日本でも怨霊伝説や妖怪にまつわる話が歴史や文学に深く刻まれてきた。
幽霊譚や怪談の類は、国や文化を問わず世界中に存在する——。日本でも怨霊伝説や妖怪にまつわる話が歴史や文学に深く刻まれてきた。実際に見たことはなくとも、テレビ番組や人づてで「幽霊を見た」という体験談を聞かされると、ついその不気味な怖さに震えてしまうものだ。臨床の現場で「幽霊のようなものを見た」という患者をこれまで何人も診てきた脳神経内科医。本書は古今東西の怪談や幽霊譚を、一次資料や民俗学者の採録に基づき分析し、「人はなぜ幽霊を見るのか」を脳科学の視点で読み解いた。
幻覚・幻視をともなうこれら幽霊体験は、実は統合失調症やパーキンソン病と同じく、脳や睡眠の働きが深く関わっているのだという。たとえば、本書のプロローグで紹介されているのは、日曜の昼間から居間に上がり込みキッチンで勝手に料理を始める複数人の幽霊を見るという男性の証言だ。
その60歳の患者が語る幽霊は肩を叩いたり声をかけたりすると消えてしまうものだったというが、高次脳機能検査を行ったところバリント症候群という障害を患っていたことが判明する。これは、実際に見えているものと頭の中のその物体の空間的な位置がずれてしまう病気だというが、頭部MRI検査によって後頭葉が左右とも萎縮した、進行性後頭葉皮質萎縮症(PPCA)という病態であることが分かり、睡眠をコントロールすることで、その患者の不思議な体験は起こらなくなっていったという。男性患者とその家族を困らせた「幽霊」が、最新医療によって消えていったのだ。
本書ではこのように、読むだけでも怖くなってしまうような怪異譚を紹介しながら、実はそれが科学的な根拠から説明ができるものだと解説する。「寝入りばなに見える幽霊」「タクシーやトラックなど車に乗り込んでくる幽霊」「登山者が体験した神隠し、迷い家」など、怪談話でもおなじみの幽霊体験を脳科学の観点から検証するのだ。
■霊の“理由”を説明することが患者と家族の不安を消す
ーーおそらくほとんどの人にとって幽霊は「見えない」ものだと思いますが、ここまで「はっきりと見えてしまう」人がいるということにまず驚かされました。そして、それらが脳や睡眠の病に関係しているという解説が非常に興味深かったです。本書はどういった経緯で執筆することになったのでしょうか。
脳神経内科医として脳卒中やてんかん、パーキンソン病、アルツハイマー病などの患者を診てきたのですが、パーキンソン病の患者さんは幻覚を見ることが多く、それを「幽霊」と認識されることが多いんです。何故こんなものを見るのか、分からないまま怖がっておられる。そうした際に、診察室で「こういう解釈もできますよ」と脳や睡眠の観点からお話しすることで、ご家族の不安が和らぎ、患者本人に対しての見方まで変わったことがあったんですね。幽霊について非科学的だと一蹴するのではなく、ではなぜ「見えるのか」、その原因を示すという考え方を、本にして広める必要があると思ったのです。
たしかに、幽霊が見える原因が分かるというのは本人や周囲の人にとっての安心につながると思います。
結局その理由が分からないと、その恐怖心を悪用する人も出てきますから。「幽霊が見える」と聞くと不気味で怖い話のように思いますが、最新の脳の研究からするとその理由が解説できる部分が多いんですね。
「のっぺらぼう」を「突発性レム睡眠症」、「神隠し」を「短期記憶障害」と、怪異の理由づけをしています。
たとえば、本で紹介した「のっぺらぼう」は、小泉八雲の『Kwaidan』に書かれた「むじな」の話ですね。これは英文では小泉八雲が体験者から直接聞いた話だと書かれているのですが、夜中に商人が赤坂の紀伊国坂を歩いていると、堀のそばでしゃがみ込んで泣いている女に出会う。そしてその女性が振り返ると、顔には目も鼻も口もなかったと、そういったみなさんがよく知っているのっぺらぼうの話が語られています。
ここで重要になるのが、紀伊国坂というのが非常にゆったりとしたまっすぐで緩い長い坂であること。実は下り坂よりもゆるい上り坂のほうが歩きやすく、そういうときに肉体的に非常に疲れていたり、精神的にストレスを抱えていると、歩きながら突然「レム睡眠」に陥ってしまうことがあるんです。夢を瞬間的に見るわけですね。そのときの夢にはその時代その時代の記憶の中にあるものが引っ張り出される。江戸時代の終わりには当時流行していた妖怪が見えてしまったのではないか。また同じような例では、単調な走行を続ける昭和のタクシー運転手の場合でしたら、突発的なレム睡眠によって「スカートを履いた女性の霊が乗り込んでくる」なんていう夢が一瞬見えてしまうこともあるでしょう。そのように幽霊や怪異に出会った場面がどのようなものだったかを分析することで、脳の状態というのが診断できるんです。
ーー「突発性レム睡眠症」というのは運動をしながらふと頭だけ眠ってしまう状態ですよね。こうした症状というのは起こりうることなのでしょうか。
健康的な睡眠パターンでは絶対に起きないのですが、肉体的疲労に精神的ストレス、あとは精神科系の睡眠薬、睡眠導入剤や抗うつ薬を飲んでいる方の中には睡眠の障害が起こることがよくあります。もちろんパーキンソン病の薬を飲んでいる患者もそうです。本の中にも書きましたが、長期間投薬治療を行っていた患者さんが食事中に突然箸を止めて「今、隣に座っていた死んだ主人はどこに行きましたか?」などと看護師に尋ねてくることがありました。周囲の人間からすると幽霊を見たのではないかと思う話ですが、これもやはり「突発性レム睡眠症」からくるものだと考えられるわけです。ですから、怪異に戸惑うご家族の方に、小泉八雲の話などを持ち出しながら、仮説のひとつとして「霊が見える理由」を説明することができるんですね。
■科学が進んだことで怪異が説明でき、脳の研究を進める
ーー今回の本では、他には「入眠時幻覚」「純粋視覚型幻覚」など具体的に診断名を分け、幽霊の見えるメカニズムが紹介されています。それらが新旧の作家たちが残した怪談や幽霊話の解明につながっていく解説が大変興味深かったです。
歴史を振り返ってみると雷のように正体不明で魔術や天罰と考えられていた現象も、科学の進歩によって電気的現象と解明され、対処可能になりました。脳とか精神が引き起こすものも、それらと同じなんです。これは『ネイチャー』に発表された神経科学者による論文ですが、自分が幽霊になる「幽体離脱」という体外離脱現象について、ビデオカメラとビデオモニタ付きのゴーグルを使用することで人為的に起こせることが実証されています。このように脳科学の研究は日々進んでいて、はるか昔には怪異だったものの原因が徐々に解明される時代になってきたわけです。
たとえば民俗学者の柳田國男さんが記した『遠野物語』の時代では当然、MRIもCTも脳波計なんていうのもなかったわけです。ただ、柳田さんは遠野の人たちの話を聞いたままに正確に記載した。それによって、現在私のような医者がパーキンソン病や認知症の患者さんを診るときに「これは遠野物語に出てくるあの話と同じだな」と結びつけることができるわけですね。きちっと正確に記録された情報があったからこそ、百数十年後の科学の進歩によって検証することができたんです。逆に言いますと、そうした民俗学者が遺した怪異の数々が、今になって脳科学の研究の新しい手がかりになっている。そう考えることもできるわけです。
柳田國男氏の弟子でもある民俗学者・今野圓輔氏による『日本怪談集 幽霊篇』にはじまり、椎名誠氏による幽霊体験エッセイや、山での不思議な体験談を集めた田中康弘氏による『山怪』、あとはバラエティ番組『探偵!ナイトスクープ』の幽霊が見えるという大学生のVTRまでさまざまです。どの話も恐ろしいものばかりですが、チョイスもバラエティ豊かで面白いですよね。
私自身、小さい頃からホラーや不思議な話というのが大好きでして、水木しげるさんの『墓場の鬼太郎』や『悪魔くん』、あとは手塚治虫さんの『どろろ』、また柳田國男さんの『遠野物語』のような民話集のようなものまで、その手の本を集めてたんです。今回、このように幽霊を科学的に解説する本を書きましたが、けっして怪談を否定したり、こうした話を根絶やしにしようというわけではないんです。先ほどもお話ししたように、患者さんを安心させるためのひとつの材料として、脳機能と幽霊の関係が結びついているんです。
ーー本書の中でも「脳科学者はゴーストバスターではなく、幽霊と脳をつなぐ仲人」と書かれていますね。
最先端の科学に携わっている一方で、そうしたおどろおどろしいものに惹かれていて、それが後に医者になったときに結びついた。やはり、幽霊とかを非科学的だと一刀両断のもとに斬り捨ててしまうと、そこで話が終わってしまいますから。
落語にせよ歌舞伎にせよ、水木先生にせよ柳田國男にせよ、妖怪とか幽霊といったものを真面目に扱ってくれた先人がいたおかげで、日本人は幽霊をフレンドリーに捉えることができる。それが今になって、脳科学の研究を進めるうえで非常に有効になってきているんです。
――ホラーブームの夏に、怪談を別角度から楽しむのに最適な本のように思います。最後に読者にメッセージをお願いします。
古谷:奇怪な体験をされた方から、「幽霊屋敷に一緒に来て幽霊を調べてください」などという依頼があっても絶対にお断りします。怪談などは大好きですが、こうみえて実は私は結構怖がりですから(笑)。