0.夜の森
暑さも寒さもない世界の中で、目の前の風景が時間の経過で移ろいで行く様子は、何処か曖昧な、中途半端な感じがした。自然の営みになりきれていない風景は、不完全さと帳尻合わせを誤魔化して隠しているに違いない。
そんな風に思えるのは、本物の夜の闇と云うものが暗さだけで彩られてはいないからかもしれない。ここに来て暗闇というものの見え方が変わって、それに慣れていくうちに、いつの間にか考え方のほうも変わった。今のタビーにとって夜の暗闇は、ただ薄ぼんやりとした灰色系のグラデーションの一部でしかない。
街から少し離れているせいで、灯りも届かない。小高い丘に差し掛かって立ち止まると、色を失ってモノトーンに写る夜の草原を眺めて、タビーは物思いにふけっていた。――夜の散歩というやつだ。もしかしたら、自分は今夜行性かも知れない。一度試してみてもいい。そう思ってここまで来たのだ。街の外で過ごす夜の光景は、まだ目に新しい。もっとも眼の方も新しい。この目になってから、夜の暗闇は色を隠しても、動くもの達の姿形を塗り込めない。微かな風にそよぐ草木も、その上の露の輝きも捕らえて、タビーに教えてくれる。これは夜の獣達の見る景色だ。
VRMMO『ルニタニアオンライン』の世界に閉じ込められて、二ヶ月がすぎた。夜の闇が在り方を変えて、今のようになってからまだ二ヶ月。そのあいだに知った昼間の様子と、今、草原のそこかしこで跳ねるウサギ達は何も変わらない。彼等のAIには、眠ったりする行動は組み込まれていない。必要もない。ただ、無作為に跳び、向きを変え、止まる。襲われて戦う。それから死ぬ。
死のプロセスは、どんな風に彼等と彼等の周りの世界に組み込まれて、潜んでいるのだろう?
意思の存在を感じさせない獣達の瞳の奥にも、闇の中に溶け込みながら森の外れに侵食されている草原にも、潜む死を感じさせるものは何もない。それでもタビーは、死というものについて考えさせられた。殺されるために設計された、意思のない生き物達。プログラムされて組み込まれているはずの冷徹な死後のプロセスについて。
モノクロの世界の中で、ウサギ達の瞳の輝きは白い星々のようにも見える。もしも目の見え方が以前と変わらなければ、ウサギの身体も草原も闇に沈んで溶け込んで、本当に星か蛍の群れのように見えたかも知れない。森の木々のあいだにシルエットを隠して潜む獣たちも、同じように瞳の輝きで存在を示しながら、森からは出ようとしない。それは森の生き物としてプログラムされているからだ。
獣の鋭敏な感覚が、風の向きが少しだけ変わったことをタビーに教えた。それに血の匂い。風の中に滲む異臭を目で追って、タビーは少し離れた草原の真ん中を歩く姿に気が付いた。嗅覚の告げる印象と不釣り合いなその人物は、何かを両手に抱えてウサギ達のあいだを突っ切って歩いていた。森を目指しているようだ。小柄な人間族らしい少女。魔法かアイテムの能力か、夜の視力に問題はないらしい。歩き方には迷いも足元を探るような様子もない。身体のシルエットをふんわりと隠す、少女らしい細い腰の辺りでベルトか帯に絞られてスカートに繋がる衣装の色はわからない。浮かび上がって見える白い手足と顔と対照的に、彼女の装いはただ腰の辺りの生地の影もわからないほど黒く沈んで見えた。
もしかしたら少女は、夜のあいだだけ現れるアクティブモンスターのことを知らないのかも知れない。あの森の夜は危険だ。タビーは少女の後ろ姿に声を掛けようとして思い止まった。ここからでは遠過ぎる。それに少女の歩みには警戒する様子も迷いもない。何か考え事でもしながら、通いなれた道を行くようにも見える。彼女はもう森に踏み込もうとしている。木々のあいだに紛れ込んで姿を見失えば、もう追いかけることも難しい。彼女に付き合って森の中に入るのは御免だ。
少し迷ってから、タビーは少女の見えなくなった辺りを目指して進み始めた。
草原と、侵食しようと覆い被さる森の影の不自然な生態系の境界線、木々のあいだに見え隠れして輝く獣の達の瞳が間近に見えるところで、タビーは一度立ち止まる。じっと耳を澄ませた。
森からは予想していた悲鳴は聞こえなかった。ただ、多くの何かが動き回っている。一瞬見えた人影は、さっきの少女にしては大きすぎる。別の何かだ。彼女が木々のあいだに消えてどこまで奥に進んだか、すでにわからない。唐突に少し離れた辺りでひとつ、瞳の輝きが消えた。木の影に遮られて見えなくなったのとは違う。森の獣にも、人から離れようとする知性はプログラムされていない。ウサギと同じように、殺されるまでただそこにいるだけの存在だ。二つ目の輝きが消えた。すぐに三つ目、四つ。少し離れて五つ目。タビーの見つめる先で、森に潜む獣達は次々と消えていく。獣の達に代わって、瞳を輝かせない何かが動き回っている。木々のあいだに見え隠れしていた瞬きは消えて、いまはガサガサと枝を擦って動き回る音と、ときどき紛れ込む濡れた重いものを打ち付けるような音が、代わって森を満たした。
この世界に来る前には、闇はあんな風に見えていたのかも知れない。タビーは少女の後ろ姿の、髪と小さな背中の黒さを思い出して思った。