改心
その日の営倫野球部での練習は、二キロのランニングから始まり、柔軟、ダッシュ、キャッチボール、休憩を挟んで滝、五十嵐、弐戸、神野四人の投球組とバント組に分かれてそれぞれ練習、ティーバッティング、保谷先生による下手なノック、クールダウン、グラウンド整備の順で行われた。その後、皆はバッティングセンターに向かうようであったが、今日も俺はパスし、富と共に帰路についた。
「みんなバッティングセンター通いで金とかは大丈夫なのかな?」
「定期券があるからね」
「定期券? バッティングセンターの?」
「あそこのオーナーの、気に入った選手には定期券渡してるの。神野君がボールの譲り受けのお願いに行ったとき、一番寄付してくれたのがそこだったの。それで皆でお礼を言いに行ったとき、全員分くれた。選手じゃない私にも」
「神野……あのずんぐりむっくりか」
口数少なく、気も弱そうな奴だが、先生の言ったとおり野球部に大きく貢献しているようだ。
「それにしても、今度は逆にそのオーナーのほうが心配になった」
「バッティングセンターは道楽でやってるらしいの」
「……物好きな奴もいるもんだな」
「物好きなんじゃなくて、野球と、野球をする人が好きなんだと思う。口は悪いけどね。ツンデレって言葉はあのあのおじいさんのためにあるんだと思う」
ツンデレという言葉は初耳だが、意味を尋ねたらまた語りだしそうなのでスルーしておいた。
「あ、これ渡しとくね」
富は『鈷井野バッティングセンター』とでかでかと書かれたカードを手渡してきた。期限は俺らが卒業するだろう頃になっていた。
「ま、これさえあれば甲子園もすぐ近くだな」
軽い気持ちで発した言葉だったが、そのせいで富の顔が険しくなった
「……ねえ、今日の練習どう思う?」
「疲れた。皆タフだよな」
「それだけ?」
「……ああ」
富は詰問調になっていた。俺は気後れしながらも、本当にそれだけしか感想がなかったので首を縦に振ってしまった。
「……こんな練習じゃ上を目指せない。甲子園なんて夢のまた夢」
そして、営倫野球部に批評をぶつけた。
「九人だけじゃ、『実戦形式の』と付くあらゆる練習が出来ないし、フリーバッティングも出来ない。後者はバッティングセンターでなんとか補えるけど、機械と人は違う。
それに、宮前君は初心者の力也に着きっきりだし、元々捕手じゃない神野君もブルペンキャッチャーに回らなきゃならないし、非効率的。力也を除いた個々の能力は決して悪くないと思うんだけど、それだけじゃダメ。……仮入部員をふるいにかけた小田原さんの熱血さも善し悪しだよね」
「はあ……」
「とりあえず、次のミーティングまでに対策を考えておくように皆に伝えておく。力也も案を練っておいてね」
「……新入部員勧誘とかはしないのか?」
俺は今思いついたことをそのまま口に出してみた。
「もう仮入部期間は過ぎていて、営倫は全員何かしらのクラブに入らないといけない決まりなんだ。帰宅部も掛け持ちも認められないから、部員はもう増やせない」
俺みたいにむりやり引っ張ってくればいいんじゃないか、と言いかけたが、辞めた。先生が俺をとんでもない方法でスカウトしたのは、超能協会役員としての行為の側面が強いような気がしたからだ。一般生徒を強引に入部させることは、教師としてはあるまじきことだろう。
富も母から超能を禁止されているらしいから、学校で脅迫染みた勧誘などしないであろう。俺と『同族喰らい』の一件は特例なんだ。光と富は超能者であるが、超能者でない者に対して超能を振るうことは、彼女らの倫理観から、ないであろう。
実際、保谷先生は生徒からも部員からも親しまれているようであるし、富も良きマネージャーとして、部員から信頼されているようだ。野球部員全員が、当たり前のことのように練習中は貴重品を彼女に預けることがその証左であろう。
「無い知恵絞って、良く考えておくよ」
そうは言ってみたものの、野球知識に乏しい俺に妙案なんて浮かばないだろうな。と俺は心の中で呟いた。
風呂と夕食を済ませ、漫画も読み終え(球が消えるとか増えるとか、この作品の主人公、競技内でも超能を発現できる人間じゃないか? 面白かったけど)、教本も流し読みを済ませてぼーっとしてた俺の耳に、携帯の着信音が届いた。今日、連絡先交換をした神野からであった。
『マネージャーの保谷先輩から回ってきた件ですが、合同練習という考えが浮かんだので、早速行動に移したところ、草野球チームの双江田ナインインパクツの方が快く承諾してくれました。明日から参加してよいとのことなので、特に用事のない方は午前八時に、河川敷球場まで来てください。申し込んだ以上、出来るだけ多くの人に来ていただきたいので。最後に、深夜の急な連絡と、独断による行動を謝罪いたします』
俺は神野の仕事の早さに舌を巻いた。用具の譲り受けに奔走したことと言い、何故、そこまで野球部に尽くせるのだろうか?
あのずんぐりむっくりに関して考えを馳せていると、ノックとともに富が入ってきた。その顔は嬉しそうであった。
「神野君から連絡、届いた?」
「ああ、あいつ、あまり話してないけど、良い奴だと思うよ」
「うん。少し弱気なところがあるけど、彼はもっと自信を持って良いと思う」
「どうして、そんな弱気な奴が、思いついたことをすぐ実行できるんだろうな」
何気ない一言だが、そのせいで、富は痛むような表情になってしまった。
「神野君、両親を亡くして、親戚に育てられたんだって。その人が酷い人で、虐待を受けた末に保護されて施設で暮らしてたらしいよ」
「……え」
神野は俺と似たような境遇で育ったようだったが、全く違った方向性に育ったようだった。尤も、変な力を持ってる不気味な子と言われて放逐された俺は特例に入る存在だろうが
「中学から施設の手伝いをしながら野球をやってたんだけど、三食を毎日与えられるようになってから太って、そのせいで虐めを受けていたみたい。それでも高校に進みたいから、頑張って勉強して、奨学金制度の充実した営倫に入学したんだって。高校に行くのを許可してもらって、施設の人には物凄く感謝してるみたい」
「神野の境遇はわかったが……それと、どう関係があるんだ」
「だから、彼は、人のために出来ることを、出来るときにやらないと、劣等感に押しつぶされそうになるみたい」
「……そうか」
それを聞いて、俺は自分の下衆さを再確認した。超能に驕っていたことを、心から恥じた。
「でもね。きっと彼の心は強くなれる。……いや、現在進行形で強くなってると思う。入学してから二週間しかたってないけど、彼、笑顔が増えたってわかるもん」
「……なあ姉ちゃん」
「何? 力也?」
「俺も、神野みたいに強くなれるかな?」
「強くなりたい?」
「……ああ」
「あなたは、今までそう思ったことがある?」
そう言われた俺は、今までの自分を振り返った。
超能に目覚めたのは、恐らく、強くなりたいからではなく、叔母に復讐をしたいと願ったからであった。
そして、超能に目覚めてからは、自分を超えるものはないと思っていた。
保谷先生や『同族喰らい』と相対したときは、自分の無知や無力を呪っただけで、強くなりたいとは思わなかった。
俺の記憶の中、最初に強くなりたいと思ったのは、富に肩を支えられ、バットを杖にしながら歩いた、部活からの帰路であった。そのときはこのように願ったのだ。
野球部として恥ずかしくない程度にはなりたい。と。
「……昨日、思った。願いとしては弱いけど」
「そう……ならきっと、ほんの少しだけ、強くなれたんだと思う。それは、大きな一歩」
「もっと強くなるには、どうすれば良いと思う?」
俺が尋ねると、富はくすっと笑って、こう答えた。
「野球選手には、物思いに浸っている時間なんかないわ」
そして、俺に一冊の本を差し出した。それは宮前が俺にくれたのと同じ本だった。キラキラしたお耽美な男たちが繰り広げる、笑いあり、涙あり、おまけに男同士のからみもありで野球の作戦も覚えられる『明方球児の戦略野球』だ。
「これで、野球の勉強して、もっと強くなりなさい」
「……姉ちゃん、もうその本、宮前からもらってあるんだけど」
「あら、せっかく良いシーンなのに。宮前君も余計なことを……」
「……その本が出た時点で台無しだよ」
それにしても、宮前はどういうつもりでこんなホモ本を俺に渡したんだろう。言っていたとおり、サイン伝授の下準備として必要だったからか。それとも、自分で持っているのは恥ずかしいけどマネージャー手作りの本を捨てるのも忍びないから俺に押し付けたのだろうか。
……そのどちらかであって欲しい。そうだよな、宮前。
「それ、もう読んだ?」
「ぱらぱらっと」
「じゃあ問題。エバースってどんなプレイ?」
「バントの構えだけして見送る」
「セーフティー・スクイズ」
「三塁ランナーが、球が転がったのを確認してから飛び出すスクイズプレイ」
「バスター」
「バントの構えからのヒッティング」
「要点は抑えてるじゃない」
超能で色々やってた俺が言うのもなんだが、『明方球児の戦略野球』は十八歳未満にお勧めできない本だった。だが、野球部分は説明の必要から選手間でテレパシーしてることを除いて現実的なものであり、その前に読んでいた野球漫画と違うベクトルで楽しめた。
この調子なら、月曜日にある作戦のテストも一発で合格し、営倫野球部のサインを学ぶ権利を与えられるだろう。『明方球児の戦略野球』は素晴らしい教本であった。……ベットシーンさえなければ。
「こんなに早く覚えられるなんて、力也も野球が好きになっちゃったのかな」
「……今日、宮前にも言われたよ。楽しそうだって」
「じゃあ、きっとその通りなんだよ。野球が好きな宮前君が言うんだから」
「……言っとくけど、俺が野球に惚れたんじゃない。皆の野球馬鹿が伝染しただけだ」
何でも意のままになると思っていた俺からその意識を奪った先生と富が勧めた野球。
そしてその野球は驕りを保障していた超能を奪っていった。
その野球を通じて出会ったチームメイトや顧問やマネージャーは、野球を嫌だと思う気持ちさえ奪っていきやがったんだろう。
……だが、俺は彼らを恨んじゃいない。
二日という短い期間で、よられてたかられて多くのものを奪われたのに好きになるなんて、俺はなんなんだろうな。環境が急激に変わったせいで、自分でも自分がわからなくなってきた。
「じゃあ、これ。夏コミに出展する予定の新刊」
そう言って富は、『明方球児の戦略野球・守備編』と題が打たれた本を手渡してきたのだった。
なんだかんだあったが。この日から、力也は、積極的に野球の練習に参加し、自主練習もこなすようになった。野球との出会いこそ奇妙であったが、彼は今や、単なる一人の球児であった。