鉢と僕と君
僕の名前はエリザベス。エリーと呼んでほしい。
出身は京都府、歴とした琉金金魚だ。
数か月前、主人に飼われ始めた。
主人は依然にも金魚を飼っていた様で、だいぶ世話が慣れている。
水もこまめに変えてくれるし、ご飯もうまい。
だから主人が呼びかけてきたら、『しょうがないなぁ』と思いながら口をぱくぱくして返事をする。
でも実は、水槽の中よりも好きな場所がある。
主人が水槽を洗ってくれる時、僕は透明な金魚鉢に移される。
あの鉢の中にいる時は、とてもドキドキする。
見慣れた水槽がどんな風に変わっているのか、考えただけでも楽しくなる。
そして新品みたいにピカピカになった水槽に入ったとき、少し水が肌に合わない時もあるけれど、とても嬉しくなる。
洗う度に水の感触が違って、それもまた楽しい。
隅から隅まで泳いで、たまに小さな石にちょっとだけ生えるコケを食べ、夜になると寝る。
これが僕の日課だ。
主人はどうやら朝が苦手らしい。
僕たち金魚は2,3時間寝れれば充分だから、その当たりはよくわからない。
ともあれ、よく母親が起こしに来る。
でもどんなに急いでる時だって、僕の餌やりは忘れない。優しい。
金魚はいま僕1匹だけだ。
だから主人がいない時は自由時間。
たまに京都にいた時共に育った仲間の事を思い出して寂しくなることもあるけれど、今の生活には満足しているからそこまで落ち込むこともない。
僕は小石を吸いこんで、吐き出だした。
そういえば最近、主人はやけに水の手入れをする。
たしかに綺麗なのは嬉しいけど、そこまでするのは主人が綺麗好きってだけではないような気がする。
まぁいいや、綺麗なのはいい事だ。
僕は何度も小石を積み重ねて、なかなか綺麗な円を作った。
鰭で水を巻き、小石を当たりに散らす。
今度は何を作ろうかと顔をあげると、飛行機のポスターに目がいった。
あれは中々難易度が難しそうだ。
気合を入れてもう一度ふわりと鰭を動かし、僕は小石を積む作業に専念した。
お昼時。
飛行機を作り上げる事を達成した僕は、主人の母親が掃除している姿をぼんやりと見ていた。
ひょっとしたらここの家族は皆綺麗好きなのだろうか。
それはいいにしても、掃除機の音と水槽の水が共振して煩い。
自分でいうのも少し億劫だけど、僕たち金魚はとても繊細な生き物だ。
ちょっと水の質がかわるだけで病気になるし、ご飯を食べすぎても寿命が縮む。
そして今の掃除機、煩いというか水が小刻みに震えて、それが体に伝わってくる。
そんな感じに母親を見ていたら、ふと母親と目があった。
数秒見つめた後、母親は僕に近づいてきた。
傍にあったビンの蓋を開けて、ご飯を上から落とした。
本来なら1日1回でも十分なんだけど、折角くれたから食べてあげよう。
ぱくぱくと口を開けて食べると、母親は満足そうに去って、再び掃除機をかけていた。
夕方。
主人が帰ってきた。
水槽を軽くこんこんと叩いて、僕にも"ただいま"と合図する。
体を傾けて返事をすると主人はデスクに腰をかけ、『あれ』と言ってもう一度僕に目を向けた。
穴が開きそうなほど水槽を見ると、何かを思ったのかリビングへ降りて行った。
大きな声から察するに、どうやら餌を勝手に上げた事に怒っているらしい。
金魚の僕が言うのも何だけど、そこまで敏感にならなくても。
1回くらい餌が多くなっただけで風邪を引く程、流石に柔ではない。
話が終わったのか、主人は自室に戻ってきた。
そしてがさごそと鞄の中を漁り、水草を取り出した。
お、新しい遊具だ。
僕は嬉しくて、水槽の中で小躍りした。
主人も鼻歌を歌いながら、水草を洗いに行く。
水草の種類は色々あって、中にはおやつとして用意されているのもある。
でも見たところ、あれは遊具だろう。
鉢の中ほどではないけれど、僕は充分水草も好きだ。
早く戻って来ないかな。
夜。
あれから満足するまで水草で遊んだあと、僕は疲れて端の方で休んでいた。
主人は夕食を終えたらしく、机の上に教科書を広げていた。
数字がたくさん並んでいるけれど、金魚の僕にとって何をやっているかはわからなかった。
こうして思うと人は大変だと思った。
毎日自分を成長させるために必死にならなければいけない。
僕は行動できる範囲に限られているけど、本当に自由だなと思う。
1日起きて小石で遊び、寝ようと思えばいつでも寝れる。
そんな僕でも強いて言うなら、できるだけ主人を癒す事が仕事なのかもしれない。
しかし好き嫌いができるっていうのは、少しだけ羨ましかった。
主人は教科書を閉じて明かりを消し、布団に潜った。
今日はそろそろ寝るという事だろう。
僕も体を沈めて、今日はもう寝ることにした。
あ、駄目だ。
これは駄目な状態だ。
どうにも体の調子が悪い。
僕が起きた時、まだ主人は起きていなかった。
時計の針は午前4時を指していて、僕はのんびりと泳いでいるかなと思った。
でもいざ体を動かそうとした時、僕の体は妙な感覚だった。
頭から鰭に「動かして」と命令してみると、どうにも鈍く動く。
それだけじゃない。
頭がぼんやりとして、動く気力そのものが無くなっていく。
これはいわゆる風邪という物なのだろうか。
また面倒な事になった。
昨日の母親が餌をくれた事を思い出して、自分の弱さに失念した。
動かずにじっとしたまま少し立った頃、主人が珍しく自分で起きたみたいだった。
今日は世間で言うところの土曜日で、主人は学校が休みらしい。
布団からのっそりと立ち上がり、僕に視線を向けた途端少し大股になって近づいてきた。
ごめんなさい、ちょっと今は返事できる程元気がないです。
主人は僕の様子を見て、下へ降りて行った。
すぐに主人は戻ってきて、手にはあの透明な金魚鉢を持っていた。
おそらくまずは綺麗な鉢に移されるのだろう。
金魚の歯がゆいところは、風邪を引くと自分ではどうしようもないところだ。
人ほど自然治癒力が高い動物は珍しい。
今日は1日大人しくするしかなさそうだ。
思っていた通り、僕は透明な金魚鉢に移された。
鉢の中は暖かくて心地よかった。
主人はあれから水槽を洗いに行った。
そもそも風邪の原因がよくわからない。
まさか本当にたった一度の餌だけで、この状態に陥っているのだろうか。
そう思うと僕は再び情けなくなった。
鉢に入るときは専ら庭だったから、鉢から見る主人の部屋の景色が、普段とは違っているように見えた。
主人のベッドに、机。
本棚に衣装箪笥。
いつも水槽が置いてあるところ。
同じ部屋でも、違う角度から眺めるだけでなんだか新鮮な気持ちになった。
なんだか頭を使う余裕が出来て、段々と元気が戻ってきたみたいだ。
試しに鰭を軽く振ってみると、案の定すんなりと動いた。
その後主人が水槽を持って帰って来て、新しい環境が整った。
ひとり言で「大丈夫かな」と呟いている。
僕はもう大丈夫です、いつもありがとう。
風邪を通して、主人が優しい飼い主だと改めて実感した。
次の日。
相変わらず主人よりも早く目が覚めると、昨日の事をすぐに思い出して、僕は鰭を動かしてみた。
軽やかにに動くのを見て、僕は一息ついた。
ふと気が付いて水中を見ると、水草が足されていた。
これはもうおやつではなくて、軽い隠れ家になっている。
日中に遊んでみよう。
最近はもう冷えてきて、主人が水槽にもヒーターを付けてくれた。
それでも水槽の中心と外側では、感じる温度に差があった。
これでも病み上がりだから、暖かくなるまでもう少し休んでおこう。
頭が冴えてきた時、主人も既に起きていた。
そして何かの準備をしているらしく、先程から部屋の出入りが激しい。
水槽の下に敷き詰める小石に、新しい餌、水が入った透明な袋。
じっと見つめていると、途端に主人が水槽をコンコンと軽く叩いてきた。
僕はそれに返事して、主人に体を向けた。
水槽のガラスに反射して自分の姿が映る。
だけど自分の動き方と、ガラスに写る自分の動く姿が異なっていた。
「あれ?」と思いもう一度よく考えてみると、それは僕の姿ではなくもう一匹の金魚だった。
その瞬間、僕の心がドクンと揺れて、何とも言えない気持ちになった。
なるほど、最近よく水の手入れをしていたのは、新しい仲間が入っていた水を少しずつこの水槽に入れて、僕をその水質に慣らすためだったのか。
それなら昨日、体調が悪かった事にも納得が行く。
餌が原因じゃないとわかって、僕は少しほっとした。
それにしても、新しい仲間か。
外にいる仲間に視線を向けると、鰭を振ってきた。
僕もそれに返事をして、鰭を振り返す。
随分と陽気そうな金魚に見えた。
京都で育ったあの頃を思い出す。
一匹や二匹などではなく、数十匹の仲間と共に過ごして育った。
一匹一匹に思い出があるけれど、同時に金魚は飼われる物だと自覚していた。
まぁそれが仕事だから仕方がない。
それでも。
数か月前に僕は主人に飼われて、突然僕は一人になった。
確かに最初の頃はかなり寂しかったけれど、すぐに優しい主人に気付いてすごく居心地が良くなった。
一匹が当たり前になっていた頃、主人が仲間を連れてきてくれた。
本当に僕は、君に感謝しか出てこないよ。
主人はそのままゆっくりと、金魚を水槽の中へと入れた。
「はじめまして。会えてとっても嬉しいよ!」
「わたしもです、先輩。数日前に主人に飼われて来ました。これからお世話になります。」
僕たちは例え金魚でも、感謝する気持ちを忘れない。
後日談なんてない。
これが鉢と、僕と、君の物語。
end.
はじめまして、牧野夜一です。
やっと書き終わりました。
前回の『きまぐれ花火』を書き終えた頃、次はどうしようかなーとお風呂に浸かりながら考えていたところ、今回の作品を思いつきました。
普段は、というか専ら人間関係のお話を描いているつもりですが、今回はいい意味でちょっと変わった作品になったかな、と感じております。
可愛いですね、金魚。
私は生き物自体飼っていませんが、この作品を書いて金魚の可愛さに気付きました笑
ではこの辺で。
またのお越しをお待ちしております。
sincerely, Yaichi makino.