小さな違和感
エリカが仲間に加わってから、一週間が経った。
一行は穏やかな旅を続けていた。街道沿いの小さな村を通り過ぎ、森を抜け、川を渡る。どこにでもある、ごく普通の道のりだ。
三人はすっかりエリカに懐いていた。
朝起きると真っ先にエリカの部屋へ行き、食事も移動も休憩も、当然のように一緒にいる。
ティオは、その様子を微笑ましく見守っていた。
エリカは本当に良い人だ。
三人の笑顔が、それを何より雄弁に物語っている。
――だが。
心の奥に、拭いきれない違和感が残っていた。
何度も思い出すのは、レイアの言葉だ。
「匂いが、時々、違う」
理由は分からない。
けれど、その一言が引っかかって仕方がなかった。
それ以来、ティオは無意識のうちにエリカを観察するようになっていた。
目立った異変はない。いつも通り優しく、穏やかで、子供たちに寄り添っている。
ただ――
本当に、時々。
エリカが遠くを見るような目をして、言葉を失う瞬間があった。
ある日の午後、一行は街道脇で休憩を取っていた。
三人はシロと遊び、草の上を走り回っている。
エリカは少し離れた木陰に腰を下ろし、空を見上げていた。
風に揺れる枝葉の隙間から、雲がゆっくりと流れていく。
「エリカさん」
声をかけると、エリカは一瞬肩を揺らし、慌てて振り返った。
「え? あ、はい」
「大丈夫ですか。疲れていませんか?」
「いえ……すみません。少し、ぼーっとしていました」
困ったように笑う。
「最近、時々こうなるんです」
「こうなる、というと?」
エリカは自分の手を見つめた。
「何も考えていないのに……気づいたら、時間が過ぎている感じで」
指先が、かすかに震えた。
「自分が、自分じゃないみたいな……そんな感覚です」
ティオの胸に、小さな不安が広がる。
「それは……いつ頃から?」
「分かりません。気づいたら、そうなっていました」
エリカは頭に手を当て、すぐに首を振った。
「でも、すぐ戻ります。だから……大丈夫です」
「……そうですか」
それ以上、踏み込むことはできなかった。
だが、警戒心は確実に強まっていた。
エリカに、何かが起きている。
それだけは、はっきりしていた。
その夜。
宿の一角で、ティオとダリウスは小声で向かい合っていた。
「ダリウスさん。エリカさんのことで、気になることがあります」
「ほう」
昼間の出来事を説明すると、ダリウスは腕を組み、深く考え込んだ。
「……確証はないが」
「何か、心当たりが?」
ダリウスはエリカの部屋の方へ視線を向ける。
「魔法による記憶操作の可能性がある」
「記憶操作……?」
「強力な術で、記憶を消したり、書き換えたりするものだ」
ティオは息を呑んだ。
「まさか……エリカさんが?」
「いや。エリカ殿自身が、操作されている可能性だ」
「……!」
「記憶を奪われ、さらに行動を制御されている」
ダリウスの声は低く、静かだった。
「もしそうなら、エリカ殿は自分の意思で動いているとは言えん」
「そんな……」
「警戒を怠るな。異変があれば、即座に対処できるようにしておけ」
「……はい」
ティオは重い気持ちで頷いた。
その夜、レイアは喉の渇きで目を覚ました。
水を飲もうとベッドを降りた瞬間、窓の外が妙に明るいことに気づく。
月明かりではない。
冷たく、不自然な光だった。
窓に近づいたレイアは、息を呑んだ。
中庭に、エリカが立っている。
だが、その姿はいつものエリカとは違っていた。
表情がなく、まるで人形のように静止している。
その周囲を、黒い霧のようなものがゆらゆらと漂っていた。
声が出なかった。
やがてエリカは、ゆっくりと向きを変え、森の方へ歩き出す。
レイアは震える足で廊下を走り、ティオの部屋へ向かった。
「ティオにいちゃん!」
レイアが必死に揺さぶる。
「ん……レイア? どうした?」
「……エリカおねえちゃんが、そとにいった」
「外に? 一人で?」
「……うん。なんか、へん」
ティオは跳ね起き、剣を手に取った。
すぐにダリウスの部屋も叩く。
「ダリウスさん! エリカさんが外に!」
「分かった」
三人は宿を飛び出し、森へ向かう。
「レイア、危ない。部屋に――」
「……やだ。エリカおねえちゃん、しんぱい」
涙を浮かべた目を見て、ティオは頷いた。
「……分かった。でも、絶対に後ろにいろ」
「……うん」
森の中。
エリカは月明かりの下に立っていた。
その姿は幻想的だったが、表情は空っぽだった。
魂が抜け落ちたように。
「エリカさん!」
ティオの声に、エリカはゆっくり振り返る。
だが、その目は虚ろだった。
近づこうとした瞬間、黒い霧が渦を巻く。
「魔族の魔力だ!」
ダリウスが剣を抜いた。
次の瞬間、エリカの口から、冷たい声が漏れた。
「フフフ……よくぞ気づいたな」
「貴様……魔族か!」
「そうだ。私は魔族軍師、ヴェルナ」
エリカの体が操り人形のように動く。
「この娘は、私の傀儡だ。数ヶ月前に殺し、死体を操っている」
レイアが震えた。
「……うそ」
「だが、完全な支配ではないらしいな」
霧が薄れ、エリカの体が崩れ落ちる。
「次は……確実に」
声は闇に消えた。
「エリカさん!」
ティオが駆け寄る。
「……ティオ、さん……」
涙を浮かべ、エリカは微笑んだ。
「私……知ってたんです。操られてること」
「……!」
「でも、抵抗できなくて……」
レイアがそっと手を握る。
「……だいじょうぶ。エリカおねえちゃんは、わるくない」
「ありがとう」
その笑顔は、ひどく悲しかった。
宿に戻ると、ハルトとユイが起きていた。
「エリカおねえちゃん、どうしたの!?」
「大丈夫よ。転んだだけ」
そう言って、エリカは三人を抱きしめた。
だが、その目には深い悲しみが宿っていた。
三人を寝かせた後、エリカは全てを話した。
「次に支配されたら……もう戻れません」
「だから……私を殺してください」
沈黙が落ちる。
「……明日だ」
ダリウスが言った。
「明日、最後の時間を過ごせ」
エリカは涙を拭き、頷いた。
その夜、エリカは一人、窓辺に立っていた。
短い時間だった。
でも、確かに幸せだった。
「ありがとう……みんな」
月は静かに輝き、
その周囲に、ゆっくりと雲が集まり始めていた。




