26話:空の裏側で鐘木は鳴る
エリサの姿が橋の向こうで小さくなる。
それでも、しばらくは誰も口を開かなかった。
風が吹いても、あの子の声がまだ耳の奥に残っているような気がした。
エリサと別れ、イルダの橋につくと、手前で俺たちは見上げていた。
「行くなら――イノーイだな」
俺はなぜそう思ったのかわからない。
だが、レジーネは意外な反応を見せた。
「ええ、私も賛成ですわ。イノーイは変わり者ではあるけど、芯がはっきりしているとお聞きしています」
そこでミミが顔を出す。
「それってある意味、その芯があたしらの意向に沿わなければ、敵対か即時脱出という明確な選択肢ということよね?」
「そうですね。ある意味、分かりやすいというのが本音です」
「リリはダダさまについていくもん」
「なら決まりだな」
皆で出入口に寄り集まると魔石をはめ込んだ。
すると光の粒子で包まれたかと思うと、体が得体の知れない力に引き上げられる感じを覚える。
光が足元から立ちのぼり、粒子が絡み合って螺旋を描いた。
肌に触れる風は冷たくも温かくもない。
視界が反転し、上下の感覚があやふやになる。
まるで“空が地面になり、地面が空になる”ような感覚。
いや、もしかして俺たちがひっくり返ったのか?
ミミが短く息を呑み、リリは俺の袖をつかんだ。
雲の上の空気は、透明なのに重たかった。
光が足元を透かして流れていく。
目を凝らせば、遠く下に、地上の稲妻が糸のように走っていた。
――まるで、世界の裏側に踏み込んだようだった。
ミミは下がるより、昇るほうが大丈夫な様子でおとなしい。
なんだ誰かにつかまれたのか。胃袋が半歩遅れてついてくる感じだ。
この奇妙な感覚でいるうちに、雲の上までに皆で辿りついていた。
見下ろせば、白い靄の切れ間に稲光が走る。
どれだけ目を凝らしても地表は見えない。
風は吹かないのに、髪だけがふわりと揺れた。
「……ここ、空の上ってより“空の裏側”って感じね」
ミミがぽつりと呟く。
見えない足場におろされると、その雲の上で門が顕現した。門番はいない。
そびえたつ城門は、びくともしないようにも見える。
「これは、静謐な雰囲気が漂いますね」
レジーネは感心するように見上げる。
俺はそのまま押し込むようにすると、扉は、錆びた蝶番をきしませながら内へ割れた。
あっけなく開くところを見ると管理していないのか。それとも多少なりとも歓迎はされていると考えるべきかまだ、迷うところだ。
辺りは明確に地面があるが、上空にいることは変わらずはっきりしている。
流れる雲を横目に俺たちは奥へと足を進めた。
空気は森林の中にいるような空気で、匂いも近い。音は静寂の一言でここにも人の気配すらない。
だが、路面は整備されているし、小さく立ち並ぶ家屋も見えてきた。
路面を挟むようにして、大小さまざまな家がたちならぶも誰も住んでいない廃墟のようでもある。
扉は開かず、窓には中から鍵がかけられていた。
家々の前には、まだ洗いかけの桶や、干しっぱなしの布が揺れている。
まるで、誰かが“音を立てた瞬間に消えた”ような町だった。
レジーネが小声でつぶやく。
「時が止まっている……?」
そうは言っても雑草もなく整備だけはされているのか、生活の痕跡がなくとも施設としては生きているように感じる。
無人の町をまっすぐ進むとあきらかに城らしい物が見えてきた。
「ねね、さっきからコーン……と“木の鐘”みたいな音がきこえる」
どこから聞こえてくるのか、ミミはあたりを警戒していた。
一定の間隔で鳴り響く音は、不気味でさえある。
「ここまで何も無いのもおかしいですね。魔道ゴーレムすらいないのも不思議です」
レジーネはあまりにも何もなさすぎることに違和感を訴えてきた。
俺も近い感覚でいたが、あえて存在するのに何も無いし、しないことが何かを言いたいのかとも考えていた。
「俺の感覚がおかしくなければ、これだけ歩ける距離感はそうとうあるぞ?」
「ええ、かなり広い場所を構築しているその魔術に敬意を表しますわ」
「案外寝ているかもよ?」
ミミが口の端を上げる。寝込みを狙う盗人の顔じゃねぇか。
ようやく目の前に再び城門が現れた。
そこで急にリリが俺の顔までふさぐ。
「ダメ、そっち」
急なリリの叫びに何事かと。
「どうしたんだ?」
「うん。そっちは違うよ。本当の入り口はこっち。だとおもう」
「風が死んでる。結界の向こう側で音が戻ってこないの」
いつになく、リリは不安そうだ。あの無邪気な明るさが鳴りを潜める。
確かに今までリリの道案内はほぼ間違いない。
なので疑う余地はない。
「わかった。いつもリリには助けられているからな。そっちにしよう」
「うん。この先が大丈夫そう」
そう言って指さす方向は、城壁にそってあるきだした。
何も変哲もなくしばらく進むと、人の家屋程度小さな入り口が城壁に存在していた。
「ここが安全な感じする」
ここだけなぜか、引き戸になっている。左右に開くとその先は通常の城の正面から入る通路と同じ作りに見える。
ミミは肩をすくめた。
「安全、ね……こういう時に限って落とし穴とかあるのよ」
それじゃ、さっきのは何かの罠だってことだろう。
引き戸の奥には、淡く青い光が点々と浮かんでいた。
まるで誰かが通るのを待っていたかのように、ひとつずつ順番に灯っていく。
その光の中心に、輪のような紋章が描かれていた。
レジーネが眉をひそめる。
「……転位の兆候? でも、誰も詠唱していません」
「発動式を感知しました。ですが、魔力源が不明です」
光が収束し、円環の中央から影が形を取る。
ここでようやく1体の何かがあらわれた。
一言でいうなら、石造が歩いてきたといえる。
見た目は、騎士だ。
数メートル先で立ち止まると会釈をしてきた。
「パンですか? コメですか?」
何を言っているんだ?
当然日本人ならこの世界にきたらコメは欲しがるだろう。
「コメだ」
俺は当然の答えをだした。
石造の騎士は続けて俺に問う。
「ごはんと卵は?」
「おいおい、卵がけごはんにきまっているだろ?」
さらに問いかけてくる。
「では、その卵にかけるものはしょうゆとめんつゆどちら派ですか?」
少し考える間をおいて――。
「めんつゆ派だ」
この三つの質問で満足したのか、お辞儀をしてきた。
「確認完了。来訪者:界人(米・卵・めんつゆ派)。情緒反応:良好。
正門は来歴不詳者用の試験場です。こちらが賓客の通路になります」
「どうぞ、こちらです」
なぜだ? なんなんだ。
一体なんの問いかけなんだ。
界人判定のプロトコル――たぶん、食の記憶で“人となり”を測っているのか。
この世界の“人間性”の基準が、そんな素朴な選択で決まるとはな……アホか。
その場の空気が、急に澄んだ。
さっきまで感じていた湿気も冷気も消え、
かわりに、胸の奥だけが妙に熱い。
石の騎士の目が、一瞬だけ人間のように揺らめいた気がした。
石の騎士が扉の前で一歩前に出て、金属音のような声で告げる。
「認証、完了。鐘木、一打。」
その瞬間、
――カーン……
という音が雲の彼方に響きわたる。
空気がゆらぎ、目の前の城壁が“水面のように”波打って消えていく。
そこに現れたのは、先ほどまでの無機質な空の城ではなく、緑と光に満ちた“生きている城”。
空気の匂いが変わる。湿度、温度、風の流れすら違う。
まるで、世界の“層”を一枚めくったようだった。
ミミが小さくつぶやく。
「……これが、イノーイ・ミールの領域……?」
悠斗の耳の奥で**「ザー……」という微かな耳鳴り**が走る。
同時に胸の奥が熱くなる。
見えない誰かの声が、心の底でささやく。
『影層の残滓……まだ眠っていないのね』
その声と同時に、空気が震えた。
風が止み、光の粒が、まるで呼吸をするように脈打つ。
胸の奥が――逆流するように痛んだ。
心臓が、何か別の鼓動と同調している。
悠斗が振り向くと、背後の騎士はもういない。
代わりに、広間の奥――玉座の階段の上に、白銀の杖を持つ女が立っている。
彼女は悠斗をまっすぐ見つめて微笑む。
その瞳は、夜明け前の空のように淡く――けれど、すべてを見透かしていた。
レジーネは息をのんで頭を垂れ、
「……イノーイ・ミール様」
ミミは笑おうとして――声が出なかった。
リリだけが、なぜか泣きそうな顔をしていた。
そして俺は――胸の奥がざらつくような感覚を覚えた。
どこかで、この光景を知っている気がした。
……いや、知ってる。けど、いつ、どこで。
その瞬間、誰も声を出せなかった。
雲の上の広間に、ただ彼女の衣擦れの音だけが響いた。
――淡い翠の光が、彼女の足元からゆっくりと舞い上がる。
まるで、この空が彼女を中心に呼吸しているようだった。
「久しいわね、“ラダー”。いえ――“悠斗”。
この空が、あなたの名をもう一度抱く日が来るなんて――思いもしなかったわ」




