◆ 4 ◆ 02 疑われるのは、日頃の行いか?
早智子は、麻美に似合うと思っていたのよと、今よりかなり短く切る事を何度か確認し、お任せで出来上がったのは、前下がりのショートボブ。
ココまで、髪の重さを感じているとは思っていなかった。スッキリと短くなった髪は何もない様に軽い。今までとは、見た目の印象も気分も違っていた。
早智子のお店を出ると、先程聞いたこの辺りで一番大きな書店に行く事にした。
書店に着くと、置いてある結婚情報誌を全種買い占め、実用書のコーナーで結婚式、披露宴に関する本を物色してからレジに並ぶ。並んでいる人は少なく、すぐに会計を済ませられた。そして、領収書も忘れずに頂いた。自腹で買うなんて、とんでも無い。
大きな紙袋を持って書店を出ると、とりあえず、会社の近くまで戻ろうと駅へと向かった。
ホームに着くと、電車は来ていてすぐに乗る事が出来た。空いている席に座ると、重たく嵩のある紙袋を膝の上に乗せ、手のひらを見た。重すぎて紙袋のひもが手に食い込んでいたのが良くわかる。白く筋が出来ていた。
佐崎部長は何とも、骨の折れる仕事を用意してくれたものだ。肩も凝って来た。
頭の中で、ウダウダと文句ばかり言っていると降りる駅のアナウンスが聞こえた。降りなければ。
会社の最寄り駅より、一つ手前で降りお気に入りの喫茶店に入った。
一番奥のタバコの吸える席に着くと、ソファーに荷物を置き、すぐにオーダーを取りに来てくれたウェイトレスにコーヒーを頼んだ。
「あぁ、疲れた」
コートを脱ぎ、マフラーを外すと投げ捨てるように、ソファーに置いた。
久しぶりに、肉体的に疲れた。運動不足をしみじみ感じる。バックの中から、タバコを取り出しながら、ジムにでもまた通おうかと何気なく考える。
きっと、また続かないんだろうな。仕事帰りに、ジムに行くのは無理だ。もう、お帰りモードに入って面倒になってしまう。今度は、休みの日に行こうか。
「お待たせいたしました」
「ありがと」
運ばれてきたコーヒーを少し冷ます為に少し除け、買ってきた雑誌を一冊取り出した。
雑誌を数十ページ捲ったところで、タバコに火を付けコーヒーを啜り、また頭に雑誌からの情報を流す。
ウエディングドレスを着たモデルが微笑んでいるページを見て思い出した。
もう一人いるではないか! オファーを受け入れてくれるであろう人物が。
一口、コーヒーを口にするとバックを探り、昨日は忘れずに充電した自分の携帯電話を取り出した。そして、メモリーを検索し通話ボタンを押す。3コール目に電話の相手は出てくれた。
「うるせぇ、寝れねぇ」
「おはよう。ご機嫌斜めね」
「何だよ、さっきベッドに入った所だ! いつもお前は、タイミング悪すぎんだよ! もう少し俺を気遣え!」
昨日は、徹夜したのだろうと察しが付いた。今日は一段と機嫌の悪い、広瀬圭吾。和也と同じく大学の同級生。科は違っていたけれど、友達つながりで仲良くなった友達。和也とも別ルートで知り合ったらしいく、やたらと連んでいた。
「ねぇ、オファー受けて」
「いきなりかよ…」
圭吾は怠そうな声を出す。今、仕事の話などしたくないといった所か。
けれど、労っていられる程、今あたしは優しくなれない。
「ギャラ、出せるだけ出すから」
「まぁ、お前の仕事は、それなりだからな。まぁ、構わねぇけど。で、いつ?」
圭吾には、今ほど売れる前から仕事を回していた。写真の事は良くわからないけれど、こちらの意図を汲んで欲しい絵を用意してくれる。それに、商品撮影より人物の方が魅力的に仕上げてくれる。今回のポートレートは、圭吾に任せるのがあたしには、安心できる。つい先程まで忘れていたけれど。
「未定」
「はぁ?」
「予定は未定。こっちの指定日時で動いて欲しいのよ。詳細は、月曜ね。日時がハッキリしてくると思う」
「で、内容は?」
「ウエディングポートレートと当日撮りまくって欲しいんだけど」
「はぁ? なんで俺がそんな仕事!」
「いいじゃん。やってよ」
大きなため息が聞こえたと思うと、ゴソゴソと布がこすれる音がする。本当に、ベッドで電話を受けたようだ。
「ギャラ、プラス…」
「なに?」
「ヤラせろ」
「はぁ?」
何を言い出すかと思えば、またそれか。
どうせ仕事が忙しすぎて、女を振ったのだろう。構っていられなくなると、すぐに捨てるのだから、質が悪い。けれど、浮気をしないという点では、まだマシか。
「独身最後に、遊んだってイイだろ? 1回ぐらいヤラせろよ。和也には黙っててやるし」
「何言ってんだか。あたしの独身生活はまだ続くし、これから楽しむんだから」
「あぁ?」
間の抜けた声を出す圭吾。
何故、あたしが結婚すると思ったのだろう。一言もあたしのだとは言ってはいない。寝ぼけているのだろうか。それなら、また眠ってオファーを忘れられると困る。しっかり覚えていて頂かないと。
「だったら、誰にプロポーズしたんだよ。アイツ」
「さぁ、あたし以外の誰かでしょ」
固有名詞を出されなくとも、それが和也だとわかる事が切ない。何となく、わかってはいたけれど、事実を突きつけられると辛くなってきた。
まさか、プロポーズまでする彼女がいるとは。それなら、もっと早くあたしを解放してくれても良かったのに。
圭吾も、そんな事をあたしに言わなくてもいいのにと、恨めしく思っても責めるわけにもいかない。今は、この仕事を受けて貰わないと。
「いいのかよ。それで」
「関係ないよ。それより、受けてくれるの?」
「だから、ヤラせろって」
「気が向いたらね。それか、その気にさせるかね。けど、あたし今の所、男に飢えてないから」
「面倒くせぇなぁ。新しい女見つけんのと同じじゃねぇか。仕方ねぇな、とりあえず受けてやるから、その代わりこっちのスケジュールにも気使え」
「OK、何とかする。借り一つね」
受けてくれる気にはなってくれた様で、安心した。
圭吾からは努力の欠片も見受けられないが、最近では売れてきている。スケジュールをこっちに合わせろと言うのは、なかなか難しい。けれど、今日明日どうにかしろと言っている訳ではないのだから、何とかしてくれるだろう。
こちらとしても、出来る事はしなければならない。
「いつ別れたんだ?」
「気になるの?」
「何となくな。話聞いた時は、てっきりお前だと思って、流したからな。惚気られるのもウゼェ」
「日曜に別れて欲しいって言った。あたしも限界越えたし。いつまでも、一緒にいられる人だとは思ってなかったから」
「そっか。意外ではねぇな」
「その話は、また今度。打ち合わせも兼ねて、飲みにでも行こ。合わせるから、連絡して。じゃ、ゆっくりイイ夢見て」
「おう。もう、起こすな」
電話を切ると、携帯を眺めたまま思考が止まる。
灰皿に置いたままのタバコは、燃え尽きていた。あたしの様だ。もう、和也には未練も拘りもなくなった。本当に終わりだと感じる。
全く、あたしはどこまで都合が良かったのだろうか。悲しいと、ムカつくを通り越して、どうでも良くなってきた。
もう、和也に惑わされる事はない。
幸い、仕事にも頭を悩ませないといけない。週の初めに、仕事を優先させると決めたばかり。今の仕事に集中しよう。時間は有る様で、無いのだから。
1時半を少し過ぎた頃、会社にたどり着いた。一駅だからと、歩いたのが間違えだった。荷物さえなければ、どうって事無い距離。
エレベータに乗り込むと、タクシーを使わなかった事にとんでも無く苦しめられた。腕の筋肉が震え、手まで震えている。
「ただいま」
「お帰りなさい、って! 先輩、髪がない」
あたしの変貌を見つけた春香ちゃんは、あたしの声にデスクから顔を上げると、駆け寄ってきた。
髪を切った事を忘れていたあたしは、春香ちゃんの反応を理解するのに少し時間を取られた。
「どうしたんですか? いきなりですね」
重い荷物を自分のデスクの下に置くと、重さから解放され、ホッとした。
「あぁ、コレね。オファー入れたついでに売り上げに貢献した来た」
「あぁ。勿体ない。意外ですけど、短いのもすごく似合います」
あたしは、前下がりになり頬に当たる髪を弄りながら、春香ちゃんの言葉に気を良くした。
「ありがとう。軽くなって、少し寒いけどね。まぁ、気分変わったし良かったのかな。本城君は、出掛けたの?」
コートを脱ぎながら周りを探してみても、本城君はいなかった。
「ええ、またです。お昼に、ご兄弟の様子を見て来るって。遅くなるかもって言ってましたよ」
「逃げたな」
「その様です。午前中は、大人しく仕事してたんですけど、段々と落ち着きが無くなってきて。お昼になると、飛び出して行きましたよ」
もう暫くは、好きにさせよう。時間もある事だし、仕事の進め方ならもう既に把握している。
あたしは、自分の仕事に徹して、少しでも先に進めなければ。
「春香ちゃん。留守中、何もなかった?」
「はい、電話は本城さんが受けてましたし。大丈夫です」
それを聞いて安心する。今、トラブルが起こって貰ってもそれに対処している時間を作るのは大変。新しい仕事が入っても、また面倒。その事も考えておかなければ。
「そう言えば、宮内主任が戻ったら、連絡欲しいって」
「はぁ。忘れてた。上、行ってくるか」
「一体、何するつもりなんですか?」
そう言いながら、不安そうな目であたしを直視する春香ちゃん。あたしが何か目論んでると考えているのだろう。
「仕事なんだから、それ以外に何するの?」
「本当に、仕事ですか?」
「はい、仕事です。それ以外で、近づく訳無いじゃない」
「それなら、いいんですけど」
それでも、まだ疑いの目を向けてくる。相当、あたしが信じられない様子。
「上、行ってくる」
少し休憩したかったけれど、後回し。嫌な事を先に片付けよう。
「あ、春香ちゃん。今日は手空きだって言ってたよね。ちょっと、頼まれてくれる?」
「いいですよ」
「悪いんだけど、荷物が重すぎて、何も買ってこられなかったの。コーヒーと何か軽く食べれるもの買ってきてくれる?」
そう言いながら、バックの中から財布を取り出して、春香ちゃんに渡した。
「お昼まだなんですか?」
「そうなの。ごめんね、これから会社から出られそうにないし。岸君いるから、電話頼んでおくし。あたしも、すぐ降りてくるし。はぁ。肩と腰が痛い。気合い入ってたはずなのに」
「先輩、ちょっと顔色悪いですよ…いつもより白いです。睡眠不足って言うのもあるんじゃないんですか?」
「そうかもね。気分悪いわけじゃないけど」
「そうですか。それならいいんですけどね。それじゃ、行ってきますね。けど、仕事以外の事したらダメですよ」
そう言い残すと、受け取った財布を持って出掛けた。
岸君に声を掛けると、あたしの変化に少し驚きながらも、特に反応する事なく、ココを任せていく事に同意してくれた。
加倉さんは、岸君を置いて野田君と何処に行ったのだろうと、考えながら身体に応える階段を使って8階に向かった。
宮内と疲労の所為で、自分を取り巻く重たい空気を背負いながら、8階の営業1課のオフィスに入ると気が滅入り、より一層身体が重くなってきた。
けれど、宮内の姿は見あたらなかった。その代わり、ミーティングルームから出てきた恭平の姿を捕らえると、恭平もあたしを見付け近づいてきた。
「麻美、また突然だな。いつ切ったんだ?」
「さっき」
「仕事中にか?」
「仕事を含めよ。売り上げ貢献も立派な仕事でしょ。それより、宮内どこ?」
「おい、ココではヤメろよ」
春香ちゃんよろしく、恭平もまた、あたしが何かしでかすと思っているらしい。
「何もしないわよ。今日打ち合わせる約束なんだけど、行き違いになってるみたいだから」
「出たぞ。夕方には戻ると思うけど、どうかな」
恭平は、ホワイトボードを見ながらそう言った。宮内の外出予定欄には、いくつかの会社名と、帰社予定時間が書いてあった。
「そう。だったら、うちの課の第2ミーティングルームにいるって伝えて、荒削りの詳細報告するって」
「わかったけど、マジで仕事なのか?」
「はい、お仕事です」
「ウソつけ」
「お仕事です!」
繰り返し仕事を強調すると、恭平は大きなため息をつき、無言で自分の席に戻た。あたしは、それを追いかけて席に着いた恭平の右側に立ち、思い出した事を聞いてみる事にした。
「ねぇ、斉藤っていう女の子なんだけど、どの課か知らない? 髪がこのくらいで、男ウケしそうな顔してるんだけど、気が強そうで、そんでもって、一見あか抜けて見えるけど、根暗そうな子、なんだけどさ」
恭平は、少し考えると人差し指を立てた。
「あれか?」
「え?」
不思議に思い、恭平が立てた指を見据えていると、ゆっくりと角度が変わった。その先を辿ると、うちの課より遥かにデスクの数が多いこの課の端の方を指していた。
そこには、ノートパソコンに向かい仕事をしている、探していた人物がいた。
斉藤さんも、あたしの存在に気付いたのか目があった。
「そう、あれ」
「何する気だよ、麻美」
「ちょっとね」
恭平に曖昧な返事を残して、斉藤さんのいる方へと向かった。
その間も斉藤さんはあたしから目を離さなかった。何故ココに来たと言いたいようだ。
「ねえ、ちょっと話せる?」
「今ですか?」
「そう。ちょっと待ってて」
斉藤さんを確保すると、彼女の上司にも断りを入れようと、彼女の上司、末原課長の姿を探した。
今日は何でも簡単に見つかる日のようだ。自分のデスクで、電話対応している営業1課長の末原に近づいて行くと、あたしに気付き少し驚いた表情を見せた。
恭平はあたしの行動が気になるのか、あたしを目で追っている。どうせまた何か言われるだろうとは思うけれど、邪魔はしないはず。
恭平に笑顔で手を振ると、無声でバカと口が動いた。それに、少しムッとする。けれど、今は恭平と遊んでいる場合ではない。
末原課長の所まで辿り着くと、思いの外あっさりと斉藤さんを少し借りる了承を得られた。
立ち去る前にお礼を言うと、末原課長は何故か引きつった顔を見せた。
あたしの顔に何か着いているんだろうか。それなら、ココに来る前に、春香ちゃんに指摘されていただろう。
何なのだろうかと、不思議に思いながら、斉藤さんの元へ向かった。
恭平がまだあたしの行動を追っているのに気が付き、目が合うと思い当たった。
末原課長の引きつり顔と、この課があたしを欲しがる理由。
たぶん、たった今、快く自分の部下を快く貸してくれた男が言い出したのだろう。
けれど、それだけの事であたしを欲しがるだろうか。そうは思ってみても、他に理由が見つからない。この会社で、営業として成績を上げた実績が有るわけでもない。
あたしの頭で導き出される答えは、あの日の事が原因なのではないだろうかという不確かな見解だけ。
それが、もし当たっていたら、出世するには上司の弱みを握れ!となる。そうだとしたら、実力は必要なくなる。素直に喜べない。いったい、あたしの移動にはどれだけの人の思惑が絡んでいるんだろうか。
3ヶ月ほど前、末原課長の不倫相手を見てしまった事。
オープニングイベントの打ち上げの帰り、見てしまった。その場で始めてしまうのではないかと、思えるくらいの路上ではあり得ないキスシーン。
最初は、暗かった事もあって気にもしていなかった。またいちゃついてるヤツがいるよ、ぐらいにしか思っていなかった。けれど、彼らに近づくにつれ状況がわかると、こちらが恥ずかしく思える程だった。そして、その人物に見覚えがあると感じて直視してしまった。
それが、末原課長。彼もあたしに気付き、気まずそうにしていた。
あたしは見なかった事にしようと、無視して通り過ぎた。
全く何をやっているのだか。男というヤツは、どうしようもない生き物だ。女にもこういう人はいるけれど、今の所あたしは出会った事がない。
あの場に本城君がいなくて、良かったと思う。帰りの駅があたしは地下鉄、本城君は私鉄だった。帰りが別だったから良かったようなものの。本城君なら、あっという間に話のネタにしていただろう。
末原課長はあたしを近くに置いて、様子を見るつもりなのだと疑ってしまう。バラしはしないかと気を揉んでいるのだと。
先月、あたしはココで宮内にキレていた。相手が誰であろうと、何をするかわからないとでも思ったのだろうか。無闇矢鱈とキレているという訳ではないのに。相手が宮内だったからキレた。今までの積み重ねの爆発だ。けれど、宮内とあれだけ嫌みを言い合い、二人でエキサイトしていたのだから、あたしを危険分子と見なすのもわかる。
あれから、キスシーンの事には一度も触れていない。それが、一番怖いのかも知れない。
それにしても、末原課長は若い子がお好みと見える。あたしは疎か、春香ちゃんより若いかも知れない、あの浮気相手。援交だったのだろうか。まさか、子供とは言わないだろう。それだと、もっと問題だ。それは、あり得ない。確か、去年小学校だったか中学校に入学したという話を聞いた事がある。
けれど、直属の上司では無いにしろ、危ないと思われているのなら、あたしはこの会社の問題児として扱われているのでは?
先月キレたのは反省すべきなのかも知れない。
もしかすると、佐崎部長は何も言わなかったけれど、これを何とかしろと言わんとしているのかも。
春香ちゃんの事に捕らわれ過ぎていた。
佐崎部長は、もう少しわかり易くなってくれないだろうか。あたしには、難解すぎる。
「じゃ、行こうか」
「はい」
営業部のフロアーを出ると、斉藤さんを連れて7階に降りた。
「入って」
「あ、はい」
企画課に2つある内の小さい第2ミーティングルームに斉藤さんを通すと、扉のプレートをOccupie(使用中)の表示に変え中に入った。
「話って、何ですか?」
話を進める前に斉藤さんに、座るように促した。
そして、デスクのを挟んで正面にあたしも腰を下ろした。
「そんなに、警戒しないでよ」
「別に、そう言う訳じゃないです」
そう言いながらも居心地悪そうにし、何を話すつもりなのかと、言いたげにこちらの様子をじっと見ていた。
「この間、あたしが言った事覚えてる? 宮内に近づきたくない?」
「どういう意味ですか?」
斉藤さんは、不思議で仕方がないのか、考える様子もなく即答する。
「そのまま。近くにいたくない?」
「それは…」
「だったら、あたしの仕事手伝って」
「は?」
「これから、正式に要請出すから。末原課長も承諾するはず。期間限定であたしの下について」
「けど、宮内主任とどういう関係が?」
「彼は、あたしの営業担当。彼はこっちの仕事を片手間にやる事になる。あたしはこの仕事に掛かり切りなるけど、間で他の仕事も入ってくるかも知れない。だから、あたし達の間を行き来して欲しいんだけど。あと、サポートもね」
「わかりましたけど、伊藤さんには本城さんが居られるのでは?」
斉藤さんは他の課の事も良く知っているらしい。他の課の事なんて、付き合いのある人しかあたしは知らないというのに、あたしのアシスタントが本城君だと知っているとは。前に、本城君が営業1課にいたからだろうか。
「あぁ、彼には今の仕事全部押しつけたから、そんな暇無いの」
「豪快な事しますね」
「文句あるの?」
「いえ」
あたしのする事に意義でもあるのかと、斉藤さんの言葉に少しムカッと来た。強い口調で言ってしまった事にすぐに気付いたけれど、フォローはしなかった。
「で、やる? やらない?」
「やります」
快くとまでは行かなかったけれど、こちらの了承を得た。
しっかり、引っ付いていただこう。
「ねぇ、ちょっと聞きたいんだけど、宮内って今、彼女いるのかな? あたしが持ってる情報は2、3か月前の時点でいないって事だけど」
「わかりません。気配は無いですね」
そんな事もリサーチしていないのかと、呆れてしまう。好きなのではないのか?
「どうかしました?」
「何でもない。そういえば、何で春香ちゃんを気に入らないの?」
一番気になっていた事をぶつけてみると、そんな事を問われると思ってみなかったのか、目を見開き口を開けたままでいる。
「あの…」
「何?」
何か言い訳をするのかと思えば、口黙る。
ハッキリしない事に、苛立ちを少し覚えた。それでも、そうは思っていないように、先を促すと、やっと口を開きだした。
「飯田さんには、寝取られた子が結構いるんです。それに、宮内主任にも色目使ってるし」
「何それ? どっちかというと、迫られてるのに。それに、色目使うのは誰がやっても許されるでしょ」
そんな事だろうとは、思っていたけれど本当にそうだとは。呆れてしまう。
「けど…」
「本当に、寝取られたの? 自分から積極的にアプローチする子じゃないし。最近、様子がおかしいけど、それとは関係なさそうだし。人のを本気で取ろうと思ったら、あれではダメだと思うよ。春香ちゃんの場合は、彼女いるって時点で冷めるタイプよ」
ムカつきながらも、穏やかにと努める。
春香ちゃんを見ていれば、誰でもわかると思う。けれど、わからないのがココにいる。
斉藤さんは、俯いたままこちらを見る事なく黙り込んだ。
「その寝取られたとか言う子は、現場を見たのかな? キスしてたとか、セックスしてたとか。それなら、あたしだって納得するけど」
「そこまでは。彼の携帯に発信履歴に残ってたって」
斉藤さんは顔を上げるも、あたしを見る事なく目を泳がせた。
それは、寝取られたとは言わない。気に入らなかっただけの話。
「それを浮気の証拠だと言うんだったら、あたしは、恭平の奥さんには疑われまくりね。こっちは、発信だけじゃなくて着信もだし。挙げ句に、メールも。ついでに、二人で飲みにも行くし。あたし、恭平と浮気してるように見えてる?」
「そう言う訳じゃ」
「けど、それだけの事で、春香ちゃんに当たってるんだったら、あたしはどれだけ宮内にキレないといけないのよ…。まぁ、わからないでもないけど」
あたしの方を目を泳がせながらも見ていた斉藤さんは、また俯いた。
そろそろ、許してやろうかという気になってきた。話題を変えた方が良さそうな雰囲気もしてきていた。
「そうそう。話戻すけど、正式にあたしの手伝いをする事になったら、あたしの席使って」
「伊藤さんは、どうするんですか?」
「あたし? ココに籠もる。資料がいっぱいだし、半端無く不機嫌になるだろうから。あの、宮内と仕事するなんて、ストレス以外のなんでもないから。あたしが当たり散らしそうなら、逃げた方がいいよ。その辺は、春香ちゃんの方が詳しいから、今のうちに春香ちゃんとの変な関係やめた方がいいんじゃないかとは思うけどね。続けるのもいいけど、これから気まずいよきっと。逃げ遅れたりして」
「そう、ですか…」
斉藤さんは、この先の事を不安に思っている様子で、少し遠くを見ていた。
とりあえずの話を終えたので、斉藤さんを自分の仕事に戻し、あたしもデスクに置きっぱなしの資料を取りに向かった。
本城君は流石に戻っているだろうと、歩きながらパーテーションを避け本城君のデスクの方を見ると、本城君どころか課の人間が勢揃いしていた。
「え? 伊藤さん??」
「何よ」
一番最初にあたしを見付けた本城君は、席を立ち上がり、あたしを指さしてきた。その声に、一番に反応したのは加倉さんだった。
「お、今朝まであったのが無い。短いのも似合うな。麻美は何でも突発的に事を起すけど、今日は心境の変化でもあったとか?」
加倉さんは驚きながらも、本城君が聞きたいであろう事をぶつけてきた。
そんな事を何故、加倉さんに報告しないといけないのか。
「加倉さんには関係有りません。あたしの勝手です。これも、仕事の内です」
「冷たいなぁ。ご機嫌斜め?」
「もう、いいです」
大きなため息をつくと、加倉さんを避け自分の席に戻った。
今日は疲れていて、もう加倉さんに付き合っていられない。帰って眠りたいくらい。
デスクの足下に置いていた、大量の資料を紙袋ごと、デスクの上に置くと、本城君がジロジロとあたしを見ているのに気が付いた。
「何?」
「いえ。何でも…。あ、ちょっと確認したい事が」
本城君は、あたしが作成した企画書と先月上がってきた営業からの見積書の控えを差し出してきた。
お昼の休憩で気分転換出来たのか、ちゃんと仕事の話のようだ。
本城君の話を一通り聞いて、確かこの企画書に添付の別資料を付けた事を思い出した。それを指摘すると、本城君はデスクに並ぶ葉折さんからの頂き物を追いやり、探し始めた。探し当てると資料を確認し、すぐに納得してクライアントに連絡を取り始めた。
あたしが指示しなくても、ちゃんと仕事をしている。やっぱり、アシスタントにしておくだけというのは、勿体ない。ちょっと、間が抜けている事はあるけれど。
本城君の仕事ぶりを横目に、ミーティングルームを作業場として陣取る為に荷物を整理し終えた。
その前に、休憩を入れに喫煙室に行こう。カナリの疲れを感じている。終業時刻までは、まだ時間がたっぷりある。コレを乗り切るために必要な物をバッグをあさっていると、少し遠くから春香ちゃんの声が聞こえた。
そちらに目を向けてコーヒーを心待ちにしていると、春香ちゃんは、営業企画課の誰かと話を終え、イソイソとあたしの所まで来た。
「先輩、お待たせしました」
「ごめんね。ありがとう」
「いえ、どういたしまして。それより、先輩。何か忘れてませんか?」
春香ちゃんは、ニコニコと機嫌がとても良さそう。つられてこっちまでニコニコしてしまう。けれど、質問の内容には心当たりが無く、そっちに気を取られると、一瞬にニコニコは飛んでいった。
「忘れてはないと、思うけど。たぶん」
「本当ですか? はい、コレ」
春香ちゃんは、あたしに大きなPost-itを差し出してきた。そんな紙切れより、そっちの紙袋に入ったコーヒーの方があたしは嬉しいと思いながら受け取り、書かれている文字を見た。
「何コレ。携帯の番号?」
「やっぱり忘れてるんじゃないですか。さっき、お店の前を通ったら呼び止められたんですよ」
訳がわからないまま、春香ちゃんに目でコレは何だと訴えた。
春香ちゃんは、どうしようもない人だと言いたげにあからさまに大きなため息をつくと、自分のピアスを指した。
「あぁ」
「先輩は、今日デートですね」
あたしが理解したのを確認すると、紙袋を二つ手渡してくれた。
一つの紙袋からは、あたしが心から欲しいと思っている液体の重み。そして、もう一つの方は中身は何かはわからないけれど、ほのかに温かさが伝わる柔らかい物が袋越しでも食欲を思い出させた。
けれど、あたしの夜の予定が、ご機嫌になる要素なのだろうか。
「デートじゃないよ。ポイントカードみたいなもの?」
「何ですか? それ」
「ご褒美?」
「全然、わかりません」
「そう? わかりやすいと思うけど。とりあえず、ありがとね」
あたしからまだ情報を引き出したい様子の春香ちゃん。渡せる情報は、既に無い。
食欲よりもまず、喫煙室に向かおうと立ち上がった。
「ああ、ちょっと待ってください」
「どうしたの?」
「連絡してあげた方がいいですよ。私、最近先輩忙しいから、本当に忘れてるかもって言っちゃいましたし。それに、先輩全く連絡してないんですよね。ドタキャンされると思ってますよ。きっと」
「わかった。そうする」
今度は、何故か心配している春香ちゃんの忠告を素直に受ける事にした。
そして、紙袋からコーヒを取り出すと改めて、喫煙室へ向かった。