながら答えたあたしに、彼は笑顔を見せてくれた。もう、少しは機嫌を直してくれたのだろうか。
「さ、もうすぐ着くから。相当、歩き回ったみたいだし、お腹すいたんじゃない?」
「うん」
暫く、歩いていると見知ったお店が近くにある事に気が付いた。
夜になると、この辺の雰囲気がちょっと違う。昼間しか来た事がないからかも知れない。
「もしかしてココ?」
見知り過ぎているお店の前で彼が立ち止まった。まさか、週に3回もこのお店に来る事になるとは。
戸田山さんの反応がコワイ。今日は、佐崎部長には遊ばれる事はなかったけれど、戸田山さんには、そうはいかない様な気がする。
何故また、このお店にしたのだろう。お店はイイとしても、オーナーが頂けない。
あたしが良い所がイイと言った事に対して、選んだお店がこのお店なのならば、加倉さんの仕事は評価されるべきだな。
「来た事あるの?」
「ランチでなら」
受付で、大量の荷物とコートを預けると、予約していたようで、すぐに席に案内された。
受付の人はあたしをもう既に、お得意様と認識しているのか、通り知った接客業務の他にもご機嫌お伺いと、いらないオーナー情報をくれた。
「よく来るの? ココ」
「そうでもないんだけど。ここのオーナーの娘さんがクライアントだから。それと、上司の友達みたいでね」
苦笑いしながら、そう答えた。笑顔をと言うのは無理だ。これから、ちょっかいを出して来るであろう戸田山さんを思うと、頭が痛い。今日の終わりを静かに迎える事は、出来ないのだろうか。
「そうなんだ。今日は、その服で仕事? この間とは、違ってかなりラフじゃない?」
これじゃ、仕事には行けない。
会社には着ていかないと決めている部類のワンピース。身丈がそんなに長くない。膝が見えているどころではなく、腿の真ん中辺りまでしかない。それに、Vネックなので胸元が仕事用には開きすぎている。後中心ファスナー開きで、前左スリットが入っているレトロ幾何学柄のブラックとココアブラウンのカシュクールワンピース。
そう言えば、彼もこの間とは感じが違う。1ボタンのタイトシルエットなジャケットだ。お店では、タイはなかったのに。ちゃんと締めてる。ドレスコードに引っかかるからかな。けれど、かなりローライズな黒のパンツ。ジャケットの着丈からベルト見えてるし。足が長くないと、すごく短足に見えそうだ。
「これじゃ、仕事には行けないかな。制服だと着替えればいいけど。さっき、見付けて着る機会があるのを待てなかったんだよね。着たまま買って来ちゃった」
買い物の話をされると、また、待たせた事を思い出した。
話題を反らせたいと思っていたところに、ウエイターがやって来てくれたので、丁度良いとメニューを眺めた。
注文を済ませると、なんだか、まだ尾を引いていて一人気まずくなった。
「ショッピング楽しんだ?」
「うん。ごめん」
笑顔で話してくれているのだから、嫌みではないようだけれど、それを含めて嫌みとして言っているのだとしたら、宮内と違うタイプの陰険な人だ。
「もう、いいって。もしかしてさ、デザイン違いも買ったとか?」
「色違いで、逆スリットのも買った」
この間、ショッピングのクセを話した事を覚えているようだ。
彼の視線が、あたしの背後に移ったのに気が付いて、嫌な予感がした。
「麻美嬢、佐崎以外とデートだなんてダメじゃないか。佐崎が拗ねるぞ」
後ろから聞こえてくる言葉に、やはり来たかという思いを消すことは出来なかった。
大人しく、通常業務をしているつもりはないらしい。
「戸田山さん、オファー蹴りますよ。明後日、京香さんと会うの止めましょうか?」
「麻美嬢には、出来ないと思うよ。佐崎の手前ね。それより、紹介してくれないのかい?」
笑顔で、ちょっと脅かすようなことを言ってみても、戸田山さんには全く堪えていないようだ。
どうしたものか。彼の名前を忘れているというのに、どう紹介すればいいのだろう。
忘れていると言ってしまうと、またご機嫌を損ねそうな気もする。
「どうも、本城昌弥です。麻美嬢は浮気性らしいですから、彼氏にはご内密に」
「その方が良さそうですね。佐崎は嫉妬深いですから」
何を勝手に話を進めているんだか。いい加減にして欲しい。付き合ってられない。
あたしをそっちのけで、穏やかに談笑する彼らは、どうも気が合うらしい。と言うことは、佐崎部長とも仲良しになれるかも知れない。
「昌弥、こちら春香ちゃんの叔父さんよ」
「春香ちゃんの?」
少し驚いた顔をする昌弥。
それにしても、助かった。名前を忘れてどうしようかと思っている所に自己紹介してくれた。
「春香ちゃんを紹介済みなのかい? これは、本当に佐崎はヤキモチ焼くな」
あたしに、確認を求める戸田山さんに、笑顔を向けてはいるが、いい加減解放して欲しい。
戸田山さんは、あたし達をチラチラと見比べるような視線を向け、楽しそうにしている。
「戸田山さん、こんな所で遊んでて好いんですか? そろそろ戻られた方が良いと思いますけど」
「冷たいじゃないか。せっかく良い物を持って来たというのに」
あなたが持って来た訳ではないだろうと、突っ込みたいのを堪える。早く、解放して貰えないだろうか。
受付にいた人が、こちらに向かってきていたので、てっきり戸田山さんを呼びに来たのだと思っていたら、ワインを持ってきてくた。
そして、戸田山さんはそのワインをご馳走すると言ってくれたが、あたしはワインは好きではない。
にこやかに栓を抜き、グラスに注ぐとごゆっくりと、言い残して去っていった。
わざわざ来なくてもいいのに。ため息をつくと、なんだか全てがどうでもいいような気がしてきた。
「何度かココに来たことはあるけど、オーナーを見たのは初めてだかな。楽しい人だな」
「あれを楽しいと言うの? あの人と部長の話には着いてけない。まったく。今日は佐崎部長に遊ばれなかったと思ったら、戸田山さんに遊ばれちゃったし」
また、ため息をつくと明日会社に行くのもイヤになってきた。
あまり好きではないワインだったけれど、口を付けてみるとデザートワインだった。
「あれ? ワインは嫌いじゃなかった?」
「何で知ってるの?」
そんな話をした覚えはない。驚いて、グラスから口を離すと、思わず溢しそうになった。
「春香ちゃんが教えてくれたよ。彼女は、かなりの麻美情報通らしいから」
「知らなくても好いことも知ってるかも知れないわね。ついこの間、あたしの事なら結構知ってるって言われたばかりよ。意味はよくわからなかったけど」
ワインクーラーからボトルを持ち上げて、ラベルを確認した。このデザートワインなら、また飲んでみたいと思ったからだ。
シャトー・クーテか。覚えておこう。
「気に入った? そのワイン」
「デザートワインは、好きなのよ。その他はダメだけどね」
「そうか、春香ちゃんの情報には注釈が付きだったって事かな?」
「そのようね」