その5
八回表。この回は七番君原からである。
彼に対し、若草はひねくれたバッティングをしていけ、と助言した。素直なバッティングをしても、良い当たりを殺されるだけであると判断したのだ。
君原はその助言を訝しく思いながらも、内角球を身体を開いて強引に流し、ライト前ヒットを放った。
八番土岐に対しても同様の助言をしたところ、またしても一二塁間を抜くライト前ヒットとなった。
営倫守備陣、逆を突かれていることに気付いた様子で、野手は定位置から、少なくとも投球前は移動しない方針を取るようであった。
さて、無死ランナー一二塁。打者は九番で投手の保志。一点を争う試合なら、送りバントでチャンスをさらに広めたいところである。
だが……悩む場面である。サインを読み、裏をかく攻撃にしてから、続けざまにヒットが出ているのだ。わざわざアウト一個を献上して進塁させるより、強気にいったほうが良い結果が出る場面かもしれない。
若草は強気を選び、打者に初球バスターのサインを出した。保志は軽く笑みを浮かべ打席に入る。
早くもバントの構えを見せる打者。ファースト小田原、サード神野、バント警戒で前進。
そして、球がリリースされた時点でバットを引き、引っ叩く。打球は強いゴロとなりピッチャーの足元を抜けた。
若草はセンター五十嵐の強肩を知っていたため、二塁ランナーの君原が帰れるとは思わなかったが、これで少なくとも無死満塁となることを疑わなかった。
……だが。
「なんでショートがそこにいるんだぁ!」
一塁側ベンチに、悲鳴じみた叫びの重奏が響いた。
宇多南の選手の多くが、この試合何度も思っていたことである。だが、三塁ベースカバーに入るためにサードよりにシフトしておくべきショートがセカンド後方にいたことは、これまで以上に驚くべき動きであった。「ディフェンスに定評のある」とか「守備職人」とかありきたりなレベルじゃなく……もっと恐ろしいものの片鱗を味わった気持ちがした。
瞬時、体勢を立て直した宮前は自らセカンドベースを踏み、一塁ランナーをフォースアウトに仕留めた後、一塁に入っている上川に送球した。
だが、それは塁間二七メートルをワンバウンド、ツーバウンドする軌道を描くものとなった。
「セーフ!」
送球よりバッターランナーが速かったと判断した一塁塁審、大きく両腕を左右に開いた。
定位置に戻っていく内野陣。
そこでショートが右肩を抑えたり、右手を振ったりしていることを見逃さなかった。そして、顔を顰めていたことも。
滑り込みのときに遊ばせておいた側を痛めたか。
とにかく、これで一死ながら一三塁。守備陣はバックホームシフト。
守備の要ショートは身体に違和感を覚えた様子。
セカンドの選手、この回まで観察していたところ、肩は良くないようである。
(一塁ランナーは投手だが、行ってみるか)
若草は、この試合始めてとなるサインをランナー二人と打者に向けて出した。
打者は投球前にバントの構えを見せた。それに応じて投手滝は外角高めにウエストした。スクイズ警戒である。
だが、打者はバットを引いて平然とそれを見送った。
「バックセカン!」
その間に、一塁ランナーは二塁へ走り出していた。弐戸、セカンドカバーに入ったショートに向け送球し……その送球をピッチャーがカットしなかったのを確認した三塁ランナー君原がホームへ向けスタートを切った。
時間差スチールというプレイである。セカンド送球の間隙を突いて、一点を狙う走塁戦術。三塁ランナーを警戒してピッチャーがキャッチャーのセカンド送球をカットしたなら一塁ランナーは悠々と二塁に行けるし、カットしなかったら三塁ランナーがホームへ突っ込む。
セカンドを狙っていた一塁ランナーはタッチアウト。だが、三塁ランナー君原はホームを今まさに奪わんとしていた。
「バックホーム!」
……その号令に、セカンドベース上から、レーザービームが放射された。
その兵器染みた送球の着弾地点となった捕手はランナーと交錯しながらも、それを落とすことはなかった。
「アウト!」
腰を大きく捻り、勢いをつけて拳を地面に叩きつけんばかりに打ち出した主審。
宇多南のチャンスは一瞬にして消え去った。若草の作戦は完全に裏目に出た。先はこのプレイのメリットを述べたが、デメリットとなるものがそのまま現れたのである。送球とランナーへのタッチが完璧なら、ランナーは二人ともアウトになる。
「ねえ、宮前君、大丈夫なの?」
上川は宮前を心配している様子である。
「うん。ちょっと突き指しただけ。このくらいで送球、ミスするなんてショート失格だね。九番打者、あれゲッツー取れてたタイミングだよね」
確かに、バックホームと同じ速度の送球であったら、バッターランナーもアウトに出来ていた。しかし、指を痛めてすぐ、体勢を立て直してすぐでそれを求めるのは無茶だ。一塁送球は責められるものではなく、むしろ突き指したにも拘らずランナーをホームで刺した送球が評価されるべきなのだ。
「……ねえ、宮前君、本当に超能者じゃないの?」
「聴能? 聞く力? 耳は良いよ。眼は悪いけど」
繰り返すが、本当に宮前は超能者ではない。超絶なプレイは単に生まれたころからボールやグローブに親しみ、小学一年生のころから野球ばかりやってきたためである。
八回裏。先頭打者葉樹三振でワンアウト。
そして、三打席目となる上川、今度はレフト方向に引っ張ってヒットにした。
続く八番打者、宇藤力也。今まで二打席連続三振の良いところなし。
サインは『打者委任』。バントで送っても上川の足では二塁は得点圏ではない、滝のバッティングも期待できないと判断した力也は、大きい当たりを狙いにいったが、あえなく三球三振。一球目捕手はボールを零したが、上川は走れなかった。
すごすごと引き下がる力也。野球を始めて三ヶ月、短い期間ながら彼も努力してきた……少なくとも、本人はそう思っていた。
なのに、その成果を見せる試合で、三打席連続三球三振。あまりにも不甲斐無い結果。打席はもう回ってこない可能性が高い。
力也は、脱いだヘルメットを地面に叩き付けた。
「……宇藤君」
ベンチに腰掛けた力也は後ろから肩を掴まれた。振り向いた彼は、普段眼鏡の下ににこやかな瞳を見せている宮前が、微かながら怒っていることに気付いた。
「謝りなよ」
「……誰にだ?」
「わからないの? ヘルメットにだよ」
物に謝る、という行為を、力也は今までしたことなかったが、折られたバットに礼を言っていた五十嵐と言い、一部の人間は物にも心があると考えているようだ、と理解した。
宮前に気圧された力也は、言われたとおり、先程まで被っていたヘルメットに謝罪した。
「……五十嵐君がランナーコーチに行ってて良かったね。多分、彼が今の見てたら、何も言わずに殴ってたと思う」
それだけ言うと、宮前は平生の柔和な顔を取り戻した。
「ちょっときつく言っちゃったかな? でも、道具を大切にしない選手は絶対に上手になれないからね。僕もずっと言われてきたし、フェニックスの皆にも伝えてるんだ」
ダイヤモンドに、アウトのコールが響き、それは二人の耳にも届いた。
「さ、後一回守りきろう」
運命の九回表。練習試合のため、延長はなし。この回で点を取れなかったら、宇多南に勝ちはなくなる。
守備陣、八回の先頭打者と二番目の打者は逆を突いてきたということで、この回も定位置から移動はなし。
この回は、先の回がランナーの死により終わったため、引き続き一番、九京からである。
彼に対する若草の助言は、「ライト前を狙って行け」だった。あのショート、この試合での貢献度だけ見れば、宇多南のスカウトを蹴ったことで有名な五十嵐を超えている。
九京は、外角の球を強引に引っ張りに行き、ふらふらと舞い、ゆるゆると進むような打球となった。
ちょうどセカンドとライトの中間。
いわゆるポテンヒットになりそうな当たりを、セカンド上川、ライト宇藤が共に追い、お互い勢いあまって衝突してしまい、そのまま二人とも倒れこんでしまった。
だが、くんずほぐれつの体勢のまま、上川はグラブを高く掲げた。
「アウト!」
上川はノーバウンドでグラブに掴んだボールを離していなかった。
「悪い、上川」
「いや、仕方ないよ。私もオーライって言ってなかったし、球を追うのは当たり前」
投手に返球しながら、上川は答えた。
「宇藤君、ナイスガッツ!」
「ああ、サンキュ上川! ナイスキャッチ!」
二人はお互いのグラブを当てあった。
「ワンナウト! しまっていこう!」
上川の掛け声に、営倫ナイン、いや、ベンチの光と富も、観客席の営倫学園の生徒も、答える。
……衝突の最中、上川と力也の唇がくっついた瞬間があったのだが、二人はそんなことよりも、アウト一つを取れたことの方が重要な事実であると認識しているようであった。
続く二番、楓。彼は若草から、相手サインの法則を全て授かった。
投手のサインを教わっても、頭でそれを処理できなくて、悪い結果に陥ってしまう選手もいる。しかし、楓は演算とバッティングを完全に並行して行える選手であった。今出場している選手で他にこれが出来るのは、六番真津。もう少し早く気付ければもっとチャンスは広がったのにな、と若草は思う。
投球は右、サインは2、0、3、4、3、4……スリークウォーター、ストレート、外角いっぱいに入れろ。
楓はそれを狙い打つ。ライト線深いところ。一見して長打とわかる当たりであった。
ライト宇藤、フェンスに直撃したクッションボールを処理して中継に来ていた強肩のショート宮前へ送球し、宮前もサードに転送したが……結果はセーフ。楓、三塁打である。普通、ここはセカンドが中継に入るのだが、肩を考えて代わりに入った宮前でも間に合わなかった。守備にミスはない。これは完全に打者の勝利である。最善を尽くしても、打たれるときは打たれる、死ぬときは死ぬ。それが野球である。
(流石ですキャプテン。サイン、どんぴしゃでした)
三塁上で、楓はサインを見破った若草に感謝した。今のは自分の力で打ったのではない、キャプテンに打たせてもらったんだ。
一死三塁のピンチ。打順はクリーンナップの三番へ。スクイズ、犠牲フライでも一点である。
ここで若草、スクイズのサインを出した。先の回は強気で失敗したんだ。ここは一つのアウトと引き換えに一つの点を狙いに行く。
楓、牽制は来ないことが判明したすぐのタイミングで、ホームベースという獲物を狙う狩猟動物となった。
右で投げていた滝は外角へ大きく外したが……打者の狩村、それに飛びついた。その球を当てられるなら、受身など考慮しない、無謀とも見えるジャンプである。打球はフェアゾーン三塁側に転がった。
猛然と突撃してきた神野、取ってすぐ捕手へトス。楓、捕手のタッチを避けるため回り込んで触塁!
「セーフ!」
その宣告を聞いた弐戸、すぐさま一塁へ送球。こちらはアウト。
宇多南のスクイズは成功した。二死ランナーなし。だが、ゲーム終了時、勝敗を決める唯一の要素、得点を、一つ、得たのである。
続くは四番、花咲。
本日三打席三安打の彼に、若草は何も伝えていなかった。
花咲は初球、外角の球を打った。
それは一二塁間のちょうど真ん中を疾走する低い弾道の速い打球となった。
「抜かせんわい!」
ライト前ヒット性の当たりを、一塁手小田原、グラブとは反対側になる打球を、なにもつけていない右手から飛び込んでがっちりと掴んだ!
意地のベアハンドキャッチ。四番の四安打を決死のプレイで阻止。スリーアウトチェンジ!
「……心地良い痛みやわ。この手で四番をぶっ殺したんやからな」
皆から手を心配される言葉を受けた小田原は、狂気に侵食されたようにも見える笑みを浮かべて言ってのけた。
「言葉だけ聞くと、かなり物騒だな」
「なに言うてんねん。刺すとか殺すとか、これぞ野球の本質やで」
「……子供には聞かせられないな」
「ついでに皆でマウンドに放火でもしたろか」
「ほ、放火?」
「投手がメッタ打ちにされることを炎上って言うやろ。でも、二点でサヨナラやな。裏の攻撃なのが悔やまれるわ」
くくく、と不気味な笑い声をあげる小田原。一点取られたことを全く気にしないどころか、逆に闘志にさらに火が付いたようだ。……少し危ない方向へ。
「さて、この回はミヤさんからやったな」
「……うん」
宮前は右手を見ながら、ぼそっと呟いた。
「切り込み隊長に元気がないな……小田原流ツッコミ神拳で気合入れたろうにも眼鏡壊しちゃ逆効果やし、代わりに皆で円陣組むか!」
小田原は立ち上がってベンチを出て、右手を掲げた。皆がそれに応じる。
「よし! 絶対勝つで!」
おう! の掛け声の混声合唱が、球場に響いた。