真実
「あ、起きました?」
思うように動かない瞼を震わせて薄目を開ける。耳朶を打った声も、瞳が映した姿も、二日間ですっかり馴染んだ青年のものだった。
「あまり動かない方が良いですよ、まだ薬が抜けきっていないと思うので」
腕を動かそうとすれば異常に重たく感じる上に、僅かな痺れが伝わってくる。少女は状況を把握しようとして、最後の記憶を引っ張り出した。
公爵家の私兵に捕まり、凶器を前にして死を覚悟したあの時。意識を失う直前に感じた感触を確かめるように、動くのを嫌がる腕を持ち上げる。
そっと口元に触れた。上質な布の感触を確かに覚えている。
察するに、使われたのは短剣ではなくそれを包んでいたハンカチの方で、その時に何らかの薬を嗅がされたのだろう。
「……どう、して」
意味が分からなかった。
何故見逃されたのか。何故未だに青年が青年として存在しているのか。
「ふふ」
耳をくすぐるような笑声と共に温もりが降りる。
大きな手がゆっくりと少女の頭を撫ぜた。
「どうしてでしょうね?」
そこには、頭を悩ます少女を面白がっているような響きが含まれている。答えを知っている自分に手を伸ばす少女を揶揄い、しかし正解を教えることはしない。
まるで気付きを促されているようだった。
引っ張られるように抱いていた疑問が顔を出す。
――婚約者ではなく、妃殿下として認識を広めたかったのは何の為?
――国の最高権力者に君臨すると同時に妃に迎える必要があったのは何故?
――もし本当に以前から『原稿』があったとしたら、あの事件を描いたのは誰?
――青年が少女に変わることを、気付くことを求めたのは、どうして?
見上げた顔は優しい微笑を絶やさない。満たされたように吐く息の音が聞こえるほど青年の温もりが近くにあることに、少女はやっと意識を向けた。
膝枕をされている。
「ほら、もうすぐ夜が明けますよ」
時間を意識させる言葉に、少女は日が昇ってから行われることを思い出した。少女から視線を外し遠くを見やった青年を追うように首を動かせば、王都を一望できる絶景の奥に聳える山々から少しずつ光が漏れ出している。
覚えのある見晴らしだった。
それを目にして、顔を出し始めた朝日に網膜を焼かれて、ようやく少女は今自分が何処にいるのかを理解した。
何故ここにいるのか。
自分に膝を貸すこの青年が何であるのか。
理解したと同時に水滴が目尻から零れ落ちる。外気に触れて直ぐに冷たくなってしまったそれが、熱くなった肌の上を滑り落ちていくのを確かに感じた。
青年は少し驚いたのか一瞬瞼を持ち上げるも、直ぐに眦を緩めて仕方がないと言いたげに笑う。ぽろぽろと落ちる雫を長く白い指が拭った。
「こうしていると、まるで幼子のようですね」
「……なに、言ってるのよ」
痺れも怠さも意に介さず腕を動かす。声の震えを誤魔化す余裕はなかった。
「子供みたいなのは」
青年の黒髪に手が触れた。
彼は何も言わず、寧ろ促すように首を傾ける。
髪を掴んで、少女は一思いに腕を引いた。
「殿下の方じゃありませんか」
漆黒の奥から、眩く光る黄金が顔を出す。
零れだした朝日に照らされたその姿は三年前と変わらず美しかった。
「おっと、見破られてしまったな」
少女が気付くように誘導しておきながら、惚けたようにそんなことを言う。悪戯が成功した子供みたいな顔だ。それが酷く懐かしく、愛おしく、それ以上に切なくて息苦しい。
「どうして、このようなことをなさったのですか」
掠れた声を絞りだした口に大きな手が被さった。咎めるような仕草だった。
「もう散々、僕を相手に砕けた言葉を使っているだろう?今更戻すなよ、寂しいじゃないか」
「ですが……」
「ここは僕とお前しか知らない場所だ、他に誰もいない。敢えてそうした意図を汲んでくれ」
真剣な眼差しに少女は抵抗を呑み込む。真っ直ぐにこちらを射貫く紺碧が懇願に揺れたのを目にして、脳内で渦巻く少女の混乱が更に加速した。
「……なんで……?」
何もかも分からない。
こんなことをした理由もそうだが、何より、愛する人を殺そうとした大罪人である自分に何故優しげな態度を取るのか。
三年前のあの日、あのダンスホールで、きっぱりと拒絶の言葉を叩きつけられているのに。
嫌われている。憎まれている。軽蔑されている。
その筈なのに。
「……お前にしか言えない、言いたいことがあるんだ」
なのに、彼が零す言葉に宿っているのは決して冷たい温度ではない。
困惑にふらつく少女の思考を、彼の力強い声が引き上げる。
「最後にもう一度だけ、僕の駄々に付き合ってくれないか」
眉を下げて切なく強請るその姿に否を突きつける術など、少女は持っていなかった。
戴冠式の日程が正式に決まり、社交界が祝いの空気に包まれていたその日。
記念にと催されたパーティーにて、今まで幾度も披露している王太子と令嬢のダンスは、それでも周囲の耳目を集めていた。
それは二人が話題の中心人物であるから、だけではない。
ここ最近の二人は、今までとは別の意味合いで注目されることが多かった。
「あっ!」
音に合わせてステップを踏み、ターンをしようと大きく動いたその瞬間。足を動かすテンポがズレてしまったことで令嬢が大きくバランスを崩す。背中から倒れそうになった彼女を咄嗟に支えようと王太子が手を伸ばし、結果、抱きとめるような体勢を衆目に晒すこととなった。
「大丈夫か?」
「はい……申し訳ございません、殿下」
「いや、君に怪我が無ければそれでいい。この曲が終わったら少し休もうか」
一連のやりとりを経て、周囲からは感嘆の息が漏れる。
王太子の咄嗟のフォロー、眦を下げる令嬢の愛らしさ、それに笑顔で返す王太子の愛情深さ……二人は睦まじい仲であるという認識の前には、どんな場面も言動も好意的に解釈される。
それが常だった。
しかし最近になって、耳に入ってくる言葉がそれだけではなくなってきていた。
「またか……最近多くないか?」
「ただのミスなら可愛らしいけれど、どこか上の空に感じるわよね」
「戴冠式が正式に決まって緊張しているのでは?」
「かもしれないが……何というか、ぎこちないな、近頃のお二人は」
ひそひそと、内緒話のように語っておきながら丸聞こえなそれを耳にして、王太子は内心で舌を打つ。
「殿下」
腕の中にある菖蒲色が申し訳なさそうに王太子を見上げる。今にも涙を零してしまいそうなほど潤んだ瞳に、青い顔色。淡く色付いた唇が音もなく紡いだ謝罪を、王太子は苦々しく受け止めた。
「……君の所為ではないよ」
そっと触れた彼女の頬は酷く冷たい。
恋しいと、愛しいと、そう甘く囁くだけでこの頬が熱を持ってくれたら。
そうであれば、どれほど楽だっただろう。
時間が日付を跨ぎ、月が頂点から落ちた頃。
漸くパーティーを終えた王太子は、宮廷の正門から走り去る馬車を見ていた。
愛すべき婚約者を乗せたその馬車の周囲には公爵家の私兵が展開している。何事もなく邸宅まで辿り着くことを祈りながら、見送りを済ませた王太子は正門に背を向けた。
「殿下」
その後姿にかかる声が一つ。
予想していた通りの昔馴染みからの声かけに、王太子は苦笑と共に振り返る。
「少々お時間を頂いても?」
「……やはり、お前の目は誤魔化せないか」
この世の何よりも妹を尊び優先する男が鋭い目つきで王太子を見ていた。幼少期から重ねた幾度の交流の前では、多少の不敬など咎める気にもならない。
子息が言いたいことを察した王太子は、「歩きながらで良ければ」と時間帯的に誰もいないであろう庭園へと足を向けた。




