走りこみ
はしりこみ
男子はこの部屋で着替え、女子は更衣室で着替えた後合流する形になった。
俺以外の男は良い体格をしていた。五十嵐や弐戸はもちろん、痩せ気味に見えた宮前にもシャープな筋肉が着いていたし、神野も贅肉の下に筋肉を備え付けた、相撲取りじみた肉体を持っていた。野球未経験者らしい葉樹も、隆々とした筋肉を持っていた。恐らく別のスポーツから野球に転向したのだろう。俺は憂鬱だった。
「どうしたの? 走るの嫌い?」
それを見て取ったらしい宮前が話しかけてきた。
「……ああ」
「やっぱり、野球部に入る人は豪快な打撃とか、注目を一身に集める投手とかに憧れてて、基本的な練習が好きじゃないって人が多いんだよね。でも、足腰は全てのプレーの基本だから」
「まあ、なんとなくわかってはいるんだが……十キロなんてはじめてだからな」
「自分のペースで走れば良いと思うよ。足腰もバッティングと同じで、一朝一夕で強くなるものじゃない。無理をしても身体を壊すだけだからね」
「……え、野球部って列になって走るものなんじゃないのか?」
「長距離の走りこみでは合わせないよ」
「そういうものなのか」
壁掛けの時計に目をやると、そろそろ集合すべき時間になろうとしていた。俺たち男子六人は、連れ立って校門前に行く。女子選手達と、一人制服姿のマネージャーの富はすでにそこにいた。
各人が貴重品をマネージャーに預け、軽く体操をした後キャプテン弐戸に促がされ、九人で円陣を組んだ。
「外周ランニング! いくぞ!」
弐戸の掛け声に、八人がおう! と答えた。この儀式を知らなかった俺の返事は、少し遅れたものだったが。
そして、各々駆け出していく。俺も出来る限り遅れをとらないよう走ったが、一周もしないうちに脇腹が痛くなり、他の部員の後姿が見えなくなるほどに差を作ってしまった。
「頑張ってー、あと九周」
それでもなんとか一周した俺に向けられたのは、そんなマネージャーからの声援であった。
走り続ける俺。さっきから姿が見えなくなっていた部員たちが、掛け声を上げながら後ろから俺を追い抜いていく。二周目ですでに周回遅れだ。
俺が五周目に入る時点で、「三十四分」と告げられた。……つまり一周一キロを四周平均八分半かけて走っていたことになる。そして、その時点で五十嵐と宮前は既に十キロを走破していたようだった。彼らの正確なタイムはわからなかったが、俺の二・五倍程度速いということだ。
次に校門前に来たときには、弐戸と葉樹、そして女子の滝もゴールインしていたようであると確認できた。そしてもう一周した時には、上川以外は柔軟や筋トレを始めていた。校門付近で練習を行う彼らに、声援を送って通り過ぎる女子生徒もいた。彼女たちに、葉樹がまるで自分がスター選手だとでも思っているような返事をした。
俺が九周目に入ったときは、上川も息を整えながら屈伸運動をしていた。……そのときにはもう、足とか脇腹の痛みを気持良いモノだと感じていた。これがランナーズ・ハイって奴なのだろうか。
そんな状態のまま残り二周を走った。
「ゴール! お疲れ様!」
だが、これを聞いた瞬間、下半身や腹部の痛みが突然、苦しいものへと変わり、俺はその場にくずおれた。
「ランニングの後に急に動きを止めるな。心臓まで止まる」
そんな俺を引っ張り起こしたのは滝だった。
「息を整えながら軽く体操」
滝は俺に手本を示すように体を動かした。俺はそのとおりにしようとしたが肺や脚に痛みを感じ、スムーズにできない。だが、しばらく続けていくうちに大分楽になってきた。
「そして、水分。一気に飲まずに少しずつ」
俺は滝の差し出してきたスポーツドリンクの入ったペットボトルを受け取り、少しずつ体内に流し込んだ。液体に含まれた栄養素が肉体の隅々まで浸透し、自分を再構築していくような感覚があった。
「落ち着いたか?」
「ああ、なんとかな」
「まったく、たった十キロで大袈裟なやっちゃで。うちらは入部してから毎日こんだけはしっとるちゅうに」
「……ま、毎日」
「うちらはまだ甘いほうやで」
「……これで甘いのか」
「まあ、明日からグラウンド借りられるから、ランニングに割く時間は減るよ」
「ああ、ありがたい……」
ムチの小田原、アメの宮前。
「なんやその嬉しそうな顔、宇藤お前ミヤさんに惚れとるんか」
小田原がそう言った瞬間、何故か富の目が炯々と輝きだしたような気がした。
「ま、十キロ走り込むって言った瞬間、『辞める』て言い返してきた奴もおるし、それに比べりゃ、宇藤は少なくとも根性の『こ』の字くらいはもっとるな。一応褒めたるわ」
「そうか……っつ!」
俺は両ふくらはぎの筋が突っ張るような痛みを感じた。そのせいでふらふらとしてしまい、ちょうど正面に立っていた滝に抱きつくような形になってしまった。
「どうした? お前が惚れていたのは宮前ではなくこの私か?」
男に抱きつかれたというのに全く動揺を感じてない様子の滝。俺もこの程度では特に何も感じない。
「両脚、同時に攣った」
「前言撤回、根性の『こ』の字の一画目の横棒くらいや」
「こむら返りと根性に相関はないと思うが」
「……タマちゃんのクールな突っ込み、ウチは嫌いやないで」
滝は俺を座らせ、運動靴とソックスを脱がせ、パンツの裾を上げた。
「宮前、反対側の脚を頼む」
「ああ。わかった」
「両手に花やな。ミヤさんは男やから雄花と雌花か。宇藤」
「いや、両脚だ。それに私は花なんて柄じゃない」
小田原の軽口をかわしながら、滝と宮前は俺の膝の周辺を押していった。そのお陰か、大分痛みが和らいできた。
「もう大丈夫か?」
「ああ、すまない」
「チームメイトとして、当然のことをしたまでだ」
俺はソックスと靴を履き直し、立ち上がると、弐戸から集合の掛け声が掛かった。俺たちは弐戸を中心とする半円を作る。
「さて、今日は全体としてはこれで解散だな。明日は午後一時から南側グラウンド練習で開始。三十分前までには集合して準備するように。日曜日はグラウンド取れなかったから自主練習日とする」
弐戸が週末の予定を告げた。
「それと、葉樹」
「なんすか、キャプテン」
「入れ替わりになる部の女子をナンパするなよ」
「わかってますって。でも、あっちからしてきた場合は問題ないっすよね」
「なんや。イワオ、逆ナンされたいんやったらウチがしたるで。『ねえ、イワオ君。私と恋のケージで熱くなろう』」
「了解。今日もお願いしますよ。小田原コーチ」
「……逆ナンの返事になっとらんやないか。嬉しくないんかい」
「いつものことですし。それに皆も来るんでしょう?」
「ああ、あそこはブルペンも貸してくれるからな」
滝の発言で、小田原の言う『恋のケージ』が指す場所が『鈷井野バッティングセンター』であることが理解できた。俺も行ったことはあるが併設のゲームセンターしか利用したことがない。
「宇藤も来るか? 左用トスマシンもあるで」
俺は首を横に振った。そんな気力はもうなかった。
「やっぱ『こ』の横棒やな」
結局、俺以外は連れ立って打ちに行くことになったようだった。
「じゃあ、宇藤君、お疲れ様、だね」
上川が俺にそう言ってきた。見た目どおり幼い感じの声質であった。小田原以外の女子は、どうやら気遣いができる人間のようだ。俺もそれに返した。
全員で「ありがとうございました」と誰にともなく叫んだ後、俺たちはマネージャーに預けておいた貴重品を受け取り、男子六人は教室に置いてきたままの荷物を取りに戻った。皆着替えずにユニフォームのままで学校を辞す様であった。しばらくして、その教室にマネージャーがやってきた。
「力也、一緒に帰ろう」
彼女はマネージャーから俺の姉になっていたようだった。その言葉に従う俺。
「お弁当、どうだった?」
「……まあ、美味しかったよ。でもあのタコウインナーとかはちょっと……」
共に本心であったが、口に出してしまってから、もしかしたら彼女の気に障ることを言ってしまったかもしれないと思った。
「あ、ごめんね。男の子のお弁当ってどういうのがいいかわからなかったから」
しかし、予想に反して返ってきたのは謝罪の言葉だった。
「力也、好きな食べ物、ある?」
その問いは、ありきたりなものだろうが、俺には初めて向けられたものだった。そして、それに対する答えは、俺は用意してなかった。今まで、食べたい時に食べたい物を食べたいだけ食べてきた。
「……特に無いなあ」
「それじゃあどうすればいい?」
「恥ずかしくなければいいや」
「わかった」
富は、俺が彼女にとっての『弟』で『野球選手』でいる限り、否定されるような言動を受けても危害を加えるようなことはないのかもしれない。少し安心した。
それにしても、昨日まで天外孤独の身で、思うが侭に超能を振るっていた俺が、今やそんな身分か。
そう考えた途端、再び脚が攣った。
――俺の脚に走る痛みよ、消えろ。
俺は無駄だろうなと思いつつも自らの脚を見てそう念じてみた。だが、痛みは退かなかった。完全に超能はなくなってしまったようだ。一日だけしか競技に関わっていないのに使えなくなった俺の超能。もしかしたら、よほどしょぼいものだったのかもしれない。
富に肩を借り、ケースに入れたバットを杖のように突いて歩く。実に情けない。超能が使えないなら球児として恥ずかしくないぐらいになりたいと思った。
家についた俺は、富に促がされてまず風呂に入った。「汗かいたままそのままにしておくと、身体に良くないから」とのことだった。湯張りはタイマーでセットしてあるし、入浴後の準備もしてくれるという。
まだ痛む足を揉みながら身体を洗っていると、着替えのことを思い出した。昨日当面必要なものは鞄に詰めた。それは俺に割り当てられた部屋に置いた。富は、遠慮なく入って鞄を漁るかもしれない。
でもまあ、着替えを持ってこられないと困るし、それには事後注意を加えておけば良いか。
シャワーで泡を流し、湯船に入ろうとした。少し熱く感じた。備え付けのパネルを見ると、『43℃』と表示されていた。俺はぬるめの風呂が好きだった。大体38℃ぐらい。表示されている数字を下げようとしたが、操作方法がわからなかった。
――湯、38℃になれ。
熱いままだった。
――お湯さん。38℃になってください。
敬語で念じてもダメだった。
――パネルさん。設定温度を『38℃』にしてください。
相手を変えてもダメだった。さてどうしたものかと思案を始めてしばらくして、蛇口の存在に気付いた。
しばらく浸かってから上がると、脱衣場には褌と浴衣がおいてあった。これは俺のものではない。富が俺のために用意した寝間着なのだろうが、彼女のセンスは俺の想定から大分はずれたのものであった。
「うん、やっぱり似合うよ」
夕食の準備をしていた富が俺を認めてそう告げた。
富の手料理に舌鼓を打った後、俺は物があまりない自室でごろごろしていた。元々あまり部屋に物を置いていなかったが、超能で何でもできるので退屈したことなかった。だが、それがなくなった今では暇を持て余していた。
スポーツ作品を沢山持っているらしい富になんか借りようかな、と思ったところで、携帯電話がなった。今日連絡先交換をした宮前からだった。
『野球部の宮前宗太です。宇藤君、今日はお疲れ様。明日なんだけど、練習前に守備の基本についても少し、触れていたほうが良いと思うから、午前九時頃に蛍小学校まで来てくれますか? 地図も添付しておきます』
俺は慣れない運動で疲れている。明日の午前中は寝て過ごしたかったので、その誘いを断った。
『わかりました。一応僕はそこにいるから、気が変わったら来てください』
連絡が終わって再び暇になった俺は、富の部屋に行ってみた。彼女は野球中継を観戦していたようだったが、俺の来訪を悪くは思っていないようで笑顔になった。
「力也、どうしたの?」
「暇だから、漫画かなんか借りに来た」
「本棚にあるから持って行って良いよ。野球のは二段目と三段目にあるから」
俺はちょうど目に付いた、パチスロから親しんでいた作品を手にとって、礼を言ってから自分の部屋に戻った。
拘束具のようなギプスを着ての生活とか、ガソリンをかけて文字通り燃え上がった球でのノックとかの鬼畜なトレーニングをこなして、実在の選手やら不良やらのライバルと対決して友情を育んでいく。突拍子もない作品だったが、理屈無用で楽しめた。
続きも気になったが、一巻を読み終えたあたりで眠気を感じたのでそのまま眠りに落ちた。