戦争の傷跡
街を出て三日目の朝、馬車は緩やかな丘陵地帯を進んでいた。
空は相変わらず灰色で、冷たい風が吹き抜ける。ティオは馬車の御者台に座り、手綱を握っていた。ダリウスは馬に乗り、周囲を警戒している。
三日間の旅は——正直に言えば、想像以上に大変だった。
初日、ハルトが馬車から身を乗り出し、危うく落ちかけた。ティオが慌てて引き戻したが、心臓が止まるかと思った。
「ハル、危ないから中にいてって言っただろ!」
「だって、あそこにおっきなとりがいたんだもん!」
ハルトは悪びれもせず、目を輝かせていた。
二日目、ユイが突然「気持ち悪い......」と言い出した。馬車酔いだ。ティオは急いで馬車を止め、ユイを外に出して背中をさすった。幸い、吐かずに済んだが——胃がキリキリと痛んだ。
「大丈夫か、ユイ?」
「......うん。ごめんなさい」
「いや、謝らなくていい。ゆっくり深呼吸して」
ダリウスは馬上から、落ち着いた様子でこちらを見ていた。
「子供とは、そういうものだ。焦るな」
「......はい」
焦るなと言われても、焦らずにいられるか。
そして今朝——出発してすぐ、ハルトが言った。
「ティオにいちゃん! おしっこ!」
「え、今!? さっき宿で行ったばっかりだろ!?」
「でも、でる!」
ティオは頭を抱えた。まだ街道に入ったばかりだ。周囲は開けていて、隠れる場所もない。
「......ダリウスさん、すみません。ちょっと止まります」
「構わん」
ダリウスは相変わらず余裕の表情だった。子育て経験者の余裕が憎い。
馬車の中では、三人の幼児が窓の外を眺めていた。
「ティオにいちゃん、とりさんいた!」
ハルトが嬉しそうに指を差した。確かに、丘の上に数羽の鳥が止まっている。
「ああ、よく見つけたな」
「ハル、とりさんすき!」
ハルトは無邪気に笑った。
「ティオにいちゃん、あのおはなきれー!」
ユイが、道端の野花を見つけて声を上げた。
「本当だな。きれいだ」
「とってもいい?」
「ダメだ。馬車から降りたら危ないから」
「えー......」
ユイは不満そうだったが、すぐに別の花を見つけて喜んでいた。
レイアは、相変わらず静かだった。だが——時々、妙なことを言う。
「......ティオにいちゃん」
「ん? どうした?」
「あのやま、なんかいる」
「え?」
ティオは、レイアが指差す方向を見た。遠くに山が見える。特に変わった様子はないが——
「魔物か? それとも......」
「......わかんない。でも、なんか、いる」
レイアの言葉は曖昧だが、この子の直感は侮れない。ティオは念のため、ダリウスに報告した。
「ダリウスさん、レイアが山の方に何かいると......」
「ふむ。警戒しておこう」
ダリウスは剣の柄に手をかけた。
結局、何も起こらなかったが——ティオの胃はまた痛んだ。
さらに、昼前にはハルトとユイが喧嘩を始めた。
「ハルがティオにいちゃんのとなりにずっといる! ユイもとなりがいい!」
「ハルがさきにいたもん!」
「ずるい!」
「ずるくない!」
二人は馬車の中で押し合いを始めた。
「ちょ、ちょっと待て! 二人とも、落ち着いて!」
ティオは馬車を止め、中に入った。
「喧嘩しないで。な? ティオにいちゃん、二人とも大好きだから」
「......ほんと?」
「ああ、本当だ」
ユイとハルトは、ようやく喧嘩をやめた。だが——
「おなかすいた」
今度はハルトが、そう言った。
「......さっき、朝ごはん食べたばっかりだろ」
「でも、おなかすいた」
「ユイも、おなかすいた」
二人が同時に言った。
ティオは、深く息を吐いた。胃が、また痛い。
「......ダリウスさん、昼食休憩、取れませんか」
「まだ昼前だが......まあ、構わん」
ダリウスは、どこか楽しそうに笑っていた。
ティオは、馬車から降りて荷物を取り出した。携帯食のパンと干し肉を、三人に配る。
「はい、ゆっくり食べろよ」
「ありがとう!」
三人は嬉しそうに食べ始めた。
ティオは、自分も少しパンを齧りながら、ダリウスに愚痴をこぼした。
「......子育てって、こんなに大変なんですね」
「フフ、まだ三日だぞ。これから先、もっと大変になる」
「うっ......」
ティオは、胃を押さえた。
「だが、悪いことばかりではない。子供たちの笑顔を見れば、疲れも吹き飛ぶ」
「......そうですね」
ティオは、三人を見た。ハルトは元気にパンを頬張り、ユイは笑顔で干し肉を食べ、レイアは静かに、でも満足そうに食事をしていた。
確かに——この笑顔を見れば、少しだけ、頑張れる気がした。
だが、レイアは黙ったまま、じっと前方を見つめていた。
「......ティオにいちゃん」
「どうした、レイア?」
「あのむら......かなしい」
レイアが、小さく呟いた。
ティオは前方を見た。丘を越えた先に、村が見える。いや——村の残骸、と言うべきか。
焼け落ちた家屋が、黒く焦げた骨組みだけを晒している。屋根は崩れ落ち、壁は崩壊し、かつて人が暮らしていた痕跡は灰と化していた。井戸の周りには、割れた水瓶が散乱している。畑は荒れ果て、作物は枯れ、雑草が伸び放題だ。
村の入口には、壊れた門が傾いたまま立っている。その横には、焼け焦げた看板が転がっていた。かつて、この村の名前が書かれていたのだろう。今は、文字も読めない。
風が吹き抜け、焼け跡から灰が舞い上がる。カラスが一羽、崩れた家の屋根に止まり、不気味に鳴いた。
人の気配は、ない。生きているものの気配が、ない。
「......戦場跡か」
ダリウスが、低い声で言った。
「ここも、戦火に巻き込まれたのですね」
「ああ。亜人連合国の部隊が侵攻してきた際、帝国軍が焦土作戦を取った。敵に物資を渡さないため、村ごと焼いたのだ」
「村人は......?」
「避難したはずだが......全員が無事だったかは、分からん」
ダリウスの声には、重い響きがあった。
ティオは、馬車の中を見た。三人は、窓の外を見つめて、固まっていた。
「......こわい」
ハルトが、小さく呟いた。いつもの元気な声ではない。震えている。
「ティオにいちゃん......」
ユイが、涙を浮かべながらティオを見た。
「ここ......みんな、いなくなっちゃったの?」
「......ああ」
ティオは、どう答えればいいか分からなかった。嘘をつくべきか。それとも、真実を——
「......かわいそう」
レイアが、ぼそりと呟いた。
「ここにいたひとたち、こわかったね。かなしかったね」
レイアの目から、涙が一筋流れた。
ユイも、声を上げて泣き始めた。
「こわいよ......ティオにいちゃん......」
「大丈夫だ。もう、大丈夫だから」
ティオは馬車を止め、中に入った。三人を抱きしめる。
「ここはもう、安全だ。誰も、傷つけられない」
「......でも」
ハルトが、震える声で言った。
「ここにいたひとたち......どこにいるの? だれか、たすけてくれたの?」
「......避難したんだ。きっと、どこか安全な場所にいる」
ティオは、そう答えるしかなかった。
「......ほんとう?」
「ああ、本当だ」
ユイは、まだ泣いている。
「でも......おうちが、なくなっちゃって......かわいそう......」
「そうだな。本当に、かわいそうだ」
ティオは、三人の頭を撫でた。
「でも、君たちがいる。君たちが、こうして悲しんでくれる。それは、とても大切なことなんだ」
「......?」
ハルトが、涙を拭いながら首を傾げた。
「悲しむことは、優しいことだ。かわいそうだと思うことは、その人たちのことを忘れないということだ」
ティオは、窓の外の村を見た。
「この村のことを、君たちが覚えていてくれる。それだけで、この村の人たちは——きっと、嬉しいと思う」
「......うん」
三人は、まだ完全には理解できていないようだったが、それでも頷いた。
ダリウスが、馬車の外から声をかけた。
「ティオ、先を急ごう。この場所に長居は無用だ」
「はい」
ティオは馬車を降り、再び手綱を握った。
馬車が動き出す。廃村が、徐々に遠ざかっていく。
三人は、最後まで窓の外を見つめていた。
昼過ぎ、馬車は街道沿いの森を抜けようとしていた。
その時、ダリウスが手を上げて、馬車を止めさせた。
「どうしました?」
「......人の気配がする。数は......五人か六人」
ダリウスは剣の柄に手をかけた。
「盗賊か?」
「おそらく。この辺りは、脱走兵が盗賊化しているという報告があった」
ティオも剣を抜いた。馬車の中の三人に声をかける。
「ハルト、ユイ、レイア。馬車から出ないで、じっとしていてくれ」
「......わかった」
ハルトが、不安そうに頷いた。
次の瞬間、森の中から男たちが飛び出してきた。
六人。ぼろぼろの鎧を着て、剣を構えている。顔つきは荒れ、目には飢えた光が宿っていた。
「おい、そこの馬車! 荷物を置いていけ!」
先頭の男が叫んだ。
「断る」
ダリウスが、冷たく答えた。
「なら、力ずくで奪うまでだ! やれ!」
盗賊たちが、一斉に襲いかかってきた。
3
ダリウスは一瞬で二人を斬り伏せた。さすがはベテラン騎士だ。その動きに無駄がない。
ティオも、一人を相手にしていた。剣を交え、押し合う。相手は力任せに攻めてくるが、技術はない。ティオは冷静に受け流し、隙を見て反撃した。
「ぐあっ!」
盗賊が倒れる。ティオは息を整え、周囲を見た。
残りは三人。だが、その三人が——馬車に向かっていた。
「しまった!」
ティオは駆け出した。だが、間に合わない。
盗賊の一人が、馬車の扉を開けた。
「子供が三人......? まあいい、人質にするぞ!」
男が手を伸ばした——その時。
「やだ! あっちいけ!」
ハルトが叫んだ。
次の瞬間、眩い光が盗賊を包んだ。男は吹き飛ばされ、地面に叩きつけられる。
「な、何だ!?」
残りの二人が驚愕した。
レイアが、馬車から顔を出し、ぼそりと呟いた。
「......このひとたち、おなかすいてる」
「え?」
ティオは、レイアを見た。
「せんそうで、いえをなくして、たべものがなくて......だから、わるいことしてる」
「......そんなこと、分かるのか?」
「うん。......かわいそう」
レイアが、盗賊たちを見つめた。
盗賊たちは、恐怖と困惑の表情で立ち尽くしていた。
ダリウスが、彼らに剣を向けた。
「命が惜しければ、逃げろ」
「......くそっ!」
盗賊たちは、仲間を引きずりながら森の中へ消えていった。
戦闘が終わり、ティオは三人の無事を確認した。
「怖かったか?」
「......ちょっとだけ」
ハルトが、正直に答えた。
「でも、ティオにいちゃんたちがいたから、だいじょうぶだった」
「そうか」
ティオは、ハルトの頭を撫でた。
ダリウスが、馬車の前に立っていた。その表情は、複雑だった。
「......あの盗賊たちも、元は帝国の兵士だったのだろうな」
「そうかもしれませんね」
「戦争で全てを失い、生きるために盗賊になる。悲しいことだ」
ダリウスは、深く息を吐いた。
「レイアは、あの盗賊たちの心を読んだのか?」
「おそらく。この子は、人の本質を見抜く力があるようです」
「......不思議な子だ。いや、三人とも不思議だ」
ダリウスは、三人を見た。
「だが——この子たちは、純粋だ。善悪の境界を、大人のような偏見なく見る」
「そうですね」
「もしかしたら、この子たちだからこそ——この戦争を終わらせられるのかもしれん」
ダリウスの言葉に、ティオは頷いた。
その夜、一行は街道沿いの宿場町に泊まった。
宿の部屋で、ティオは三人に夕食を食べさせていた。シチューとパン。質素だが、温かい食事だ。
「おいしい!」
ハルトが、笑顔で言った。ユイも、嬉しそうにスプーンを動かしている。
レイアは、相変わらず静かに食べていた。
「レイア、今日はよく頑張ったな」
「......?」
「あの盗賊たちのこと、教えてくれてありがとう」
「......ティオにいちゃん、やさしいから」
「そうか?」
「うん。わるいひとにも、やさしい」
レイアが、ティオを見上げた。
「それでいいの?」
「......分からない」
ティオは、正直に答えた。
「でも、オレは——誰かを傷つけるのは、好きじゃない。たとえ相手が悪い人でも」
「......そっか」
レイアは、小さく笑った。
食事の後、三人は布団に入った。ティオも、隣の布団に横になる。
「ティオにいちゃん」
ハルトが、眠そうな声で言った。
「なんだ?」
「きょう、こわかったけど......ティオにいちゃんがいたから、だいじょうぶだった」
「そうか」
「ずっと、いっしょにいてね」
「ああ、いるよ」
ティオは、そう答えた。
ユイが、小さく呟いた。
「ティオにいちゃん、ママみたい」
「......ママ、か」
ティオは、天井を見上げた。
この子たちにとって、自分はどんな存在なのだろう。親代わり? 保護者? それとも——
「......ティオにいちゃん、ありがとう」
レイアが、ぼそりと言った。
「何に対して?」
「......ぜんぶ」
レイアは、そのまま目を閉じた。
ティオは、小さく笑った。
「どういたしまして」
翌朝、宿を出る前に、ダリウスがティオに声をかけた。
「ティオ、少し話がある」
「はい」
二人は宿の外に出た。冷たい朝の空気が、肌を刺す。
「昨日の戦闘を見て、思ったことがある」
「何でしょうか?」
「君は、優しすぎる」
「......え?」
ティオは、驚いた。
「君は、敵にすら優しさを向ける。それは美徳だ。だが——戦場では、時に致命的な弱点になる」
「......」
「この先、もっと危険な戦いが待っている。君が迷えば、この子たちも危険に晒される」
ダリウスは、ティオの肩に手を置いた。
「だが——それでも、君はその優しさを捨ててはならない」
「どういう......意味ですか?」
「この子たちは、君の優しさを見ている。君が冷酷になれば、この子たちも同じように育つだろう」
ダリウスは、宿の窓を見た。中では、三人が朝食を食べている。
「君の優しさが、この子たちを——そして、この世界を救うのかもしれない」
「......オレには、そんな大それたことは......」
「分からなくていい。ただ、今のままでいてくれ」
ダリウスは、そう言って背を向けた。
「さあ、出発の準備をしよう。帝都まで、まだ長い道のりだ」
「......はい」
ティオは、宿の中に戻った。
三人は、ティオを見て笑顔になった。
「ティオにいちゃん、おはよう!」
「ああ、おはよう」
ティオは、三人の頭を撫でた。
この子たちを守る。それが、自分の役目だ。
そして——自分の優しさも、守り続ける。
それが、この子たちのためになるのなら。
第3話 了
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