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試合4

 四回裏、一番の宮前からの打順であったが、開始前に、主審が三塁ベンチにやってきて、宇多南の選手交代を告げた。内容は以下の通り。

この回から、宇多南、六番キャッチャーの若草子規選手代わり、真津野球マツ・ノボル選手が入る。と。

「子規に代わり野球と書いてノボル、か。流石名門野球部。三番の鉄腕といいピッチャーの入魂といい、野球に関連した名前の選手が多いね。親も野球させようと育てたんだろうな」

 スコアブックを書きながら、富が呟いた。

「それにしてもこのメンバーチェンジ、どういうことだろう?」

「あのキャッチャー、二度も落球してましたし、そのせいじゃないですか?」

「それともう一つ、サインを看破したような口ぶりでした。流石に二回見ただけで見抜くとは思えませんが、何かきっかけをつかんだんだと思います。それを調べるために、下がったとも思いますが」

 先輩の富に対する答えだったので、葉樹と弐戸は共に敬語で返した。

「そうだ。サイン変えとくか、滝」

「変え方は?」

「反転」

「了解」

 短い言葉を交わしただけだったが、バッテリーの二人は心得たものであった。

 先頭打者宮前、初球をセーフティー・バント。ミートすることも難しいと考えた彼は、バントヒットを狙いに行ったのだ。

 それは球足の速いゴロとなり、投手の真正面に転がったが……保志はそれを零してしまった。すぐに拾って一塁に投げたが、一塁塁審の両腕は地面と水平に広げられた。セーフのジェスチャーである。

 投手のエラーが記録された。営倫から、初のランナーが出た。

 続く小田原、一球目エバースをかけ、盗塁が難しいことを確認してからセオリーどおり送りバント。一死走者二塁。得点圏にランナーを進めたのは、両チーム通じて初であった。ブラスバンドが、チャンステーマを奏でる。

「一番宮前塁に出て、二番小田原送りバント、か」

 弐戸は中日応援歌の替え歌を口ずさみながら、打席に入った。狙うはタイムリー。

 だが初球、二球目と続けざまにストライク。

(やっぱり速いな……)

 今まで監督役の保谷先生がだしていたサインは、初回から今まで『打者委任』。このサインが出た場合、自動的に次の一文が付加される。

 連携が必要なプレイなら打者から走者へサインを出すように。

 保谷光は、素人の自分が下手にサインを出すより、選手に任せたほうが良い結果が出ることが多い、ということを自覚していた。

若草の弁を借りて適材適所を考えるなら、保谷光の放任主義、サイン権の選手への譲渡は、理に敵ったものと言えるだろう。

 弐戸は、ランナー宮前に向けあるサインを出した。それは小田原が宮前に出したサインと同じものであった。

 そして弐戸は、送りバントを仕掛けた。

 ツーストライクからのバントがファウルボールになれば、バッターはアウトになる。だが、スイングするより良い結果が出る可能性が高いと弐戸は考えたのだ。普通に転がせば二死三塁、もう一度守備のミスが出れば苦せずして一死一三塁。

 ゴロは守備に捌かれ一塁アウトとなったが、結果は二死三塁。送りバントは成功。ベンチに戻った弐戸に、皆がナイスバントと声をかけた。

「確かにナイスバントやけど、月に向かって打つんじゃなかったん?」

「このケースだとバントが一番有効だと思ったからな。そうそう簡単にヒットなんか打てそうもない」

「まあ、確かに、二死でもランナーが三塁におりゃ、ヒットなしでも得点のケースがあるしな。フィルダースチョイス、エラー、ボーク、暴投……」

「それに相手投手は三回まで七奪三振を記録するほどの好調ぶりだ。それがヒットなしでピンチになってるんだ。今、かなり動揺してるんじゃないか?」

 小田原と弐戸はマウンドを見遣った。投手は帽子のつばの下で、笑みを浮かべていた。

「あの笑みをどうとるか、やな」

「動揺を隠してるのか、むしろ気合が入ってきているのか、それともよっぽどのバカか……」

……相手投手もニコガクにだけはバカって言われとうないやろうな、と小田原はぼそっと呟いた。

 三者連続でバント攻めにあった宇多南守備陣の間に、バントを警戒する雰囲気が流れていた。

その空気の中、五十嵐は、既にツーストライクに追い込まれていた。だが、それは二球とも派手にファールを打った結果である。しかも、相手の決め球を、である。

 ……御自慢の魔球を打たれているにも拘らず、保志は勝利を確信した笑みを浮かべていた。

 第三球目は、保志はこの試合初の、一〇〇キロを割るスローボールを、主審が甘めに取ってくれる外角低めに投じた。

 速球対応の姿勢から、急に遅い球を投げられた五十嵐は、なんとかそれをバットに当てたが、ボールは来た道をとんぼ返りするように投手のグラブに戻っていた。ピッチャーライナーでスリーアウトである。

(遅い球で打ち取るのは速球勝負の俺の信念に反するけど、ノーヒットノーランするとも言ったしな。それにしても二球連続で俺のジャイロを派手に飛ばすなんて、やはり五十嵐のバッティングセンスも流石だ)

 ボールをマウンドに置きながら、保志は苦笑いを浮かべた。


 五回表。

 この回は、今日のゲームで唯一ヒットを放っている、四番花咲から。

 この打席、再び彼はヒットを放った。セカンド上川の頭を越すライト前ヒット。

 五番姫野に対して、若草は送りバントのサインを出した。

姫野はバントを軽んじる選手の筆頭であったが、一打席目が併殺という結果故に、逆らうことは出来なかった。きちんと下された指令をこなす。一死ランナー二塁。今度は宇多南得点のチャンス。チャンスの後のピンチ、ピンチの後のチャンスとは良く言ったものである。

六番打者は、この回から若草に代わり入った真津。

足も悪くない花咲を一本で返したかったが、外角の速球を浅めのライトフライに打ち取られてしまった。

 しかし、セカンドベース上で打球の行方を見守っていた花咲は、ライトの捕球を確認するやいなや、三塁向けてスタートを切った。タッチアップである。

「バックサード!」

 この試合始めて自分がアウトを取ったライト宇藤は、それだけで安心してしまい、ランナーへの対応が遅れ進塁を許してしまった。

三塁塁審の手が水平に広がった後、サード神野は、ライトから送られたボールをセカンドに入った宮前に転送するも、花咲のリタッチ(守備がフライを捕球した際、走者が投球時に占有していた塁に触れなおす行為)義務は果たされていた。

 二死ながらランナー三塁。先程の営倫のチャンスと同じようなケースである。ここで七番打者君原。一打席目はレフトフライであった。

「タイム願います」

 ここで、営倫の捕手、弐戸は主審にタイムの申し出をした。主審はタイムをコールする。滝へ小走りに向かう弐戸。

「七番か。一回から三回までだと、こちらが意図していない結果に終わったのはこの打者だけだったな。レフトフライでアウトには出来たが」

「そうだ。サイン変えたばかりだけど、リリーフ、いってみるか」

「ああ、私はかまわない」

 まだ失点を許していないのに、あっさりと身を引く滝。彼女もまた、勝利のためなら自分の記録など気にしない人間である。


 二〇〇七年度の日本シリーズ第五戦。これは、球史の記録に残るだけでなく、それを見ていた野球ファンの記憶にも永く留まる試合であった。

中日が勝ったら日本一が決定する試合で、先発の山井大介投手は、八回までをパーフェクトに抑える(誰一人として出塁を許さない)ピッチングを見せた。後一回を抑えたら、日本史上十六人目の完全試合達成者である。しかも、同時に日本一を決めるという、劇的この上ないシーンである。

だが、九回、その山井投手に代わりストッパーの岩瀬が投入された。結果球界初のパーフェクトリレーで中日は一点差を守りきり日本一に輝いたのだが、この継投は賛否両論を巻き起こした。

賛成意見は、『非情に勝ちだけを見る采配は英断であった』という大意のものが多く、反対派は『大記録達成を潰した』とのことで批判をするものが多かった。また、『自分が監督なら続投だったけど、落合監督の采配には結果として正しかった』とか『采配は監督の個性』と言った意見を表明し、中立立場を取る者も少なくない。

ちなみに営倫野球部では、賛成派はバッテリーの二人、五十嵐、富であり、反対派が小田原、宮前、葉樹で、中立派は上川、神野、光。力也はリアルタイムではみてないからどうでもいい。野村克也氏は反対派に近い発言をしていたが、奇しくもノムさんを尊敬していると公言した三人が、この采配に関しては、揃って氏と反対の立場を取っている。

宇多南だと、反対派が圧倒的に多い。

保志なんかはその年からセリーグでも始まったクライマックスシリーズとかいうわけのわからないシステムで、一位だった巨人から日本シリーズ出場権を奪った中日を始めからアンチの視点で見ていたのだが、その采配により憎悪すら覚えるようになっていた。「空気読め!」とか、テレビの前で喚いたりした。

だが、キャプテン若草は、元々中日ファンではなかったが、落合監督の決断に感服した上、新天地中日で一からのスタートをし、MVPに輝いた中村紀洋選手の涙にもらい泣きし、『今年も充実したシーズンだったなあ』と呟いたものだった。尤も、毎年言っていることだが。


 前置きが長くなったが、弐戸はセンターで身体を軽く動かしている五十嵐を呼んだ。そして、告げた。

「ピッチャー滝に代わり五十嵐、センターには葉樹が入り、レフトに滝」

 七球の投球練習を終え、プレイが再開される。

 滝より格段に球が速い五十嵐の球に、君原は凡退に終わり、チャンスは潰えた。

「すいません。せっかくのチャンスに……」

「いや、ピッチャー五十嵐はおそらく相手の切り札だ。それを五回から出してきた。相手、結構参って来てるんじゃないか? あの先発の女子、やっぱりスタミナはそれほどないんだな」

 君原と土岐が話している横で、若草は投球練習七球、打者に対しての三球、計十球の投手と守備の傾向を分析していた。

 一つ、守備が定位置からほとんど動いていない。

 二つ、最終的に捕手がミットを構えた地点と実際のコースがかなりずれている。

 三つ、もし五十嵐が隠していないのなら、投げられる球種は直球、遅い球、カーブのみ。

 四つ、カーブの際は肘が僅かに下がる。

 これらのことから、五十嵐は切り札ではなく、二番手であろう、と若草は考えた。そして、滝は全く疲れた様子を見せていない……ということはワンポイントである可能性が高い。

土岐の分析とは全く違う結論である。そして、真実に近いのは若草のほうであった。

僅か十球にしてこれほどの情報を読み取った若草。

高校生離れした観察眼と頭脳。

彼は決して超能者ではない。だが、彼の持つ武器は、営倫にとって、保志の超能の込められた魔球よりも脅威となりうるものであった。

……反転、という変化を受けたサインが読み取られるのも、時間の問題かもしれない。


五回裏。

五番神野、六番葉樹は、緩急を付けて来た投球に対応できずに凡退した。

そして、ツーアウトで上川の二打席目。

彼女は、先刻、超能の込められた球を見て動揺してしまったが、冷静に考えれば、自分の持つ時間感覚は、球速の変わらないジャイロボールに対し相性が良いことに気付いていた。

時速一五〇キロの球が、一八・四四メートル進むに必要な時間は、約〇・四四秒。それからスイングスピード約〇・二五秒を逆算すれば良いのだ。

生身の人間が投げる球を、そんな単純に計算しても机上の空論かもしれない。だが、彼女は気付いていた。

保志投手は、サインを自分から出していること、決め球のモーションがややダイナミックになる癖があるということ。そして、それがど真ん中に来る確率が高いということ。

わかっていても打ちあぐねる球ではあるが、自分のセンスを活かしきれば、鈷井野バッティングセンターのマシンを相手にしているつもりで向かえば、打てない球ではない。

決め球を狙っていく覚悟を決め、打席に入った彼女への第一球は……まさしくその決め球であった。ボールはバットに叩かれて快音を奏で、投手の足元を抜けた。よし、と意気込みながら、一塁へ駆ける上川。

……だが。

「センター!」

 前の打席と同様、宇多南は小柄な上川に対し、外野手は極端な前進シフトを敷いてきた。

 速い打球、前進守備、上川の足。……この要素が揃えば、センターゴロの可能性だってあるのだ。

 上川は自らの足が出せる全ての力を使って駆けた。

「アウト!」

 しかし、一塁塁審は無情にも宣告した。

 ベンチに戻りながら、上川は思った。

(やっぱり、野球って恐ろしい……でも、楽しい!)

 彼女にとって、今日の試合が超能を失ってから始めて行う試合であったのだ。生きた球の感触、野手から打者である自分に向けられる視線、球を弾く音、人間の掛け声……自分は超能を競技内で発現出来ていたときは自ら身を引いたが、ルールに「競技内で超能の発現を禁じる」なんて明記されていないのだ。相手が超能を使ってくるのも勝負の内、と割り切れば、全てが心地よい。

「気持ち良さそうやな。マコちゃん」

「え、……そうだった?」

「ああ、写真に収めて飾っておきたいぐらいやった」

 そう言われて、上川はうろたえてしまった。自分でも赤面しているのがわかった。

「……って、なんで頬染めんねん。さっきウチがどついたときよりも顕著に出てるで。エロい意味で言ったのとちゃうわい。そんな反応するなんて、ウチに気があるんとちゃうか?」

「いや、そんなことはないよ」

「マジに返してくれるなや。へこむで」

 小田原はわざとらしくしょげて見せた。

「い、いや、小田原さんが嫌いなわけじゃないよ。むしろ好きだよ」

「嬉しいこと言ってくれるやないの」

 ファーストとセカンドの選手の間で行われる会話により、マネージャーの富が異様な反応を示していたが、二人は気付いていなかった。

「さ、行くで。マコちゃん、守備の間ウチに見惚れてミスしてくれるなや」

「うん! 小田原さんこそね!」

「よし! うちら鉄壁の一二塁間や。ユカマコとでも呼んだろか」

「ユカマコ?」

「隣り合う守備位置の選手の上二文字を繋げて言うのが流行りみたいやから、それにあやかってみたんや。基本苗字やけど、小田原と上川でオダカミやと語呂悪いし」

 二人を見送りながら、富は垂涎せんばかりの表情を浮かべていた。

(ユカ×マコ……これもいいなあ……)

「……姉ちゃん。どうした。別世界に行ってるような顔して。これを写真に撮っても飾れないな。怖くて」

 力也はそんなマネージャーの目の前に手をかざして振ってみせた。

「ひあっ! り、力也! 今は保谷先輩でしょ! 早く守備に行きなさいよ!」

「……わかりました。保谷先輩」

 力也はわざとらしく言い直した。

「僕と宇藤君だと、繋がらないね。ショートとライトだし」

「あれ、宮前もまだいたのか?」

「うん。眼鏡拭いてた」

「そう言えば、ライトから見てて思ったんだけど、お前の守備範囲、異様に広いよな。その眼鏡に秘密があるんじゃないか?」

 力也は宮前の眼鏡をひょいっと外し、自らに掛けてみた。

「……かなり度が強いな。これ」

「やっぱり、野球は視力が大切だからね。強めにしてあるんだ」

「横の方いじると、打球の落下点が表示されるとかないの?」

「ないよ! 野球ゲームじゃないんだから!」

「じゃあ返すよ」

 そう言って、力也はそれを落とすようなことも無く、普通に宮前に返した。

「……これで眼鏡が壊れでもしてたら、一気に守備力が落ちてたよ」

「眼鏡と守備力に関係があるのか? やっぱりその眼鏡に秘密……」

「秘密はないよ! この眼鏡に視力を上げる以外の目的はないの!」

 ……誤解を招かないように、言っておこう。

宮前の眼鏡は度が強め以外の特徴はないし、宮前本人が超能者であるということもない。視力と守備力に相関があるのは自明の理である。

競技内でも超能を発現できる人間は、この試合に関係するものは、保志しかいない。保谷親子は、かつて光が力也に説明したように競技内では超能を発現できないし、力也はとうの昔に超能自体を失くしている。上川の時間感覚はあくまで感覚である。

「さ、守備行くよ!」

「そうだな。無駄な時間を食ったぜ」

「誰のせいなの……」

「変な顔してた姉ちゃん……いや、保谷先輩のせいだな」

 力也は富の顔をちらりと見た。先程より犯罪的な顔になっていた。

「……宮前」

「どうしたの? 宇藤君?」

「絶対に後ろを振り向くな。さっさと守備に行くぞ。お前にはあれは刺激が強すぎる。……少しは疑惑を抱いたものだが、子供にも人気があるお前はピュアな心を持っていると信じるよ」

 宮前はかしげた顔にハテナマークを浮かべながら、ダイヤモンドへ向かって走り出した。

(リキ×ソウ……リキ×ソウ……リキ×ソウ……)

 腐女子でもある富は、力也と宮前宗太でリキ×ソウの妄想を逞しくしていた。


 六回表、五十嵐が続投したが、先頭打者の八番土岐にヒットを許すと、すぐにピッチャーを滝に戻した。五十嵐、葉樹もそれぞれセンター、レフトに戻る。

 続いて九番の保志の犠打で一死二塁になったが、後続の一番二番を抑えてチェンジ。

 だが、力也から始まる六回裏も営倫は三者凡退。宮前以外は三振。

 七回表は三番打者から始まる好打順であったが、四番が猛打賞となる三本目のヒットで出塁した以外は、好守により凡退。

 七回裏。二番小田原、三番弐戸凡打の後、三度、四番の五十嵐。

 保志は既に自らの球種を全てこの試合で見せていた。速球一筋の彼は変化球を持っていなかったのだ。

 最早小細工など必要ない。五十嵐を殺すことを夢見て鍛えた魔球で行く。

 約一八メートルの間に、二人の視線が交わり、そこから発散される殺意の波動がダイヤモンドに充満していき、そしてそれは炎に変わり、謎の擬音を立てる……ような演出が、野球漫画だったら行われていただろう。

 だが、この場で行われたのは、保志がボールを握った後に、視線を五十嵐に移す、という簡単な動作だけであった。

……この僅かな動作が、保志にとって命取りとなった。

決め球、というものは、どうしても気合が入ってしまう。相手がライバルであるなら尚更だ。

 五十嵐はもちろん、既に営倫野球部の全員は既に、保志にいくつかある癖を、各々何かしら見切っていた。だが、時速一五〇キロだ。わかっていてもヒットなど簡単に打てない。

 しかし、五十嵐はそれをバットの芯で捕らえ、ライトの頭を超える打球を放ち、二塁まで到達した。

 試合前に保志が宣告したノーヒットノーランは、これで潰えた。宮前の出塁はエラーだったので、これが営倫の初ヒットとなる。

(俺の、魔球が……)

 まだ点を奪われた訳ではないのに、保志は動転気味であった。五十嵐は俺を超える逸材なのか?

 文字通り血の滲むほどに鍛えた魔球を打たれた悔しさに、保志は二塁に牽制球を送った。だが、塁上には守る選手はなく、ボールはセンターへ転がっていく。その隙に五十嵐は三塁を盗んでいた。

 その様を見て、一塁ベンチ、若草が立ち上がる。

「タイム!」

 しかし、彼が審判に頼もうとしていたことを、先に審判が宣言した。どうやら真津がタイムをかけたようだ。マウンドへ駆けていく真津。

「どうしたんですか? らしくないですよ」

 真津はスカウトされた訳ではなく、受験して宇多南に入学した生徒であった。そのため、皆よりセンスが劣る。故に、敬語で喋る癖があった。

「ノボル、何しにきたんだ?」

「何って、保志君の様子がおかしかったから来たんですよ」

「……戻れよ」

「戻ったら、落ち着いてくれるんですか? そう簡単なものじゃないでしょう?」

 保志はただ、黙って聞いている。

「保志君の、五十嵐選手に対するライバル心は聞いてますよ。でも、心と勝負は水と油だと思って、ここは割り切ってください」

「シキみたいなこと言うんだな」

 そう口には出したが、若草ならここでただ投手交代を告げるだけだろうな、と保志は思った。事実、タイムを取る前に立ち上がっていたのだし。

「キャプテンは僕のあこがれです。時々真似してみることもありますけど、全然ですね」

 そして、真津は『おい、お前ら気を緩めるな』と、試合前のキャプテンを物真似して見せた。

「似てないな」

 保志はその芸を、ふっと一笑に付した。だが、それは真津を馬鹿にするものではなかった。

「そうですか……まあいいですよ。僕はキャプテンみたいにはなれません。さて、あまり長くタイムを取っても良くないですし、戻りますね」

 真津は守備位置に戻り、主審に礼を言った。

 続く神野に対して、保志は三球三振を取った。ランナー三塁のチャンスを活かせず、この回も無得点。

「……やっぱり、俺は下がって正解だったようだな」

 長打の後の三振を見て、若草はひとりごちた。

 彼にはバッテリーの会話は聞こえなかったが、真津によって保志が冷静さを取り戻したのは間違いない。夫婦にも例えられるバッテリーは、個々のセンス以上に相性の問題も出てくる。保志のような投手には、真津のような捕手が良いんだろうな。……保志と自分だとお互い我が強めで、今の場面で保志を宥められなかったろう。

保志と真津のバッテリーは夫婦関係で言うなら亭主関白タイプだな。恋愛に疎い彼であったが、なんとなくそうなんだろうなと思った。

 なら営倫バッテリーはどうなんだろう、と考えたところで、サインに関して閃いたことがあり、若草はメジャーを取り出して野球の道具を測った。


 ボールの直径が約七・五センチ、バットヘッドが六・七センチ。ホームベースの投手側を向いている辺、つまりストライクゾーン水平部分が四三・二センチ。これにボールが少しでもかかればストライクになるのだから、ボールの直径を二回足して約五八センチ。これは大体ボール八個分。

 そして、平均的な身長の選手に協力してもらい、膝頭から胸のマークまで、つまり垂直方向のストライクゾーンを測って見たところ、約七〇センチ。

 結論、打者によって個人差はあるが、ストライクゾーンは大体縦七〇×横五五センチの長方形であるということ。

 そして、バッティングセンターにも良く設置されているゲームを思い出す。1から9まで書かれた的をボールで射抜いていく競技、ストラックアウトである。

少し違うのは、最初は一塁側高め、右打者の場合の内角高めに1、真ん中高めに2、外角高めに3の的があり、以下同じように9まで続いていく、と言う風に、実際の仕様と逆であった点である。

 ストライクゾーンとボールの大きさと、その競技と、自分が立てた仮定を総合すると、サインの三回目四回目は本数の足し算になっている、ということである。途中から左右に反転がかかったようであるが、それは選手たちが集めてくれた情報で看破した。

 だが、その程度のコース設定はどこでもやっていることである。……問題は五回目六回目。ここで、三回目四回目で定めたコースを、もう一度絞り込んでいる様子なのだ。文字通りボール一個分以下レベルのコントロールである。保志も今のところこの試合与えた四死球なしだが、彼の場合は特に考えなくストライクコースに投げ込んでいるだけである。流石にストライクゾーンの狭い上川選手には慎重気味に行っていたようであるが。

 また、加えて、七番目が出た場合にのみ、その方向に外せ、ということのようだ。1、0、1、0はインハイに外せ、つまり危ないコースに投げろ、という指示であったのである。もっとも、わざわざぶつけてデッドボールで出塁させろ、という意味ではないだろうが。

 そして、指での指示一番目が投法(2がスリークウォーター、5がアンダー、0が牽制)で、二番目が球種である(直球0、超遅球1、カーブ2、チェンジアップ3、シュートが4、シンカー・スクリューが5)。

しかし、それだけでは宇多南打線をここまで封じるのは説明しがたい。直球は一三〇キロ台、変化球もそれ程切れのないカーブ、シンカー(スクリュー)、シュートのみであるようだ。チェンジアップや超遅球も、決め球としては弱いし、ランナーがいる場面では投げにくい球であろう。

 そこに、スイッチで二つのフォーム、内野陣のシフトが絡んでくる。

 打者が打席に入る前に投げる腕を明確にする義務から、指でサインを出していたわけではないようだが、左右が違うと、同じ変化球でも変化の方向が逆になる。右のカーブは右打者にとっての外角に曲るが、左のカーブは内角に来る球となる。それにスリークウォーターの斜め上から下に来る軌道と、アンダーの下から上に来る軌道を混ぜられたら、ジャストミートは難しくなる。

 さらに、投手に投げさせる予定の球をもとに、捕手が投球前のサインで内野陣に来る場所が予想される地点を伝えておく。

 内野陣はそこに予め寄っておくか、時にはわざと逆側に動いてその場所が空いていると誘い込み、投球と同時にそちらへ駆け出すようなトリックプレイを行う。後者が出来るレベルの選手はショート宮前のみであるようだが、それだけでもヒットを殺す可能性は著しく高くなる。

 外野手も、レフトとライトには少しアラがあるようだが、ザルという程ではないし、中心となるセンター五十嵐が俊足を活かしフォローに入ることによりそれをカバーしている。

 打たれても守ってくれる、という安心感が、投手のスタミナの消費を抑えているのだろう。一旦代わりはしたものの、この猛暑の中、滝投手は疲れた顔を全く見せていない。

 高度に組織的な野球。これは単なるバッテリーの夫婦関係ではない。例えるなら、営倫守備は打者という一匹の獲物を狩る狩猟動物の一家族。

 これほどまでに頭を使ったプレイが出来るチームはそうそうないであろう。しかし、目の前の営倫は実際にそれをやってのけているのである。

 若草の頭に一つの疑問が浮かぶ。

 この連携を習得するには、実戦形式での練習が必要である。九人しかいないチームでそれをすることは難しいであろう。

 そこはどうしたのか。もし、この試合の後に相手の監督からお話を伺える機会があったら一番に尋ねたいことであった。

 営倫は、長く野球に携わって来た若草の記憶の中でも、屈指の強いチームであった。


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