馬の話を聴く
「それではご本を読んでもらいましょう」と、先生がおっしゃった。
茶色い毛艶のよい馬が、柱の影から部屋の真ん中に入ってきた。手綱をとっているのは、小柄な子どもだった。ターバンのようなものを頭に巻いて、ふっくら膨らんだズボンをはいていて、アラビア人かインド人のように見えたけれど、顔立ちを見ると東洋人だった。
子どもは、馬の背中に載せられた革でできた大きなカバンのような箱の蓋を横開きに開けて、中から布のような紙のような分厚い束を取り出し、両手で抱えるようにしてテーブルの上に置いた。テーブルは理科教室にあるような、飾り気のないただ白いペンキを塗っただけのような広い長方形のものだった。その中ほどにきっちりと平行に揃えて置いた。
私はその傍らに寄って、その束を開いていった。それは巻物というほどではないが、折りたたまれた書物だったのだ。
「それではお願いします」と先生が続けた。
子どもが口を開き、そんな大きな声ではないけれど、よく通る透き通った声で囁き始めた。
「それでは、ただいまより、おん馬が、耳の中に留めし物語を、ふたたびみたびと、繰り返してみせよう」
私は子どもの話した文章が書物のどこに書いてあるのかと思って探したけれど、それはどこにも書いてなかった。謂わば前口上のようなものだった。つまりは、この子どもと書物はセットであるということだろう。そこから先の朗読は、確かに書物の上に記されていた。
束を大きく開き、折り目を伸ばすと、一畳ほどの大きさがひとつのページのようになっていて、上の方に流麗な筆さばきで文章が書かれていた。下の方には図解のような絵が、赤と黒の墨で描かれていた。話の内容は、どうやら古代の王族争いのようだった。なんとかおおきみとか、かんとか太子とかが現れて、政略や祈祷や戦争を行い、滅ぼしあった。
しかしよく聞いていると、子どもの話す文章と、書物に書かれている文章とは微妙に違うのだった。言い回しだけでなく、物事の順番も違うようで、ページも一つところにとどまるのではなく、あちらのページに行ったりこちらのページに移ったりした。それが決してややこしい感じではなく、きちんと声を聞いていれば、書物のどこを見ればいいのかすぐにわかるのだった。図解の説明をするときもあり、まさに痒いところに手が届く感じだった。それだけではない、私が声を聞き、文章や挿絵を見ていくスピードやタイミングに合わせて、話の長短を工夫しているようでもあった。だからそれは、朗読ではなくて、ライヴのようなものだったのだ。
それを行っているのは誰だったのだろう。直接的には、その子どもだった。けれど、子どもは私の方など見ておらず、目のピントの合わせ方は、書物自体を見ているようでもなかった。もしかしたら何も見えていないのかもしれないと感じさせた。子どもは、馬の言葉を聞いているのだった。馬は声も出さず足踏みもしなかったが、首や目を動かして、私や書物をしっかりと観察し、的確な言葉をどうしてか紡ぎ出しているのだった。それを、人がわかる言葉にして声に出すのが、子どもの役割のようだったのだ。そしてそれに気づいているのは私だけのようだった。
「それでは片付けましょう」
物語が終わったので、先生がそう指示を出した。
私は折り目をよく見て、最初どうなっていたかを見極めて、元通りに折りたたもうとした。それなのに、先生はそれをやめさせた。
「次の人のことを考えて、折り畳むようにしましょう。その折り方では順番に本を読むことができませんね。お話の順番に読むことができるように工夫して折っていくことにしましょう」
まるでこれこそが本題だというように話すのだった。
最初の折り方はまず上からと下からと三つに折りたたみ、それから横に両はしから美しくたたんでいくというものだった。それを、端のページから見やすいように絵の部分を下の方に織り込んで、上の文章の部分を巻物のようにジグザグに折りたたむというのだった。私はそれは間違っていると思ったけれど、何も言わなかった。
ぼんやりとして佇んでいると、屈強な若者たちが何人も現れて、先生の指示通りに折りたたんでいった。日曜日に手伝いに来ている大学生たちだった。でもきょうは、平日なのだ。
「平日でも先生のためならやりますよ」
張り切っているのだった。
私は、馬と子どもはどこにいるのだろうと思ったけれど、彼らが霞のようになって視界を遮っていて、分らなかった。