◇ 1 ◇ 01 デートのお誘い?
和也と別れた最初の朝。
目覚めると薄暗く、寒さに阻まれて起ききれないでいた。
時間を確認しようと、重たく言うことを聞かない腕を無理矢理起こして目覚まし時計を探る。
やっと手にした目覚まし時計を確認すると、5時を少し回ったところだった。目を擦りながら、もう一度時間を確認すると、目覚まし時計をセットするのを忘れていることに気が付いた。眠いながらも焦りを感じアラームをオンにした。
まだ眠れると安堵するも、焦りのおかげで少し頭が起き始めた。全身の感覚も起き始め、目が腫れぼったく、痒みを感じる。もう一度眠りに落ちようとしても、痒みが襲ってきて、起きることを余儀なくされた。
寝室を包む冷たい空気にベッドから出のをためらっていると、タイマーをつけていたエアコンが動き始めた。少しづつ暖かくなって行く部屋。
目を擦り続けていても一向に治まらない痒みに、仕方なく目薬を求めてふらふらとベッドから這い出した。
目薬のおかげで、少し目がスッキリとした。近くにあった姿見に目を遣ると、光の少ないこの部屋でも目の周りが赤くなっているのが確認できる。予想していたとはいえ、これから始まる今日が憂鬱でしかたがない。
カーテンを開け外の様子を伺うと、寒い上に雨が降ってる。昨日からの雨はまだ降り続いているようだ。
始まりほど今日は悪い日でないかも知れない。
気分を変えて、早く出て外でコーヒーを飲んでから会社に行こうと思い立った。
「今週末は、早智子のとこに行こう」
山本早智子はあたしの数少ない女の友達の一人。美容師で同じ年の28歳。
彼女とは、もう早いもので6年の付き合いになる。その間、たくさん会っている訳でもないけれど、いろんなことを話せる友達。今回も彼女に助けられた。
昨日、早智子から日付が変わりそうな時間に電話があった。
「麻美、大丈夫? ちゃんと別れようって言えた?」
「うん、言った」
「よかったぁ。どうなったかなぁって気になってのよ。明日、月曜でしょ、あたしお休みだし会わない? 久しぶりにね!」
「直帰するから、融通きくしちょうどいいかも。じゃ、6時にいつもの所で」
今、こうやって駅で電車が来るのを待っていられるのも、早智子のおかげかな。沈みきっていた気分をあの電話で変えてくれた。
いつものあたしなら、会社を休んでると思う。うだうだとベッドの中で何もせず、ヘッドホンをつけて好きなアーティストの曲を大音量で聴いてるはず。
髪を切ろう。でも、伸ばそうかな。
放って置いたのだったから、早智子になんとかしてもらわないと。どれくらい手を入れてなかっただろう。
そんな事を考えていたら、電車が来た。いつもと同じ時間。同じ車両。
腫れた目と充血をどうにかしようと、鏡の前で時間を使いすぎてしまった。
久しぶりにスッキリした気分。気分も思考回路も回復を始めている。
今日は打ち合わせが2件入っている。
デスクワークをする気分ではない。オフィスから出られるのは、丁度いい。私生活と関係ないことを話す方が今日の気分には合っている。
あたしのハイペースな仕事の進め方は通ってしまっているけれど、本当はじっくり煮詰める方が相手にとってはいいのかもしれない。
元にあるのは、早く終わらせたいだけという、自己中な考え方。
昔から、やらなければならない事があると、さっさと片付けてしまいたくて、どうしようもなくなる。そして、終わらせることだけに集中してしまう。
あたしには合ってるから、変えてペースを乱すよりいいだろう。仕事の内容にクレームはついてないのだから。
じっくり型には加倉さんがいる。会社としてはバランスを取れているのだから問題はないはず。
去年までは、先輩であり直属の上司でもある加倉響を手伝ってた。加倉さんには、かなりイライラする事もあった。いや、ほぼ毎日加倉さんの考えていることが見えてこない分、余計に苛立っていた。
今になって考えてみると、佐崎部長はきっと加倉さんと相反する人材が欲しかったのだろう。
それをあたしができると思っていたのかどうかは疑問。
「最近は、仕事まともにしてなかったなぁ」
和也のことで決めかねていた答えを出した。さぁ。もう、悩むこともなくなった。しばらくは、仕事を優先しよう。
「あさちゃん、おはよう」
「あ、おはようございます」
地下鉄の出口を出たところで傘をさそうとしてると、加倉さんに声を掛けられた。出社前に加倉さんに会うことは、ほとんど無い。
どうして、こんなに早いのだろうか。気になるけれど、下手に聞いてしまうと、それが仕事の所為なら、巻き込まれるかも知れない。疑問のままが無難だろう。
「あさちゃん、なんか怒ってる?」
「何です? いきなり」
いつものことながら、この人はなんて訳の分からないことを言うんだろう。『何かあった?』だったら、まだ理解ができる。
「なんだか、後ろ姿がいつもとなんか違うから」
「そんなので、怒ってるとかわかるもんですか? 確かにあたしは、イラついてること多いですけど、さすがに朝から怒ってることはないと思いますよ。しかも、今日はスッキリした気分なんです」
あたしは気まぐれ屋で、一人で勝手に怒っていたりする。そうかと思えば、もう興味は他の所に移っていたり。
自分でもビックリするほど、自分の中で話を解決させて、他の話に移っている事もある。話していた相手は、話の切り替わりがわからからないらしく、話が切り替わっている事に暫く気付かない事さえある。
最近では、加倉さんに指摘され続けてきた為にだいぶマシになってきた。
「ハズレか。俺が怒らせた? あさちゃん、怖いからなぁ」
「まだ、怒ってませんよ」
そんな事ばっかり言ってると、イライラして来る。そのうち怒り始めるのは目に見えている。
加倉さんは、あたしをキレさせて楽しんでる節がある。それがわかっていて、この人の思い通りイラついてしうまう事が悔しくてしかたがない。
「そんな事より、この間の彼女とは仲直りできたんですか? あたしのアドバイスちゃん通りできたなら、仲直りできたはずですけど」
加倉さんは、32になるというのに、とぼけたような事をいつも言っている。それでも、穏やかでルックスはイイ。来る物拒まず、というわけでは無いようだけどボーダーラインを越えていると手を出して、いつも女性関係のトラブルを抱える事になる。
「だめだったぁ」
「ちゃんと言った通りにしました?」
「いやぁ。どうかな」
「ダメですか。本気じゃなかったんですね」
本気なら、ちゃんとつなぎ止まられたはず、絶対に。本当に手放したくないんなら、誤解を解くぐらいちゃんとできるはず。安心させてあげる事もできないのなら、遅かれ早かれダメになる。
先週話した時の加倉さんの様子からすると、本気で悩んでる感じだった。そう見えただけで本人の中では、そうでもなかったのかも知れない。どちらにしても、加倉さんの考えている事なんてあたしには、見えない。
結局は、さっきの言い方からすると、別れてしまったと言う事なのだろう。
「あさちゃん、朝からキツイなぁ」
「朝も昼も関係ありませんよ。ついでに夜でも。大体、加倉さんはいい加減過ぎるんです」
この人に吸い付いて行く女がわからない。外見的には、人を傷つけるような事はしないような優しい人にも見える。それに惑わされてるんだろうか。
「これでも、ダメージ受けてるんだけど」
「受けてません。絶対」
「バレてる?」
マジダメージを受けていたら、きっとこんな風ではないだろう。
あたし並みにスッキリした感じがする。
歩きながら話していると、コーヒーショップの看板が目に入った。
「じゃ、あたしコーヒー買って行くんで、失礼します。あ、それと今度から、相談料いただく事にしますからね! 本気のときだけ、アドバイスしてあげますよ。加倉さん、トラブル多過ぎ!」
「そうなの?」
「無駄遣いしたかったら、いつでもどうぞ」
世の中には、いろんな人がいるものだ、本当に。あんな人がもてる世の中なんてどうかしてる。もしかして、あたしの知らない魅力があるのか。あたしの今知る情報より、その魅力はイイものだろうか。
世の中あたし一人の価値観で回ってる訳ではない。現に、そんな加倉さんがイイと思う人もいる訳だから。
いい男はなかなか現れない。それが現実。だから、目の前にいるルックスのいい加倉さんに、惹かれる女もいるんだろう。それに、あたしには見せなくても、『彼女』には見せるイイ所があるのかも知れない。
昨日、和也と別れたばかり。あたしも、イイ男見つけないと!
と、思ったところで、いい男なんて見つからない。それでも、あのままズルズルと行くよりよかったと思う。
コーヒーショップの自動ドアが開いた。今日は混んでない。カウンターに並んでいるお客がいなかったのですぐに注文ができた。
「アイスラテのトールサイズを。それとホットコーヒーのショートにエスプレッソもショートで。持って帰ります」
いつもとちょっと違う三種のコーヒーを頼んだ。いつもは、ラテじゃなくてアイスカプチーノ。
少し待つと用意ができた。
いつも、このくらいだといいのに。
「先輩! おはようございます!」
「あ。おはよう。今日も元気だね、春香ちゃん」
コーヒーショプを出た所で、後輩の飯田春香に見つかった。
後輩と言っても、出身高校が一緒だっただけで、同じ時期に在学してはいない。春香ちゃんは21歳で7つも下なのだから。
去年短大を卒業してからの入社で、まだまだ新人だけど、意外にしっかりしている。
半年くらい前にうちの課に来て、同じ学校だったとわかってから、あたしを先輩と呼ぶ。時期外れの移動ではあったけれど、あたしはそれを素直に喜んだ。やっと、佐崎部長があたしのアシスタント増やしてくれたと、思ったのは空振りで事務だ。
それでも、企画課のあたし達は、事務処理から解放されたので十分助かってる。
それに、女のあたしでも素直にかわいいと思える容姿と性格の持ち主。狙っている男性社員は多い。
あたしとは、大違いだ。キレまくってるから、怖がられてしまってる。春香ちゃんみたいにかわいい所がある訳じゃないし。
「先輩、今日もですか?」
「何が?」
「コレですよ。いつも買ってますよね。しかもたくさん。聞いてみようとは思ってたんですけど、誰かにあげるんですか?」
春香ちゃんは、あたしが抱えている紙袋を指す。
そんなに、不思議な事かだろうか。
「あげる訳ないでしょうに。そんな所、見た事ある? コレ無いとあたし生きて行けないからね」
「先輩、かなりこのショップの売り上げ利貢献してますよ」
「そうかなぁ」
「だって、朝だけじゃないですし。外から帰って来る時はいつも持って帰ってくるじゃないですか。私、このショップのロゴ見ると、いつも先輩の事思い出すんですよね。あ、コーヒーもってますよ。傘閉じてください」
「ありがと」
なんと気の利く子なんだろう。会社のビルに着くほんの少し前で春香ちゃんはあたしのコーヒーを持ってくれた。
「いえ、どういたしまして」
そう言いながら、微笑んだ。
あたしも、こんなに素直でカワイイ子なら、すぐに彼氏できるだろう。イヤ、無理か。根本的な所から違う。外見だけの問題ではないだろう。春香ちゃんに彼氏がいないのが不思議でたまらない。
うちの会社は、このビルの6階から12階のフロアーを使っている。あたし達の使っているオフィスは7階にある。
「そういえば、先輩」
エレベーターを待っていると、少し暗い声になってあたしに問いかけてきた。
「うん?」
「いえ、何でもないです」
こういうのは、最後まで言ってくれないパターン。問いただすと、嫌われそうな気もする。それでも、興味を引かれる。
「気になる。何?」
「その〜、先輩は確か彼氏いるんですよね?」
「それが、そんな暗い声で言う事?」
「暗いって、そんなつもりはないんですけど」
「どうしたの?」
春香ちゃんは、何故か子供が恥ずかしがるようにそっぽを向いてしまった。それも、すぐに回復したようで、勢いよくあたしに向き直ると、詰め寄る瞳を向け、問いただされた。
「それで、どうなんです?」
「昨日、フリーになった所」
と、言ったところで丁度エレベーターが降りて来た。
中に入ると、春香ちゃんはまずい事を聞いたと思っているようで、そわそわし始めてしまった。
「ごめんなさい。変な事聞いちゃって」
「いいよ、別に。知らなくて当然だし。昨日の今日だしね。そんな顔しなくてもいいのに。ところで、なんで聞いたの?」
「ただの好奇心…って、なんか、先輩には見透かされてるような気が…」
口を手で覆って、これ以上何も言わないと自分に言い聞かせているように俯いた。
「というよりも、春香ちゃんがわかりやすいんじゃない」
「そうなんですか?」
「いいから、言ってみな。楽になるよ〜」
春香ちゃんは、さっきよりも強く、口を手で覆って意地でも言わない体制に入ってしまった。
スッキリしないまま、エレベーターが7階に着き、扉が開いた。
エレベーターホールから見えるオフィスの中は、早い時間なので人はまだ少ない。
うちの会社はフレックスタイムが導入されている。その所為もあって、8時台はまだ人が少ない。
あたしは、帰りが遅くなっても、なるべく9時までに出社する事にしている。
「あの、その…。あたし、着替えてきます!」
あたしをスッキリさせてくれるのかと思えば、止める間もなく更衣室の方に廊下を走って行ってしまった。
「お、またやってるな」
あまりの逃げ足の早さにあっけにとあれていると、春香ちゃんが走って行った反対の廊下からの声に、振り向いてみると佐崎部長が立っていた。
「おはようございます。なんだか、あたしが悪い事してるみたいじゃないですか」
「いや、伊藤君はいつもだからな」
「どういう意味ですか?」
「まぁまぁ、そう言う事にしておこう」
そう言う事って何?
佐崎総一郎、企画部を取り仕切るあたしの上司。
佐崎部長は頼れる上司ではあるが、本気なのか冗談なのかわからない所がある。 あたしは、振り回されてばかり。
不思議とこの人の前だと、いくらキレている最中でも中和されてしまう。
「伊藤君、今日の予定はどうなってるのかな」
「午後から2件打ち合わせが入ってますけど、午前中は特に予定は入っていないので書類整理と校正を」
「そうか、昼食を付き合わないか」
「はい。結構ですけど、早めの時間にしていただけると助かります。一時半にはココを出たいので」
「かまわんよ。11時半に私のオフィスに来てくれないかな」
「はい、わかりました。それでは、失礼します」
部長と別れて自分のデスクへ向かう。
今現在、佐崎部長の下に3つの課があり、あたしの所属する企画課の他にWEB企画課、営業企画課がある。7階のフロアーをこの3つの課で占領している。
あたしは加倉さんと同様、ディレクター兼プランナー。加倉さんは主任。いちよう直属の上司になる。
あたし達の課は、6名。加倉さんの下に2人、岸君に野田君。そしてあたしの下に1人、本城君。それから、事務に春香ちゃん。
それにしても、なんであたしのアシスタントは1人なんだろう。加倉さん狡いな。
デスクはチームごとにブロック分けしてある。企画課には2つのチームがある。加倉さんのチームとあたしのチーム。春香ちゃんはあたしと同じブロックにデスクがある。
買ってきたコーヒーと鞄をデスクの上に無造作に置く。これからの予定を考えながら、鞄の中から携帯をとりだした。
席に着くことなく、携帯のメールに目を通していると、静かなオフィスに、春香ちゃんの可愛いらしい声が聞こえた。誰かと話しているのだろう。その声色からすると、変人に捕まっているのではないとは思う。それでも、少し心配になり、オフィスの入口を見据えていた。
すると、加倉さんと春香ちゃんが、一緒にフロアーに入ってきた。
「なんだ、加倉さんか」
二人は、デスクの方に向かってきている。
話していた相手が、加倉さんだとわかると、安心した。放っておいても大丈夫だ。加倉さんの好みは、春香ちゃんタイプではない。
そんな事を思っていても、いつの間にか付き合ってたりする事だってある。
加倉さんは止めておけと言いたいところだけど、春香ちゃんが惚れてしまったのなら仕方がない。春香ちゃんは、どんな人がタイプなんだろう。聞いた事がなかったと思い出し、興味が出てきた。
「あさちゃん、部長とデートだって?」
「加倉さん。ケンカ売ってます? 今なら買いますよ」
「コワイなぁ」
「加倉主任、あんまり刺激すると先輩キレますから止めてください」
少しオドオドしながら春香ちゃんが加倉さんに抗議する。
「大丈夫、春香ちゃんにはキレないから。あたしの天使だから」
デスクに座に着こうとイスを引く春香ちゃんを抱きしめて、髪をなでる。同性だから、おふざけ許されるだろう。異性だと完璧にセクハラかな。
「お前ら、朝からイチャつくなよなぁ。まったく」
加倉さんはウザイと言いたげに、そう言うと自分のデスクについた。
春香ちゃんは、ホントに社内でもすごくモテる。中にはしつこい男やデリカシーのない男が言い寄ってくる事も多かった。あまりにひどくて春香ちゃんが困っていたから、いつだったか口を挟んでしまた。
でも、春香ちゃんの好きな人だったら…。まぁ、そんなのは見ていたらわかる。
そんな事を繰り返していると、社内では春香ちゃんはコワイのが付いているとあっという間に噂になってた。
それにしても失礼なっ! なにがコワイよ。しつこい彼奴らの方がよっぽどコワイ。最近では見るに耐えない言い寄られはなくなっていた。
「加倉さん、うらやましいですか? あたしの春香ちゃん取ったらダメですよ」
春香ちゃんから離れながら、加倉さんに一瞥した。
「何とでも言ってくれ。今日は、あさちゃんにヘコまされっぱなしだなぁ」
「そんな覚えありません」
加倉さんはなんだか、弱気になっている。
まさか、彼女の事で本当にダメージ受けてるんだろうか? それならば、自業自得というものだ。
「先輩、今日は何時に出られるんですか?」
「一時半に出る予定だったんだけど、部長にデートに誘われたから、11時20分頃に出る事にする。けど、荷物と本城君取りに帰ってくるよ」
「お前、イヤミな奴だなぁ。根に持つなよな〜。あさちゃん、コワイよ」
「主任も先輩も。困った人ですね。先輩、急ぎの時はメール入れますね」
春香ちゃんはいつもの事ながら、どうしようもないなぁと言いたげに深くため息をついた。
「うん、わかった。お願いね」
ホットコーヒーを紙袋から出し、春香ちゃんがプレゼントしてくれたカワイイうさぎのイラストがプリントしてある缶のコースターの上に置いた。そして、パソコンを立ち上がると、メールをチェックした。
金曜の夜に送られてきているはずの制作部からのメールを探した。それはちゃんと届いて、早速、添付書類を開いてみる。
「何コレ! この色キチ!」
思わず声に出た。
周りを見回すと、フロアーにいた人はこちらを見ている。自分が思うよりも大きな声だったらしい。
「あさちゃん、ビックリするだろう」
加倉さんは本当にビックリした様で、書類に目を通していたのを中断た。
「あぁ。すいません。つい、声にでちゃって。加倉さん、これ見てくださいよ」
加倉さんにしては珍しく、あたしの嘆きに答えてデスクを離た。いつもなら、あたしにちょっかいを出して終わり。
けれど、今日はあたしのデスクまでちゃんと来てくれた。そして、制作部に依頼した招待状と一緒に添付する三つ折りリーフレットのデザインを見にする。
「……ヒドイな」
「もう、どうしたんでしょう。制作部に新しい人でも入りました? それとも、うちの制作のレベル落ちてます?」
「新しいヤツが入ったて話は聞いてないけどなぁ。コレは、葉折に依頼したか?」
「そうですけど。何故です?」
「まぁ。別に、なんとなく」
加倉さんは、なんだか歯切れの悪い事を言っているけど、そんな事より、コレの方がヤバイ。
あたしは大学で情報デザインを先攻し、そして、在学中にデザイン会社でバイトをしていた。その会社でスカウトをされて、何故か営業職を1年。
今でも何故、営業だったのかは謎なまま。美大を出てるあたしが、何故営業でスカウトを受けたのだろう。
それでも、営業職は自分で思っているより合っていた。それに、スカウトのおかげで、就職活動は苦労せずに済んだ。
せっかく美大を出してくれた両親に申し訳なく、結局、辞めてしまった。
そして、DTPデザイナーに転職。
何回か会社を変わりながらもデザイナーを続け、その半分程はフリーだった。
フリーで仕事をするのにも飽きてきて。2年前この会社に中途採用でまた転職。
デザインの基礎と経験を積んでいた事もあって、あたしの持って行く仕事の指示は伝わりやすいと言ってもらえている。それなのに、どうやったらこんなのが上がってくるんだろう。
「これ、最悪。このセンスのなさは何! 一週間も猶予あったのに、できたのがこれだなんて…。自分でやるしかないのかな」
「麻美、そんなに仕事抱えて大丈夫か?」
「加倉さん、これ見ましたよね。これじゃ、クライアントに見せられません。明日、これ持って行くの嫌ですよ。それに、こんなデタラメなのを受け取って、任せられる分けないじゃないですか!」
あと、あたしの空き時間は、約2時間。
テキストはここから拾えるし、何とかしないと。
「あさちゃんが、クレーム入れると揉めるから、俺が入れておくよ」
「揉めるも何も、コレは我慢できません!」
あたしは、かなりヒートアップしていた。
焦りと共にやってきたイライラがもう止められそうにもない。
「お、そういえば、金曜あさちゃん帰ってから電話あったんだった」
加倉さんは話を逸らそうとしているのか、自分のデスクに何かを取りに行った。
渡されたのは、メモだった。
「今日の2件目の打ち合わせ先じゃないですか。来週に変更ですか。ちょうどいい。この時間なら、帰って制作に乗り込める!」
「おいおい、ヤメてくれよ。俺の仕事までとばっちりが来たらどうするんだよ」
「加倉さん、どっちの味方ですか?! それに、とばっちりもなにもコレじゃもう、遅いんじゃないんですか!?」
思いっきり、リーフが映り出されているモニターの真ん中を人差し指でつついていた。
薄型ディスプレイだったのと力が入りすぎていた事で後ろにひっくり返った。
「キレちゃった…」
春香ちゃんが小さく呟くのが聞こえた。
加倉さんは、春香ちゃんが心配そうに見ているので、大丈夫と合図をしてあたしの肩に手を置いた。
「俺に任せとけ、ココはお前のキレるところじゃないぞ。麻美がキレるなら、効果的にキレないと意味がない」
「どういう意味ですか!!」
「言葉のまま」
「加倉さん、ムカつく!」
「はいはい。とりあえず、あさちゃんはコレに取り掛かって」
「言われなくても」
モニターを元に戻して、指紋がついたところを眼鏡ふきで磨いた。モニターの汚れにはコレが一番良く落ちる。奇麗になったところで、ビジネスソフトよりも使い慣れたドローソフトとフォトレタッチソフトを立ち上げた。
そして、席を立った。
「あたし、制作部行ってきます」
「先輩、待ってください」
様子を伺いながら、仕事に取りかかっていた春香ちゃんが勢いよく立ち上がる。何故か、目が必死だ。
「おい、俺に任せろってば」
「商品画像はここから使いますけど、素材がないから取りに行くんです」
「あたしが行ってきます。それ、アウトドアショップのでしたよね」
春香ちゃんは、あたし達の会話の情報から、どの仕事なのかを察知していた。
あたしは、それに少し驚いた。これだけの情報で、良くわかったな。
「そうだけど」
「行ってきます!」
言い終わらないうちに、行ってしまった。
春香ちゃんの後ろ姿を見ていると、肩に置かれた手の重みに反応して振り返ってると、加倉さんがあからさまに大きなため息をついた。
「あさちゃん、ビビらすなよぉ。ホント、コワイんだからさぁ」
「今の時間、制作に人がいるわけないじゃないですか」
「そうだけど」
「そんな、コワイ、コワイって、あたしは、モンスターとかお化けとかじゃないんですから…もう」
とりあえず、座った。
一気に怒りのゲージが上がる。まったく、加倉さんはあたしを何だと思っているんだか…。ムカつく!
それにしても、うちの会社はどうなっているんだろう。こんなセンスの無い人間を雇うなんて。クオリティーの高さを売りにしてるんじゃなかったの? こんなの、そこらの素人でもできる。信じられない。
オブジェクトの配置はとんでもなくバランスが悪い。その上、やたらと文字に影が付いていて読みにくくてしかたがない。素人が持って来たデータの様に孤立点も多いし。見れば見るほど、腹が立つ。
「加倉さん、喫煙室行ってきます。10分くらいで戻るんで、ここお願いします」
「うん? おぉ。わかった…って、もう行ってるしさぁ。まったく」
加倉さんの返事を聞く前にコースターの上に置いたコーヒーを持って歩き出した。