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前編

 季節は覚えてないけど、日差しは穏やかで、二十分歩いてもあんまり汗をかかない天気だったと思う。中学生だったか、高校生だったかもはっきりとは思い出せない。きっかけは社交的だった母が、知り合いから喫茶店の割引券を貰ったことだった。

 その頃の私は引きこもりで、家族とすらあまり話さなかった。母が考えた改善策は「甘い物を食べるために外に出よう」だった。その日もその一環だったと思う。

 母と並んで歩いたが、会話はほとんどなかったと思う。お店は自分の通っていたのとは違う小学校の近くだったけど、駅からは離れているせいか人通りは少なかった。

 店の近くまで来たのはすぐにわかった。香ばしいコーヒー豆の匂い、焼き菓子の甘い香りが、住宅街を漂って来ていたから。

 二台分の駐車場、大きなガラス張りの入口、それ以外は普通の一軒家と変わらない見た目だった。黒い看板に書かれた「ジョークマン」の文字が、なんだかおかしかった。

 お店に入ると、空腹を誘う香りが、熱気と共に全身に吹いてきた。家族経営なのか、奥さんと旦那さん、若い男の人が働いていた。母が奥さんと席の相談をしている間、私は熱気の元を見つめていた。鈍い金色の大きな渦を巻いた滑り台のような焙煎機が、小気味よい音を立てながら、いい香りを吹き出していた。

 店内はそれなりに混んでいて、空いているのはカウンター席と、先客のいる四人掛けテーブルの端の二席だけだった。母はテーブル席の二人に相席を頼んで、私と向かい合って座った。ゆとりがあったので、隣の人と肩がぶつかる心配もなく、さほど緊張せずにメニューを見始めた。

 店に着くまでは、コーヒーなんて飲む気がなかった。コーヒーとチーズケーキの専門店だって言うから、行こうと思っただけで、コーヒーのことは考えてなかった。家ではコーヒーを飲む人もいなくて、馴染みが無く、飲んだことがあるのは、インスタントコーヒーか、コーヒー牛乳くらいだった。だから、コーヒーは苦くて、砂糖と牛乳なしでは飲めないものだと思っていた。

 貰った割引券はケーキセットが頼めるものだった。私はダークチェリーが乗ったチーズケーキを選んだ。飲み物は、コーヒーと紅茶が選べるようになっていた。

 私はコーヒーを頼んだ。本格的なコーヒーがあるお店に来たのに、飲まないのはもったいない気がしたから。昔から変なところで無鉄砲で――それは単純によく考えてないだけでもあるんだけど――小さな挑戦は好きだったのかもしれない。

 コーヒーの種類はわからなかったし、煎りたて、挽きたてのコーヒーなんて初めて飲んだから、どこがどう美味しいのかなんて、説明できないけど、それまでとは全く違う飲み物だった。

 チーズケーキは上に乗ったダークチェリーが甘くて、濃厚なチーズが口の中で溶けて行くのが幸せだった。深みのあるコーヒーとチーズケーキの組み合わせは最強だった。じっくりと時間をかけて、私と母はコーヒーを飲んだ。

 どんな会話をしたかは思い出せない。たぶん、引きこもりとも、学校とも関係の無い内容だったと思う。母が顔を出しているNPO団体のお爺ちゃんお婆ちゃんの話や、趣味と仕事兼用の裁縫のことなんかが、私と母の間でされた会話の大半を占めていた。今思えば、そんな話から遠回しに、私の気持ちを伺っていたのかもしれない。

 コーヒーを飲めるようになったことは、とても些細で、飲めなくても別に困らなかったはずだけど、「ダメだったものを克服した」という体験は、私の中で小さな満足を生んで、小さな幸福感になった。

 正しい作り方で出来たコーヒーと、自分で選んで挑戦したことがきっかけだったけど、その場と機会を与えてくれたのは母だった。なにげなく、ただ外へ連れ出すという目的だったとしても、母の行動がなければ、その小さな幸福は私には訪れなかった。

 ちょっとずつ、ちょっとずつ、克服していく。それはとっても、小さなことで、些細なことがきっかけで、積み重なっていく。そうして成長していくんだと思う。だから、一つの克服だけでは、目に見えるような成長なんてできないんだ。

「コーヒーが美味しい」

 それは小さな感動だった。今までと違う感覚、価値観がそこにある。そのことが、大きな発見のように思えた。高校生の時に学校行事で見に行った劇もそうだった。


 校外学習で全校生徒そろって劇を見る、という行事を喜んでいたのは、その日の授業が全部なくなるから、という理由だった生徒の方が多かっただろう。実際、劇を見に来ずに遊びに行った子もいた。私の友人たちも劇にあまり興味がなくって、そういう言う私もそうだった。テレビドラマや映画が好きじゃなくて。

 生身の人間が、生じゃない言葉を発しているのが、気持ち悪かった。母が家で見ているドラマや映画は、恋愛物ばかりで、そういうものしかないと思っていたからでもある。

 アニメは平気だけど、実写はだめ。妙な現実味に引きずり込まれるのが嫌だったんだと思う。うまくいかないのを見てイライラしたり、うまくいけばいくで「そんなわけないでしょ」と思ったり、正しい楽しみ方だったのかもしれないけど、それが苦手だった。

 それでも劇を見に行ったのは、私が真面目だったからでも、さぼって遊ぶ勇気がなかったからでもない。劇の題材が『走れメロス』だったから。

 小説は読んだことがなかった。けどタイトルは知っていたし、内容もなんとなくだけど知っていた。作家は好きでも嫌いでもなかった。ただ元が小説の劇、というだけで興味を引かれた。オリジナルの物だったら見に行かなかったかもしれない。

 劇はミュージカル調だった。劇を見るなんて、それまでのことを考えると、自分から行ったりしないだろうから、いい経験だったと思う。

 劇なんて見たことがなかったから、驚きがいっぱいあった。まずは、役者がたったの四人だったこと。一人一役ではなくて、兼ね役。それから、女性が男性役を演じるのも、宝塚以外でもあるなんて知らなかった。普通のことなのかもしれないけど、全部初めての私には衝撃的で、印象に残っていることが多い。

 劇はにぎやかな音楽と共に進んで行った。台詞は広い会場によく通り、状況説明のおり交ぜ方は、ギャグチックで、会場にも笑い声がこだましていた。キャラクターになりきった歌や、動き、劇中のすべてが、内容を理解させるためにわかりやすくされていた。

 楽器も各々いくつか扱えるらしく、役を演じながら、代わる代わる楽器を演奏する。キーボードに尺八、太鼓。

 王様役の男性は、トランペットを吹いたかと思えば、歌いだし、またトランペットから高々とした音を鳴らしていた。そんな調子で一曲歌う間、舞台は彼の独壇場だった。広いホールに響き渡るトランペットの音、声量の衰えない彼の歌。

 いったいどれだけ練習をしたんだろう。本当に興味を持って会場に来ている人なんて、ほとんどいないのに。私もたいした知識はないし、すごく楽しみにしていたってわけではないけど、眠っている人の頭を見て、役者さんに申し訳ない気持ちになる。

――ドドォン

 二つの撥で太鼓を交互に強く打ちつける音は、心臓によく響く。メロスが太鼓を叩いている。太鼓の音が速くなるにつれて、心臓の音も高鳴るような一体感がする。激しい気分の高揚と、眩暈がするほどの興奮。太鼓の音を聞くと、小学校を思い出す。

 小学四年生になると、必ずクラブに入らなくてはいけなかった。私が一番に入りたかったのは、家庭科クラブだったけど、高学年優先になっていたから、最初に入ったクラブは第三希望の和太鼓クラブだった。その時に初めて叩いた和太鼓の音、振動が指先から心臓へ、駆け抜けて行く感覚をよく覚えている。

 目をそむけずに、じっと、太鼓の音に合わせて呼吸を繰り返す。太鼓は徐々にゆっくり、小さくなって行った。それに合わせるように照明が暗くなって行き、場面が変わるまで、私は身を乗り出してそれを見ていたらしい。息をついて、背もたれにもたれ掛ると、異様な疲労感があった。けど、それも心地よかった。

 劇が終わるのはあっという間だった。静かだった会場に拍手と、盛り上がった生徒の口笛が響いた。興味なさげにしていた人たちが、楽しげに表情を綻ばせていた。私は劇で人が幸せになる現象を、初めて目撃した。胸の内をざわつかせる、言いようのない感動があった。

 それまでの偏見や認識を改めて、感動する。目に見える何かではないけど、誰かに伝わるわけでもないけど、これも成長なんだと思う。成長する時って、自分の中の何かが変わった時だ。


 豊かなコーヒーの香り。マグカップに口を近づけて、友人は驚いたような顔をしてこちらを見ていた。今日の為だけに取り揃えたガスコンロ、やかんが、教室のなかで違和感を発している。部屋に充満する淹れたてのコーヒーの匂い。生徒が順番にコーヒー豆を挽く、繊維がすりつぶされるガリガリという音。

 友人はコーヒーの淹れ方を実演する特別講座には出たくないみたいだった。彼女はコーヒーが飲めないから。彼女と私の間にいた友人が「飲めた?」と聞くと、彼女は恥ずかしそうに笑って頷いた。私は彼女のその笑みを見て、自分がコーヒーを飲めるようになったきっかけを思い出した。

私はあったかい気持ちで、注がれたブラックコーヒーを口に含んだ。苦い。けど酸味があって、かすかに 甘味がする。後から確かな苦味が来る。

 私は目の前の茶色い紙にその思い出を書いた。感想でも思い出話でもいいと言われたから、出席確認のかわりに提出するプリントに、手書きで書き殴り、コーヒーの感想も書いた。異様に長いことペンを動かしていたせいか、高い筆圧から出る机を叩くような音の激しさのせいか、講師の人が私の手元をじっと見ていた。

 思い出は少なくとも四年ほど前の事で、記憶は思っていたほど確かではなかったけど、コーヒーとチーズケーキがすごくおいしかったことだけは思い出せた。食べることに執着があったことを改めて自覚する。

「コーヒーの色って茶色っぽいですよね。でも、あれは赤を重ねていった色なんですよ。コーヒーの実は、別名太陽の実、なんて言われていて、赤いんです。――だから、コーヒーは赤い太陽の飲み物なんです」

 講師の人の言葉に、教室前方に掲げられた赤い実が描かれた麻袋を見た。実を食べることもできるけど、食べられるところが少ないと言う。チョコレートになるカカオに似てるな、と思った。

 ひたすらに思い出しながら筆を進める。淹れたてのコーヒーを飲みながら、書き物をする。コーヒーには興奮作用がある、って講師の男性が言った。筆が進むのもそのせいなのか、私は人に読まれることをさほど気にせず、簡単に淡々と説明を書いていった。


 家に父が知り合いから貰ってきたコーヒー豆があった。けど、豆を挽くミルがない。我が家のコーヒーは相変わらず、インスタントだった。コーヒーの講座をやると聞いたときに、まずその豆のことを思い出した。

 ミルを買えば、家で豆を挽いて、コーヒーを淹れられる。私は好奇心に駆られていた。講座が終わって家に帰り、私は台所へ行って豆の存在を確かめた。

 豆の入った銀色の袋が、輝いている気がした。焙煎のされた豆は、挽くことさえできれば、すぐに飲めそうだった。台所の片隅で埃を被っているコーヒーメーカーを見ると、肝心のコーヒーを注ぐサーバーがなかった。

「コーヒーのサーバーってどうした?」

 コーヒーメーカーに付属されたサーバーは蓋に特殊な穴が開いていて、ぴったりはまるようになっていたはずだ。私の問いかけに、母は顔をこちらへ向けた。

「お兄ちゃんが割っちゃったよ。洗ってるときに」

 最近兄はコーヒーメーカーを使わずに、インスタントコーヒーを淹れていた。ミルクたっぷりの薄いカフェオレを、サーバーに作りためて、飲んでいた。我が家に他のサーバーはなかった。

「あー……じゃあ、買ってもいい? サーバーとミル」

 髪を触って、聞いてみる。母は「うん」と小さな返事を返し、またテレビを見始めた。音量が絞られていて、内容はよく分からなかった。


 ミルとサーバーと言っても、種類が多くて、私はパソコンの画面を見てうなった。大型通販サイトでミルを検索すると、講座で使っていたような、アンティークな木製のミルがたくさん出てきた。ハンドルに花などのリレーフが入っているような、豪奢なものまである。値段は予算より一桁多い。

 うまく淹れられる自信はないし、今ある豆が尽きたら、新しい豆を買うかもわからない。道具は使えれば安くて構わなかった。

 検索結果の表示を変えると、木製のシンプルなミルが出てきた。いくつか見ていると、しまう場所に困ることに気が付いた。我が家の台所は狭いわけではないのに物が多くて、重たそうなミルを置く場所を作るのは難しい。

 ハンドルの取り外しができ、挽いた粉末が大体何杯分かが分かるミルを見つけた。丸洗いが出来て、飛び散り防止の蓋まである。私はその商品を内心に、翌日の学校帰り、ホームセンターなどを見て回った。

 サーバーもミルと同じで、物によって値段がバラバラだった。二、三杯分の物と、四、五杯分の物が同じ値段だったりする。別々でそろえるのも面倒で、ドリッパーとサーバーが一体化しているものを買った。取り外しが出来るので、洗うときの心配はいらない。ミルは高い物しか売っていなかったから、通販で買うことに決めた。

 数日後、ミルが届いて、さっそくコーヒーを淹れることにした。豆を挽いてみると、ミルには重さも必要だと思い知った。粉末が入る下の部分がプラスチック製で、豆を挽く時の振動に耐えられる重さがないため、テーブルの上を揺れながら滑る。手で押さえると、振動が直に響いて来る。

 豆を二杯分挽いて、紙をセットしたドリッパーに落とし、口の細いティーポットでお湯を入れる。コーヒーを淹れるときに使うポットよりも注ぎ口が太いのか、中身が手にかかった。

「あっつ」

 膝の上に数滴のお湯がこぼれた。ポットを買った方がいいのかと思いながら、お湯を入れる。こぼれたお湯はタオルで受け止める。ゆっくりゆっくりドリップされて、二杯分のコーヒーを淹れた。

 酸味が強い。講座で淹れてもらったコーヒーほどおいしくはなかった。けど、初めて淹れたコーヒーに、言いしれない満足感を抱いた。このコーヒーは、この味で合っているんだ。そんな気がした。

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