山が崩れたら、貧乏領地が交通の要衝になりました
私が異世界に転生して十六年。
分かったことが一つある。
我が家は、貧乏だ。
「今年も駄目か……」
父が机の上の帳簿を見ながら、深いため息をついた。
ここはリーベル伯爵家の屋敷――と言えば聞こえはいい。けれど、王都にある貴族の屋敷を想像してはいけない。
石造りの古い屋敷。雨漏りする西棟。使用人は必要最低限。庭師など当然いない。そして伯爵である父が、自分で領地の帳簿を確認している。
「去年より悪いの?」
「いや。収穫は悪くない。領民もよく働いてくれている」
「じゃあ、何が問題なの?」
「何もないことだ」
父は力なく笑った。
「うちには売るものがない」
リーベル領には広い農地がない。鉱山もない。海にも面していない。森はあるが、木材なら他領でも採れる。特産品もなければ、観光名所もない。
王都から遠く、主要街道からも外れている。つまり、本当に何もない。
「税を上げるわけにもいかん。皆、十分に納めてくれているからな」
「そうよね……」
父が領民から搾り取るような人でなかったことだけは幸いだった。だからこそ困っている。
貧しいけれど、誰かが悪いわけではない。ただ、この土地には金を生むものがないのだ。
前世の知識で何とかできないものか。そう考えたことは何度もある。
けれど私は、農学者でも技術者でもなかった。現代日本で普通に学校へ行き、普通に働いていただけの女だ。異世界に転生したからといって、突然鉄を作れるようにはならないし、画期的な農法を一から教えることもできない。
「何かあればねえ」
「あれば、とっくに先祖が見つけているさ」
父の言うことはもっともだった。リーベル家がこの土地を治め始めて、二百年以上。私が十六年考えた程度で金鉱が湧いてくるなら苦労はしない。
その日は、それで話が終わった。
――終わるはずだった。
◇
「お嬢様、そちらは危のうございますよ」
「大丈夫。崖には近づかないから」
数日後、私は領地の北西にある小さな村を訪れていた。
別に金儲けの種を探しに来たわけではない。冬を前に、村の備蓄状況を確認するためだ。父一人では領内すべてを回れないので、最近は私もこうして仕事を手伝っている。
村長との話を終えたところで、一人の猟師が山から戻ってきた。
「おや、お嬢様。珍しいところへ」
「こんにちは。今日も山?」
「ええ。昔に比べりゃ楽になりましたよ」
「楽に?」
「三年前に山が崩れたでしょう。あれから向こうの森へ抜けやすくなりましてね」
私は何気なく山を見た。
三年前。確かに、この辺りでは何日も大雨が続いた。幸い村に被害はなかったけれど、山奥で大きな崩落があったとは聞いている。
「向こうの森って?」
「西側ですよ。昔は大岩壁をぐるっと回らにゃならなかったんですが、崩れたおかげで谷が開きまして。人なら真っすぐ抜けられます」
「へえ……」
「獲物を担いで帰るのが楽になりました」
猟師は笑った。私も笑い返した。
そして――止まった。
「……西?」
「はい」
「西って、どこまで行けるの?」
「どこまで、と言われましても。森を抜ければ旧境界ですな。その先はベルツ領でしょう」
ベルツ領。
胸の奥で何かが引っかかった。
「ベルツ領……?」
「ええ」
どこかで見た。絶対に見た。
「ちょっと待って」
「お嬢様?」
私は村長の家へ駆け戻った。
「地図! この辺りの地図ある!?」
「え? ええ、ございますが……」
村長が驚きながら古い地図を持ってくる。私は机いっぱいに広げた。
ここがリーベル領。こっちが王都。西にベルツ領。
さらにその向こうには――。
「レグナ港……」
国内最大級の港町だ。外国から入ってくる商品も、王都から輸出される品も、多くがレグナ港を経由する。当然、大量の馬車が王都との間を行き来している。
ただし、その街道はリーベル領を通らない。港から一度大きく北上し、峠を越えてから南東の王都へ向かう。
「村長」
「はい?」
「王都からレグナ港まで、今は何日かかるの?」
「荷馬車なら三日ほどでしょうか」
「どうして?」
「どうして、と申されましても……北の峠を越えますから」
村長が不思議そうに答える。
私は地図の上で指を動かした。港から北へ向かい、峠を越え、そこから南東へ。確かにこれなら三日はかかる。
今度は港から東へ指を動かす。ベルツ領を抜け、リーベル領を通り、そのまま王都へ。
「……峠を越えなかったら?」
「はい?」
「三年前に崩れたのはどこ?」
「この辺りですな」
村長の指が地図に触れた。
私はその場所から王都まで、指でなぞった。
近い。
いや。
近すぎる。
「村長。この谷を馬車が通れたら、港から王都まで何日?」
「それは……」
村長も地図を見る。もう一度、指で距離を測り、やがて顔を上げた。
「…………一日です」
背中がぞくりとした。
「本当に?」
「お、お待ちください。ですが、あそこは馬車など――」
「今は?」
「え?」
「三年前に崩れたんでしょう?」
村長の目が見開かれた。
「猟師を呼んで!」
「は、はい!」
村長が走り出す。
私は地図を見下ろした。
三日が、一日。
もし本当に馬車が通れるなら、何もないと思っていたこの領地に――。
「道がある……」
◇
「できます」
「本当に!?」
屋敷へ戻った私は、父に事情を説明した。父は笑わなかった。すぐに領内の工事を担当している技師と人を送り、崩落地点を調べさせた。
そして数日後、技師が私たちの前で地図を広げた。
「崩落によって岩壁の一部がなくなっています。道幅を広げ、斜面を補強し、小さな橋を二本架ければ、荷馬車も通行できます」
「じゃあ、道を作れるのね!」
「ああ」
父も頷いた。
やった。本当にできる。
王都と港を一日で結ぶ道。これなら――。
「だが、できん」
「え?」
私は父を見た。
「どういうこと?」
「金がない」
あ。
技師が申し訳なさそうに、工事費用の見積もりを差し出した。私は数字を見て、もう一度見た。
「……高い」
「山道ですからな。斜面の補強だけは削れません」
「うちのお金じゃ?」
「無理だ」
父が即答した。
「借りるのは?」
「何を担保にする?」
「土地」
「今、その土地に価値がないから困っているんだ」
「…………」
正論だった。
道を作れば価値が出る。でも道を作るためのお金がない。お金を借りるには価値のあるものが必要。
見事な堂々巡りだ。
せっかく見つけたのに。三日が一日になるのに。絶対に価値があるのに。
……待って。
価値がある?
「お父様。この道ができたら、一番儲かるのって誰?」
「それは……商人だろうな。輸送日数が二日も縮まる」
「だよね」
私は地図の港を指した。
「じゃあ、お金を持ってる人に出してもらおう」
「誰だ?」
「この道を一番使いたい人」
港には、大商会がいくつもある。そして彼らは毎日、大量の商品を王都へ運んでいる。
「商人よ」
◇
「三日を、一日に?」
「はい」
ざわり、と広間が揺れた。
レグナ港では月に一度、港を拠点とする大きな商会の代表者たちが集まる定例会が開かれる。
父に頼んで紹介状を書いてもらい、私はその場で少しだけ時間をもらった。並んでいるのは、どこも私たちよりずっとお金を持っている人たちだ。
正直、緊張する。けれど、ここで怯んでは道が作れない。
「リーベル伯爵令嬢。失礼だが、あまりにも話が大きい」
一人の会頭が言った。
「そうですね」
「……否定しないのか?」
「私が皆様でも、信用しません」
今度は別の場所から声が上がった。
「では、我々に何を信じろと?」
「何も」
何人かの商人が眉をひそめた。
私は持ってきた地図を広げる。
「皆様自身で確認してください。三年前の崩落によって、以前は通れなかった谷が開いています。我が領の技師は、整備すれば荷馬車も通行可能だと判断しました」
「それで、本当に王都まで一日だと?」
「そのはずです。ですが、それも私たちが調べた結果です」
私は地図から手を離した。
「測量士でも、御者でも、街道に詳しい方でも構いません。皆様が信用できる人を連れて、実際に確かめてください」
広間が静かになった。
疑われるのは当然だ。なら、私を信じてもらう必要なんてない。
商人なら、利益になるかどうかを自分で判断できる。
「十日後、もう一度この場所をお借りします」
「十日後?」
「その日に、新街道についてのお話をします。参加は自由です」
何人かが顔を見合わせた。
「ただし――」
私は集まった商人たちを見渡した。
「その日にいらっしゃらなかった商会のために、街道沿いの一等地を残しておくお約束はできません」
一瞬、広間が完全に静まり返った。
「……一等地?」
誰かが呟いた。
その言葉の意味を最初に理解したらしい商人が、勢いよく立ち上がった。
「おい! 測量士を押さえろ!」
「うちもだ!」
「馬車を出せ! 今日中に向かわせる!」
「待て、腕のいい測量士は誰だ!?」
さっきまで半信半疑だった商人たちが、一斉に動き始めた。
私は小さく息を吐いた。
これでいい。
私を信用する必要なんてない。この道に本当に価値があるのなら、十日後には彼らのほうから戻ってくる。
◇
十日後、私は再び同じ広間の前に立っていた。
「……本当に来たな」
付き添ってきた父が、扉を見ながら呟いた。
「そのために来たんでしょう?」
「いや、そうなんだが……」
中から大勢の話し声が聞こえている。前回より明らかに多い。
扉が開いた。
私は中を見て、足を止めた。
「……全員いる」
十日前にいた商会の代表者が、一人残らず席についていた。それだけじゃない。前回は代理人を寄越していた商会の会頭本人までいる。
私たちが入ると、話し声が止まった。全員の視線がこちらへ向く。
十日前とは違う。
誰も笑っていない。誰も半信半疑の顔をしていない。
私は父と一緒に用意された席へ向かった。
「それでは、新街道について――」
「建設費は我が商会が全額出す」
「待て!」
いきなり!?
「抜け駆けするな! 我々は資材も提供できる!」
「うちは王都側にも支店がある。完成後の荷量まで保証しよう!」
「我が商会なら工事中の食料も手配できる!」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
声が止まらない。
「倉庫用地を優先していただけるなら、建設費の半分を!」
「半分だと? 我々なら三分の二だ!」
「ならこちらは――」
「待ってください!」
今度は大声を出した。ようやく静かになる。
私は目の前の商人たちを見た。
十日前、私は彼らに新しい道があるかもしれないと伝えた。それだけだった。
「……皆様、確認されたんですよね?」
「した」
最初に発言した会頭が答えた。
「我が商会は測量士を三人送った」
「三人も?」
「全員、同じ答えだった」
会頭が地図の上を指でなぞった。
「荷馬車で一日」
別の商人が続ける。
「北の峠も通らない」
「冬季の輸送も今より安定する」
「二日分の御者の賃金、食料、宿代、馬の餌が消える」
「それだけではない。同じ馬車で今までより何度も往復できる」
次々と数字が出てくる。
私より詳しい。当然か。この人たちは商人だ。
一度価値に気づけば、私なんかよりずっと正確に利益を計算できる。
「だから、我が商会が全額――」
「それは駄目だ!」
また始まった。
私は思わず笑いそうになった。
十日前まで、私は「どうか道を作るお金を出してください」と頼みに来たつもりだった。
今は「ぜひ我々に金を出させてください」と争っている。
「皆様」
私は一度、息を吸った。
「共同で出資していただけませんか?」
「共同?」
「街道は皆様に使っていただきたいのです。一つの商会だけを優遇するつもりはありません」
「しかし、それでは我々に旨味がない」
「あります」
私は地図を広げ、新街道を指でなぞった。
「ここです。街道ができたら、皆様は何が必要になりますか?」
「何が……?」
「三日かけて運んでいた荷物が、全部ここを通るんですよね?」
沈黙。
最初に一人が気づいた。
「……倉庫」
別の商人が続く。
「宿だ」
「馬の交換所も要る」
「荷車の修理工房……」
「食堂も必要になるぞ」
次々に声が上がる。
「出資いただいた商会には、街道沿いの土地を優先してお貸しします」
一人の商人が身を乗り出した。
「借りる? 売ってはいただけないので?」
「売りません」
即答した。
「なぜ?」
だって、決まっている。
「これから高くなる土地を、今の値段で売る理由がありませんから」
商人たちが黙った。
一瞬の静寂。
そして最初の会頭が、声を上げて笑った。
「なるほど! 乗った!」
「我々もだ!」
「うちも参加する!」
「倉庫用地は確保していただけるんでしょうな?」
「出資額に応じて公平に!」
声が飛び交う。
私は隣を見た。父が呆然としている。
「お父様」
「……なんだ?」
「道、作れそうだね」
「あ、ああ……」
私は机の下で、そっと拳を握った。
できる。
道が作れる。
お金がなかった我が家が、一枚の地図と一つの道で、港中の商人を動かした。
◇
一年後。
「来たぞ!」
誰かの声が響いた。
新街道の入口に集まっていた領民たちが、一斉に西を見る。
谷の向こうから馬車が現れた。一台。その後ろに、もう一台。三台、五台、十台――荷物を満載した馬車が、次々と新しい街道を進んでくる。
歓声が上がった。
手を振る領民たちに、商隊の御者たちも手を振り返す。
私の隣で、父が呆然としていた。
「本当に来たな……」
「うん」
「こんなにたくさん……」
「今日はまだ最初の日よ」
私は笑った。
この一年で、何もなかった土地はすっかり姿を変えていた。
宿が建った。倉庫が建った。馬小屋ができた。荷車の修理工房ができた。商人向けの食堂まで開店した。
街道の入口には市場ができ、領内で採れた野菜や薪まで売られている。
「お嬢様!」
屋敷の使用人が走ってきた。
「どうしたの?」
「レグナから使者です! 新しい倉庫用地を借りたいと!」
「分かった。あとで話を聞くわ」
「それと王都の商会からも! 支店を置きたいそうです!」
「そっちも?」
「さらに宿屋を開きたいという者が三組、それから食堂が二組、馬具店が――」
「ちょ、ちょっと待って」
使用人が抱えている書類を見る。
多い。
ものすごく多い。
父が街道を見渡した。
「……何もない土地だったのにな」
その言葉に、私は首を振った。
「違うよ、お父様」
「ん?」
「何もなかったんじゃない」
馬車が走っていく。商人が笑っている。領民たちが、新しくできた店へ荷物を運んでいる。
「みんな、まだ価値に気づいてなかっただけ」
父はしばらく何も言わなかった。やがて、私を見る。
「なあ。土地は、本当に売らなくていいのか?」
「うん」
「かなりの値を提示されているぞ」
「だから売らないの」
「なぜだ?」
私は街道を見た。
また新しい馬車がやってくる。その後ろにも、さらにその後ろにも。
三年前まで、この山には猟師しか来なかった。去年まで、この土地には何もないと思われていた。
そして今は、王都と港を結ぶ最短街道がここを通っている。
「だって、お父様」
私は笑った。
「この土地、昨日より今日のほうが高いもの」
父はぽかんとして、それから大声で笑った。
私も一緒に笑った。
我が家は、貧乏だった。
どうやらそれも、昨日までの話になりそうだ。




