少女の
ふわふわと、地に足がついていないような心地で少女は目を開けた。
馴染みある酒場の風景が浮かび上がり、それを背にして一人の人物が必死の体で頭を下げている。
少女はその旋毛を眺めた。走馬灯でも見ているのだろうか。
今際の際に見る泡沫の夢だというのなら、追憶に身を浸すのも悪くないかと、少女は膝を折って耳を傾けた。
『私が前に進む手助けをしてくれませんか』
記憶の通りに言葉が落ちる。
ああそうだ、全てはこの一言から始まった。
無意識のうちに重ねたのだ。
殿下の側にいる、殿下を幸せにするという目的を失って、それでも惨めなまま終われないという死ねない理由を捨てられなくて。どうすればいいのか分からないまま立ち往生していた自分自身と。
『指標を失って、迷ったまま死にたくはないんです』
『私のエゴに優しさではなく、貴女自身のエゴで付き合ってくれたら、私は嬉しい』
『悩む時間があるなら行動することをオススメしますよ』
本のページをめくるように次々と場面が移り変わる。
少女を動かした数々の言葉。それを吐いた青年の顔はいつだってあたたかくて、しかしその正体を知る少女は自身の単純さに嘆息した。
どれも偽物だと分かっているのに、反応を示したこの心までは偽りだと思えなかった。
いや、思いたくなかった、が正しいのかもしれない。
なにせもう二度と触れることはないと思っていたのだ。本質を捉えんとする澄んだ眼差しにも、手を差し伸べるような優しい声音にも、背中を押すような力強い笑顔にも。
思い返せば、あの青年は常にそうだった。
優しかった。真っ直ぐだった。でもどこか抜けていて、情けない部分や子供のような所もあって、けれど一様に眩しかった。
どうしてだろう、とふと思う。
結局のところ、青年の正体は子息で。そしてその子息は公爵家のご令息だ。彼の目的が妹の前に罪人を引き摺り出すことであったなら、わざわざ記者に扮して取材に連れ出すなんて遠回りなことをしなくても良かったのではないか。
タイミングに関しても不自然だ。酒場の常連を演じることが少女の警戒心を解くためだったと仮定しても、三年もかける必要は無かっただろうに。
「どうして?」
意味など無いと分かりつつも問いかけた。
教会へ向かう馬車の中、少女の変化に顔を喜色に染めた青年に。
「どうしてあんたは、私に変わってほしかったの?」
青年は答えない。
当然だ。記憶の中にある存在なのだから、少女の記憶に無い言動を取るはずがない。
しかし、脳が作り出した幻影である彼は返答にならずとも口を開く。
記憶から答えを導かせようとするかのように。
『例の本、覚えていますか』
頭に刻まれた幾つもの言葉の中から思い出したのが、何故その台詞だったのか。自分でも分からないその意味を探るように少女は考えを巡らせる。
「『両殿下 愛の軌跡』……不愉快な題名よね」
口に出して、吐き捨てて、今更のように少女はハッとした。
「『両』殿下……?」
両、即ち王太子殿下と王太子妃殿下、二人を揃えて指す言葉だ。
しかし厳密には、公爵家の令嬢は王太子妃ではない。彼女が王太子と正式に婚姻を結ぶのは戴冠式と同時期であり、それはあの断罪の場で王太子本人が明言している。
では何故、両殿下という言葉を使用したのか。
あの本は王家が主導して作成されたものだ。ならば題名もまた王家の意向に添うようなものになっているのではないか。婚約者ではなく、妃殿下として世間に認識させたいという思惑があったのではないか。
――でも、何の為に?
少女は更に考える。そもそも、何故今まで本の題名に違和感を感じなかったのか。王太子付きのメイドとして、宮中の事情はある程度把握していたというのに。
その答えはすぐに出た。
両殿下という言葉を使えない現状のほうが特殊だからだ。
本来は即位以前に式を挙げて然るべきところなのに、何故かそれをしていない。戴冠式を目前にして未だに婚約者止まりである今がおかしいのだ。それに加え、王太子は「いずれ来たる戴冠式で、正式に彼女と夫婦になるだろう」と言っている。例え何かしらの事情で即位前に式を挙げられなかったとしても、即位後に行えばいい話だ。何も戴冠式と結婚式を一纏めにするという、怒涛の日程を組む必要はないだろう。
つまりは、そのタイミングである必要があったということだ。
己が国一番の権力者になった、政権の頂点に立ったと同時に妃に迎える必要が。
――それは何故?
何かを見落としている気がして、少女は更に思考を回す。
『宮廷で起きた一大事件にも拘らず、報道自体はたった三日で終了しています。そのすぐ後に本が出版されて熱狂的な支持を集め、新聞で語られなかった悪女のその後は、本にあった自殺したという記載が事実であるかのように広まった。この本自体がノンフィクションを謳っているので無理もないですが』
少女の熟考に応えるように青年が口を開いた。それを思い出して、少女は改めて咀嚼した情報に疑問符を零す。
「三日……たったの……?」
新聞の特集記事の一角を任されたという青年は二日と少しの猶予でギリギリ間に合うか間に合わないか、といったスケジュール感で動いていた。全て演技だった以上比較になるかは分からないが、少なくとも少女はそれに違和感を抱いたことはない。
特集記事でそうなら、その何十倍もの文章量がある小説を書き上げるのにはどれほどの時間がかかるのか。果たして本当に、たった三日で可能なものなのか。
王家の意向通りに改竄された本が、あまりに短い期間で作成され、出版された。
それを踏まえた少女の頭に、とある一つの仮説が浮かぶ。
――もしかしたら。
本が出る以前、事件が起こる以前から、『原稿』が作られていたのではないか。
「…………ねえ」
至った答えに思わず声が漏れる。
その問いに目の前の幻影がなんと返すのか、まるで予想がつかなかった。
「もしかしてあんたは、私に気付いてほしかったの?」
青年はにっこりと笑う。
その顔は少女の記憶にある彼のものと同じだった。
けれど。
『国が傾く想定などしたこともない癖に』
その言葉を口にしたのは――…………




